城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行

アクセスカウンタ

zoom RSS 箕輪初心:生方▲井伊直政159『雪の佐和山城』

<<   作成日時 : 2018/01/19 11:12   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

彦根の5回目の旅行で初めて、佐和山城に登った。雪の降った後の
佐和山城の本丸で石田三成と井伊直政を想像した。でも寒くて鼻・
耳がもげそうだった。彦根駅前からの佐和山城愛宕山=井伊直政
が住んだ方面が見えた。  
画像




■彦根訪問5回
【5】平成26年(2016)2月23日・24日・25日

2月23日
 @彦根駅前銅像・愛宕山

  A清涼寺…島左近屋敷
 
 B愛宕…井伊直政の屋敷跡(清涼寺南200m程)
10月 徳川家康の重臣:井伊直政が佐和山城主になった。

  「領民が善政を敷いた石田三成を慕っていた事からか?
   石田三成の悪霊がいるなどの噂からか?
はたまた、鉄砲傷で山城が嫌だったのか?
   はたまた、「平城のの近世城郭を造りたかったのか?
    米原に城を築こうとした。という。
  金亀山(彦根山)に箕輪城と同じ平山城で高崎城と同じ「総郭
  型」の城を築きたかったのか?、
  とにかく井伊直政は佐和山城の事を嫌ったと言われています。」
  と彦根城のポランティアガイド:宮嶋さんが言った。
画像


 C佐和山城の大手口は南側であろうか?・・・空堀もあった。
画像

 
○南東
画像


 
D佐和山城の大手口は東側であろうか?
  彦根城ボランティアガイドの会長さんが「こっち側は鳥居本
  宿があって、大手口。」とおっしゃった。
  登城口があったが、もう夕方である。
  現在は途中から道が薮になっているようであつ。
○大手看板
画像

画像

画像




○大手土塁…大手口が食い違い土塁になっていた。
画像

画像

画像

★当時の堀は3倍以上あったのであろう。
画像


○城内の家臣団屋敷
画像

 広大な屋敷跡である。
○奥の山頂に本丸が見えた。


2月24日
06:00 JR彦根駅前のビジネスホテルでレンタル自転車(レンタサイクル)
 を借りた。
 約15分の距離である。
  駐車場に自転車を置いた。
 今回は寒い城に登る為、トレッキング・厚手ズボンの装備をした。
  手袋も・・・
06:15 @島左近の屋敷→彦根清涼寺

 ★もしかして、濱松頭陀寺城主:松下之綱の娘:おりんはここに
   行儀見習いにきていて、柳生宗矩と結婚したのかな?


06:20A彦根龍譚寺
 ○佐和山城案内板
画像


井伊谷龍譚寺5世:昊天は開山した。井伊直政の家臣になっていた。
 彦根龍譚寺からの登城口
   ・参道
画像

・参道脇の石田三成の銅像があった。
画像

  ・彦根龍潭寺へは基本的には朝9時〜16時に入れるようで
   ある。
  ・中門に佐和山城への進み方が掲載されていた。
画像

 B佐和山城搦め手口ハイキングコース
龍潭寺が佐和山の全山を所有している
   登山は無料開放している。

  ○龍潭寺の大洞観音堂
大洞観音堂の右脇奥へと進んで行く。
  道跡・案内があり、分かり易かった。
画像

案内通りに境内奥へと進むと古い墓地になっている。
 やがて、道はやや登坂となり、人ひとりが歩ける程の山道となる。
冬場なので、あまり汗はかかない。顔と手先が寒い。
  夏場は水分補給と虫除けの対策があるといいかも。
画像

