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zoom RSS 箕輪初心:生方▲井伊直政151『高崎城築城と長野堰・新井堰』

<<   作成日時 : 2018/01/10 10:06   >>

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井伊直政が新城を和田の地に築いたのは、「長野堰から水があっ
たからによる」と第一の理由に考えている。
確かに高崎は交通の
要所、大軍の出撃場所に適した場所であったが、水がある場所だ。
・慶長2年(1597) 4月頃、高崎城の築城計画を開始した。
※徳川家康は、豊臣秀吉が老衰していることが、分かっていた。
豊臣秀吉が死んだら、混乱が起こると予想していた。自分が天下
を狙える位置にあると考え始めたと思われる。そのため、街道の
整備をしておく必要があった。つまり、京・大坂方面への軍事上、
街道の整備を井伊直政に命じ、北関東の守備を固めようとしたと
考えられる。しかも「大軍が留まれる城・城下町」も条件であっ
たと考えられる。そのため、井伊直政に箕輪城よりも交通の良い
場所に新城を築くように指示した。事実、慶長5年(1600)徳川家
忠は徳川家康の命令で、東山道を2万の兵で行くことになり、8月
下旬、烏川の増水で、高崎城・城下町に3日間、留まることになっ
た。やはり、水・城・寺社があったのだ。
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・新井堰は今は殆ど地下にある。
・新井堰は三の丸堀に入る。
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・山崎一氏作・補作:中島氏・西山氏・井田氏・清塚氏
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・高崎市教育委員会2の丸障子堀
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・本丸堀発掘調査の畝堀
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箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政138【第49話:本能寺が変】&伊賀越え
http://53922401.at.webry.info/201712/article_21.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政138【第50話『石を継ぐ者』直虎の死】
&直虎の墓
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箕輪初心:井伊直政140『本能寺の変〜天正壬午の乱〜小牧長久手の戦い』
http://53922401.at.webry.info/201712/article_23.html

箕輪初心:生方▲井伊直政141『天正13年(1585)第一次上田合戦〜天正17年』
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箕輪初心:生方▲井伊直政142『天正18年山中城攻撃〜小田原城攻撃
〜箕輪城入城』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_1.html

箕輪初心:生方▲井伊直政143『箕輪城時代の内政概要』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_3.html

箕輪初心:生方▲井伊直政144【菩提寺:竜門寺縁起】松下3代の墓復刻版
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箕輪初心:生方▲井伊直政145【箕輪:滝沢寺】中野直之の中興開基か?
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箕輪初心:生方▲井伊直政146【万松寺→恵徳寺】中野直之の妻?母?
:恵徳院開基
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箕輪初心:生方▲井伊直政147『箕輪城時代』:『井伊直政文書集』
大石泰史編を加味した2018年最新版
http://53922401.at.webry.info/201801/article_7.html

箕輪初心:生方▲井伊直政148『箕輪城下町推定絵図』
&直虎・直政ブログ一覧
http://53922401.at.webry.info/201801/article_8.html

箕輪初心:生方▲井伊直政149『箕輪城から高崎城移城』
http://53922401.at.webry.info/201801/article_9.html

箕輪初心:生方◆井伊直政150『高崎の名前の由来』
と無理矢理井伊家関連
http://53922401.at.webry.info/201801/article_10.html



1)築城理由
 ※徳川家康は井伊直政に北関東の守備を固めを命じた。天下とり
 構想が始まったと考えるべきであろう。徳川家康は朝鮮にいって
 いないので、余力があった。井伊直政家臣:三浦安久などは、朝
 鮮に渡っている。

2)築城場所の選定
・慶長3年(1598) 井伊直政は、所領の中で、松枝・安中・和田・倉賀
 野を検討した結果、 和田の地を選んだ。(★『高崎志』川野辺寛著)

3)和田が選定場所に決まった理由
「高崎市史通史編3近世」によると、
「@徳川家康は江戸からの交通網5街道の早急に整備を考えていた。
 箕輪より交通の良い場所を考えていた。
 A大軍が移動する場合、そ れを受け入れられる広大な城下町を
 備え、しかも守りが強固な城を求めていた。井伊直政は、松井田・
 安中・和田・倉賀野が候補地となっていたが、和田が信濃・越後に
 行く道筋の分岐点に位置していた。」とある。
  確かに交通の分岐点ということには納得できる。東山道(奧大道
  後、中仙道)・後の三国街道の分岐点に当たるという構想からす
  れば、確かに東山道が通っている道を利用できる部分も多かった。
 箕輪は奥まっているからのう。 
 しかし、筆者は「和田の地」選んだ大きな理由として、交通の利便性
 のほかに、城を守りとしての「水」の必要性と城下町の生活する「水」
 が必要性という観点から、平地であって、水が使えそうなる場所が
 「和田」と考えた。つまり、長野堰の「水」を有効活用できるという
 ことも場所選定の大きな理由の一つであると考えている。

 和田には和田義盛の子孫:和田氏は赤坂荘にいた。和田城は中世の城
 である。和田城の 位置は、県音楽センターから観音山に向かって行
 くと、和田橋の手前に出る。和田橋の たもとが和田城である。烏川
  の淵を自然の守りとした要害である。北西と西は烏川に沿って崖が
 ある。今は立体交差になっている場所である。
 発掘の結果では遺構は残されている。
 戦国時代、和田業繁(長野業政の娘婿)や和田信業(武田家臣:跡
 部勝資の子)がいた城である。12万石を支えるのは、和田城の規模
 で小さかった。従って、東に城を拡大して、さらに『遠構え』を造る
 ことにした。城と城下町一体型の構造であった。

4)縄張りの推進者   
★井伊直政が長く伏見・大阪・京に行っていていないので川出良則が高崎
 城留守居役であった。
★高崎城築城の関係者は彦根城の築城関係者に準ずると考える。
 縄張りの中心人物は甲州流軍学者:早川弥総左衛門であった。
 早川幸豊は旧武田家臣:土屋昌恒家臣→井伊家臣となった。早川幸豊
 は山本勘助や馬場 信春や山県昌景から甲州流の築城術を伝授された。
 徳川の城を見てさらに研究し、山中 城・小田原城・箕輪城で北条流
 の築城法をマスターしたと考えられる。箕輪城の畝堀の 大堀切・高
 崎城の二の丸出枡=郭馬出と畝堀・障子堀がその根拠である。後の彦
 根城の鐘の丸は甲州流の巨大丸馬出であり、箕輪城の一城別郭方式や
 太鼓橋は彦根城に継続されている。高崎城の東は平地であるので、大
 きな堀を築かなければならなかった。それが『遠構え』である。
 「総郭型」の城と城下町一体型のプランであった。  

★高崎城&城下町の縄張り全体計画は高崎城・城下町・長野堰からの
 用水路・中仙道の工事が同時に進行して行ったも思われる。何故な
 ら、完成までに約1年半という期間であろうから突貫工事であった。

5)長野堰からの分流『新井堰』の開削
○長野堰は生活用水・農業用水・工業用水・防火用水としても利用価
 値があった。
 高崎城下は平地ではあるが、北西から東南に向けて下っている。
 ★現在の長野堰の取水口は烏川であるが、戦国時代には、榛名白
  川は現在の沖町の所 を流れていたのではないだろうか。何故
 なら、住吉城は沖町郵便局の裏であるからである。早P川も箕郷町
 のふるさと公園&箕輪城祭戸用水から流れてきている用水路であ
 る。 
 長野堰は楽間130m→上沖120m→我峰110m→上並榎町100m→
 高崎城の堀&城下町95m〜90mに水路に流れていった。
○新井堰の取水口からの高崎城へへの水路・外堀・内堀・城下町の用
 水路の工事となった
★長野堰の取り入れ口:新井堀(三国街道の住吉町&大橋町の境界)
 からの用水路を構築した。高崎城下町の外堀・高崎城の内堀・城下
 の用水路となった。
@「新井堰」の水は高崎城の防御施設として造られた。
三の丸の内堀は幅10m程あり、掘った土は土塁として使われた。
 一定幅で水堀が続き、現高崎公園の南端を高くして、水を貯める
 ようになっている。余った水は滝となり、烏川に流れ込む。また、
 三の丸から二の丸・本丸にも水堀が築かれ、守りに徹した縄張り
  になっている。
A「新井堰」の水は「遠構え」の外堀の水ととなった。
 城下町の一番外側の外堀も幅10m程あり、掘った土は土塁として
 使われた。一定幅で 水堀が続き、城下町を取り囲むように造られ
 た。鉄砲の有効性を考えた構造である。
B「新井堰」の水は城下町の縦・横に碁盤の目のように張りり廻らさ
 れた。城下町の飲料水として明治時代末期に剣崎浄水場ができる簡
 易水道ができるまで使われていた。新井堰からの水が井戸にも染み
 こんだであろう。
C「新井堰」の水は生活用水として家臣・領民の生活用水となった。
 米研ぎ水・食器洗い水・洗濯水・おしめ洗い水としてとしていた。
D工業用水としては特に紺屋町の染め物業に使われた。
E「新井堰」の水は城下町の農業用水・城外の農業用水として南東部
 の田畑の水として使 用された。
このように、高崎城の「新井堰」の用水路開発での「水との関わり」
 は高崎城と高崎城下町を造る上で重要な役割をしていたと考えられる。
 ★長野堰からの「新井堰」は、旧武田家臣:新井喜左衛門の名前に
 ちなんで「新井堰」と名付けられた。
 井伊直政が元後北条氏家臣で深谷城代:秋元長朝・泰朝父子(松井
 田500石)と新井喜左衛門などに命じて作らせたのでないかと考え
 られる。
●高崎市の用水路シリーズ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心◆「群馬:高崎の稲作と用水路@」
http://53922401.at.webry.info/201103/article_34.html

箕輪初心◆群馬:高崎市の稲作と用水路A「長野氏の開発@」
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201104/article_5.html

箕輪初心◆群馬:高崎の用水路B「長野氏の用水路編A」
http://53922401.at.webry.info/201104/article_6.html

箕輪初心◆群馬:高崎の稲作と用水路C「江戸時代」
http://53922401.at.webry.info/201104/article_7.html

箕輪初心◆高崎の稲作と用水路D「明治〜平成」
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201104/article_8.html

箕輪初心◆高崎の長野堰=西新波堰の歴史
http://53922401.at.webry.info/201310/article_12.html

箕輪初心◆長野堰B「染色のまち高崎に流れる長野堰
:高崎広報」
http://53922401.at.webry.info/201410/article_13.html

箕輪初心:生方★高崎城【井伊直政&高崎城&彦根城の
縄張り担当:早川幸豊】
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201504/article_9.html
★玉村に残った井伊直政家臣:早川弥惣右衛門一族:早川与六は
 和田信業の娘を貰った。
和田信業の子ども:和田内匠は彦根藩の家老になった。
市川五郎兵衛真親と柳沢所左衛門も秋元長朝と関わりが深い。

箕輪初心:生方★高崎城&長野堰【井伊直政&秋元長朝&新井喜左衛門】
http://53922401.at.webry.info/201504/article_10.html

箕輪初心:生方▲【長野堰を語り継ぐ会の絵図展】&【高崎城の桜】
http://53922401.at.webry.info/201504/article_5.html

箕輪初心:生方「箕輪城159&【中嶋宏氏主催の長野堰を語りつぐ会
の絵図展】
http://53922401.at.webry.info/201504/article_4.html


6)ちょいとおまけ
新井堰の工事を手伝わなければ、数年後の大きな用水路計画ができな
かったものと考えられる。
★旧長野氏の家臣や旧和田信業の家臣や旧武田勝頼の家臣の中にも
 用水技術を持っていた者はたくさんいた。井伊直政の家臣団が協
 力してして造ったことが考えられる。

@秋元長朝と「天狗岩用水」・「五千石用水」
秋元長朝は諏訪頼水のいた惣社城(前橋総社)に入るが、「天狗岩用
 水」・「五千石用水」を造る計画をした。利根川の取水口が子持
 の本多であったため、井伊直政に取水口を造る許可を依頼してい
 る。実際は井伊直孝が本多に依頼した。
 工事には新井喜左衛門が中心となった。
箕輪初心:生方▲20151110【総社秋元公歴史まつり】:秋元長朝の功績
&光厳寺&元景寺
http://53922401.at.webry.info/201511/article_10.html

箕輪初心:生方▲【上野総社藩2代目:秋元泰朝の生涯】
http://53922401.at.webry.info/201511/article_11.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201511/article_11.html

A旧武田武川衆:江原源左衛門と「滝川用水」
 長篠の戦いで父が討ち死にすると、滝川(高崎)で帰農した。
 慈眼寺の近く高南中学校よりに館があった。
 ★市川五郎兵衛も協力し、滝の慈眼寺から桜を移植している。
滝川用水を造った武川衆:江原源左衛門は伊奈忠次に管理地:玉
 村に延長することを条件に工事した。秋元長朝の造った「天狗岩用
 水」の延長上にある。
箕輪初心★江原源左衛門&滝川用水20131010
http://53922401.at.webry.info/201310/article_11.html

B旧武田家臣:市川五郎兵衛真親・武川衆蜻弥左衛門と「五郎兵衛新田」
旧武田の鉱山関係者で徳川家康の仕えたえた大久保長安からの許可も
 貰っていた。大久保長安文書と蜻弥左衛門家の絵図も現存する。
「世界かんがい遺産になってもおかしくない重要な技術が詰まって
 いる。石でできた円筒分水とか、岩石をくり抜いた水路には、
 〜〜波状にくり抜いて、砂や砂利がつまらないようにしている。
箕輪初心生方▲佐久『五郎兵衛用水』:市川五郎兵衛真親と柳沢所左衛門
http://53922401.at.webry.info/201605/article_15.html


C 武川衆:蜻弥左衛門の子:蜻諸左衛門と「高遠原新田用水」
箕輪初心:生方▲武田信玄家臣:柳沢弥右衛門→所左衛門→弥左衛門
&『伊那原新田用水』
http://53922401.at.webry.info/201605/article_16.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201605/article_16.html

D旧武田家臣:市川五郎兵衛真親と「小幡の雄川堰」
●小幡雄川堰〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心◆群馬『織田信雄の小幡城下の桜が満開』
http://53922401.at.webry.info/201304/article_9.html
★市川五郎兵衛がお手伝いをしている。
 
◆◆ 箕輪初心●群馬:小幡2011「小幡城」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201104/article_15.html

◆◆ 箕輪初心●群馬:小幡2012「武者行列」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201204/article_9.html
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

E伴野一族:友野与右衛門と「箱根用水」も関係していたと思われる。

F岡上甚右衛門景親と「岡崎用水と岡崎(東吾妻町)」 
  元和年間(1615〜1624)徳川家康の旗本:本多広孝の家臣である
  岡登甚右衛門景親が、上知された井伊直勝の白井領5000石
  を支配するための陣屋を築いた。
  初代甚右衛門景親は2年、3代目甚右衛門景親が38年、
  3代目治郎兵衛景能が32年と異例ともいえる長期間、代官と
  して箱島を支配していた。
 箱島・岡崎において善政を行い、榛名湖から不毛の地:岡崎に
  用水を開削したことによって岡崎新田と呼ばれる土地に変えた。
3代目岡登治郎兵衛景能は
しかし、貞享4年(1687)岡登景能は年貢の不正などの理由により
  切腹させられた。
箕輪初心:生方▲『笠懸野御水&岡登用水』@前編『俗説』西沢准教授
http://53922401.at.webry.info/201605/article_27.html

箕輪初心:生方▲『笠懸野御水&岡登用水』A岩宿&薮塚の発見
&「岡上」の本8冊
http://53922401.at.webry.info/201605/article_29.html

箕輪初心:生方★『笠懸野御用水&岡登用水』B史実編
「高崎経済大学准教授:西沢淳男先生の指摘
http://53922401.at.webry.info/201605/article_32.html

・天正10年(1582)
3月11日武田氏滅亡。
大久保長安が武田氏家臣:黒川金山の奉行
   →北条家家臣(垪和配下)
(★石原家文書)

6月2日 本能寺の変で信長が死去。
 →大久保長安は徳川家康の家臣になった。
 伊那衆?の

7月29日 徳川&北条和議
  正使:井伊直政・副使:木俣守勝であった。
  
  甲斐が徳川家康の領地となった。
  徳川家康は本多正信と伊奈忠次・大久保長安を甲斐の
    再建をさせた。
●釜無川や笛吹川の堤防復旧や新田開発:大久保長安〜〜〜〜〜
  大久保長安は釜無川や笛吹川の堤防復旧や新田開発、金山採掘
  などに尽力し、数年で甲斐国の内政を再建した(伝)。

・天正18年(1590) 小田原攻撃
 8月1日 徳川家康は関東に移封になった。
関東代官頭として伊奈忠次・大久保長安・彦坂元正・長谷川長綱ら
  と共に家康の関東支配に貢献した。
徳川家康の命で兵糧の輸送、伊豆国の農村復旧など
  にあたり功績を挙げた。
 
 伊奈忠次は三河国幡豆郡小島城(現在の愛知県西尾市小島町)
  旧領三河国小島の旧領と武蔵国小室・鴻巣領1万3千石
  (1万石?)を与えられた。
  関東郡代代官頭に任ぜられた。
中世以来城郭として使われてきた小室丸の内に陣屋
  を構えた。

●備前渠&利根川の水路変更:伊奈忠次〜〜〜〜〜〜
  関八州(関東地方+伊豆)の天領を治めた。
 @検地の実施・・・検地検税:伊本流。
 A新田開発・・・例、滝川用水の応援
 B特産物の奨励・・・桑・麻・楮の栽培
  例、結城特産の紬織(柳条紬)の奨励。
 C中山道の宿駅の整備
  C築堤・・・備前堤・川島大囲堤
D利根川東遷工事。
    3代に渡り受け継がれ、60年かかって完成。
 江戸幕府財政の基礎を固めた。
箕輪初心▲埼玉伊奈【伊奈氏陣屋】&伊奈忠次
http://53922401.at.webry.info/201408/article_8.html

箕輪初心:生方▲埼玉『渋沢栄一:記念館&中の家』
http://53922401.at.webry.info/201509/article_3.html
★備前渠に関係している。

箕輪初心★高崎藩8代・10代松平輝貞&「右京の泣き堀」
http://53922401.at.webry.info/201310/article_14.html

箕輪初心:生方▲松平輝貞の『榛名するす岩下:右京の泣き堀』
3回目・榛名湖畔
http://53922401.at.webry.info/201604/article_25.html

箕輪初心:生方▲主に群馬・長野の【戦国〜江戸の用水新田開発】
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201605/article_34.html





★明日は「井伊直政が高崎に移した町?寺社」かな?

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