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zoom RSS 箕輪初心:生方▲井伊直政156『直政の外交と決戦:関ヶ原』

<<   作成日時 : 2018/01/16 06:28   >>

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慶長3年(1598) 8月18日 豊臣秀吉が死去すると、五大老・五
奉行は朝鮮からの撤退を決めた。結果的に徳川家康は兵力・財力
などの温存に成功した。徳川家康と石田三成の対立が表面化した。
徳川家康は井伊直政・本多忠勝らに豊臣恩顧の大名を味方にする
こと命じた。井伊直政は浅野長政・幸長父子、黒田如水・長政父子
らを味方にした。このことが、さらに多くの豊臣恩顧の大名を味方に
することになった。関ヶ原の戦いの前に、美濃関係者で犬山城の
守備メンバーなどを外交工作で、味方にしたことも関ヶ原の戦いに
勝利する遠因にもなっている。また、「抜け駆け?」「一番槍?」は
徳川家康の命令ではなかったかと考えている。徳川家康も井伊直
政も「抜け駆け禁止令」を出しているのである。
画像
 

箕輪初心●岐阜:関ヶ原の戦い=天下分け目の合戦
http://53922401.at.webry.info/201109/article_12.html 

箕輪初心:生方▲2017映画「関ヶ原」のあらすじと『Myブログ関ヶ原関係』
http://53922401.at.webry.info/201708/article_39.html



■五大老・・・有力な大名。
@徳川家康・・・関東を支配。五大老筆頭。
A前田利家・・・北陸地方を支配。豊臣秀吉の親友。
 B毛利輝元・・・中国地方西部を支配。
  C宇喜多秀家・・中国地方東部を支配。子供の頃から
    秀吉に寵愛。
    (小早川隆景→ 宇喜多秀家)
 D上杉景勝・・・越後を支配→会津支配。
 
■五奉行・・・豊臣家の中で政務をしていた豊臣家幹部
@石田三成
A増田長盛
B浅野長政 
C前田玄以
D長束正家

  五大老&五奉行の中で、関ヶ原の戦いになる過程での
   主要な人物が徳川家康 と 石田三成である。

 徳川家康は婚姻の斡旋や知行の授与を勝手にやり始めた。
 豊臣家の中で勝手に婚姻行うことを禁止されていたが、
 五奉行筆頭:石田三成は徳川家康に文句を言いに行った。
      
 豊臣家の内部対立が、「関ヶ原の戦い」 の主要原因となってくる。
 武将達は「家康派」と「三成派」 に分かれていくことになった。
  
 しかし、仲裁役として「前田利家」 がいたのだ。
 前田利家は五大老 NO.2 で、武将や大名たちから慕われていた。
 徳川家康の勝手な行動に反発しており、武断派の武将の怒りを抑える
 役も果たしていた。
 大老前田利家や豊臣奉行衆らによる徳川家康追及の動きが起こった。

※12月15日 井伊直政は黒田長政と起請文をかわし、盟約を結んだ。
●極月(12月)25日 井伊直政起請文前書写→黒田宛
(黒田家文書)
「一対内府(家康)御入魂二而、拙者へ御無沙汰被成間敷之段
  御誓帋(紙)被懸御意候、忝存置候事…(後略)
 一対貴殿、此上之儀者、…(中略)…
 一御隠密二被仰聞候事、他言申間敷候事、
  右、偽申二おひては、忝も
 …略
生方訳「 徳川家康に対して、御入魂(味方になること)にて、拙者
 (井伊直政)に御無沙汰なられまじくの段、(味方になることを)
  御誓詞した紙に御意(お考え)を懸けられ、かたじけなく存じ置き
  候事、・・・

・慶長3年(1598)10月 高崎城完成
でも、井伊直政は慶長3年(1598)6月〜慶長5年(1600)2月
 1年8ヶ月高崎を空けていた。高崎にはいなかったのだ。
井伊直政・黒田長政・京極高次・藤堂高虎は徳川家康の代理として
 政治交渉に当たった。

●極月(12月)25日黒田官兵衛起請文前書写→井伊宛(黒田家文書)
「一内府様へ別而得御意申候者、対貴所、表裏、ぬき公事仕間敷候


・慶長4年(1599)
●正月廿三日 井伊直政書状→黒田甲州様(長政)   

●3月朔日 井伊直政起請文前書写→堀尾帯刀(吉晴)殿

●6月晦日 井伊直政書状→黒田甲州様(長政)

●6月晦日 井伊直政書状→相良佐兵衛殿
                  御宿所(頼房)

■9月7日、徳川家康は豊臣秀頼に重陽の節句の挨拶をするためと
  して伏見城から大坂城に入城した。
  徳川家康に対する暗殺計画が発覚した。


・慶長4年(1599) 前田利家が死亡。=仲裁役がいなくなった。
  豊臣家の内部分裂が激化=徳川家康と石田三成の対立が激化。 
 
 ■武断派七将の三成襲撃事件=石田三成暗殺未遂事件が発生。
  石田三成と対立していた武断派の武将7名が結託し、
  石田三成の襲撃を計画したのだ。
  メンバーは福島正則・加藤清正・黒田長政・藤堂高虎
   ・細川忠興・加藤嘉明・浅野幸長である。
  (★このメンバー全てが関ヶ原で徳川に味方することになる。)
  
