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zoom RSS 箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政127愛知県D『設楽ガ原』と「山県昌景の墓」

<<   作成日時 : 2017/12/09 08:55   >>

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平成24年(2012)11月に新城市「設楽が原」に行ったが、『復元
馬防柵』は見ていなかった。平成29年(2017)11月2日、2回目
の「設楽が原」に行った。天正3年(1575)、長篠の戦いでは武田軍
と織田・徳川連合軍が長篠城をめぐり戦った。武田軍騎馬隊に対す
る織田・徳川連合軍は、「火縄銃」を使って組織的に戦った。
設楽が原で、井伊谷を焼いた山県昌景が此処で討ち死にした。
私の母方の先祖:塚越伴七(半七)も長篠の戦いで、武田家臣:
内藤昌豊の配下として参加して討ち死にした。きっと「復元馬防
柵」と「山県昌景の討死場所」の間だろうな?合掌。

馬場信春の墓と山県昌景の墓に詣でた。合掌。
天正10年(1582)元山県昌景・土屋昌恒らの部下が井伊直政の
家臣になった。元山県昌景の家臣で井伊直政の家老になった者は
5人いる。三科・広瀬・孕石・川手・石原である。土屋昌恒の家臣
では早川・脇などがいる。
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 (★広瀬・三科の名がある。)

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政106▲第42話「長篠に立てる柵」
&『設楽が原』
http://53922401.at.webry.info/201710/article_29.html
中野直之・奥山朝忠(妻は直之の娘)も近藤秀用の家臣と
 して登場していた。嘘か誠か不明?


◆◆ 箕輪初心◎長篠の戦い前編 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201211/article_25.html

◆◆ 箕輪初心●愛知【長篠城】 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201211/article_24.html

◆◆ 箕輪初心★【奥平一族は群馬出身】 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201211/article_24.html

箕輪初心◎長篠の戦い後編:設楽原の激闘&上野国関係者
http://53922401.at.webry.info/201211/article_27.html

◆◆ 箕輪初心●愛知【長篠城】=菅沼→奥平の城へ ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201211/article_24.html


S▲長篠設楽ガ原古戦場
○徳川家康の陣
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○山県昌景討ち死にはこの辺か?
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○私の先祖もこの辺りで討ち死に。合掌。
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○連吾川の橋
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私の母方の先祖:塚越伴七(半七)も長篠の戦いで、武田家臣:
内藤昌豊の配下として参加して討ち死にした。きっと「復元馬防
柵」と「山県昌景の討死場所」の間だろうな?合掌。

○長篠設楽ガ原合戦図
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★小栗上野介忠順の先祖もいた。徳川家康の
 親戚である。

○復元馬防柵
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 土屋昌続も討ち死に。合掌。
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○馬場信春の墓。合掌。
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○山県昌景の墓。合掌。
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21▲長篠城2回目…本の購入「」
箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政128愛知県E『長篠城2回目』
http://53922401.at.webry.info/201712/article_7.html

22▲城894医王寺と武田勝頼本陣

23▲鳳来山東照宮&鳳来寺…★井伊虎松がいたとされる坊
24▲城895柿本城(鈴木重時の城)
箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政 126『柿本城』&【鈴木重時→鈴木重好】
http://53922401.at.webry.info/201712/article_5.html

●長篠設楽ガ原の戦い===================
 
・元亀3年(1572)
  武田信玄は室町幕府15代将軍足利義昭の信長包囲網に呼応した。
武田信玄は西上作戦を展開していた。
12月19日 武田軍は遠江の要衝である二俣城を陥落させた

 12月、▲三方ヶ原の戦い
武田信玄は徳川家康を破った。
  武田信玄は、遠江国浜名湖北岸の形部村で越年した。


・元亀4年(1573)
 武田信玄は井伊谷龍たん寺を焼いた。
  
1月10日 武田信玄は出発した。


 ●山家三方衆は武田家臣・山県昌景に従軍した。
   老体の奥山貞能も加わった。 
  
●1月中旬  武田信玄は野田城を包囲した。
 野田城兵は援軍を併せても500名弱であった。

 野田城の攻略に、約1ヶ月も費やした。
  ★武田信玄の病状がかなり重い状態だったと推測される。

2月16日 、菅沼定盈は開城した。
 山県昌景から仕官を勧められたが断った。

  しかし、武田軍は長篠に撤退した。
  武田信玄は野田城を落とした直後から度々喀血が酷くなった
  武田信玄は長篠城で療養していた。

3月10日野田郷内で山家三方衆の人質と菅沼定盈の交換が成立した。
 菅沼定盈は従兄弟:西郷清員の下條村へ移った。 


4月12日、武田軍を甲斐に引き返す三河街道上で死去した。
  享年53  「駒場説」が有力説。



▲6月 松平元康(=徳川家康)は三河国の武田方支城を奪還。
▲徳川家康は奥三河における武田勢力を牽制する
 ため奥平に使者を送った。
  奥平貞能の答は「御厚意に感謝します」と色よい返事をしない。
  徳川家康は織田信長に相談した。
 織田信長は「家康の長女・亀姫を定能の長男・貞昌に与えるべし」
 徳川家康は奥平貞能に
 @亀姫と嫡男:貞昌の婚約
 A領地加増…3000貫文
 B貞能(定能)の娘を本多重純(本多広孝の次男)に入嫁させること
 を提示した。

6月22日、奥平貞能(定能)は徳川家康に
@信玄の死は確実なこと
A定能親子は徳川帰参の意向であること
を伝え、再び徳川家康の家臣となることを約束した。
▲7月 徳川家康が長篠城を攻撃。


〜〜〜元亀4年(1573) 7月28日→天正元年(1573)7月29日〜〜〜 
●7月 武田軍は長篠城の救援に向かった。

8月 長篠城主・菅沼正貞は降伏し、長篠城を明け渡した。

8月21日、奥平一族郎党は徳川方に走った。


9月21日 
●武田勝頼は人質3人を処刑した。
  奥平貞昌(信昌)の妻:日近奥平貞友の娘:おふう16歳。 
  奥平貞能2男=奥平貞昌の弟:仙丸13歳。
  ???

▲9月 徳川家康が長篠城奪還。
  改修工事に取りかかった。
 

・天正2年(1574)
2月 武田勝頼が美濃:明智城を攻撃。
5月 武田勝頼が遠江:高天神城を攻略。

9月 織田信長が長島一向一揆を鎮圧した。
★ 鬼のような人間バーベキューを行った。

武田の3遠計画 VS 松平元康の領土計画

●武田家:当時の状況
 総石高は約130万石・・・当時最大規模。
 +動員可能兵力・・・3万3000人で最大だ。
長篠城攻めに全兵力を割く訳には行かない。15000で出陣していた。
 @武田氏老臣・・内藤昌豊・馬場美濃守信房など
   武田勝頼を軽んじる傾向があった(伝)。
→長篠城&織田・徳川との戦い反対派に発展
 A武田氏新興・・跡部勝資
→長篠城&織田・徳川との戦い断行派に発展
→武田勝頼にとっては 武田家の三河長篠城が徳川家の
  支配下にあるのは、望ましくない状況であった。
 武田勝頼「俺は父:信玄にも劣らない武将になろう。
  『武田家に、勝頼あり。』と威信を内外に示すため
  には、長篠城奪還が必要不可欠だろう。やってやる。」

▲松平=徳川家:当時の状況
 総石高約50万石。・・・動員可能兵力は、10000強程度?。
■織田家:当時の状況
 総石高は400万石強? 総兵力は10万以上。
 (※織田信長は、武田対策に投入できる兵員数に
   限界があった。)
 織田信長の当面の課題は、武田信玄と傀儡将軍:
 足利義昭の信長包囲網だった。
 織田信長の危惧 
 @浅井・朝倉の連合軍
 A武田信玄の将軍家接近
 

・天正3年(1575) 
2月 奥平貞能と嫡子:奥平信昌(妻:徳川家康の娘:亀姫)
  が作手を退去した。
 奥平貞能は額田郡亀穴城城代となった。
 奥平貞昌21歳は長篠城城代となった。
 奥平貞昌の大叔父、叔父、弟、甥の4世代で支族を分出していた。
 奥平貞昌の宗家は、奥平氏族をの重臣として厚遇した
 計・・12家は7族6老が奥平氏の家老衆となった。

●武田勝頼は西へ勢力を伸ばすために重要な
 拠点となる長篠城を1万5千の軍を率いてやってきた。

●4月末 武田勝頼の一部隊が長篠に到着。
●5月6日 武田勝頼の本隊は吉田城を攻略。
        二連木城・牛久保城を攻略。

●5月8日 武田勝頼は約1万5000の兵力を投入し、
     長篠城奪還のため、長篠城を包囲。

@大通寺山・・・馬場信房等2000
A天神山・・・・土屋昌次等2500
B篠場野・・・・穴山信君等1500
C有海原・・・・山県昌景等1000
D医王寺山・・・武田勝頼等3000 
E鳶が巣山・・・武田信実等1000
F岩代・・・・・内藤昌豊等2000
 G本陣後方・・・甘利信康等2000 
Hその他:久間砦・中山砦・姥が懐砦・君が伏床砦



▲→城主:奥平貞昌以下500の兵は鉄砲200挺で
  長篠城の城兵は粘り強く抗戦を続けた。

▲5月10日 奥平貞昌は、織田信長、徳川家康へ救援を
 依頼。

●5月11日 武田軍は野牛門を猛攻。
         長篠城は岩石落とし・弓・鉄砲で応戦。

●5月12日〜14日 武田勝頼は総攻撃を開始。

■5月13日 織田信長が岐阜を出発

■5月14日 織田信長が岡崎に到着。
徳川家康と合流

●武田軍が長篠城内に侵入・・・食料庫を破壊。

▲鳥居強右衛門勝商は、武田勢によって包囲された
 城を抜け出し、岡崎の徳川家康に援軍を頼みに行く
 ため川を潜水し、対岸に渡った。長篠城を脱出

▲5月15日 鳥居強右衛門が岡崎に到着。
  鳥居強右衛門が織田信長に謁見。

■織田信長は本願寺攻撃中
・「何、武田勝頼の大軍が長篠を攻め寄せてきた。」
 という知らせ。・・・

  ※鳥居強右衛門が徳川家康に報告すると、制止を聞かず、
 長篠城に帰ることにした。

▲5月16日 鳥居強右衛門は武田の兵に捕まった。
●武田勝頼は「長篠城に向かって『援軍は来ない。』と
 告げれば、命を助けてやる。」という取引を持ちかけた。


■5月13日 織田信長が岐阜を出発。
織田信長は3度目の松平元康からの手紙には
 「もし、援軍を出してくれぬなら、武田に遠江を譲って
  和睦し、武田の先方となって尾張を攻める。」とある。
(★甲陽軍艦)
@織田信長は、棒1本と縄1本を持つように指示した 
A織田信長は、出陣しない武将から鉄砲&足軽鉄砲隊
  を出させた。

******************************
■5月14日 織田信長が岡崎に到着。
徳川家康と合流38000になった。
▲鳥居強右衛門勝商は、武田勢によって包囲された
 城を抜け出し、岡崎の徳川家康に援軍を頼みに行く
 ため川を潜水し、対岸に渡った。長篠城を脱出

▲5月15日 鳥居強右衛門が岡崎に到着。
  鳥居強右衛門が織田信長に謁見。
  ※鳥居強右衛門徳川家康に報告すると、制止を聞かず、
 長篠城に帰ることにした。

▲5月16日 しかし、鳥居強右衛門は武田の兵に捕まった。
●武田勝頼は「長篠城に向かって『援軍は来ない。』と
 告げれば、命を助けてやる。」という取引を持ちかけた。
▲しかし、鳥居強右衛門は大声で援軍の到来を城兵に告げた。
●武田勝頼は長篠城対岸で磔にしたのだった。
(★鳥居強右衛門勝商の磔の絵)
▲鳥居強右衛門の決死の働きで長篠城は士気が上がった。

(★鳥居強右衛門勝商の磔の絵)

▲■5月17日 織田・徳川は野田城に到着。野陣。

▲■5月18日 織田信長3万、徳川家康8千=3万8000
の援軍は長篠城の西方約4kmにある設楽原に到着した。
 @織田信長は後方の極楽寺山に本陣を置いた。
 A 副将:織田信忠は天神山である。
 B徳川家康達は連吾川に沿って西側に陣を築いた。