「龍潭寺越え」
  龍潭寺越えの峠
 
  峠を右(南)に進むと、佐和山城の本丸方面となる。
峠を右(南)に進むと、佐和山城の?の丸方面となる。
画像

佐和山城本丸への登山道を行く。
 ○削平地
 ○堀 
 ○塩硝櫓跡… 「塩」を保管していた曲輪
画像

  大きな穴が開いている。
  彦根藩に残る絵図では「塩櫓」と記載されている。

 途中、竹林を抜けて行く。
○曲輪2
 ○曲輪3
 ○曲輪4
 ○西の丸
画像

画像


 ○堀切
画像
 
画像

 ・本丸へは最後の登りとなる。

06:40 ▲ 山頂は雪景色であった。寒すぎる。
    伊吹山も真っ白だった。

  ○佐和山城の本丸

   龍潭寺から佐和山城の本丸へは約20分の登りである。
  寒くて汗も出ない。
画像



・佐和山城跡石碑
画像

・案内板
画像
   
  ・佐和山城から彦根駅方面の展望から展望が
   いいですよと仲間が声をかけた。

  ・彦根城の国宝天守も見える
画像

・佐和山城の供養碑

画像

 
 石田三成の頃の山頂は、もっと狭かったという。
  
・慶長5年(1600) 9月15日、関ヶ原の戦い
石田三成を破った徳川家康は小早川秀秋を先鋒として15000の兵で
  佐和山城を総攻撃した。
   石田家の主力は関ヶ原で戦っていたため、残された佐和山城の
  守備兵は僅か2800であったとされている。
  城兵は奮戦したが、長谷川守知などが裏切り、敵を城内に手引きし
  た。
  9月18日 佐和山城は落城となった。
  石田三成の父・石田正継と石田正澄(石田三成の弟)は自刃した。
   石田三成の正室・うた(皎月院=真田昌幸の正室山手殿の妹)は
  家臣:土田桃雲が介錯し、天守に火を放った。
  板坂卜斎の記録によると、落城した佐和山城内には蓄えの金銀は
  少なかったとされる。
9月21日 小谷城の北方へと逃亡していた石田三成も田中吉政に
    よって捕えられた。

 ○反対側に下った。
画像
 
画像


 ○曲輪6
 ○曲輪7

 ○曲輪8
画像

 ○千貫井戸
画像

画像

画像

   ▼戻った。   

07:15 彦根:龍潭寺にある茶室は、佐和山城の城門を再利用した
  とされている。庭園もいいらしい。

龍譚寺の往復コースで所要時間約60分程であった。

★寒くて鼻・耳がもげそうだった。



【○】佐和山城の歴史
・戦国時代  
  六角氏・京極氏・浅井氏の三つ巴の争い が佐和山城を中心として
  繰り広げられた。

・永禄10年(1567) 織田信長は岐阜に入った。
  織田信長は、浅井長政に妹:お市を嫁がせて姻戚関係を結び上洛の
 足がかりとした。

・永禄11年(1568)織田信長は六角氏の観音寺城を攻め、一端近江を
  制圧した。
北近江における六角氏勢力は衰退し浅井氏が伸張した。
  佐和山城も浅井長政の支配に入って、磯野員吉に
  引き渡され、小谷城の支城の一つとなった。

・元亀元年(1569) 元亀の争乱が始まった。
  近江の反信長勢力:浅井長政は越前の朝倉氏と同盟を組み、信長に
 反旗を翻した。

・元亀元年(1570) 姉川の戦い
 織田信長は態勢を立て直して浅井・朝倉の連合軍を破った。
徳川家康も加勢に来ていた。
 浅井氏は北の小谷城と南の佐和山城に逃げこんだ。
 織田信長は 北の小谷城に対しては木下秀吉を配置した。
佐和山城に対しては
 『信長公記』…「七月朔日、佐和山へ御馬を寄せられ、取詰め、
  鹿垣結はせられ、東百々屋敷御取出仰付けられ、丹羽五郎左衛門
 置かれ、 北の山(物生山)に市橋九郎右衛門、南の山(里根山)に
 水野下野、西 彦根山に河尻与兵衛、四方より取詰めさせ、諸口の通
 路をとめ、…」と いう記述がある。
 佐和山城を包囲するように陣城が築かれ攻城戦が行われた。

 磯野員昌は約8カ月の間、佐和山に籠城した。 

・元亀2年(1571) 2月 佐和山城主:磯野員昌は降伏し、代わって
  織田信長家臣の丹羽長秀が入城した。
佐和山城が安土城築城までの間、 近江支配の核となった。

・天正元年(1573) 織田信長の小谷城攻め
  浅井氏は滅んだ。織田信長は近江を完全に制圧した。  
羽柴秀吉は戦功で長浜に城を築いた。
  
  
・天正10年(1582)本能寺の変 織田信長死亡。
  堀秀政は清洲会議により丹羽長秀に代わり佐和山城を拝領し
  た。

・天正11年(1583)堀秀政は佐和山城に入城した。
  堀秀政の留守中は弟:多賀秀種(多賀大社神官?)が城代を務めた。
★「草津温泉にも丹羽長秀と多賀が来ている。」

