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zoom RSS 箕輪初心:生方▲井伊直政153『箕輪白銀町・鍛冶町→高崎鍛冶町』

<<   作成日時 : 2018/01/12 08:01   >>

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※戦国時代、板鼻(安中市)や小幡(甘楽町)には甲冑集団がいた。
「上州鉢」という小星をあしらった兜が制作された。
 (★出典:群馬県立博物館)
・長享2年(1488)上杉定昌(顕定の兄)死去に伴い、上杉憲房は
 白井城を継いだ。
・永正年間、関東管領:上杉顕定が明珍一族を平井(藤岡)や板鼻
 (安中)に呼んだ。
・永正〜天文の頃、上杉顕定の甥:上杉憲房は明珍信家が筋兜などの
 甲冑を白井城曲輪の北の青堀近くの松原屋敷と呼ばれる鍛冶場で作
 成させていた。明珍家は甲冑・轡(くつわ)・鍔なども製作した。
 (★出典:????)
 越後府中(直江津:上越市)に住んでいた明珍17代:信家にとって
 白井城は出張先の一つであった。
上杉顕定は越後守護代:長尾為景を討つため出陣し、上野白井城
 に駐屯していた。
画像

  (★復元予定模型、
   平成29年12月、復元工事が始まった。
   箕輪城本丸西虎口と木橋)

・大永4年(1524)頃 長尾景誠は家督を継ぎ、白井城主となった。

・大永5年(1525)3月 上杉憲房が病死した。
(★『戦国のコミュニケーション』:山田邦明著)

・享禄2年(1529)1月24日 山内上杉家家臣:白井長尾景誠が長尾八
 郎に謀殺された。
   (★出典:『続本朝通鑑』) 
    総社長尾憲景が白井城主となった。

・天文21年(1552)、北条氏康に平井城が攻め落とされ、関東管領
  上杉憲政は越後の長尾景虎(後上杉謙信)のもとに逃れた。
 ・北条氏康は叔父:北条幻庵長綱を平井城に置いた。

 越後に逃れた上杉憲政は、長尾景虎に上杉の名跡と関東管領職
 を譲り、平井城の回復を促した。
 長尾景虎は配下の平子孫三郎、本庄繁長らを関東に進発させ、平井
 城を奪還した。北条幻庵長綱らは一旦武蔵松山城に逃れた。
 
 また、小幡憲重・信貞が小幡 (富岡の隣)の刀鍛冶・鎧職人を多く
 住まわせていた。
 
・永禄3年(1560)長尾景虎の第1次関東出兵。
白井城(群馬県)の城主:白井長尾憲景・長野業政は真っ先に
 長尾景虎に従った。
 (近衛前久の文書)
  長尾憲景は明珍信家を寵愛した伝説が残っている。

・永禄9年(1566)箕輪城が武田信玄によって、攻略された。
 16年間、箕輪城は武田信玄の家臣は城代になった。
 ※直江兼続の甲冑は明珍作で、「上州八幡村の銘」がある。
 (★出典:群馬県立博物館企画展)

・永禄16年(1567)武田信玄の命で 真田一徳斎(真田幸綱・幸隆)の
 攻撃で白井の所領を失い、長尾憲重は越後の上杉謙信の許へ逃れた。
 長尾憲重は上杉謙信に付いて転戦した。

・永禄12年(1569)6月「越相同盟」が締結された。
  長尾憲景は白井城に戻った。

・元亀3年(1572)真田幸隆に白井城 を攻められ八崎城に逃れた。
 白井(現渋川市)にいた明珍信家 は「信」の字は武田信玄の諱で
 ある晴信の一字を賜り改名したものという言い伝えがある。
 武田信玄所用の兜には明珍作とされる兜が多く伝えられている。
  武田信玄と明珍信家との度々の交流がうかがえるが真田一徳斎
 (幸綱)と真田昌幸が関与していると考えられる。

・天正6年(1578)3月、上杉謙信没後に、上杉景勝・上杉景虎間で家督
 を巡る御館の乱が発生した。長尾憲景は上杉家を離れ、真田昌幸を
 通じて武田に味方するようになった。 
 長尾憲重は真田昌幸の配下になった。

 真田昌幸の甲冑も明珍作であった。
 武田信玄は明珍に「信」の字を与えた。
 明珍信家と名乗ったと伝えられている。

・天正10年(1582)
  1月、真田昌幸は表裏卑怯の者であった。
  真田昌幸は長尾憲景に北条氏直に書状をだして、家臣になろうと
  した。(『群馬県史』)
  一方で、真田昌幸は八王子にいた垪和伯耆守康忠に8歳の娘の
  帯解きの儀を頼んだ。(山梨県石原家文書)
  はたまた、武田勝頼に岩櫃城近くに「潜龍院」を造り、上野国に
  来るように促した。
3月11日 武田家が滅亡した。
  真田昌幸は沼田城を矢沢頼綱に攻略させた。
6月2日  織田信長が死んだ。

