城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行

アクセスカウンタ

zoom RSS 箕輪初心:生方▲井伊直政155『高崎城時代の外交』

<<   作成日時 : 2018/01/15 09:24   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

・天正10年(1592)天正壬午の乱の時、奉者として、10月29日
の徳川家康と北条氏直の和議の時、井伊直政は外交デビューした。
・慶長2年(1587)4月頃 ※徳川家康は、豊臣秀吉が先は長くない
と見定め、軍事上、大軍の駐屯できる新城の建設を命じた。
慶長3年(1588)8月18日 豊臣秀吉が亡くなった。10月、高崎
城はほぼ完成した。しかし、徳川家康と石田三成の対立は激化して
いった。徳川家康は豊臣秀吉の死の機会を逃すことなく井伊直政・
本多忠勝などを豊臣方の武将を味方にするための交渉役に任じた。
井伊直政の外交が始まった。外交工作という形で手腕を発揮した。
浅野長政・幸長親子、黒田官兵衛などと同盟を結んだ。井伊直政
が浅野親子・黒田官兵衛との繋がりを持ったことがさらに他の豊臣
方の大名を徳川に組み入れる大きな結果となった。後に関ヶ原の戦
いの舞台となる美濃国ゆかりの武将4人を引き入れたことも東軍の
勝利に貢献したといえる。
画像





・慶長2年(1587)4月頃? 井伊直政が高崎城の築城を開始した。

・慶長3年(1598)  
●2月朔日(1日)浅野幸長書状案→井伊直政宛 (浅井家文書)
「遠路御使札、殊皮衣一、皮袴一具被懸御意候…(後略)」
・・・・内府様が江戸へ御下向されることについて、貴殿(井伊直政)
 もお供の由、・・・朝鮮に人が多く罷り出になったけれども、指図が
 なく引き退き申し候、・・・
 ・・・・
 井伊兵部様御報
 
  尚々各へ遣わされなかさった御書状、加主計(加藤清正)は御報せ
  申されなさっている間、これを進めます。如水(黒田官兵衛)・
  加左馬(加藤嘉明)・藤佐(藤堂高虎)、程遠くにございますが、
  私自ら是(これを)慥(たし)かめて、届けます。返事を取って
  きます。、これを進めるべき候事、 以上」

8月18日 豊臣秀吉が伏見城で死去した。
  政権内部での対立が表面化した。

 徳川家康と伊達政宗ら諸大名が、豊臣秀吉の遺言に違反する私的婚姻
 を計画していたことが発覚した。
 大老前田利家や豊臣奉行衆らによる徳川家康追及の動きが起こった。

※12月15日 井伊直政は黒田長政と起請文をかわし、盟約を結んだ。
●極月(12月)25日 井伊直政起請文前書写→黒田宛 (黒田家文書)
「一対内府(家康)御入魂二而、拙者へ御無沙汰被成間敷之段
  御誓帋(紙)被懸御意候、忝存置候事…(後略)
 一対貴殿、此上之儀者、…(中略)…
 一御隠密二被仰聞候事、他言申間敷候事、
  右、偽申二おひては、忝も
 …略
生方訳「 徳川家康に対して、御入魂(味方になること)にて、拙者
 (井伊直政)に御無沙汰なられまじくの段、(味方になることを)
  御誓詞した紙に御意(お考え)を懸けられ、かたじけなく存じ置き
  候事、・・・

・慶長3年(1598)10月 高崎城完成
★でも、井伊直政は慶長3年(1598)6月〜慶長5年(1600)2月
 1年8ヶ月高崎を空けていた。高崎にはいなかったのだ。
井伊直政・黒田長政・京極高次・藤堂高虎は徳川家康の代理として
 政治交渉に当たった。

●極月(12月)25日黒田官兵衛起請文前書写→井伊宛(黒田家文書)
「一内府様へ別而得御意申候者、対貴所、表裏、ぬき公事仕間敷候


・慶長4年(1599)
●正月廿三日 井伊直政書状→黒田甲州様(長政) 。   

●3月朔日 井伊直政起請文前書写→堀尾帯刀(吉晴)殿

・閏3月 七将による石田三成襲撃事件

●6月晦日 井伊直政書状→黒田甲州様(長政)

●6月晦日 井伊直政書状→相良佐兵衛殿
                  御宿所(頼房)

■9月7日、徳川家康は豊臣秀頼に重陽の節句の挨拶をするためと
  して伏見城から大坂城に入城した。
  徳川家康に対する暗殺計画が発覚した。



・慶長5年(1600)
●2月5日 井伊直政書状→嶋津
               少将殿(忠常)

●豊臣氏奉行衆連署条書→井伊兵部少輔殿(東大史料編纂所)
「一迚 秀頼様御取立て之義二御座候間。…」

●6月27日 伊達政宗書状→井伊兵部少輔殿(東大史料編纂所)

●7月6日 井伊直政書状→真伊豆様(真田宝物館)

●7月15日 井伊直政軍令書写 (東大・中村不能斎採集文書)