  石田三成は事前に察知し、襲撃前に姿をくらました!
  石田三成は徳川家康の屋敷に逃げ込んだとも、家康次男:結城秀康
   に仲裁を頼んで自分の屋敷に逃げたとも言われているが、
  徳川家康の屋敷であった。
  →ライバルである徳川家康が仲裁。
  石田三成は居城:佐和山城に蟄居(結城秀康が見張り番)
  
  ほかの五大老達も領地に帰った。
  政務の中心は徳川家康になった。

  「上杉景勝が無断で軍備の増強を進め、城の防備も固めており、
  合戦の準備をしている。」という噂話は流れていた。

・慶長5年(1600)
徳川家康の上杉景勝への会津攻撃の経過
     (★会津城)

1月 徳川家康は、各地の大名家に年賀の挨拶を求めた。
    上杉景勝だけは断った。
 
3月 越後:堀秀治、出羽:最上義光から、会津の上杉景勝に軍備を
    増強する不穏な動きがあるという知らせを受けた。
    
  上杉氏の家臣で津川城城代:藤田信吉が会津から出奔し、
  江戸の徳川秀忠へ
  「使者であった家臣:某を処罰しようとしています!
  その上「内府様(家康)に上杉景勝が謀反の気配があります。」
  と報告した。
  →徳川家康は上杉景勝の元へ伊奈昭綱を正使として派遣した。
  
  徳川家康は、釈明を求める手紙を上杉景勝に送った。

●直江状〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜^^^*******  
上杉景勝の重臣:直江兼続が『直江状』と呼ばれる書簡を返書
  として送ってきた。
「くだらない噂を信じて謀反を疑うなど子供のようなもので、
 釈明の必要もない。軍備を進めているのは東北の大名に対する
 備えをしているだけだ。そちらは京都で茶器でも集めているん
 だろうが、こちらは田舎者ゆえ武具を整えるのが武士だと思っ
 ている。だいたい自分が勝手に婚姻の斡旋などをしていたくせ
 に、人に違約違反を言うのはおかしい。前田家をお仕置きした
 らしいが、大層なご威光だ。あらぬ噂を真に受けて汚名を着せ
 ようというのなら、兵を率いて出迎えてやるから、いつでもか
 かってきなさい。」という勇ましいものであったそうだ。 
    
★徳川家康は激怒しまくった。
徳川家康 は、「上杉家の謀反の疑いはもはや確実、討伐する
 ために出陣する!」と会津征伐を宣言した。
徳川家康に後陽成天皇から出馬慰労として晒布が下賜された。
豊臣秀頼からは黄金2万両・兵糧米2万石を下賜された。
 →これにより、朝廷と豊臣氏から家康の上杉氏征伐は
 「豊臣氏の忠臣:家康が謀反人の景勝を討つ」大義名分を得た。     
(★NHK大河ドラマ「天地人」)
   
★徳川家康は豊臣政権のために働くという考えより、
 自分が大阪を離れれば、石田三成が挙兵するだろうという
 考えがあった。つまり、徳川家康は石田三成に挙兵させる機会を
 つくるために会津征伐を利用したらしい。              
(★NHK大河ドラマ「江〜」)

・慶長5年(1600)
6月2日、徳川家康が会津の上杉景勝討伐を諸大名に命じた。
6月6日、黒田長政は徳川家康の養女:栄姫と再婚した。  
6月16日 徳川家康は大阪を出発。
 上杉景勝討伐には豊臣家の武断派の武将が多く従軍していた。
 豊臣秀吉の死後、徳川家康は会津に移封の上杉景勝が
 反抗する。・・・相当、頭に来ていた。
 伏見城から、55000兵力で会津征伐へ向かった。
  黒田長政も徳川家康と共に出陣した。
  
 徳川家康は江戸に行った。
 徳川家康は佐竹義宣に対する危険から江戸城に1ヶ月程留まった。
    160通近い書状を諸大名に回送した。
 
※徳川家康は西軍の小早川秀秋&吉川広家を味方に
     引き込んでいた。
  
※直江兼続と石田三成は同盟を組んでいた。
         (★NHK大河ドラマ「天地人」)

7月17日 石田三成は徳川家康の糾弾の書状を発送。
(8月25日)、石田三成らが挙兵した。  
■石田三成は徳川家康の会津征伐に行って大阪にいない隙が絶好の
 チャンスと考え、親友:大谷吉継と相談し五大老の毛利輝元を
 総大将に迎えた。諸大名には徳川家康の弾劾文を送って味方を
   集めた。・・・西軍の成立


7月19日 徳川秀忠は江戸を出発。
〜〜〜真田昌幸・信之・幸村の動向〜〜〜〜〜〜〜〜       
    真田昌幸・信之・幸村は徳川秀忠に合流するために
     7月の上旬に上田を出発。
  
7月21日 下野国犬伏に到着した時、石田三成からの書状(密書)が
      真田父子の元に届いた。

 書状は長束正家、増田長盛、前田玄以の連署状であり、
  内容は以下の通りであった。
「急度申し入れ候。今度景勝発向の儀、内府公上巻之誓紙ならびに
太閤様御置目に背かれ、秀頼様見捨てられ、出馬候間、おのおの
 申し談じ、楯鉾に及び候。内府公御違の条々、別紙に相見え候。
此旨尤と思い召し、太閤様御恩賞を相忘れられず候はば、秀頼様
  へ御忠節あるべく候。恐々謹言。
                       7月15日
                       長大正家(花押)
                       増右長盛(花押)
                       徳善玄以(花押)

