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zoom RSS 箕輪初心:生方▲井伊直政160『彦根城に入れなかった井伊直政』前編

<<   作成日時 : 2018/01/21 10:25   >>

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慶長7年(1602) 井伊直政は、関ヶ原合戦で受けた鉄砲傷が悪化し
て死去した。木俣守勝は徳川家康に相談し、金亀山に彦根城を造る
ことにした。標高136m、比高46m連郭式平山城で総郭型→総郭内
町外町型の城下町一体型の城である。彦根城は箕輪城と高崎城のいい
とこ取りをした城であった。天下普請とはいえ、箕輪城の改修工事・
高崎城の縄張り担当がほぼ同じなのであるから、・・・。そして、継ぎ
接ぎだらけの高崎城同様、リサイクルの彦根城は慶長11年(1606)
天守が完成した。
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箕輪初心●滋賀の城「箕輪城&彦根城の類似性」
http://53922401.at.webry.info/201101/article_10.html

箕輪初心:生方★高崎城【井伊直政&高崎城&彦根城の縄張り
担当:早川幸豊】
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201504/article_9.html

箕輪初心●滋賀bS−1「彦根城2回目」
http://53922401.at.webry.info/201012/article_37.html


■彦根訪問5回
【1】平成15年(2003)11月15日
 「滋賀bQ彦根城&信楽焼:青木陶芸ツアー 30人」
   彦根城へ 
  外堀の枡形門→木俣屋敷→馬屋→表門→登り石段→大堀切り
  →門→石階段→門・・曲がって、・・本丸・・天守閣・・・ 
  →二の丸展示・・→▼下山・ →玄宮園・・・師匠とも合流
●佐和山城遠望
  ??温泉泊
  湖東三山へ

【2】平成19年(2007) 11月23日(金)
 bS彦根城&湖東三山・石山寺・三井寺・延暦寺
  おじん4人組 
  大津の漫画喫茶泊
  9:30 彦根城(井伊の城:400年祭)
 *大手門駐車場・・→大手門 →大手門裏の石垣
 →天秤櫓の外に築かれた大掘切=箕輪城の大堀切り構造と同じ
  →傾斜のある木橋→門→本丸の門→本丸→天守閣
 →西の丸石垣→西の丸博物館  ▼下山・・
 木俣・楽々園&玄宮園・・開国記念館・・埋木社・・彦根城博物館

【3】※2009年GW特別企画「bT彦根城&長純寺探し単独旅行」
@「奥の細道」・・越中・加賀・越前・若狭・近江・美濃結び旅
A城・・天神山城/魚津城/松倉城/石動城/金沢城/大聖寺城
  /金ヶ崎城/小谷城・長浜城・彦根城・安土城・観音寺城/大垣城
  彦根のビジネスホテル泊
▲彦根城
B中山道の美濃・近江の宿場 56次〜63次/65次〜67次の
   11次

【4】平成21年(2009)5月4日
○小谷城→長浜城を見学し、泊まる宿を探して
○彦根駅・・・駅前観光案内所で紹介していただいた。予約。
   8号線が混んでいたので、彦根キャッスルホテルに直行。
○彦根キャッスルホテルの目の前が表門〜〜〜
○彦根キャッスルホテル泊・・・
★「城が見えない。これで、素泊まり9700円。ひでえ。
 こりゃ、行かずばなるまい。天守閣が閉まるまで後30分〜〜〜。
彦根長純寺は敷地しかなかった。

【5】平成26年(2016)2月23日・24日・25日
高崎市長委嘱箕郷歴史調査研究会の視察旅行

 ●佐和山城
2月23日
@電車からの佐和山城・駅前銅像
 A清涼寺…島左近屋敷
 ・井伊谷龍譚寺5世:昊天は開山した。井伊直政の家臣になっていた。
 ・箕輪龍門寺に見えることになる和尚様とお母様にお会いした。
 ・本堂
 ・位牌堂…御位牌は預かり物ですのでとおっしゃった。
      写真撮影はできなかった。
 ・井伊家の墓
 ・井伊直政公のお墓…合掌
 ・岡本半助宣就(小幡城代:熊井戸氏)の墓
 