     ■
■佐久間 ■
・・・・・→信長 ■丹羽長秀
■織田信長 ■織田信忠 ■羽柴秀吉



   ▲石川数正
▲松平信康 ▲鳥居元忠
▲松平元康 ▲本多忠勝
  ▲榊原康政
▲平岩親吉 ▲内藤信成
▲本多忠勝 ▲大久保忠世・忠佐

5月18〜20日 馬防柵を構築開始。

▲ついに、奥平貞昌は徳川家康と織田信長の連合軍
 3万8000の到着まで、長篠城を守り抜いた。

●5月19日 武田勝頼は軍議を開いた。
@武田氏老臣・・内藤昌豊・馬場信房・山県昌景など
   →長篠城&織田・徳川との戦いに反対。
 A武田氏新興・・跡部勝資
→長篠城&織田・徳川との戦いを断行。

武田勝頼は
 「3日がかりで、陣を作る織田・徳川軍は弱い。
  びびってるな。・・・武田は織田・徳川戦で
  一度も負けたことがない。兵力差なんて
  なんのその・・・」と、思ったのだろう。


●5月20日 武田勝頼は長篠城攻略を一時休憩。
 武田軍は長篠城の包囲を解いて、設楽原へ進出した。
 武田軍と織田徳川連合軍は設楽原の地で対峙した。

▲馬場信房
▲真田信綱
▲土屋昌次
   ▲穴山信君
▲一条信龍
 ▲武田勝頼・・・3000 武田信光・望月信雄
▲小幡信貞
▲武田信廉
▲内藤昌豊
▲原昌胤
▲山県昌景
▲武田信実(長篠城押さえ:鳶が巣山)

▲5月21日 
 長篠役・設楽原決戦の始まりである…。

●設楽原決戦の本隊
武田勝頼
武田信廉、
武田信豊・望月信永(信濃望月城)兄弟、
一条信龍(信玄10男:武川衆)、武田信友・信光親子、穴山信君、
小山田信茂(岩殿城)
山県昌景・昌次親子 (★家臣が後、井伊直政の家老クラス5人排出)
内藤昌秀(当時、箕輪城代)
馬場信春
土屋昌続・昌恒兄弟、土屋貞綱
   (★土屋昌恒の家臣は井伊直政の家臣)
真田信綱・昌輝・武藤喜兵衛(後、真田昌幸)兄弟
原昌胤(★後、家臣の一部が井伊直政の家臣)
横田康景・原盛胤兄弟
跡部勝資
  (★長男:昌明は内藤昌豊の養子。昌明次男が後、井伊家家老)
長坂光堅
甘利信康
米倉重継(武川衆)
柳沢信俊(武川衆。後、子孫の所領は高崎市旧群馬町)
小幡昌盛(元小畠氏…小幡に改姓。)
初鹿野昌久(後、さいたま市に城を構えた。)
岡部正綱(元今川:高天神城代)
朝比奈信置(元今川:掛川城代)
小笠原信嶺(信濃国林城・松本城代)
室賀信俊(信濃国室賀城:千曲市)
屋代正長(信濃国屋代城・荒砥城など:千曲市)
大井貞清(元信濃内山城主:佐久市→上野国根小屋城代・・・)
専光寺快川(恵林寺「心頭滅却すれば火も亦た涼し」)
根津月直(信濃国根津下城主・叔父の妻が真田幸綱の妹)
鎌原重澄(上野国鎌原城主:真田信綱のはと従兄弟)
安中景繁(上野国安中城主:甘利信康の娘婿)
小幡憲重(討死したとされるが詳細不明)・信貞親子

●長篠城監視部隊:鳶ヶ巣山砦など守備隊(長篠城の南対岸)
鳶ヶ巣砦:河窪信実、小宮山信近
姥ヶ懐砦:三枝昌貞・守義・守光兄弟
君ヶ伏床砦:和田業繁
中山砦:五味高重、飯尾助友・祐国兄弟、名和無理之助
久間山砦和気善兵衛、倉賀野秀景、原胤成

●有海村駐留部隊(長篠城の西対岸)
高坂昌澄、小山田昌成、雨宮家次、山本勘蔵信供
 父:高坂弾正(春日虎綱)10000は海津城で上杉景勝を牽制。


【1】鳶ノ巣山での戦闘・・・酒井忠次の奇襲
夜、織田信長は徳川家康の重鎮:酒井忠次を呼び、徳川軍の中から
弓・鉄砲に優れた兵2000ほどを選び出して酒井に率いさせた。
酒井隊に織田の鉄砲隊500と金森長近ら検使を加えて約4000
の別働隊を組織し、奇襲を命じた。
  (★『信長公記』)。