 意味は、「上杉景勝の討伐は豊臣秀吉の遺言に背き、
  豊臣秀頼を見捨て出馬した徳川家康に罪がある。
  豊臣秀吉の恩を忘れていなければ、豊臣秀頼に
   忠節を誓って下さい。」
  ・・・だから、西軍に味方をするように促している。
       
●犬伏の別れ(栃木県佐野市)
  (アウトレットの信号を北上し、大きな旧道東山道?
  を右折。あけみずしの反対地点。唐沢山城の手前4km)
    
 下野の佐野「犬伏の陣」で東軍・西軍に。
    真田家を残す手段は何か?
★過去60年知略で生きた3代で7主君に仕える真田家の
   総集編。激論。
 上田城真田昌幸(父)・幸村(次男)・石田方に所属・・西軍
 沼田城真田信幸(昌幸長男)は徳川方に残留・・・・・東軍
東西に別れた理由〜〜〜〜〜〜
@敵味方となっていればどちらが勝っても真田家は残るという説
 「一見、兄弟で戦うように見えるが、生き残り作戦を賭けた
     真田氏の知恵ではないだろうか?。」
A3人が妻の縁で東西に別れた説
 真田昌幸の妻は石田三成の妻と姉妹だった?(異説あり)
 真田昌幸の娘も石田三成縁者に嫁いでいた。
 真田幸村の妻は石田三成の親友:大谷吉継の娘であった。
 真田信之の妻は徳川家重臣・本多忠勝の娘で徳川家康の
  養女:小松姫であった。
  
・真田信之妻:小松殿(家康養女で本多忠勝娘)と
 矢沢薩摩守(昌幸の伯父)で、真田昌幸・幸村を沼田城に入れず。
→真田昌幸は「流石、本多の娘、これで真田安泰だ。」と言ったとか?

7月27日 真田信之宛に徳川家康からの安堵状
      「小県郡(上田城・真田館)を安堵。」
    (★真田宝物館)

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

【1】石田三成の挙兵
7月1日 宇喜多秀家が豊国社で出陣式を行った。
7月11日 石田三成は大谷吉継に「家康打倒」を打ち明けた。
     大谷吉継を味方にに引き込んだ。
7月12日 石田三成は佐和山城で大谷吉継、増田長盛、安国寺
     恵瓊と秘密会議をした。
     「毛利輝元への西軍総大将就任要請。」を決定した。

  愛知川(えちがわ)関所が設けた。
   長宗我部盛親、鍋島勝茂、前田茂勝(玄以の子)らが足止め
  を食らい、結果的に西軍への参加を余儀なくされた。

7月17日 毛利輝元は大坂城に入城。
 
■石田三成は徳川家康の会津征伐に行って大阪にいない隙が絶好の
 チャンスと考え、親友:大谷吉継と相談し五大老の毛利輝元を
 総大将に迎えた。諸大名には徳川家康の弾劾文を送って味方を
  集めた。(西軍の成立)  
徳川家康がいた西の丸を接収し西軍の総大将に就任した。

 石田三成は増田長盛・長束正家・前田玄以三奉行の連署
    による挙兵宣言「内府ちがひの条々」を発した。
 石田三成は徳川家康の糾弾の書状を発送。
結果・・・中国・四国・九州の諸大名が約10万の兵力となった。
  
  しかし、吉川広家や鍋島直茂は東軍への内応を画策した。

  石田光成は会津征伐に従軍していた諸大名の妻子を人質に
  取る作戦を発動した。

  しかし、
 @加藤清正や黒田如水の妻子が逃亡した
 A細川忠興の正室:細川ガラシャが自害した。

  結果・・細川忠興ら諸将を痛憤させた。

7月18日 石田三成の西軍は鳥居元忠が預かる伏見城に毛利輝元
     の名で開城要求した。
     鳥居元忠は拒絶した。

7月19日 伏見城の戦い
  西軍は宇喜多秀家、小早川秀秋、島津義弘ら4万の大軍に
  伏見城を攻撃した。
  鳥居元忠らの奮戦

8月1日 伏見城は陥落した。
     伏見城に徳川方の細川幽斎が籠城。
石田三成は
 @丹後攻撃・・・小野木重勝を総大将に1万5,000
 A伊勢攻撃・・・宇喜多秀家を総大将に毛利秀元や鍋島勝茂など
         約3万の軍勢を、伊勢国平定に送り込んだ。
B北陸攻撃・・・大谷吉継
 C美濃攻撃・・・石田三成自身は美濃方面へ

8月10日 石田三成は佐和山城から西軍の大垣城に入った。
   岐阜城・・・織田信長嫡孫:織田秀信が豊臣秀頼の後見
   と美濃・尾張加増を条件に西軍へ入った。



【2】徳川家康の小山評定
6月 豊臣秀吉の死後、徳川家康は会津に移封の上杉景勝が
   反抗すると考えに頭に来ていた。
   伏見城から、55000兵力で会津征伐へ向かった。

7月初旬
徳川家康は会津征伐のために江戸城に居た。

7月19日 西軍首脳の一人:増田長盛から一通の書状が徳川家康に
  届けられた。
  「石田三成らが家康打倒の謀議を行っている。」

7月21日 徳川家康は江戸城を出発した。

7月24日 下野:小山に到着。
 小山に本陣にいた徳川家康に鳥居元忠の使者
 「石田三成が挙兵し伏見城攻撃を開始した。」
  ことを知らされた。

 徳川家康は会津征伐に従軍した諸大名を招集した。
 「石田三成が豊臣秀頼をおし立てて挙兵との知らせが入った。]
と伝えた。

7月25日 【小山評定】
  徳川家康にとって最大の問題は、
「東海道・東山道の豊臣恩顧の武将がどう行動するか。」
であった。
徳川家康→黒田長政
 @「福島正則に豊臣秀頼には害が及ばないこと」
 A「石田三成が豊臣秀頼のためにならないこと」
 を説明し、東軍につくよう説得した。
※この時点では、毛利輝元が大坂城で豊臣秀頼を擁して石田方の
  総大将になっていることは、知らなかった。