 B愛宕…井伊直政の屋敷跡(清涼寺南200m程)
10月 徳川家康の重臣:井伊直政が佐和山城主になった。
  しかし、領民が善政を敷いた石田三成を慕っていた事からか?
   井伊直政の住んだ場所は低い小山だった。
   JR彦根駅のすぐ北西の小さな山の中だった。

   石田三成の悪霊がいるなどの噂からか?
はたまた、鉄砲傷で山城が嫌だったのか?
   はたまた、「平城のの近世城郭を造りたかったのか?
    米原に城を築こうとした。という。
  金亀山(彦根山)に箕輪城と同じ平山城で高崎城と同じ「総郭
  型」の城を築きたかったのか?、
  とにかく井伊直政は佐和山城の事を嫌ったと言われている。
  と彦根城のポランティアガイドさんが言っていた。

井伊直政は徳川家康の許可を得て彦根城の築城を開始した。
彦根城は防衛上の要でもあったため「天下普請」として近隣の諸藩が
工事を担当することになった。

▲彦根城登城*************************
●彦根城下町
★高崎城の「遠構」内の城下町とまるっきり同じ構造になっている。
彦根市役所で、色々教わった。
彦根城ボランティアガイドの方々と彦根城に行くことになった。

●彦根城の中堀(今は空堀)
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●護国神社
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●彦根城の中堀
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 ★直ぐ隣は「彦根キャスルホテル」

●彦根城二の丸2郭:佐和口多聞櫓
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現在の佐和口多聞櫓は再建されたものである。
 元は、佐和山城から移築された。
★彦根城天守と附櫓・多聞櫓の2つが国宝に指定されている。
★後日紹介予定

●枡形
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●開国記念館
 ★後日紹介予定


●木俣守勝の新しい屋敷
 ★筆頭家老:木俣守勝は初めは木俣郭(山崎曲輪)の住んでいた。。
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●馬屋
★後日?
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●二の丸2郭
 ★構造は高崎城二の丸・三の丸の縄張りと同じである。


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 1日3回出没する。

●彦根城の内堀=彦根城の本丸1郭と二の丸2郭間の内堀
★高崎城二の丸堀・三の丸堀に相当する。
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 鐘の丸基壇の構造は最先端技術だと
 日本一のブロック会社の社長が話された。
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●彦根城の表門


 表門が実質の正門であるが、搦め手口の一つである。

●表門橋

●有料拝観の受付

●表御殿=彦根城博物館
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 彦根城と玄宮園の通常券は大人600円
 彦根城と玄宮園と資料館のセット券は1000円

 ★初期段階の御殿は山頂部にあったが、3期工事で低地に移動に
  なった。高崎城の御殿が本丸から、二の丸に移されたのと
  同様である。

●彦根城:表門からの参道?
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 緩やかな表門からの参道?を登っていく。

●左手に竪堀と縦石垣が見える。
★箕輪城は平山城であるが、縦の石垣はない。
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●「大堀切」
 ★まるっきり箕輪城の大堀切である。しかし、彦根城には
  2つの「大堀切」はある。木俣郭が1郭にあるように、
  「大堀切」の外に箕輪城でも「木俣曲輪」がある。
 彦根城の堀切は侵入した敵を、堀の上にある太鼓丸と鐘の丸の両側
 から攻撃できる縄張りになっている。


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●鐘の丸
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 ★箕輪城の丸馬出と本丸付き曲尺馬出と郭馬出
  →高崎城の5角形の郭馬出
  →彦根城「鐘の丸」と繋がっている。
   つまり、「鐘の丸」は巨大丸馬出なのである。



●彦根城の木橋
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  ★敵はループ状に登って鐘の丸に入り、木橋を渡ることに
  なるが、橋を壊せば、敵の侵入を防げる。
  「落とし橋」の構造になっている。
  外にループ状の防御方式は北条氏照の居城:滝山城
  (八王子市)がある。
作事奉行:旧北条家臣:宇津木泰繁か八王子城にいた石原主膳
  吉次のアドバイスかもしれない。また、木俣守勝の養子:木俣守安
  は八王子城代:狩野一庵の子なので、アドバイスしたかもしれない。


 ★箕輪城の本丸西虎口高麗門と木橋はこの木橋を参考に復元中
 である。平成30年完成予定。

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●天秤櫓
 天秤櫓は、長浜城から移築した。

●天秤櫓門
ガイド「門が壊しにくい造りになっている。」
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●天秤櫓内部
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彦根城の掛橋が見える。
★鉄砲・弓・弓矢の武器庫になっている。
ガイド 「鉄砲などで攻撃するための構造です。」
    「天秤櫓の階段から天秤櫓の屋根裏に上がれます。」
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●彦根城本丸下石垣
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●時の鐘
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  元々は若神子城(山梨県北杜市)の鐘もあったし、
 北条家臣で松井田(群馬県安中氏市)城主:大導寺政繁は
 川越城(埼玉県)の城主でもあり、時の鐘を使っていた。
井伊直政は武田・北条が残してくれた箕輪城でも時の鐘が
 あったと思われる。井伊直政は高崎城でも初めが西の丸に
 あったが、城下町に聞こえないので、高崎石上寺(現NTT)
 の場所に移した。彦根城では「鐘の丸」にあったが、城下町
 全体に聞こえず、中腹の場所に移した。
 ガイド「彦根市役所職員が現在もならしている。」

●門手前の巨大な岩
ガイド「・・・・」


●「太鼓櫓門」
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ガイド「太鼓門はどこかの城の城門を規模を小さくして移築したこと
 がわかっていますが、どの城からかのリサイクルかは分かってい
 ません。右と左の大きさが違うので、2〜3の城の門が使われたの
 でしょう。六角氏の観音寺城と門?と佐和山城の門?の合体つぎは
 ぎの可能性もあります。・・」
と言っていたような気がする。
※大きさの異なる扉
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●彦根城本丸虎口
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●本丸の石垣が見えてきた。

●彦根城天守が見えた。
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●佐和山城遠望

●小屋
 

●彦根城の天守閣内へ

*****************************
・天正18年(1590)井伊直政は箕輪城に入城した。標高274m〜100m
の南北1100mある梯郭式平山城である。本丸部分では、比高20mで
あった。井伊直政が箕輪城の改修工事をした。

・慶長2年(1597)4月頃から高崎城の築城を開始した。総郭型(城と
城下町一体型)であった。箕輪城からの木材リサイクルもした。

・慶長3年(1598)10月(3月説)高崎城が完成した。

・慶長5年(1600)関ヶ原の戦い後、井伊直政が石田三成のいた佐和
山に移封が決まった。

・慶長6年(1600)1月?2月頃、佐和山城に18万石で入った。
井伊直政は、石田三成の佐和山城を嫌ってか愛宕に住んだ。領民から
慕われていた石田三成の遺構を破却し、琵琶湖に近い磯山(米原)
に築城を計画した。


・慶長7年(1602) 井伊直政は、関ヶ原合戦で受けた鉄砲傷が悪化
  して死去した。清涼寺の葬られた。
 井伊直継が家督を継いだ。
 石田三成の怨霊が井伊直政を死に至らしたと言う噂も広まった。
 家老木俣守勝は、城の移築計画を徳川家康に相談した。
 佐和山・彦根山・磯山(米原市)の3山を候補であったが、
 金亀山(彦根山)への移築を 決定した。