6月19日・20日 神流川の戦い
 天正壬午の乱

10月29日 徳川と北条が和議を結んだ。
 井伊直政が正使・木俣守勝が副使であった。 

 
11月 箕輪城代に北条氏邦がなった。
 ※北条氏政・北条氏邦の兜は明珍製であった。
明珍家分家筋が小田原にもしていた。
 埼玉県秩父市下吉野所在の椋神社蔵の「三十二間筋兜」の
 鉢裏に刻まれた銘に、「小田原住 明珍義次」とある。
 社伝によれば、「兜は鉢形城主の北条氏邦の所用していたもので
 あり、北条氏邦の子孫である玄桂が当社に奉納した。」とされる。

・天正15年(1587)
『上州住憲国作 天正十五年丁亥 八月吉日』
 鉢裏前正中に銘、後正中に年紀を刻む。
上州住憲国は「六十二間筋兜」を作った。明珍系である。
 憲国作による現存資料は、16例が確認されている。
(★『群馬県立歴史博物館紀要』)

天正18年(1590)
8月 井伊直政が箕輪城に入城した。
 井伊直政は5000人以上の武士団の甲冑を赤にしなければならなか
 ったので、多くの甲冑師・刃鍛冶・鎧職人などが必要であった。
 従って、箕輪に鍛冶町・白銀丁(町)が造られ、多くの職人が 
 集められた。
@白銀丁(町)は箕輪城下の椿山と本町の間にあった。
  白銀師・鞘師・研師・柄巻師(つかまきし)なども刀剣飾職人である。

A鍛冶町

 井伊直政は戦闘用の刀・槍の先・鉄炮の玉が必要であった。
刀鍛冶は砂鉄の取れる場所:倉渕が有名であるが、倉渕の権田鍛冶
 は真田信之に仕えてしまった。(★倉渕村誌)
 倉渕の権田刀匠は沼田鍛冶町で活躍したが、弟子が箕輪・高崎に雇
 われた可能性もある。
小幡の刀鍛冶職人の箕輪に移ってきたと思われる。
j★小幡信貞の子:小幡大膳も伊豆の土肥で井伊直政の家臣と
  して仕えたからである。(旧武田信玄家臣・北条時代、11人が
  所領安堵されていたが、小幡信貞もその1人であった。)
 (群馬県史)
 箕輪においては、砂鉄の産地は生原(おいばら)であった。天神川
 を挟んで、東の地区であった。昭和52年からの発掘調査で、新井
 氏の畑・斉藤家宅が「たたら跡」と解明された。
 (★出典:みさと散策:斉藤勲著)
 現在の土地所有者も家屋の建設中に砂鉄が出てくることを証言して
 いる。井伊直政は砂鉄の生産場所と製鉄場所が隣接した場所に設定
 したことになる。
 箕輪城にも鍛冶曲輪や3の丸から鉄犀が多数出土している
 箕輪城内にも鍛冶職人がいたことは明白である。
 井伊直政の時代、守重・守次・守行の銘の刀が増えたことから、
 備州(岡山県)長船住 守重&守忠・備中国住守次・備州長船住守長
 の刀を購入したとも考えられるが、弟子クラスに鍛冶を雇った可能性
 もある。 
・慶長2年(1597)4月頃 井伊直政は高崎城の築城を開始した。
 同時に、鍛冶町も建設した。
・慶長3年(1598) 10月(3月説あり)高崎城が完成した。
  箕輪の白銀丁(町)・鍛冶町から高崎の鍛冶町に職人が移住した。
  
 現在は沼田市と高崎市に「鍛冶町」が残っているだけである。
井伊直政は高崎城下に新たに「鞘町」が新設された。高崎の鞘町に、
 箕輪の白銀町に住んでいた鞘師・研師・柄巻師(つかまきし)・鞘師などがそっ
 くり移り住んだ。
 鞘町の白銀師の居住していた一角が後に「白銀町」として独立し
 たと思われる。
「この町はもと鞘町の内であったが、町屋が増えたので、分かれて
 一町となった。」と記されている。
(★『高崎志』・『更生高崎旧事記』)
 その後、鞘町の西横庁(現広小路付近)には刀の研師が住んでい
 たので、「研町」となった。研町の名は明治5年ごろ廃止になった。
 
井伊直政は大勢の家臣のために、
 明珍家などに「赤備え」の兜・甲冑を作らせた。
@井伊直政の鎧の一つに明珍紀宗廣作「十六間筋兜・紺糸横矧五枚」
 がある。

A岡本半介宣就の甲冑が作られた。 
 (武田家臣:小幡信実の第1家老:熊井土→北条氏直家臣:
 小笠原系上泉流軍師→井伊 直政の軍監・家老)
 (★群馬県立歴史博物館展示)

B井伊直政は松井田の佐藤監物などに鎧などを配布した。
 松枝(松井田)城主:北条家重臣:大導寺政繁の家臣:佐藤監物は
 井伊直政の家臣になった。井伊直政は佐藤監物とその一統を入山に
 はりつけて長者の関所(後、井伊直勝は碓氷の関所を造る)〜入山
 峠(軽井沢との境・軽井沢プリンスホテルスキー場山頂南))を固
 めさせた。この時、井伊直政から「赤備」が支給された。
 昭和30年代まで入山地区の各家庭にあったという。
 佐藤直雄家に伝えられていた二領の内の一つが平成29年に「横川
 本陣お東」展示されていた。
  (★『安中市松井田のお東の解説』)




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