 小山の本陣において軍議を開いた。
※小山評定が開かれた場所の説
 @JR小山駅北東の結城街道沿い説
 A市役所付近説
 B祇園城(小山城)址説

→会津征伐を中止し、石田三成討伐のため大坂に向かう
      ことを決断した。

小山評定では、徳川家康の考えが伝えられた。
@山岡道阿弥・板部岡江雪斎から情勢の説明
「妻子が人質になっているため、進退は各自の自由である。」
徳川家康の意向が伝えられた。
小山評定で徳川家康をドラマ風にすると、
「おのおの方の妻子は、大坂に人質にとられておる故、さぞ心配
 でござろう。されば、これより速やかにこの陣を去り、大坂に舞い
 戻って治部(三成)や備前中納言(宇喜多秀家)に味方しようとも
 わしはいささかもおのおの方を恨みに思わぬ。我らが領内にお
 いては、行軍の心配もいらぬ。心置きなく戻られよ。」
 と、ドラマに出てくる。

本多忠勝・井伊直政ら譜代の家臣

豊臣秀吉の恩顧の外様大名も参加。
浅野幸長、黒田長政、福島正則、池田輝政、蜂須賀至鎮(よししげ)、
細川忠興、加藤嘉明、藤堂高虎、山内一豊、生駒一正、中村一忠、
堀尾忠氏、田中吉政、筒井定次、寺沢広高、小出秀家、富田信高、
一柳直盛、金森長近


〜〜〜賛成派〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
@福島正則が大坂のことは考えず、徳川家康に味方すること
  を表明。
福島正則が「わしは内府にお味方する」と言った。
A黒田如水・徳永寿昌が続き、ほぼ全ての従軍諸将が家康に
  従うことを誓約した。
つまり、石田三成に反感をもつ武断派の大名は
   徳川家康に味方した。

  徳川家康を総大将とした。・・・東軍の成立。


〜〜〜反対派〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
@真田一族が犬伏(栃木県佐野市)で相談した。
 信濃上田城主:真田昌幸&真田信繁(幸村)
 →佐野犬伏の別れ・・・・
  真田昌幸長男:真田信之は東軍として、
  7月24日に佐野から上田に戻っていた。
★真田一族の存続を考えた方法だと私は考えている。

A美濃岩村城主:田丸直昌は西軍へ退転する。
田丸忠昌(具安)は徳川家康の軍を離脱して、西軍についた。
蒲生氏郷の妹婿で、豊臣秀吉の下では氏郷の与力となっていた武将
であった。
蒲生氏郷没後、蒲生家は、下野宇都宮に減転封されたので、石田三成
などが推挙して独立して岩村城4万石となった。
「三成が内府殿に刃向かうなどと笑止千万・・・ですが、
 三成は秀頼様を擁しておりますれば、内府殿にお味方は出来申
 さん。」
などといったのか?

〜〜〜東海道の山内一豊〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
→石田三成迎撃をどのようにするか????? 

B山内一豊が掛川城の提供を申し出た。
 ・・東海道筋の諸大名がこれにならった?。
 非常用兵糧20万石も家康に提供すると表明した。
 →山内一豊の東軍の加入
  軍事展開と前線への兵力投入が容易となった。
   
東軍は東海道・畿内以西の豊臣恩顧大名が多くいた。
福島正則は居城:尾張清洲城を目指し出陣した。
伊勢に所領を持つ富田信高、古田重勝、氏家行広、福島正頼、
九鬼守隆らは居城防備のため自城へ戻ることになった。
 
 諸将が提供した居城には松平康重、松平家乗、内藤信成、
 保科正光、北条氏勝ら徳川の武将が城将として入城し、
 守備に当たることになった。
 
  
〜〜〜上杉軍の動向〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜        
 ※直江兼続は、徳川家康を追えば、勝てるという自信があった
 といわれているが、上杉景勝に知らせ、白河・会津・米沢と
 引き返した。
 しかし、東北の関ヶ原「山形の長谷堂城の戦い」で、敗戦した。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
東軍は徳川家康の徳川直属軍と福島正則らの軍勢→10万人。

7月26日以降〜〜〜続々と陣を払った。
石田三成を討つことを決め、大阪に先鋒隊を向かわせた。

井伊直政が軍監(目付)として先発隊となった。
井伊直政は3600程度の軍勢・松平忠吉3000を連れていた。
しかし、井伊直政は出陣前に病に倒れた。
本多忠勝が臨代わったために、忠勝隊は小姓・足軽ら500程度
の軍勢であった。残された本多家の本隊2,500の軍勢は東山道
徳川秀忠隊に配属された。

7月27日徳川家康の安堵状→ 真田信之宛
       「小県郡(上田城・真田館)を安堵。」
    (★真田宝物館)

徳川家康は徳川秀忠を大将に、榊原康政、大久保忠隣、本多正信
 など旗本・・・約3万8,000の軍勢を中山道より美濃方面への進軍を
 命じた。


8月4日 徳川家康は出陣した。
 結城秀康を総大将に、里見義康、蒲生秀行、那須資景らを宇都宮城に
  上杉・佐竹への抑えとして、留め、監視させた。

8月5日 徳川家康は江戸城に戻った。
 そこから一歩も動かなかった。
 豊臣恩顧の武将の動向が見えなくなるからである。


◆西軍の動き*********************
 8月1日 石田三成は家康の伏見城留守居役:鳥居元忠を攻撃。
→鳥居元忠が戦死。
 8月?日 石田三成は近江:三井寺に基盤を置いた。

 8月11日・美濃の関ヶ原に近い大垣城に入城。

 
**************************
◆東軍は家康の徳川直属軍と福島正則らの軍勢→10万人。
@中山道隊・・・徳川秀忠(江の夫)が大将。本多正信が参謀。
    
◆第2次上田戦争
東軍 (真田信之=徳川家康の養女:小松姫夫←本多忠勝娘)
      Vs
西軍 (父:真田昌幸&弟:真田幸村)

8月23日 徳川秀忠→沼田城:真田信之宛の書状
 「24日に(宇都宮)を立って、小県を攻めるから、お前も出馬せよ。」
 
8月下旬 徳川家忠20000が高崎城に3日間、滞在した。
 烏川の増水で、行けなかったのだ。

・徳川秀忠、上田城を攻撃・真田信之も上田に出兵。
9月2日 真田信之は虚空蔵山城(伊勢崎城)・砥石城(上田市)
        を落とし、待機。

9月5日 上田神川の戦い
    徳川秀忠38000 VS 真田昌幸2000〜2500? 
   ・真田昌幸は、徳川を上田城近くにおびき出しては鉄砲攻撃。
   ・真田昌幸・信繁(幸村)は、秀忠軍の侵攻を阻む。
       神川の増水で、大群が混乱。

9月7日 徳川秀忠は撤退→関ヶ原へ
 真田昌幸&真田幸村2000 vs 徳川家忠・大久保忠隣20000
  →決着着かずに真田軍の勝利
           ・・・徳川家忠は関ヶ原に遅刻
  ★徳川家康の兵力温存説もあるが、
     徳川秀忠はお馬鹿だったのかもしれない。

 ■TV・・ ・徳川秀忠は真田に興味を持っていた。
       江は「秀忠様は戦さが下手。・・・」
       →遅刻は必至であった。
       乳母は、祠を持ち出した。
      (★大河ドラマ「江〜」9月11日TV)   
**************************    

A関東防衛残留隊・・・結城秀康
  上杉景勝・佐竹義宣に対する抑えとして・・  
   

B東海道隊・・・徳川家康本隊  
9月1日  徳川家康は江戸を出発。

9月11日 福島正則らが清洲城に入城。
    →西軍の勢力下の美濃:岐阜城に侵攻。
     織田秀信が守る岐阜城を落とした。
     徳川家康は織田信長の嫡孫:織田秀信を助けた。


9月14日 関ヶ原に到着。赤坂に着陣。
 (★徳川家康の陣)

 軍議・・・佐和山城→大阪へ攻撃と決定。
 石田三成は、関ヶ原に兵を移動させた。
 石田三成の家臣:島左近と宇喜多秀家の家臣:明石全登が奇襲
  →東軍の中村一栄、有馬豊氏らが敗戦
 ■通説・・野戦を得意とする家康がわざと流させた情報である。
 徳川家康の戦略は両軍が関ヶ原で対峙した理由として知られている。
 →両軍は関ヶ原に陣を敷き、対峙したのである。

      
9月15日 京極高次は大津城を退去。
政所からさきに面会・・・高次は高野山へ隠居決意。
 (★TV大河ドラマ「江〜」・・もう一つの京極家)
  
●井伊直政の書状関係*******************  
●6月27日 伊達政宗書状→井伊兵部少輔殿(東大史料編纂所)

●7月6日 井伊直政書状→真伊豆様(真田宝物館)

●7月15日 井伊直政軍令書写 (東大・中村不能斎採集文書)

●7月廿5日 伊達政宗書状写→井伊直政宛(国立公文書館)


●8月3日  伊達政宗書状→井伊直政宛 (陸奥伊達文書)

●8月12日  徳川家康書状写→井伊直政・本多忠勝宛
                 (大洲加藤文書坤)

●8月19日 黒田・徳永・奥平?連署書状 (井伊達夫氏所蔵)

●8月21日 井伊直政書状写→本多正信・西尾・村越宛

●8月21日 本多忠勝・井伊直政連署書状

●8月24日 井伊直政書状→竹中・加藤貞泰・関宛(「大洲加藤)

●8月24日 井伊直政・本多忠勝連署禁制(安積六夫氏所蔵)

●8月24日 井伊直政・本多忠勝連署禁制→西尾領神戸村

●8月24日 井伊直政・本多忠勝連署禁制→美濃正慶寺(性顕寺文書)

●8月25日 井伊直政書状→黒田如水様 (福岡市博物館)

●8月25日 井伊直政書状→黒田如水様 (国立公文書館)

●8月25日 徳川家康書状→井伊直政・忠勝・石川康通
 「廿二日注進状、今日廿五披見候、仍萩原・おこし(尾張國)
 被取趣、翌日岐阜へ可被相働之由尤候。其許之儀何様にも無
 越度相段肝要候、猶連々可有注進候也・・・・」
 ★徳川家康は西軍だった犬山城主:石川康通を調略した
 のだった。


●8月28日 井伊直政書状→加左門様・関長門様・竹丹波様 

●9月3日 井伊・福島・池田・本多→加藤貞泰・稲葉通重(大洲加藤文書)
 態申入候、然者大柿城(大垣城)より苅田に罷出候間、稲葉甲斐守殿
 貴所為押、うしき村・ほんてん村両所二御在陣可被成候、不及申候共
 御精を被出、夜待等被仰付尤候、恐々謹言・・・・」
 
●9月6日 井伊・本多連署制札→美濃赤坂安楽寺

●9月7日 徳川秀忠書状→井伊・本多忠勝
 「…伊奈侍従(京極高次)殿、至于赤坂御着陣二付而…
   真田表仕仕置候申付、近日可上国候間、期其節候也」



●9月 井伊直政陣法度 (井伊達夫所蔵文書)
「陣取之法度
 ・・・・」

井伊直政は軍事面・外交や内政にも秀でた面を持っていた。
豊臣秀吉死後の混乱期にも、井伊直政は黒田官兵衛、黒田長政親子
と接触し、黒田長政を通して多くの豊臣恩顧の大名を徳川家の陣営
に組み入れた。
関ヶ原の戦いの前にも、井伊直政は外交工作を行い、数多くの武将
を徳川側へ寝返らせた。
@西軍の京極高次(近江大津城)
 井伊直政の調略
 京極高次は居城の大津城に篭もって1万人を超える西軍の大軍勢を
 食い止め、関ヶ原の主戦場へと向かわせなかった。

A西軍の犬山城守備隊:稲葉貞通・加藤貞泰・関一政・竹中重門
 井伊直政との内通では東軍に寝返って井伊直政の指揮下についた。
  4名は美濃国を領有していた、あるいはゆかりのある武将であった。
 徳川家康は竹中重門の居城 菩提山城(ぼだいさんじょう)
  (岐阜県不破郡垂井町)に陣を張った。
関ヶ原の戦いが行われた美濃国や周辺を治めていた武将たち
 を井伊直政が味方に付けた事も、東軍勝利の遠因にはなっている。

B西軍の相良頼房・犬童頼兄は伏見の戦いに参戦していたが
  井伊直政と内通を進めていた。


 徳川家康の目的は、合戦し勝って天下を取ることにあった。
 関ヶ原の戦いは、表向きは豊臣政権の内部分裂であった。
 西軍は、豊臣家大老、毛利輝元を総大将に。
 東軍は、豊臣家大老、徳川家康を総大将に。
 徳川家康に従った東軍の豊臣恩顧の大名は、豊臣政権を
  牛耳ろうとする石田三成達を排除するのが目的であった
  者もいたろうが、徳川家康に天下を取らせるために戦って
  いる者もいたであろう。
●9月14日 井伊・本多連署起請文→平岡石見守殿(広家)・稲葉佐渡守殿
「一対輝元、聊(いささか)以内府如在有真敷候事、
 一
 一
  右・・・・」

●9月14日 井伊・本多連署起請文写→鹿野幻庵へ(鹿野文書)
「濃州赤坂岡山陣所致、其上兵粮米五十俵差送、…(後略)
★徳川家康は旧武田家臣:鹿野一族を現さいたま市に城を
  持たせていた。

●9月14日
「決戦前夜、吉川広家の家臣が南宮山を脱け出し黒田長政の陣所を訪ね、
 東軍に内応したい旨を申し出た。」
(★『黒田家譜』)
 結果、吉川広家の家臣が人質として東軍の本陣に送られ、吉川広家の
 に、本多忠勝と井伊直政の血判状が届けられた。

●9月14日 井伊・本多連署起請文写→吉川侍従殿(広家)・福原広俊へ
「必ず、味方になってね。」

 晩、東軍・西軍と関ヶ原へと進軍した。
画像

 (★出典:忘却仕り候)ごめんなさい。
・西軍:石田三成陣所
画像


・東軍:徳川家康陣所
画像



▲9月15日 関が原の戦い▲****************
  井伊直政の兵力3600で家康本軍に随行。
明け方、布陣した。
吉川隊の寝返り、小早川の寝返り工作をしていて、
井伊直政は前日、確認している。
徳川家康は吉川広家隊に鉄砲を撃ち掛けた。
徳川家康は吉川隊の寝返りが本当だと言う証が欲しかった。
吉川広家の寝返りが嘘だったら、徳川家康は逃げる準備をしていた
かもしれない。
 
吉川隊が動かないのを確認して桃配り山に家康は布陣した。
徳川家康は「桃配り山」より手前で布陣した。
関ヶ原布陣図は、三段の布陣になっていた。
一段目 福島正則など
二段目 井伊直政など
三段目 諸将は、徳川家康の周りに陣取った。

両軍は霧の中で対峙し続けた。
徳川家康にしてみたら、気が気ではない状況ではある。
 寝返りの起請文はある。東軍の諸将の誓詞もある。
それでも豊臣恩顧の大名たちなのである。
徳川家康を不安にさせる材料があった。
 
午前8時・・両軍による決戦が開始。烽火が上がった。
 本戦で家康の四男・松平忠吉(直政の娘婿)を補佐していた。
 

9時頃・・・@東軍:福島正則・井伊直政が西軍:宇喜多に攻撃。
       高所を取った石田三成ら西軍が有利。
関ヶ原の戦いにおける先鋒は、豊臣秀吉の子飼いの武将:福島正則
 が務める事が決まっていた。
 徳川家康の軍で抜け駆けは禁止されていた。
 (「徳川家康の軍令書」徳川家文書の研究)
 (井伊直政も部下に抜け駆け禁止の軍令書を出している。
 (「井伊達夫所蔵文書)
 伊井直政は、福島正則の後詰であったが、
 松平忠吉と共に、30人ほどを連れて、福島隊の前に出ようとした。
 福島隊の隊長:可児吉長が
「先陣が我々です。」
と呼び止めたところ、直政は、
「松平忠吉の初陣なので、勉強のため敵陣を見学に行くのだ、戦を始
 めるわけではない。」
と答え、福島隊の前に出た。
 そして。前方の宇喜多隊へ発砲した。
 宇喜多隊も発砲した。
福島正則は、井伊直政に先に仕掛けたことを激怒した。
福島隊が一斉に宇喜多隊へ突撃を開始した。
天下分け目の関ヶ原の戦いが幕を開けた。

 「井伊直政が抜け駆けか一番槍か?一番槍か?・・・・・。  
「関ヶ原の戦いで井伊直政は抜け駆けをしたのか?」
@ 抜け駆けはなかったという考えもある。
A徳川家康は、徳川軍勢戦いを始める事を本当は望んでいた。
  そのことを井伊直政が理解していた
B「戦後、直政が処罰されていないので家康と直政の間で話が
 通っており、先駆けを認めていた。」
C娘婿:松平忠吉に花を持たせたかった。
 などが考えられるが、本当の所は、解らない。

徳川家康は井伊直政に戦が始まるように先駆けを命じたと
考えている。 
「伊井直政の先駆け」と「徳川家康の目的」を考えると・・・・。
井伊直政は戦後、軍議違反にも関わらず、直政が処罰されていない。
 伊井直政も同じような軍令書(井伊達夫氏所蔵文書)を出して
 いるのだから、命令でやったという方が妥当性がある。

10時頃・・石田三成が小早川と毛利に進軍命令。
小早川秀秋は動かず。
毛利秀元も動かず。(吉川広家が本家の毛利を阻止)
※家康本陣攻撃ができず。

正午頃・・・徳川家康は松尾山の小早川の攻撃を促すため、
  小早川に向かって一斉射撃。
         A西軍の小早川秀秋軍が西軍を裏切って、
          西軍の大谷吉継軍を攻撃。
          →大谷隊は壊滅。→西軍の劣勢。

 B西軍の脇坂安治・朽木元綱・赤座直保・小川祐忠ら
    4000人の寝返り・離反。→平塚・戸田軍を攻撃。
       →西軍は総崩れ。      
午後2時・・・石田三成・宇喜多秀家は北国街道で逃げる。

3時・・・→東軍の勝利。
  
C西軍の島津義弘軍1500が敵中突破の退却戦で、  
       徳川家康の本陣目前にまで突撃、中央突破。
井伊直政は島津義弘が退却する際に徳川の本陣の横を突き抜けた
 島津隊を追撃して、島津義弘の甥にあたる島津豊久を討ち取る手柄
 を上げた。
 「井伊兵部少輔直政ハ下野殿ト二百騎ばかりの兵にて追かけ、
  直政真先に進む處に薩摩勢鉄砲にて打立てるに、島津の臣:
  川上が家人の打ける鉄砲直政に当たる。然れとも、玉入事
  浅して恙(つつが)なし」
  (★『黒田家譜』)
 井伊直政は島津隊を追撃していた際、柏木源藤が鉄砲で撃ち
玉に当たり、井伊直政は落馬したため、真ん中を退却した。
   (『帖佐彦左衛門覚書』)
 井伊直政は右肘に銃撃を受けて落馬をする大怪我を負ってしまった。
 
島津軍の生き残りは80名だった。


4時  D南宮山の毛利軍15000・吉川軍3000も退却。→近江・伊勢へ
5時   徳川家康は首実検。

6時   徳川家康は大谷善継の陣跡に宿泊 

www.youtube.com/watch?v=gnxk2sfpmdI
   ★You Tube を見ると、面白い。
     
    
9月18日 徳川家康は石田三成の居城:佐和山城を攻略。

9月21日 逃亡していた石田三成を伊吹山中で捕縛。

10月1日 石田三成・小西行長・安国寺恵瓊らを六条河原で処刑。

その後、徳川家康は大坂城に入城。
徳川家康は、西軍の諸大名を処刑・改易・減封に処した。
→召し上げた所領を東軍諸将に加増分配
→徳川領地も250万石から400万石に加増。
→豊臣秀頼、淀殿に対しては咎めず領地もそのままにした。
→豊臣氏の直轄地は諸将に分配した。
◆結果
@豊臣氏は摂津国・河内国・和泉国の3ヶ国65万石の一大名と
 なった。
  
A徳川家康は天下人としての立場を確立した。
=天下を掌握したのだった。


******************
●9月16日井伊直政書状→相良左兵衛殿(頼房)


井伊直政は関ヶ原の戦いの戦後処理と江戸幕府の基礎固めに奔走。

▼9月16日 徳川家康書状写→香(長)宗我部
「…尚委細井伊少輔可申入候、…」
●9月17日この書状に井伊直政の副状が加えられた。(東大)
「…被仰越家康祝着候、…」
※井伊直政が長宗我部盛親の謝罪の取り成しをした

●9月21日井伊直政書状→相良

●9月21日 毛利輝元起請文前書写(慶応大学)
 毛利輝元→池田輝政・井伊直政・本多忠勝
西軍の総大将であった毛利輝元との講和を持ち、徳川家康への忠節を
 誓わせた。