・天正14年(1585) 佐和山城主に堀尾吉晴が就任した。
   佐和山城は次第整備された。

・天正19年(1591)4月、豊臣秀吉の五奉行の一人:石田三成が
  佐和山城主となった。
  羽柴秀吉(豊臣秀吉)は佐和山城に重きを置く姿勢は変わらなか
  った。
 ※井伊家に伝来した「佐和山城絵図」
  城下を含む佐和山城全 体の規模が最大となる三成段階には、琵琶
  湖を介した湖上交通が重視さ れていたと考えられている。
石田三成は荒廃していた佐和山城の大改修を行い、山頂に五層天守
  (三層説あり)を設けた近世城郭にしたと言われている。
  山頂に本丸以下、山上に二の丸・三の 丸・太鼓丸・法華丸など
  が連なり、山下には東山道に面して大手門が開き、二重に巡ら
  された堀の内には侍屋敷・ 軽屋敷・町屋などの城下町が建設
  された。
   また、琵琶湖に面した佐和山西麓にも侍屋敷や米蔵、松原の湊
  につながる百間橋が敷設された。
  石田三成はほとんど伏見城におり、佐和山城代としては石田三成の
  父・石田正継が守将になっていた。
石田三成から、左近に仕官の要請があった時、それまでも多くの
  要請を断ってきた左近はやはり断るが、石田三成の説得により仕官
 を受け入れ、2万石の俸禄で召し抱えられた。これは、当時の石田三
  成の禄高4万石のうちの半分を与えられるという破格の待遇であっ
 た(『常山紀談』)。  

※「三成に過ぎたるもの二つあり、島の左近と佐和山の城」と落首に
 うたわれた。豊臣秀吉からもそう思われた。
 石田三成が三顧の礼で4万石の半分2万石で迎えた名将島左近
 であった。
 島左近が石田三成に仕えたのは、石田三成が佐和山19万石の城主に
なってからという説もある。屋敷は現清涼寺であった。
   
 
※ 石田三成は豊臣秀吉の優秀な官僚であったが、朝鮮半島に出兵した
 大名たちの論功行賞で恨みを買っていた。

  井伊直政は豊臣家恩顧の大名浅野長政・黒田官兵衛などの調略を
  進めていた。

・慶長2年(1587) 4月 徳川家康は豊臣秀吉の死が間近いことを
  察し、井伊直政に新城を造らせることにした。
  「京大坂に出陣できる拠点、大軍が滞在できる城・・・」
  井伊直政は高崎城を造ることにした。

・慶長3年(1598)8月16日 豊臣秀吉が亡くなった。
  10月高崎城が完成した。

・慶長4年(1599) 閏3月3日 前田利家が死んだ。
  
・慶長5年(1600)
福島正則をはじめ豊臣家恩顧の大名は徳川家康方についた。
7月24日 小山評定
  石田三成は徳川家康の留守中、西で挙兵した。
 下野国小山(現在の栃木県小山市)を開いた。
  上杉景勝への会津攻めが中止になった。

井伊直政は娘婿:松平忠吉と一緒に先に東海道を西に向かった。
徳川家忠は東山道をいく。

8月下旬 徳川家忠は烏川の増水で高崎城に3日間留まった。
 徳川家康の思惑通り、高崎城は2万の大軍を滞在できた。

9月15日、関ヶ原の戦い
石田三成の重臣:島左近は関ケ原で討ち死にした。

石田三成を破った徳川家康は小早川秀秋を先鋒として15000の兵で
  佐和山城を総攻撃した。小早川秀秋ら関ヶ原の寝返り組を試す
  ことになる。
  石田家の主力は関ヶ原で戦っていたため、残された佐和山城の
  守備兵は僅か2800であったとされている。
  本丸は石田正継、石田正澄、正継の子の石田右近朝成、宇多下  
  野守頼忠、その子宇多河内守頼重、土田東雲斎、福島次郎作、 
 尾藤善四郎、 大坂からの援軍である赤松左兵衛、長谷川宇兵衛
 などが守備を固めた。また、城の北端、かもう坂通(龍譚寺越)
 往還を鳥居本側から登ってきた位置にあたる水の手を眼下に見る
 西の丸には河瀬織部、二の丸には石田養寿院、太鼓丸には番頭格
 の山田上野之助とその子山田隼人がそれぞれ配置された。

包囲する東軍方は、大手から小早川秀秋、脇坂秋月、小川土佐
守、朽木土佐守、水の手から田中吉政、松原内湖側の松原口から
石田雅 楽助、切り通し道の彦根側(太鼓丸下)より石川民部が
 それぞれ攻撃を仕掛けた。
 徳川家康自身は佐和山の南側にある正法寺山に陣を置いたと
 される。井伊直政も目付役として出陣した。

 石田勢は少数の兵ではあったが佐和山の守備は固く、執拗な
 攻撃によく耐えた.
しかし、兵力の違いはいかんともしがたく、長谷川宇兵衛守知
 などが、小早川に内通したこともあって、東軍を城内に手引きし
 た。形勢は東軍に一気に傾いた。

 9月18日 ついに石田配下が佐和山城天守に火を放った。
 石田三成の父:石田正継と石田正澄(石田三成の弟)、石田右近朝成、
 宇多下野守頼忠、宇多河内守頼重が自刃した。
 石田三成の正室・うた(皎月院=真田昌幸の正室山手殿の妹)は
 家臣:土田桃雲が介錯し、石田三成の妻たちは自害した。
 佐和山城は落城となった。
  城内を逃げまどっていた多くの子女たちも女郎ヶ谷に身を投じた。
 ということが伝えられている。  
   板坂卜斎の記録によると、落城した佐和山城内には蓄えの金銀は
  少なかったとされる。

9月21日 小谷城の北方へと逃亡していた石田三成も田中吉政に
    よって捕えられた。

  佐和山城籠城戦を含む関ヶ原合戦後の論功行賞により、井伊直政
  に佐和山城が与えられることになった。 

・慶長6年(1601)
1月 大坂にいた。
1月 井伊直政は佐和山城に入った。
 (★木俣土佐武功紀年自記:井伊達夫氏所蔵)
2月 井伊直政は佐和山城に入った。(★井伊年譜)

井伊直政は彦根初代藩主として上野国高崎城
 (群馬県高崎市)より佐和山に入った
 井伊直政が佐和山城の山頂部を14mも削ったとされる。




3月18日 相良長毎(ながつね)に
     「佐和山で養生する。」(★相良家文書)

◆井伊軍志〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
井伊直政・・・愛宕山米蔵付属曲輪
木俣守勝・・・二の丸
中野直之・・・三の丸
広瀬将房・・・二の丸・三の丸(後、美濃丸と呼ばれた。)
  広瀬将房は中野直之の3男で武田旧臣:広瀬美濃守景房の養子である。
犬塚正長・・・愛宕下屋敷
本丸&5重天守は消失していたので、入れなかった。
(★「当城下近辺絵図附札写」)

井伊直政の住んだ場所は低い小山だった。
   JR彦根駅のすぐ北西の小さな山の中だった。
井伊直政は別の場所に城を造ることを考えていた。
   佐和山領民が善政を敷いた石田三成を慕っていた事からか?
   石田三成の悪霊がいるなどの噂からか?
はたまた、鉄砲傷で山城が嫌だったのか?
   はたまた、「平城の近世城郭を造りたかったのか?
    米原に城を築こうとした。という。
  とにかく井伊直政は佐和山城の事を嫌ったと言われている。
  と彦根城のポランティアガイドさんが言っていた。
  
 金亀山(彦根山)に箕輪城と同じ平山城で高崎城と同じ「総郭
  型」の城を築きたかったのか?
 

7月 鉄砲傷が癒えていなかったが、伏見入りした。

7月8日 大久保新右衛門に「関東に残る家中・小者らを
     佐和山に来るように」指示した。

8月上旬 佐和山に病気のため戻った。

11月15日 井伊直政の本格的な佐和山の統治政策が開始された。
「井伊直政佐和山仕置状・・・」
しかし、実際は鈴木・西郷・中野・大久保のの連署で
あった。

12月 有馬温泉に湯治に行った。

・慶長7年(1602)
1月13日 伏見に徳川家康に会いに行った。

1月15日 署名ができない程になっていた(★相良家文書)

1月末  娘婿:徳川忠吉も病状を知った。
 忠吉は稲富一夢に「直継が幼少なので、わしの元に来るように」
 井伊直継に伝えさせた。
 松平忠吉の生母:西郷局は「直継ぐに縁者:西郷正員に相談せよ。」
 と伝えた。

2月1日 井伊直政は関ヶ原で受けた鉄砲傷が原因で死去した。
   歿42歳。
  墓所は彦根の清涼寺にある。

 井伊直継が家督を継いだ。

・慶長9年(1604)7月1日、佐和山城の西方約2qの彦根山に
 おいて、 新たな築城工事が始まったた。その際、佐和山城は破城
 を受け、石垣や建物の多くが彦根城へと運ばれた。
  要害堅固な佐和山城も跡形もなくなった。
  
・慶長11年(1606)建設途中の彦根城に井伊直継が入ると、
   佐和山城は廃城となった。
  やがて佐和山城は草木の生い茂るままに歴史の中に埋没した。


★明日は「箕輪・高崎から彦根に移ってきた寺かな?」

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
箕輪初心:生方▲井伊直政159『雪の佐和山城』 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる