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zoom RSS 箕輪初心:生方◆井伊直政150『高崎の名前の由来』と無理矢理井伊家関連

<<   作成日時 : 2018/01/09 09:28   >>

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『高崎の名前の由来』は井伊直政が「高崎」と命名したということ
なっている。一般的には、@井伊直政が「恵徳寺の開山:大獄山瀧
澤寺4世大光普照禅師龍山詠譚和尚」と相談した説(恵徳寺石碑)
とA「龍廣寺(箕輪龍門寺末寺)開山:白庵和尚」と相談した説が
ある。『高崎志』川野辺寛著:寛政元年(1789)の記述は白庵和尚を
紹介している。『高崎城:ウィキペディア』では「龍山詠譚和尚」を
あげ、『高崎市:ウィキペディア』では「龍廣寺:白庵和尚」載せ
ている。高崎市の「歴史巡りマップ」にも「龍廣寺が地名ゆかりの
寺」とある。しかし、高崎の由来については、『高崎市史(昭和2
年)』には、井伊直政は「高崎」命名以前に、反町文書などに「高
崎」の文字が掲載され、『中仙道宿史』根岸省三編:高崎市社会教
育振興会1974にも天正2年(15749)の鉄下駄に「高崎」の文字が彫
られていると絵入りで掲載されている。『高崎漫歩』土屋喜英著:
高崎地方史料普及会1989 にもあった気がするが記憶が定かではない。
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【1】恵徳寺の大光普照禅師龍山詠譚和尚のアドバイス
松隆山恵徳寺(えとくじ)寺…高崎市赤坂町77
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○恵徳寺の石碑
『(井伊直政公が)「和田の名称を松崎に変えたいが」の問いに、
禅師は「松は枯れることがあるが高さには限りがない。その意をとって
高崎はいかが」と進言したところ、直政公大いに喜び『高崎』と命名し
た』という。
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○由緒記
「井伊直政殿其伯母慧徳院宗貞尼ノ為、箕輪日向峯於テ創ス。
 初ハ忠徳院ト号ス。璣長三年直政高崎一遷ラレシ」
○高崎志
「忠徳寺ハ南側二ァリ。白河村淹沢寺ノ末寺也。寺領十五石五斗.
 付御朱印ァリ。当寺ハ天正ノ太、井所へ引、寺造立…略」
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 ★最初の恵徳寺は高崎城とくっついていたようである。

○案内板
「天正年間(1573〜1592)井伊直政公が伯母である恵徳院
宗貞尼菩提の為、箕輪日向峰に一宇を創立し松隆山恵徳院と号した。
慶長3年(1598)直政公和田城入城の折に此の寺を城北榎森に
移し、松隆山東向院恵徳寺と改めた。当時寺領二拾石五斗の御朱印地
であった。後の城主酒井家次公の時、慶長9年(1604)〜元和2年
(1606)の間に現在地「赤坂」に移る。」

・慶長3年(1598)井伊直政が和田城から高崎城を築城し入城の折に
 寺に格上げし『松隆山東向院恵徳寺』と改めた。
大獄山瀧澤寺4世大光普照禅師竜山永潭大和尚(慶長13年12
 月5日示寂)が開山した
  門前は竹林になっていたといわれている。
井伊直政が、箕輪から高崎に城を移し、城下町をつくりだした。
 和田時代の赤坂村から本町をはじめとする多くの町を分立させた。
 残りは「赤坂村」のまま残っていた。
・慶長5年(1600) 井伊直政が近江国佐和山に移封された。
・慶長9年(1604)酒井家次が高崎藩主になり、恵徳寺を現在の地
 「赤坂」に移した。
酒井忠次の子ども:酒井家次は箕輪滝沢寺を庇護した。
 箕輪の滝澤寺を中興開基する。滝澤寺の屋根瓦の家紋は酒井家の
 紋である。

○『高崎城:ウィキペディア』
「慶長3年(1598年)直政は箕輪城から築城中の高崎城に移った。
 直政は入城に際し、当地を「高崎」(箕輪城下に直政が創建した恵徳
 寺の開山龍山詠譚和尚の「松は枯れることがあるが、高さには限りが
 ない」との進言により)と名付けたとされている。箕輪より町家や社
 寺を移して城下町を築いた。



【2】龍廣寺の白庵秀関のアドバイス

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・井伊直政供養塔:年不詳
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○『高崎志』川野辺寛著の原文写しと箕輪初心:生方(補足)
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慶長三年戊戌、中山道を啓(※開)カレシニ及テ、(和田は)緊要ノ
 地ナレハトテ、直政ニ仰セテ、城ヲ築シメ玉フ(※賜ウ)、此時、
 直政地名改メテ松カ碕ト云ニト龍廣時ノ開山白庵ニ語ラレシニ、
 白庵曰モツトモ可然候(※もっともしかるべきに)、去ナから
 (※さながら)草木二栄枯の時アリ、物ニ限ノアルフ(※ノ)
 ハメツラシカラス(※物に限りがあるのは珍しからず)、
 (直政)公既ニ命ヲ奉テ新タニ此城ヲ築キ玉ヘルハ盛時大名□
 申スヘシ、サレバ成功高大ノ義ニ取テ、高崎ト更メ(※改め)
 玉ハン(※給わん)、イカゝト(※いかが)ト云ケレバ、直政
 大ニ(大いに)悦テ(※喜んで)高嵜ト名ケラレ(※名付けられ)、
 且(※かつ)、其ノ二字(※高崎)ヲ竜廣寺の山号トセラレル、
 (一行分に2行の字で)
 〈里老ノ説ニハ恵徳寺ノ開山ノ英潭ナリト云リ今龍廣寺ノ古記ニ従フ、
 又一説ニ直政命ヲ奉テ松井田安中和田倉賀野ノ地ヲ撿(調べて=検査)
 セシムルニ決定シタカリシ故、試ニ鷹ヲ放チ其集ニ所ヲ城地ト定ムヘシ
 トテ鷹ヲ放サル、其鷹飛テ和田ノ墟ニトゝナル(※留まるstay)今ノ
 本丸ノ地ナリ因テ(※よって)其地ヲ鷹崎城ト名ケラレル、後高ノ字
 ニ更(※改める)□云傳ヘタリ〉なすべきよしを命じられる。サレ□
 其説村老野嫗(※オウナ)ノ謬(※誤り)傳(※伝え)ニ似タリ故今不取
  (※取らず=その説を採らない)」

※箕輪初心:生方補足
 
○『高崎志』川野辺寛著の「龍門寺」編にも掲載されている。
★『高崎志』の原文写しを箕輪初心:生方が「群馬県立文書館」
 で前文コピーしたものです。□は字が読めませんでした。
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○『龍門寺縁起』:箕輪龍門寺2世良雄著
「吉日を選んで『榛名山竜門寺』として定め、…(中略)…
 (井伊直政公は)箕輪城中にても折々には御法問えお御聴聞遊ばされ
 御城を高崎に引こされても、相替らず、白庵和尚に帰依なされました。
 後日、良雄は御法の訳の者でございます。」
     竜門寺二代良雄(花押)
慶長七年壬寅(みすのえとら) 二月 」箕輪初心:生方訳

○『大中寺縁起写』白秀関和尚=白庵秀関和尚
「慶長三戊戌つちのえいぬ(一五九八)年、井伊侍従が箕輪城に於いて
高崎の和田城へ移る。之によって師(白庵)は高崎の龍廣寺に隠居した。
天正年中(1651〜1691)には、鏡山寺(現栃木県矢板市)や横手
善勝寺(現高崎市西横手町)の創建となった。第一祖(開祖)である。
慶長四巳寅つちのとい(1599)八月二十二日  示寂 」
   箕輪初心:生方訳

○高崎市:ウィキペディア
「当初、高崎の地は「和田」と呼ばれていた。「高崎」という都市名の
 由来については、以下の伝承がある。」
「高崎城が和田城の跡に完成した際に、城主である井伊直政は、当地
を「松ヶ崎」という名前に改めようと思った。そこで、その件を常日
頃から信頼を寄せている箕輪の龍門寺の住職である白庵に話した。
白庵は「もっともなことではありますが、諸木には栄枯あり、物には
盛衰があるのは珍しいことではありません。殿様が、家康様の命を受
けて和田の地に城を築いたのは権力の頂点に立った大名に出世された
からであります。そうであれば『成功高大』の意味を採って『高崎』
と名付けた方がよいのではないでしょうか?」と言った。
白庵の含蓄ある言葉を聞いて喜んだ直政は、直ちに「和田」を「高崎」
と改めた。そして白庵が箕輪から転住した龍広寺の山号に、「高崎」の
2字を与え感謝の意を表した。」
『高崎志引用』とは書いていないが、確実に引用している。

 

【3】「高崎市史」昭和2年(1927)発行。
井伊直政命名以前に高崎という地名が使われている古書
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○迷道院さんのHp
http://inkyo.gunmablog.net/d2014-10-19.html

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1、『信濃宮伝』
 應永十年四月の條ニ高崎、安中、碓氷等ノ賊ヲ破リ云々

尹良親王(ゆきよししんのう・これなが・ただなが)
 父は宗良親王と言われているが・・・ 
 母は井伊道政の女と言われているが・・・

●宗良親王関係*********************
箕輪初心:生方▲2017井伊直虎・直政bT
【南北朝時代の井伊氏と宗長親王】
http://53922401.at.webry.info/201701/article_11.html

箕輪初心:生方▲『井伊谷宮』と宗良親王復刻版
http://53922401.at.webry.info/201711/article_19.html

箕輪初心:生方▲浜松市『大平(おいだいら)城遠望』
&【井伊道政・宗良親王】
http://53922401.at.webry.info/201712/article_2.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政123三ヶ日町『佐久城』
&【浜名氏と上野国長谷寺】
http://53922401.at.webry.info/201711/article_29.html

箕輪初心:生方▲浜松市三ヶ日町『千頭峯城遠望』
&【井伊谷・三ヶ日の歴史】
http://53922401.at.webry.info/201712/article_1.html

箕輪初心:生方▲大草城&大河原城*宗良親王&香坂高宗
http://53922401.at.webry.info/201606/article_12.html

箕輪初心:生方▲富山28【高岡浅井城&赤丸城の遠望】
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201706/article_11.html

箕輪初心:生方▲20171111田中大喜先生講演会『新田一族の中世:
「武家の棟梁」への道』
http://53922401.at.webry.info/201711/article_13.html
★新田義宗は宗良親王を助けた。

****************************

・応永4年(1397)2月 伊勢を発して駿河宇津野(静岡県富士宮市)
 へ移り、田貫左京亮の家に入った。
・応永5年(1398) 春、宇津野を出て上野へ向かった。
 鎌倉の軍勢から攻められたために柏坂(?)で防戦した。
 武田信長の館(上総なのだろうか?)に入って数日逗留した。
 
 ★井伊直政の家臣としては、天正10年(1582)武田信長の子孫:
  一条信龍(武田信玄9男:養子)家臣:武川衆青木氏、蜻氏
  がいる。又、武田時代の箕輪城代:内藤昌明(保科正俊2男:
  内藤昌豊養子)の子ども:内藤某も天正18年(1590)井伊直政
  が箕輪城城主になった時、侍大将クラスになった。
現在、武田信長の子孫は武川衆(山梨県北杜市)である。戦国時代
  内藤昌明に付いて箕輪城に蜻弥右衛門・江原源左衛門(滝川用水)
  などが来ている。蜻氏・江原氏は井伊直政の時代に井伊直政の
  家臣にならず、帰農して、現在の子孫が高崎に在住している。
 
8月、上野寺尾城(群馬県高崎市)に赴いた。
 ★「寺尾」は平安末期、新田義重の所領であった。

○尹良親王伝 4 
http://nanteo.s14.xrea.com/shina/shin014.html より引用させていただいた。
応永10年(1403)4月、お味方がひとかたの大将とも頼みに思って
いた新田相模守義隆〔澄〕(義治の息子、義則とも)が富士の戦い
に敗れた。
・(新田義隆(義則か)が底倉で傷害された。世良田有親らを伴って
 下野落合城(栃木県上三川町)に没落した。)と補足。
相模国山中木賀彦六入道秀澄の領地に隠れて時期をうかがっていた
が、秀澄はいつの間にか心変わりして鎌倉にかくかくしかじかと密
告してしまったので、関東管領より安藤隼人佐重基を討手に向かわ
せた。秀澄は義隆を欺いて底倉の温泉に入れあっけなく殺害してし
まった。
 そしてすぐに上野国の宮方の残党をも攻めようということで、安藤
・木賀が多くの軍勢を率いて向かっているということが知らされた。
 そこで、宮は世良田右京亮有親などに付き添われて急に寺尾をお発
ちになって、下野国に妙福院宮がおられたので落合の城にお移りにな
り、それより信濃国諏訪の千野頼憲の嶋崎城に逃れられた。桃井大膳
〔炊〕亮満昌、堀田尾張守正重、大橋修理亮貞元、平野主水正業忠、
天野民部少輔景朝など、古くより武功のある者百余騎がお供をして、
高崎・安中・碓氷などの敵を討って、ようやく信濃にお入りになり、

※(島崎城(長野県岡谷市)の千野頼憲を頼って再興の機会を窺った。)
 桃井満昌・堀田正重など旧功の士100余騎を率い、高崎・安中・碓氷
の敵を討って信濃入りしたのだ。

●桃井氏**************************
箕輪初心●群馬【桃井城=山子田城&大藪城】
http://53922401.at.webry.info/201204/article_15.html
★桃井満昌は桃井氏の分流かもしれない

箕輪初心:生方▲越中26『守山城』:斯波→神保→上杉→神保→
佐々→前田弟
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201706/article_7.html
★同時代、本流は群馬榛東村から越中に移っていて桃井直常は越中の
  守護であった。

箕輪初心:生方▲『諏訪大熊城』:千野氏の城
http://53922401.at.webry.info/201603/article_20.html

2、『永録十年ノアル書』(北越家書=北越軍談?)
 「此ノ名『高崎』アリ

3、『箕輪落城記』
 「高崎トアリ」
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4、 上州故壘記(江戸時代中期):校註 山崎一編
「高崎城、在群馬郡、始封ノ人未ダ詳ナラズ云々
天正十八年、和田改易セラレ、箕輪ト高崎トヲ井伊兵部少輔直政ニ
給フ箕輪ヲ居城トス、後ニ箕輪ヲ廢シテ高崎ニ移ル云々
高崎既ニ信玄ニ属シ、石倉ニ砦ヲ下シ、前橋ヲ押ヘシム云々 」

5、 『上野風土記寺領記』
 高崎(赤坂本名)大信寺云々
★和田氏は「和田」・「高崎」という言葉を使っていない。文書では
  「赤坂」を使用している。


6、『反町徳太郎氏所蔵文書』
「 市内九蔵町ニ住スル、反町徳太郎氏ハ、和田氏ノ重臣タル反町
 大膳亮ノ後裔ト云フ、古文書一通ヲ蔵ス、 文書ハ大膳ノ嫡孫清
 實ガ祖父ノ武功ヲ記シタルモノニシテ、其一節ニ、武州金窪ノ戦
 (時ニ天正十年瀧川一益ト、北條氏直トノ戦ニシテ和田氏ハ北條
 ニ属ス)我等(大膳)一番槍ヲ入レ、其上持参、和田兵衛ニ見セ、
 夫ヨリ高崎城迄持参云々、 此ノ他文中高崎ノ名ニ三ヲ記ス。」
★反町大膳は天正3年(1575)長篠戦いで和田業繁の同心として、
 参陣した。負傷した和田業繁を助けて上野に戻った。
反町大膳は鳶が巣の戦いで死んだ。(長篠城博物館)
 反町館は高崎駅から300m東(元ヤマダ電機があった辺り)に
 あった。(『群馬県古城累祉の研究』山崎一著)
 天正18年(1590)1月28日、反町大膳業定は北条氏直から足利表の
 活躍を褒められた。(★『新編高崎市史資料編補作:北条氏直感状』
★井伊直政の時代には和田信業(跡部勝資の長男)の3男:和田信
 矩は井伊直政の侍大将クラスになったが、反町氏は町人になったよ
 うである。北爪九蔵の後、反町氏は名主だったようである。
 町名主はほとんどが元の武士だったようである。例えば、藤岡の落
 合氏は井伊直政の100年程前、長野氏の家臣になっている(「上杉
 顕定」森田慎一著)が、井伊直政の時代には本町の名主になっている
 など。
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【4】「中山道高崎宿史」根岸省三編:高崎市社会教育振興会 
 昭和49年(1974)発行
「高崎村の起源」という項で「信濃宮伝」他の古書を挙げて、井伊直政
の命名以前に「高崎」と呼ばれていたとしている。
 並榎町の「万国古美術店」というところに、
「納奉天正二年(1574) 十九才 高崎村諸岡八十治」
と刻まれた鉄製の草鞋があったと絵入りで説明している。

★『高崎漫歩』土屋喜英著:高崎地方史料普及会 1989 にもあった気が
するが記憶が定かではない。


【5】『新編高崎市史』
「高崎志」川野辺寛著:寛政元年(1789)の記述を「伝承」としている。
参考として『高崎志』を掲載している。
「 和田城跡に城が完成したとき井伊直政は、この地を松が崎という
 名前に改めようと思った。
そこで日頃から信頼を寄せている箕輪の龍門寺の住職白菴に話した。
これを聞いた白菴は、
『もっともなことではありますが、諸木には栄枯があり、物には盛衰
があるのは珍しいことではありません。殿様が、家康様の命令を受けて
和田の地に城を築いたのは、権力の頂点に立った大名に出世されたから
であります。そうであれば「成功高大」の意味を採って高崎と名付けた
方がよいのではないでしょうか。』
と話した。
白菴和尚の含蓄のある言葉を聞いて喜んだ直政は、直ちに和田を高崎
と改めた。
そして白菴和尚が箕輪から転住した龍広寺の山号に「高崎」の二字を
与え、感謝の意を表した。」
高崎山龍廣寺となった。

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