佐和山は中世以来の山城であり、敵将:石田三成の居城であった。
 戦国時代を経て、戦の形態が山城を拠点としたものから、平地での
 足軽を主体とする集団戦に様変わりしたこと、城とともに周囲に広
 大な城下町が発達したことなどが考慮された事から近世的な平山城
 である彦根山が選定されたのであろう。
箕輪城から高崎城に移したように・・・他人の城ではない。
木俣守勝は徳川家康の許可を得て彦根城の築城を開始した。
 彦根城は防衛上の要でもあったため「天下普請」として近隣の諸藩が
 工事を担当することになった。
 
実際は彦根山は箕輪城ににてサツマイモを半分に切って伏せた形状
 であり、高崎城は高崎城と遠構をセットにした「総郭型」の城で
 あったので、鷹崎城での長野堰から新井堰開削は琵琶湖の水と??
 川の水を利用するのに適していた。実際の縄張りも早川幸豊・孕石
 泰時など意見を聞き、彦根山に城を造ることになったのであろう。

・慶長8年(1603)彦根城が築城開始された。第1期工事である。
 縄張りは甲州流軍学者・早川弥総左衛門であった。
 ・縄張り: 横地修理吉晴・石原主膳由次・孕石源左衛門泰時
      ・早川弥総左衛門幸豊
 ・普請奉行: 富上喜太夫,伴加右衛門.加藤金左衛門
 ・作事奉行: 宇津木新九郎(元上野国玉村出身)、横内弥左衛門
 ・大工棟梁: 浜野喜兵衛
  (★『井伊軍志』井伊達夫著)

・慶長9年(1604)7月1日、佐和山城の西方約2qの彦根山に
 豊臣遺臣からの守りの要として、城を完成させるのが急務であった。
徳川の総力をあげて・・・・、。
築城には公儀御奉行3名が付けられ、尾張藩や越前藩など7か国
 12大名(15大名とも)が手伝いを命じられる天下普請であった。
(★ウィキペディア)

彦根城はツギハギだらけのリサイクルの城であった。
工期短縮と経費削減のために、使えるものを再利用することになった。
発想は箕輪城の木材などを高崎城に使ったように「リサイクル」の
という方法だった。
「佐和口多門櫓」は佐和山城からリサイクル
「天秤櫓」は、豊臣秀吉の長浜城から再利用
「太鼓櫓門」は、不明。
  六角氏の観音寺城と門と佐和山城の門?の合体つぎはぎか?
「本丸御殿」は、???(初期段階にあった。表御殿ができるまで)
「西ノ丸三重櫓」は、浅井の小谷城からリサイクル
など多くの門・櫓・家などが彦根城のために再利用された。
初期段階は・・・・
1郭内の
「木俣郭」
「鈴木屋敷」
「川手屋敷」など・・・
2郭内の
「34名の家老・侍大将クラスの家」
「城下町の中級・下級武士の家」
「寺の山門など」
リサイクルだらけの家や寺であった。

????年 新たな築城2期工事が始まった。

特に、佐和山城は破城を受け、石垣や建物の多くが彦根城へと運
ばれた。要害堅固な佐和山城も跡形もなく破壊されてしまった。
石田家臣団の屋敷の木材も悉く運ばれ再利用された。
佐和山城は草木の生い茂るままに歴史の中に埋没した。

「天守」は京極高次の居城:大津城の天守のリサイクル・・・

・慶長11年(1606) 天守が完成した。2期工事が完了した。
 天守など主要な部分が完成し、井伊直継が入城した。

・慶長14年(1614) 大坂冬の陣
  井伊直孝が総大将として井伊家の軍を束ねることになった。
  井伊直継は家督が継げないので井伊直勝として、安中藩に
  3万石が分地されることになった。
・元和元年(1615) 大坂夏の陣
・元和2年(1616) 彦根藩のみで第3期工事が開始された。
  下の御殿が建造された。

・元和8年(1622) 3期工事工事が完了し、彦根城が完成した。

・明治時代
   多くの城が破却された。
 大隈重信が明治天皇の北陸巡幸に同行した際、彦根城の消失を
 惜しみ、天皇陛下に保存を願い出て解体が中止されたと言われている。


明日は「彦根城後編」かな?

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