酒井忠次隊約4000
+奥平貞能+菅沼定□+金森長近鉄砲隊500
▲奥平貞能(先祖は上野国吉井奥平出身)
▲酒井忠次の子:家次(後高崎城、子孫は前橋城の城主)
▲小栗又一(徳川家康縁戚):小栗上野介(高崎市倉渕で斬首)の先祖
▲渡辺守綱・・・酒呑童子の話に出てくる渡辺綱子孫

5月20日、午後8時頃、織田・徳川軍の陣地を出発した
 後方奇襲部隊:酒井忠次約4000は、南から豊川を渡河し、
 舟着山を回って5つの砦の背後に回った。
 織田信長の作戦である。

21日の未明には、鳶ノ巣山に到達した。
夜明けを待って、鳶ノ巣砦を急襲し、火をかけた。
※『信長公記』
「五月廿一日辰刻(午前8時)取上り、旗首を推立て 凱声
を上げ、数百挺の鉄炮を□□とはなち懸け、責衆を追払ひ、
長篠の城へ入り、城中の者と一手になり、敵陣の小足々々
焼上げ、籠城の老忽運を開き、七首の攻衆案の外の事にて
候問、癈忘致し、鳳来寺さして敗北なり。」
●武田の鳶が巣砦など5つの砦の者達は
 「まさか、背後から敵がくるとは思っていなかった」
 武田軍によって長篠城を包囲する五砦の一つとして築かれ
 たこと中山砦には、飯尾助友・飯尾祐国・五味与惣兵衛
 ・名和田清継・名和無理之助が入城して守将を務めた。


▲酒井忠次の奇襲部隊は鳶ノ巣山周辺の君ヶ伏戸・中山砦
 などの拠点も落とし、鳶ノ巣山の5つの砦を全て落とした。
 長篠城の兵と合流した。

 長篠城の西の武田軍を攻めた。

▲▲武田軍の戦死者 ▲▲
 ●主将:武田(河窪)信実:武田信玄弟(勝頼の叔父)
 ●三枝守友(昌貞):石原家からの養子。
  石原主膳(山県昌景鉄砲隊長→北条氏政家臣→井伊直政旗奉行)
  が生き残った。
●飯尾助友・祐国:通説遠江出身 上野国高崎山名かも?
●五味貞成(高重)
上野国の戦死者〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 @和田業繁:上野国和田城
  戸田重元に討ち取られた。
 (後に井伊直政が和田城→高崎城を築城・酒井家次も入城した)
  ★和田信業(跡部勝資長男)は別働隊にいて、生き延びた。
 A和田兵部は和田業繁の弟(信業の叔父)★和田(高崎)下之城。
B反町大膳(和田業繁同心:家老):高崎駅東400m反町館
C名和無理介=那波無理介(宗安):上野国伊勢崎那波城・毛呂城
 D名和重行・・・上野国伊勢崎那波城・毛呂城
   小栗又一(後、藤岡芦田城)&渡辺守綱に討ち取られた。
 E大戸民部:上野国現東吾妻町の大戸城
 F倉賀野秀孝:(倉賀野景秀の子)上野国現高崎市の倉賀野城
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 武田の敗残兵は本隊への合流を図って。豊川を渡って退却した。
 しかし、酒井奇襲隊が追撃した。長篠城の西岸・有海村において
 春日虎綱の子息:香坂源五郎(「昌澄」ともされるが不明)が討ち
 取られている。
 ●高坂昌澄?・・・などが討ち死。

 酒井忠次隊の一方的な展開となった。
 徳川方の深溝松平伊忠(これただ)は、功績を急いだ退却する小山田
 昌成に反撃されて討死した。


▲■設楽原激闘開始●


【2】山県昌景の赤備え隊突撃開始 5月21日
午前6時 小競り合い開始
「日出から」戦いが始まった。
 (★『信長公記』)

午前11時頃 設楽原で戦闘が本格化
 (★『信長公記』)
■織田信長は極楽寺山から家康のいた高松山に移動
  織田信長は鉄炮1000挺の部隊を結成。
 佐々蔵介=佐々成政・前田又左衛門・野々村三十郎
 ・福富平左衛門・塙九郎左衛門の5人の奉行を任命。
 千人ほどの鉄砲隊を編成した。

武田軍の波状攻撃(午前11時〜午後2時)
『信長公記』や『甲陽軍鑑』

●一番南にいた左翼の山県隊3000から攻撃が始められた。
武田軍左翼の山県隊は、右翼の徳川隊に攻撃を仕掛けた。
山県昌景は馬で連吾川まで行き、指示した。家臣は馬を
降り、重い鎧で水かさの増えた川を渡る。川を越えると
鉄砲の餌食になった。
▲徳川軍の大久保忠世隊6500の内の鉄砲隊が撃退した。
 山県軍が引くと、大久保軍が柵を出て戦った。
 でも、鉄砲が柵を出た味方に当たってはいけないから
 鉄砲射撃はできない。だから直ぐ戻った。 


●左翼ではこの後に原昌胤、内藤昌豊が攻撃を繰り返
 した。

▲馬防柵に9回とあるそうだ。 
(★『甲陽軍鑑』)

▲▲ 大久保隊での武田軍の戦死者************
●@山県昌景
  (配下の広瀬景房・三科形秀・川手良則・孕石泰時・石原主膳
  らは8年後、井伊直政の家臣になり、やがて家老になっていく。)
●A原昌胤
  (配下:脇などが井伊家家老クラスになっていく。)
●B小山田信茂・・岩殿城(現山梨県大月町岩殿)


【3】織田・徳川連合軍の三段式鉄砲隊の活躍?

 織田軍中央と織田軍左翼 VS 武田勝頼中央 
▲佐々成政らの五奉行・羽柴秀吉・丹羽長秀
 ●武田信廉の部隊は攻撃を繰り返した、織田軍が攻めれば、
  退き、退けば攻撃した。
 ■織田信長の命令通り、鉄砲で多数を撃たれた。

●小幡信貞隊も入れ替わり攻撃。
小幡信貞:上野国。国峰城・宮崎城(現群馬県富岡市)
  (→後に、奥平貞昌=信昌が入城。)
 
■織田軍は後方の「身がくし」=土塁に隠れ、鉄砲を構えて
 待ちうけた。
●小幡軍500騎は鉄砲で多数を失った。
 

●武田典厩信豊(勝頼の従兄弟)も入れ替え攻撃。

■織田方は鉄砲隊だけで戦ったのだ。
●武田軍は多数を撃たれて退却した。
堀、柵、土塁+土塁裏の鉄砲隊の前に
中央の武田軍は柵越えられず死者を増やしてしまった。


【5】設楽原の戦いの中盤
 織田軍左翼   VS   武田軍 
 佐久間信盛       ・馬場美濃守信春
 水野信元ら       ・真田信綱・真田昌輝
             ・土屋昌次(継)ら
●武田右翼部隊は三重柵の内の二つ破った。
武田方が多くが撃たれた。
(★『甲陽軍鑑』・・長篠合戦図屏風より)

●禰津(根津)月直が討ち死に
 禰津松鴎軒常安の嫡男・根津月直は原隼人正配下として奮戦した。
 馬防柵への繰り返しの突撃末、最後の柵を突破した後、胸を撃ち
 抜かれ討死した。
  一時、真田幸隆:第二家老:禰津逍遙軒常安であった。
  ★禰津元直3男(逍遙軒常安)は箕輪城城番後、
   上野国岩櫃城志摩郭に住んだ。
   禰津逍遙軒常安の正室:貞繁尼は真田信之の乳母であった
   子は禰津月直である。禰津月直と真田信之と乳兄弟である。

 現在、長篠古戦場には根津月直の墓石が、同族の真田信綱、昌輝一族
 などと共に並んでいる。父:逍遙軒の叔父は真田幸綱の妹である。

●土屋昌次が討ち死に
 長篠の戦いでは、敵の三重柵の二重まで突破し
  たところで一斉射撃を受け戦死した。
  かつて、三増峠の戦いで箕輪城代・浅利信種が戦死すると、
  浅利同心衆も相備えとして付けられる。
  甲斐名門の土屋家を継承。
 ★上野国の勤務になった。しかし、城は不明。
 内藤昌豊との上野国の支配のための一員として、
 上野に在城したと考えられる。取り次ぎの史料もある。
内藤昌豊の実質的支配の城:保渡田城
 (★群馬県高崎市:旧群馬町・かみつけの里
  土屋文明文学記念館北東200m)
 ★後、弟:土屋昌恒の子孫は上室田と保渡田に残った  
(土屋昌恒は生き残った。家臣の一部は後に井伊直政の家臣に
    なった。)
 
●甘利信康の討ち死に
甘利昌忠&甘利春吉=康忠の家臣
甘利備前守虎泰以降
 「晴吉、藤蔵、利重」=「昌忠=信忠、信康、信恒」
 ・3人の名前が実は2人だという説
「藤蔵」「信康」が前後のどちらかと重複するのか
  定めがたい。
 ・私説・・・年齢と虎泰の後継者の意味から
 甘利信康=甘利晴吉=甘利昌忠 


●安中景繁(忠成)の安中一族壊滅。(安中城)
 甘利晴吉の娘婿
 (★安中城は後に井伊直政長男:井伊直勝入城。)

●安中景繁(忠成)の家老:松本重友
 松本丹後守吉久が戦死した(伝)。 
 ★上野国安中の天王山城


●横田綱松が討ち死に

●真田信綱・昌輝兄弟も討ち死。
※父:真田初代の真田幸綱=幸隆の長男・次男。
 3男は武藤喜兵衛=真田昌幸である。跡を継いだ。
★墓は長野県上田市の信綱寺

●●真田信綱第一家老:鎌原重澄も戦死。
  ★上野国吾妻郡嬬恋村の鎌原城
●真田信綱家臣:富澤□□も戦死。
  ★上野国東吾妻町岩下城 
●真田信綱家臣:湯本善太夫も戦死。
  (★草津温泉管理:長野原城)


◆◆ 設楽ガ原での激闘 ◆◆
「鉄砲」とか「撃たれ」がよく出てくる。
しかし、実験結果から三段撃ちはありえないものの、
鉄砲を効果的に使ったのは事実だったようである。
※通説では、「当時最新兵器であった鉄砲を3000丁も用意
 さらに新戦法の三段撃ちを実行した。」と『信長公記』
 等にあるが、諸説ある。

【6】武田軍の総崩れ&戦線離脱&殿の馬場信房の死
●武田の損害は甚大。
午後1時頃〜
中央の穴山信君・武田信豊・武田信廉などの
武田勝頼の親類衆が両翼が崩されのを見て
勝手に撤退開始。

■織田信長が総攻撃を開始

午後2時頃〜
 耐えきれなくなった武田敗走兵が武田勝頼の
 本陣に集結。
●→武田勝頼は打って出ようとしたが、側近に制止され
 退却を決意した。退きはじめた。
●武田勝頼は、戦線離脱。
 寒狭(かんさ)川沿いに鳳来寺に逃げた。
 伊那谷に着いたときは、4名の家臣しかいなかった。


●殿(しんがり)は馬場信房・・・
長篠城西300mで戦死。

※おまけ・・中央構造帯の露出


●馬場の死を見届けた内藤昌豊も織田軍に飛び込み、戦死。
 内藤昌豊(当時は、上野国:高崎市の箕輪城代
  養子:内藤昌月(跡部勝資長男)が後を継いで箕輪城代
 になった。
 (※後に徳川四天王筆頭:井伊直政が入城。
  内藤昌月の次男が井伊家家老になった。)
 私の母方先祖も討ち死にした。


【8】結果
●武田の大敗
武田軍の戦死者は、譜代家老の内藤昌豊、山県昌景、馬場信春、
原昌胤、原盛胤、真田信綱、真田昌輝、土屋昌続、土屋直規、
安中景繁、望月信永、米倉丹後守(武川衆)など
重臣や指揮官にも及び、被害は甚大であった。
(★ 『信長公記』)

長篠・設楽原の戦いで、武田氏は没落の一途を辿ること
になった。
■▲そして織田・徳川の勢力を強大にした日本史上
重大な意味を持つ戦いになった。


▲徳川家康は奥平信昌の籠城を支えた重臣12名に対して労いの
 言葉をかけた。12名にの知行地に関する約束事など子々孫々に
 至るまで待遇を保障するという特異な御墨付きを与えた。



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