●9月22日 井伊直政書状写→京極高次
「…大津之儀、一国一城之士仕合。…」

●9月23日 毛利輝元起請文写(東大)
 毛利輝元→井伊直政・本多忠勝
「一…吉川侍従・福原式部…忝存知候…
 ・・・・我等分国…誠令安堵候事
 ・・・・」
●9月25日 結城秀康→井伊直政
「…高名被成候由、千万目出度候…」

●9月29日 吉川広家起請文前書(福岡市博物館)
 吉川→井伊直政・黒田長政
「一…輝元身上之儀、被 思召分段、至子々孫々二不可有忘却事。…」

●9月晦日 井伊・本多・榊原→黒田長政
 「一薩摩へ之行付而。…

●10月4日 井伊直政書状(高崎市所蔵)
 井伊直政→安芸宰相様人々御中(毛利輝元)
「昨日者御光儀、殊御太刀、馬代銀子五十枚、被懸御意…」

●10月5日 井伊直政→黒田如水 (東大)
「…逆心之輩悉被致成敗候、…」

●10月8日 黒田如水→井伊・・・・・黒田甲斐守殿(倅)
 「…大友討果候…」

※10月10日 井伊直政は関が原の合戦の功で
  井伊直政は近江佐和山18万石に移封が決まった。
  松下常慶(安綱)は引佐郡の代官になった。

●10月10日 井伊直政→伊達政宗(伊達文書)
 上杉は?・・・最上は? どうしているの?

●10月12日 井伊直政→毛利輝元様
「一今度被対輝元父子、内府御誓詞直二御判被進候間、・・・」
 毛利の取りなし確定させた。

● 10月24日 大崎少将=伊達政宗→井伊直政(西村所蔵文書)
「…景勝成敗可被申付候…

●10月24日 井伊直政→大崎少将(伊達文書)
「乍恐留守中の儀、…」
●11月5日 毛利輝元起請文写(毛利博物館)
  毛利輝元→井伊直政
  御取りなし身上相澄みましてございます。過分至極で
  ございます。殊に内府様御誓詞を下され候儀、身に余る
 かたじけなく候・・・。
 ★井伊様、ありがとうございました。ってとこか。
 
●11月6日 井伊直政→鍋島勝成(国立公文書館所蔵)
★鍋島への取りなしもやっていたんだね。

●11月12日 井伊直政→黒田如水
  嶋津への書状の届けのお願い
   万一断ったら、成敗してよい。
  立花へを「召し連れてきてください。
●11月13日 井伊直政→黒田如水
  薩摩に出陣されたと聞いたので・・・
  立花の柳川城の「受け取り」について

●12月13日 井伊直政は島津家久との講和を始めた。
 @嶋津家久
 A嶋津義弘

●11月15日 井伊直政→長宗我部

●11月?日  島津家久書状案→井伊直政宛(東大)
 「…誠御懇意候儀、祝着至極候、仍…」

●11月?日毛利輝元・吉川・福原ら8人連署起請文→井伊直政
 「一今度輝元身上之儀、・・・・忝奉存候事、
  ・・・・・・」
 神様に誓って・・・・

●12月朔日(1日)井伊直政→家臣:鈴木平兵衛殿・松井武太夫殿
  「長宗我部の家中のごたごたのあとくされがないように
  取り扱ってくれ」というような内容を鈴木重好と松井安易?
  に頼んだ。
●12月5日 井伊直政→家臣:鈴木重好
 「…長宗我部御堪忍分之事、…

●極月11日 井伊直政→家臣:鈴木重好
 長宗我部の城に残っている米・諸道具を帳面に書いてきてくれ
 ・・・
※井伊直政は真田信之の依頼で、真田昌幸・真田幸繁の助命を
 徳川家康に進言した。真田昌幸・幸村親子の助命にも尽力した
 (★彦根城博物館:野田浩子学芸員著)
※彦根歴史研究の部屋
http://hikonehistory.hatenablog.com/entry/2017/12/02/180014
※12月13日 井伊直政は真田信之から真田昌幸、真田幸繁(幸村)
 の命乞いを頼み、井伊直政が徳川家康に頼んで、高野山へ流罪
 になった。上田城棄却
(『真田家武功口上之覚』:米山一政編輯『真田家文書中巻』)
●12月21日 井伊直政→鈴木重好
 
●12月22日 井伊直政→鈴木重好





・慶長6年(1601)
●正月15日 島津忠常書状→井伊直政

●2月2日 井伊直政→島津家久
 
●2月2日 井伊直政→島津忠恒
※2月 井伊直政が佐和山城に入った。


●3月10日 井伊直政が従四位侍従藤原朝臣直政

@井伊直政は西軍の総大将:毛利輝元を石田三成が処刑される直前
 まで手厚く保護し、毛利輝元との交渉を行い、徳川家康への忠誠
 を誓わせた。

A真田昌幸、幸村親子の命乞いも行い、結局真田親子は高野山に
 蟄居処分に留めた。


B井伊直政は西軍の長宗我部盛親の取り成し(失敗)
 関ヶ原の戦いの後に所領没収となった長宗我部盛親に代わって
 土佐に入国した山内一豊の援助を行った。

C井伊直政は自分に傷を負わせ、西軍の島津家との和平交渉を行った。

井伊直政は軍事・外交と八面六臂の大活躍であった。
井伊直政ファンの私はついつい井伊直政の存在なくしては東軍は
勝利できなかったのではと思ってしまうのだ。
******************



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