●7月廿5日 伊達政宗書状写→井伊直政宛(国立公文書館)


●8月3日  伊達政宗書状→井伊直政宛 (陸奥伊達文書)

●8月12日  徳川家康処書状写→井伊直政・本多忠勝宛
                 (大洲加藤文書坤)

●8月19日 黒田・徳永・奥平?連署書状 (井伊達夫氏所蔵)

●8月21日 井伊直政書状写→本多正信・西尾・村越宛

●8月21日 本多忠勝・井伊直政連署書状

●8月24日 井伊直政書状→竹中・加藤貞泰・関宛(「大洲加藤)

●8月24日 井伊直政・本多忠勝連署禁制(安積六夫氏所蔵)

●8月24日 井伊直政・本多忠勝連署禁制→西尾領神戸村

●8月24日 井伊直政・本多忠勝連署禁制→美濃正慶寺(性顕寺文書)

●8月25日 井伊直政書状→黒田如水様 (福岡市博物館)

●8月25日 井伊直政書状→黒田如水様 (国立公文書館)

●8月25日 徳川家康書状→井伊直政・忠勝・石川康通
 「廿二日注進状、今日廿五披見候、仍萩原・おこし(尾張國)
 被取趣、翌日岐阜へ可被相働之由尤候。其許之儀何様にも無
 越度相段肝要候、猶連々可有注進候也・・・・」

●8月28日 井伊直政書状→加左門様・関長門様・竹丹波様 

●9月3日 井伊・福島・池田・本多→加藤貞泰・稲葉通重(大洲加藤9
 態申入候、然者大柿城(大垣城)より苅田に罷出候間、稲葉甲斐守殿
 貴所為押、うしき村・ほんてん村両所二御在陣可被成候、不及申候共
 御精を被出、夜待等被仰付尤候、恐々謹言・・・・」
 
●9月6日 井伊・本多連署制札→美濃赤坂安楽寺

●9月7日 徳川秀忠書状→井伊・本多忠勝
 「…伊奈侍従(京極高次)殿、至于赤坂御着陣二付而…
   真田表仕仕置候申付、近日可上国候間、期其節候也」

●9月14日 井伊・本多連署起請文→平岡石見守殿(広家)・稲葉佐渡守殿
「一対輝元、聊(いささか)以内府如在有真敷候事、
 一
 一
  右・・・・」

●9月14日 井伊・本多連署起請文写→吉川侍従殿(広家)・福原広俊へ
必ず、味方になってね。

●9月14日 井伊・本多連署起請文写→鹿野幻庵へ(鹿野文書)
「濃州赤坂岡山陣所致、其上兵粮米五十俵差送、…(後略)
★徳川家康は旧武田家臣:鹿野一族を現さいたま市に城を
  持たせた。

●9月 井伊直政陣法度 (井伊達夫所蔵文書)
「陣取之法度
 ・・・・」

▲9月15日 関が原の戦い▲****************
  井伊直政の兵力3000で家康本軍に随行。
   山内一豊など諸大名を東軍工作を実行。
   本戦で家康の四男・松平忠吉(直政の娘婿)を補佐。
  西軍に一番槍の戦功。

●9月16日井伊直政書状→相良左兵衛殿(頼房)


井伊直政は関ヶ原の戦いの戦後処理と江戸幕府の基礎固めに奔走。

▼9月16日 徳川家康書状写→香(長)宗我部
「…尚委細井伊少輔可申入候、…」
●9月17日この書状に井伊直政の副状が加えられた。(東大)
「…被仰越家康祝着候、…」
※井伊直政が長宗我部盛親の謝罪の取り成しをした

●9月21日井伊直政書状→相良

●9月21日 毛利輝元起請文前書写(慶応大学)
 毛利輝元→池田輝政・井伊直政・本多忠勝
西軍の総大将であった毛利輝元との講和を持ち、徳川家康への忠節を
 誓わせた。

●9月22日 井伊直政書状写→京極高次
「…大津之儀、一国一城之士仕合。…」

●9月23日 毛利輝元起請文写(東大)
 毛利輝元→井伊直政・本多忠勝
「一…吉川侍従・福原式部…忝存知候…
 ・・・・我等分国…誠令安堵候事
 ・・・・」
●9月25日 結城秀康→井伊直政
「…高名被成候由、千万目出度候…」

●9月29日 吉川広家起請文前書(福岡市博物館)
 吉川→井伊直政・黒田長政
「一…輝元身上之儀、被 思召分段、至子々孫々二不可有忘却事。…」

●9月晦日 井伊・本多・榊原→黒田長政
 「一薩摩へ之行付而。…

●10月4日 井伊直政書状(高崎市所蔵)
 井伊直政→安芸宰相様人々御中(毛利輝元)
「昨日者御光儀、殊御太刀、馬代銀子五十枚、被懸御意…」

●10月5日 井伊直政→黒田如水 (東大)
「…逆心之輩悉被致成敗候、…」

●10月8日 黒田如水→井伊・・・・・黒田甲斐守殿(倅)
 「…大友討果候…」

※10月10日 井伊直政は関が原の合戦の功で
  井伊直政は近江佐和山18万石に移封が決まった。
  松下常慶(安綱)は引佐郡の代官になった。

●10月10日 井伊直政→伊達政宗(伊達文書)
 上杉は?・・・最上は? どうしているの?

