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zoom RSS 箕輪初心:生方井伊直政157『彦根藩主:井伊直孝が6〜7年間?過ごした安中北野寺』

<<   作成日時 : 2018/01/17 06:25   >>

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井伊直孝は、天正18年(1590)2月11日、おそらく印具徳右衛門
の娘と井伊直政の子として駿河国中里(焼津市)で生まれた。しかし、
井伊直孝は中里の印具の家、あるいは親戚先で私生児のように育てら
れることになった。井伊直政が正室:花に遠慮したからである。
文禄4年(1595) 6歳の時、箕輪に来たが、こっそりと萩原図書に
養育を託し、安中の北野寺で過ごした。慶長6年(1601)井伊直政は
初めて井伊直孝と対面したとされる。井伊直孝は12歳になってい
た。あるいは慶長7年(1602)数え13歳まで安中で過ごしたと思わ
れる。この年、井伊直政が死んで、井伊直孝は徳川秀忠の小姓に上
がったからである。
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【1】北野寺
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・井伊直孝が育った薬師堂?
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【2】井伊直勝と井伊直孝
・天正11年(1583)1月11日、徳川家康の養女で松平康親の娘:花
(後唐梅院)と結婚した。(★『井伊家譜』・『家忠日記』・『木俣古記』
※ウィキペディアでは天正12年(1584)となっている。
家康の寵臣・井伊直政に嫁いだ。
・天正18年(1590)2月7日、井伊直政・酒井忠次は先陣として、浜
 松を出発した。
 花は侍女:印具徳右衛門の女(娘)が井伊直政の子を孕んだと知っ
 た。花は侍女を父の印具徳右衛門の下へ送り返した。
 井伊直孝の生母は印具徳右衛門の娘説が有力説である。直政の
 正室:花(唐梅院:徳川家康の養女)の侍女だった説がある。
 @2月?日 花は長男:井伊直勝を浜松で産んだ。
 A2月11日印具の娘は次男:井伊直孝を駿河国中里(焼津市)で
 産んだ。井伊直孝は印具の家、あるいは親戚先で私生児のように
 育てられることになった。井伊直政が正室に遠慮したからである。
・文禄元年(1592)徳川家康の4男は武蔵忍城主10万石を与えられ、
 元服して、松平忠吉と改める。その後、井伊直政の長女:政子は
 松平忠吉に嫁いだ。井伊直政は松平忠吉の後見人になっていた。

文禄4年(1595) 井伊直孝は6歳になって、井伊直政の居城のあっ
 た箕輪城に行った。しかし、井伊直政は正室に遠慮して、井伊直孝
 には会わず、こっそり、安中出身の家臣:萩原図書(長篠の戦いで
 討ち死にした安中景繁の家臣)に養育を託した。安中氏も萩原氏も
 供に井伊直政の家臣になっていた。幼少期は井伊家領内の安中の北
 野寺に預けられ、養育された。
 萩原図書は安中の「中後閑村」の出身であった。
 安中下後閑村の北野寺の「恵算和尚」から学問を学んだ。
 井伊直孝は北野寺の薬師堂に住んだと伝えられている。
 (恵算の子:秀算は後、大和国長谷寺4世となった。)

・慶長5年(1600)
7月25日、徳川家康が小山評定を開いた。井伊直
 政は松平忠吉を伴って西国に一足先に向かった。徳川秀忠は2万の
 兵を中山道を進む別働隊を率いる役割を与えられた。
 8月下旬、徳川秀忠は烏川の洪水で、井伊直政の本拠:高崎城に3
 日間、逗留した。接待役は井伊直政の高瀬の夫:川手良則であった。
(後で、井伊直政は怒ったとか?井伊直政は未だ入城して居なかった。)
井伊直孝の入る安中を越え、碓氷峠を越えた。徳川家忠は進軍途中、
 信濃国上田城攻めを行なった。しかし、真田の上田城攻略はできな
 かった。9月15日の関ヶ原本戦に間に合わなかった。
 9月15日、 関ヶ原の戦いで井伊直政は松平忠吉の視察と称して
 抜け駆けをした。最後、島津の中央突破で井伊直政は被弾した。
しかし、井伊直政は戦後処理に奔走していた。戦功で佐和山に移るこ
とになった。

慶長6年(1601)井伊直政は高崎城に戻った。この時、井伊直政が
 初めて直孝と対面したとされる。井伊直孝は12歳になっていた。
 井伊直政は佐和山城に移った。

慶長7年(1602) 井伊直政が亡くなった。
  井伊家の家督を兄:直継が継いた。
   井伊直孝は江戸で徳川秀忠の近習として仕えた。

・慶長10年(1605)
井伊直継は家臣団をまとめ切れなかった。
  鈴木重好の横暴で、15カ条の批判書が提出された。
  椋原政直や西郷正次が徳川家康に相談した。
  徳川家康は鈴木重好を安中に隠居させた。
 4月16日徳川秀忠が2代将軍に就任した。
 4月26日、井伊直孝は従五位下掃部助に叙位・任官された。

慶長13年(1608) 書院番頭となり上野刈宿(現長野原町)5,000石を
 与えられた。・・・北軽井沢、昔源頼朝は狩りをした場所である。

慶長15年(1608) 上野白井藩1万石の大名となり、大番頭に任じ
られた。

慶長18年(1613) 伏見城番役となった。
・慶長19年(1614)
2月 井伊直継は井伊直勝と名を改め、安中藩に分国された。

 大坂冬の陣では、徳川家康に井伊家の大将に指名された。
 大坂城攻略では松平忠直と共に八丁目口の攻略を任
 せられたが、「真田丸」赤備えの真田信繁勢の挑発に乗り突撃した
 ところを真田信繁や木村重成の軍勢から一斉射撃を受け、500人の
 死者を出す大被害を生じさせた。
 天正3年から井伊直政家臣:大久保与兵衛や八俣甚右衛門、菅沼
 忠道などが討ち死にした。
 後に先走って突撃したことを軍令違反と咎められたが、家康が
 「味方を奮い立たせた」
 と庇ったため処罰はされなかった。
 ★井伊直政に性格が似ていたのであろう。


慶長20年(1615)井伊直孝は徳川家康より井伊家の家督を継ぐよ
 う命じられ父の遺領18万石の内、彦根藩15万石を継承した。
 徳川家康の「御付人」:木俣守勝・椋原政直・西郷正次・三浦安久
 それに甲斐武田遺臣などは井伊直孝に配属された。
 井伊直継は井伊直勝と名前を変え、安中藩3万石が分知された。
 井伊直継の家臣は井伊谷以来の家臣:松下一定・小野朝之などとな
 った。井伊直孝の養育係であった萩原図書も井伊直勝に附けられた。

 大坂夏の陣において、井伊直孝は藤堂高虎と共に先鋒を務めた。
 家臣の筆頭の総大将:椋原政直(井伊直政と同じような名前なの
 で、正直)安藤敵将・木村重成を槍で突いた。安藤重勝が首を取った
 (木村重成の首は彦根宗安寺に葬られた。)また、八尾・若江の戦い
 で井伊直孝は長宗我部盛親を打ち破った。
 徳川秀忠の命により、大坂城の山里郭に篭っていた淀殿・豊臣秀頼
 母子を包囲し発砲して自害に追い込むという大任を遂げた。宇津木
 泰繁が大砲を指揮した。おそらく、カルバリン砲を打った。

 戦後、5万石を加増され、従四位下侍従へ昇進した。


【3】井伊直孝「上毛新聞2017年3月7日」
〜安中:北野寺《井伊氏と高崎安中(9)》「出世薬師」の異名〜

井伊直政の息子で、後に彦根藩主となった直孝は安中市下後閑
の北野寺で育ち、1614年の大坂冬の陣で井伊家の大将を任
された。
嫡男の直勝と同年の1590年に生まれたとされる直孝は、
生母の実家や親戚宅などで数年過ごしていた。生母は正室唐梅院
の侍女で、遠慮があったという説がある。直政は後閑村の萩原図書
を直孝の教育役に任じ、北野寺で養育させた。
直孝は地元の子どもたちを集めて合戦ごっこに明け暮れる活発な
少年で、10歳で盗賊を退治したという伝説も残る。
北野寺敷地内で住居とした薬師堂近くには、立身出世を祈願して
杉とヒノキが植えられた。後に30万石の大名まで上り詰めた成功に
あやかり「出世薬師」の異名で知られた。
1602年に直政が亡くなると徳川秀忠の近習に取り立てられ、
白井藩(渋川市)1万石を与えられた。戦向きの性格を家康に評
価され、15年の彦根藩主就任も後押しされた。秀忠からは家光
の後見役に選ばれ、家光の代で30万石に加増されるなど歴代将軍
の信頼が厚かった。
北野寺第38代住職の井口妙祥さん(57)=安中市下後閑=は
「彦根にも北野寺(現北野神社)を設けるなど、この地で過ごした
日々を忘れなかった。民衆の中で育ち、愛される人柄だったことが
地元の伝承からも伝わってくる」と話す。
彦根藩井伊家と後閑の北野寺は長年交流が続き、住職が交代する
と井伊家の江戸屋敷へあいさつに出向くのが慣例だった。幕末に
大老を務めた井伊直弼の手紙などもあり、市指定重要文化財
「北野寺所蔵文書」としてまとめられている。


箕輪初心:生方井伊直虎・直政135『46話:悪女について』&二俣城
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箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政136『47話:決戦は高天神』&高天神城
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箕輪初心・生方井伊直虎・直政137【48話「信長、浜松に来たいってよ】
&浜松城初期
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箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政138【第49話:本能寺が変】&伊賀越え
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箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政138【第50話『石を継ぐ者』直虎の死】
&直虎の墓
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箕輪初心:井伊直政140『本能寺の変〜天正壬午の乱〜小牧長久手の戦い』
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箕輪初心:生方▲井伊直政142『天正18年山中城攻撃〜小田原城攻撃
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箕輪初心:生方▲井伊直政143『箕輪城時代の内政概要』
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