●10月12日 井伊直政→毛利輝元様
「一今度被対輝元父子、内府御誓詞直二御判被進候間、・・・」
 毛利の取りなし確定させた。

● 10月24日 大崎少将=伊達政宗→井伊直政(西村所蔵文書)
「…景勝成敗可被申付候…

●10月24日 井伊直政→大崎少将(伊達文書)
「乍恐留守中の儀、…」
●11月5日 毛利輝元起請文写(毛利博物館)
  毛利輝元→井伊直政
  御取りなし身上相澄みましてございます。過分至極で
  ございます。殊に内府様御誓詞を下され候儀、身に余る
 かたじけなく候・・・。
 ★井伊様、ありがとうございました。ってとこか。
 
●11月6日 井伊直政→鍋島勝成(国立公文書館所蔵)
★鍋島への取りなしもやっていたんだね。

●11月12日 井伊直政→黒田如水
  嶋津への書状の届けのお願い
   万一断ったら、成敗してよい。
  立花へを「召し連れてきてください。
●11月13日 井伊直政→黒田如水
  薩摩に出陣されたと聞いたので・・・
  立花の柳川城の「受け取り」について

●12月13日 井伊直政は島津家久との講和を始めた。
 @嶋津家久
 A嶋津義弘

●11月15日 井伊直政→長宗我部

●11月?日  島津家久書状案→井伊直政宛(東大)
 「…誠御懇意候儀、祝着至極候、仍…」

●11月?日毛利輝元・吉川・福原ら8人連署起請文→井伊直政
 「一今度輝元身上之儀、・・・・忝奉存候事、
  ・・・・・・」
 神様に誓って・・・・

●12月朔日(1日)井伊直政→家臣:鈴木平兵衛殿・松井武太夫殿
  「長宗我部の家中のごたごたのあとくされがないように
  取り扱ってくれ」というような内容を鈴木重好と松井安易?
  に頼んだ。
●12月5日 井伊直政→家臣:鈴木重好
 「…長宗我部御堪忍分之事、…

●極月11日 井伊直政→家臣:鈴木重好
 長宗我部の城に残っている米・諸道具を帳面に書いてきてくれ
 ・・・
※井伊直政は真田信之の依頼で、真田昌幸・真田幸繁の助命を
 徳川家康に進言した。真田昌幸・幸村親子の助命にも尽力した
 (★彦根城博物館:野田浩子学芸員著)
※彦根歴史研究の部屋
http://hikonehistory.hatenablog.com/entry/2017/12/02/180014
※12月13日 井伊直政は真田信之から真田昌幸、真田幸繁(幸村)
 の命乞いを頼み、井伊直政が徳川家康に頼んで、高野山へ流罪
 になった。上田城棄却
(『真田家武功口上之覚』:米山一政編輯『真田家文書中巻』)


★野田浩子先生、2年前、箕郷歴史文化研究会のため、御講演、ありがと
ございました。

箕輪初心:生方▲2017井伊直虎・直政22【井伊直虎って誰?&
「井伊家傳記」の信憑性諸説】
http://53922401.at.webry.info/201701/article_33.html

●12月21日 井伊直政→鈴木重好
 
●12月22日 井伊直政→鈴木重好





・慶長6年(1601)
●正月15日 島津忠常書状→井伊直政

●2月2日 井伊直政→島津家久
 
●2月2日 井伊直政→島津忠恒
※2月 井伊直政が佐和山城に入った。


●3月10日 井伊直政が従四位侍従藤原朝臣直政





・慶長6年(1601)
2月?日 近江国佐和山に移動した。
   井伊直政は18万石の佐和山城主となる。

(★滋賀県彦根市の佐和山城)


I井伊直政の遺言
・井伊直政は叔母の「中野越後守の妻」に代参をお願い
 します。」・・・
★ここでも、井伊直政が義理堅い人間として
 世間に知らしめようとする意図が伺われる。
 地元は過大評価するのが当然である。
 頑張らなくても、いいのでは?
 

J井伊直政の死
・慶長6年(1601) 江戸幕府は代官頭伊奈備前守忠次に
        井伊谷筋の寺社領を安堵。
        *彦根城の築城開始。
  徳川家康は木俣守勝に「・・・がんばれ?」

・慶長7年(1602) ●2月1日過労と島津義弘軍の追撃で受けた
   鉄砲傷の破傷風が元で死去。(43歳)
   長男:井伊直継が嗣いで彦根城を造った。

・元和元年(1615)
  井伊直政の次男:井伊直孝が彦根藩を継承した。
井伊直政の長男:井伊直継は直勝と改名し安中藩を立藩した。


★明日は「徳川家康・井伊直政と関ヶ原」かな?

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
箕輪初心:生方▲井伊直政155『高崎城時代の外交』 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる