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zoom RSS 箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政129愛知県E『武田勝頼の長篠の陣所』

<<   作成日時 : 2017/12/08 09:12   >>

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天正3年(1575)、長篠の戦いでの「武田勝頼の陣」(広島市中央図
書館・浅野文庫所蔵の諸国古城図のうち、「勝頼陣城」として描か
れた絵図には、山麓下の医王寺とともにほぼ現況に等しい絵図とし
て記録されているのをネットでみた。★私の母方の先祖:塚越伴七
(半七)も長篠の戦いで、武田家臣として参加して討ち死にした。
天正10年(1582)山県昌景の部下で井伊直政の家老になった者は
5人いる。三科・広瀬・孕石・川手・石原である。土屋昌恒の家臣
では早川幸豊・脇などがいる。
画像


◆◆ 箕輪初心◎長篠の戦い前編 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201211/article_25.html

◆◆ 箕輪初心●愛知【長篠城】 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201211/article_24.html

◆◆ 箕輪初心★【奥平一族は群馬出身】 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201211/article_24.html

箕輪初心◎長篠の戦い後編:設楽原の激闘&上野国関係者
http://53922401.at.webry.info/201211/article_27.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政106▲第42話「長篠に立てる柵」
&『設楽が原』
http://53922401.at.webry.info/201710/article_29.html

◆参考サイト
長篠設楽原合戦の史跡
http://www.geocities.jp/chiezo_ikomai/nagasinositara/nagasinositara.html


【1】平成29年(2017)11月1日***************
箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政113『井伊谷遺産センター』
井伊谷の歴史
http://53922401.at.webry.info/201711/article_15.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政114『井伊谷妙雲寺』直虎と南渓
の位牌・南渓肖像画
http://53922401.at.webry.info/201711/article_16.html

箕輪初心:生方▲井伊谷『謂伊神社』&モロード様
=客人神のうんこ神様?
http://53922401.at.webry.info/201711/article_18.html

箕輪初心:生方▲『井伊谷宮』と宗良親王復刻版
http://53922401.at.webry.info/201711/article_19.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政117『龍潭寺』:昊天が彦根清涼寺開山
http://53922401.at.webry.info/201711/article_20.html


【2】平成29年(2017)11月2日***********
箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政119気賀A展望台からの気賀と『堀川城』
http://53922401.at.webry.info/201711/article_22.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政117気賀B「長楽寺」・『井伊直親の墓』
http://53922401.at.webry.info/201711/article_23.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政120祝田【蜂前神社】と『徳政文書』
http://53922401.at.webry.info/201711/article_24.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政121気賀D『刑部城』
http://53922401.at.webry.info/201711/article_25.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政122気賀E『本陣・復元関所』と【近藤家】
http://53922401.at.webry.info/201711/article_26.html

==============================
箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政123三ヶ日町『佐久城』
&【浜名氏と上野国長谷寺】
http://53922401.at.webry.info/201711/article_29.html

箕輪初心:生方▲浜松市三ヶ日町『千頭峯城遠望』&【井伊谷・三ヶ日の歴史】
http://53922401.at.webry.info/201712/article_1.html



===宇利峠(静岡県⇒愛知県へ)==============
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P▲城891比丘尼城(近藤康用の支城)

箕輪初心:生方▲愛知県@『比丘尼城』:【足利直冬→・熊谷重実→近藤満氏】
http://53922401.at.webry.info/201712/article_3.html

Q▲城892宇利城(近藤康用の最初の城)
箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政125愛知県A『宇利城』と【近藤康用・秀用】
http://53922401.at.webry.info/201712/article_4.html

R▲城893野田城(菅沼氏の最初の城)
箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政127愛知県B『野田城』:菅沼定盈
http://53922401.at.webry.info/201712/article_6.html

S▲長篠古戦場跡…馬防柵等の見物・

21▲長篠城2回目…本の購入「」
箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政128愛知県E『長篠城2回目』
http://53922401.at.webry.info/201712/article_7.html

22▲城894医王寺と武田勝頼本陣
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23▲鳳来山東照宮&鳳来寺…★井伊虎松がいたとされる坊

24▲城895柿本城(鈴木重時の城)
箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政 126『柿本城』&【鈴木重時→鈴木重好】
http://53922401.at.webry.info/201712/article_5.html




===??峠(静岡県⇒愛知県へ)==============
25▲奥山方広寺…★臨済宗方広寺派大本山。井伊氏分家の奥山氏が
 南北朝時代に建て奥山氏が庇護した。
井伊直虎の許婚::井伊直親の妻「ひな」の実家
 昼飯は精進料理のうな重は1200円。
※奥山館・奥山城・竜ヶ岩洞(2億5千万年前)には行けなかった。

○井伊谷の石原先生宅
26◆北岡大塚古墳
○井伊谷の石原先生宅
◆俺は帰りながら、閃いた。
 K大學の吹奏楽団の「祐太郎君」に会いてえな?・・・
★浜松泊まりを決定。東京大田区泊まり・群馬駆け戻りをやめた。
 
○GS…1900円
○トヨタレンタカー 約15000円
★可愛いお姉さんがビジネスホテルを教えてくれた。
○ホテルセレクトイン浜松駅前素泊まり4200円
「祐太郎」君にTEL…「明日、8:30に会うことになった。」
★祐太郎の声を聞けて、良かった。
○夕食「藤田」…鰻&酒で3480円
○ホテルセレクトイン浜松駅
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【3】11月3日、
○07:00 駅前散策
○朝食…パン屋
○08:30 祐太郎君
28▲城897二俣城
29▲城898鳥羽山城
30▲城899大平城(おいだいら城)

箕輪初心:生方▲浜松市『大平(おいだいら)城遠望』&【井伊道政・宗良親王】
http://53922401.at.webry.info/201712/article_2.html

31▲城900引間城(曳馬城)
32 椿姫観音
○昼食「うなぎの佳川」…2800円+α。祐太郎君のおごり
13:40浜松駅…祐太郎君と別れた。
14:11発 15:40着 (89分)ひかり468号 東京行
16:11 東京→高崎
18:00 家

・永禄8年(1565) 龍潭寺2世:南渓禅師は次郎法師は還俗させ
 て、「女地頭」に立て、虎松の後見人とした。
  (★『遠江井伊氏物語』武藤全裕著)
 ★この時、「井伊直虎」と名を変えた説もある。
 
  井伊直虎は南渓和尚に徳政免除の黒印状を与えた。

・永禄11年(1568)
?月 井伊家筆頭家老:小野但馬が井伊領を横領した。
龍潭寺2世:南渓瑞聞は 井伊虎松(井伊直政)を
 鳳来寺に移住させた。

 11月 井伊直虎は関口氏経と連署で徳政令を出した。
  ★今川氏真が介入してきたことを意味する。
「井伊直虎は今川氏家臣関口親永一族:関口氏経の息子
 (次郎法師の母方の従兄弟)を井伊次郎と名乗らせて
 当主とした説もある。
 『鉾前神社古文書』に唯一「井伊直虎の名がある。」
 井伊直盛嫡子「井伊直親養子」、妹に「女子」とあるだけである。
 (★『おんな城主井伊直虎と井伊家の歴史』井伊達夫著)
★関口親永の妻は今川義元の妹婿説・井伊直親の叔母説がある。
 
 関口親永の娘は徳川  家康の正室:築山殿の父である。
 関口氏一族は後、木俣守勝側近となった。

・永禄11年(1568)11月 徳川家康が遠江の平定に着手

  徳川家康に加担する菅沼一族の野田菅沼定盈
  から今川家の離反の誘いを受けると、承諾した。
  菅沼忠久が鈴木重時や近藤康用も誘った。

 野田菅沼3代目当主の定盈の計らいによって菅沼忠久や鈴木重時と
 共に家康に属し、所領を安堵された。
 遠州切り取りの第一歩、刑部城の攻略の先鋒は旧今川義元配下だっ
 た野田城の菅沼新八郎定盈(さだみつ)に井伊谷3人衆であった。

 近藤康用は子:近藤秀用を従軍させていた。
 老齢である上、長年の戦働きによる負傷で歩行困難となっていた
 からである。
 
▲刑部城攻め
 今川氏真から離反させて徳川方に流れた「井伊谷三人衆」:菅沼忠久
 ・鈴木重時・近藤康用に野田菅沼定盈と大将として、攻撃させた。

★戦国時代に相手方武将を調略して自軍に引き入れた場合、まずはじめに
 次の戦いの先鋒に投入される。
 

・永禄12年(1569)
▲武田信玄の第一次駿河侵攻
 武田信玄は駿河侵攻にあたって、徳川家康と今川領分割の密約を
 結び、大井川を境にして東部を武田氏が、西部を徳川氏がそれぞ
 れ攻め取ることにしたのである。

12月6日、武田信玄は1万2000の軍勢を率いて駿河侵攻を開始
 した。
 今川氏真は重臣の庵原忠胤に1万5000の軍勢を預けて迎撃させた。
 武田軍が進軍を開始すると、今川軍は退却し始めた。
 北条氏康は武田信玄との同盟破棄した。

今川氏真は井伊家に対して出兵の命令が出した。

 12月? 井伊家筆頭家老:小野但馬が井伊領を横領した。
龍潭寺2世:南渓瑞聞は 井伊虎松(井伊直政)を
 鳳来寺(松井家)に移住させた。

12月11日 小野但馬守政次(道好)は今川軍の一員として武田信玄
 として出陣した。

12月12日 ▲薩埵峠の戦い
 今川氏真は武田軍を迎撃するため、興津の清見寺に出陣した。
 武田信玄は今川氏の有力家臣である瀬名信輝、朝比奈政貞、三浦義鏡、
 葛山氏元らを調略した。
 結果として21人の武将が武田信玄に内通して裏切ったのである。
 北条氏政は駿河に援軍に向かった。伊豆三島に対陣するに留まった。

12月13日 武田軍は駿府に入った。
 今川氏真は駿府城を捨てて遠江掛川城の朝比奈泰朝を頼って落ち延びた。
小野但馬守政次(道好)は井伊谷城に戻ってきた。

12月13日、徳川家康も三河から遠江に侵攻した。
菅沼忠久は徳川家康に加担する菅沼一族の野田菅沼定盈
 から今川家の離反の誘いを受けると、承諾した。
 菅沼忠久は鈴木重時や近藤康用(&秀用)も誘った。

12月15日  徳川家康の井伊谷侵攻。
 徳川家康に内通した井伊谷三人衆(菅沼忠久・鈴木重時・近藤康用)
の道案内で徳川軍が井伊谷に攻めた。
井伊谷3人衆(近藤・鈴木・菅沼)は井伊谷城を先導した。
 井伊谷城は井伊谷3人衆の攻撃にさらされた。
ところが、代官:小野但馬守政次(道好)は攻撃が始まる前に
井伊谷城を捨てて逃げた。

徳川家康は小野政次(道好)の専横に対し、
  近藤康用・鈴木重時・菅沼忠久の井伊谷三人衆を派遣し、井伊谷
  を奪還させた。
徳川家康は井伊谷城を攻略した。
井伊谷は3人衆の支配下に置かれた。
  井伊谷3人衆は小野但馬守の探索を徳川家康に願い出た。
  @小野但馬守は菅沼忠久の兵に見つかって捕えられた。 
  A近隣の淵の「龍ヶ淵」洞窟に潜伏していたが近藤秀用に
   捕えられた説もある。
 井伊谷から曳間(引間)城攻めに案内した。

井伊谷3人衆(近藤・鈴木・菅沼)は井伊谷から曳間(引間)城攻めに
案内した。

井伊谷城や白須賀城→曳間城(浜松城の前身)を落とした。

12月27日 徳川家康は掛川城を包囲した。

 
・永禄12年(1569)
2月 徳川家康は掛川城を落とした
 
3月27日、再び堀川城を攻めた。
  中村正吉は船を出して、徳川家康を迎えた。
  堀川城は徳川勢によって一方的に殺戮された。
  1000人以上殺され、逃げた農民ら700人の首を刎
  ねられた。
 徳川家康は合計1700人、殺した。
約2000人説もあるようだ。

徳川家康の下命を受けて、井伊谷3人衆は堀江城を攻めた。
 今川方の守将:大沢基胤率いる城兵は激しく防戦した。
 反撃された。
 鈴木重時は近藤康用の子:登助(近藤秀用)と競い城門にたどり
 着いた。しかし鈴木重時は、大沢方の攻撃を受けて討ち死にした。
 大沢基胤は結局は和睦する形で降伏した。
 ( 現舘山寺温泉:遊園地浜名湖パルパルや旅館ホテル九重の敷地)

4月7日 小野政次(道好)は偽りの密告をした罪で処刑された。

5月 堀川城攻撃
  小野政次(道好)は獄門を言い渡され井伊谷で処刑された説もある。
 
5月17日 今川氏真は家臣の助命と引き換えに掛川城を開城した。
 
6月 小野政次(道好)の息子2人も斬罪となった。
 ※元亀元年(1570)説もある。
 井伊谷蟹渕・・・小野但馬守が処刑された。
小野政次の野望はこうして潰えたのである。



*****************************
●元亀元年(1570)12月28日、田峰菅沼家、長篠菅沼家が武田
 家臣:秋山信友に敗れた。


●元亀2年(1571) 4月 武田信玄が遠江・三河侵攻した。
 田峰菅沼家が秋山信友に降伏した。
 秋山信友VS 西郷氏、設楽氏

4月 武田家臣:山県昌景・小笠原信嶺らが大野田城を攻撃した。
 菅沼定盈は討死覚悟で籠城すべきとしたが、家臣の説得により、
 西郷氏を頼り落ち延びることとした。
 武田の攻撃で大野田城は炎上した。
  
●12月、菅沼定盈は修築中の野田城を再び本拠とした。

・元亀3年(1572)
  武田信玄は室町幕府15代将軍足利義昭の信長包囲網に呼応した。
武田信玄は西上作戦を展開していた。
12月19日 武田軍は遠江の要衝である二俣城を陥落させた

 12月22日 ▲三方ヶ原の戦い

武田信玄は徳川家康を破った。
 徳川家康は武田信玄に敗れ、刑部は武田領となった。

 
・元亀4年(1573)
  武田信玄は「刑部砦」で越年した。
 武田信玄の軍は2万人以上の大軍であった。
 ★キ田川(瀬戸谷川)左岸には武田軍がうじゃうじゃ宿陣していたの
 であろう。
 武田信玄は「刑部城の前」の屋敷で過ごしたのかもしれない。
 まだ、「大陣屋」という場所で過ごしたのかもしれない。

 武田信玄は龍たん寺を焼き、三河国への進軍を再開
 した。

1月10日 武田信玄は出発した。
   三ヶ日佐久城を攻略した。
   浜名頼広は既に武田信玄に臣従していたので、
   浜名城の残った家老がすぐに降服した。
   宇利峠から三河へと進攻してきた。
   豊川を渡った。
 

 
●1月中旬  武田信玄は野田城を包囲した。
野田城は『三河物語』において「藪のうちに小城あり」と言われる
  ほどの小さな城であった。
  野田城は河岸段丘の地形を利用しているため、攻め口が西に限られ
  ていた。南は沼地であった。
  大軍を相手に籠城するには有利な構造となっていた。

  武田勢は30000の軍勢であった。
  武田方の有利は変わらなかった。
  武田軍は力攻めは行わず、甲斐の金山掘を呼び寄せて地下道を掘り、
  水の手を断ち切ることで落城に追い込む作戦を採った。
野田城は約1ヶ月持ちこたえた。
  武田軍に水の手を断たれた。

  簡単に落とせたと思える野田城の攻略に、約1ヶ月も費やした。
  ★武田信玄の病状がかなり重い状態だったと推測される。

▲野田城の戦い
野田城から武田信玄を狙撃した
【野田城の看板「狙撃伝説」】
武田信玄が野田城を攻めた時、城から聞こえる笛の音に聴き惚れて
 いた。近寄ってきたら、鉄砲で狙撃され、その傷が原因で死亡した
 との伝説が書かれたあった。
「夜陰での鉄砲狙撃後に武田陣中が騒々しくなった」
 命中したか不明である
  (江戸時代の『菅沼家譜』)
 
 菅沼定盈は武田勢に囲まれたため、使者を出して徳川家康に援軍
 を要請した。徳川家康は織田信長に援軍を要請したが、断られて
 しまい、3000余名を率いて出陣した。
 徳川家康が後詰に現れたが、豊川の対岸まできたが。三方ヶ原合戦
 での敗北から合戦を避け、撤退してして引き返してしまった。
   (『菅沼家譜』)
野田城では援軍到着により志気を高めていたが、徳川家康の撤退を
 知ると大いに落胆したという。

2月10日、武田軍が能満寺住職を使者にたて、
 @「菅沼定盈の自刃と引き替えに城兵の助命する。」
 B「浜松に預けた武田人質との交換を条件に菅沼定盈の助命を行う。」
 と伝えた。
 

2月16日 、菅沼定盈は開城した。
 城兵の助命を条件にして、菅沼定盈は武田の人質となった。
 菅沼定盈は捕虜として武田軍に連行された。
 菅沼定盈は座敷牢に入れられた。
 山県昌景から仕官を勧められたが断った。

  野田城が落ちたことで、徳川家康の三河防衛網が一角は崩壊し、
  徳川の吉田城や岡崎城が危機に陥った。
  しかし、武田軍は武田信玄の病状が悪化したため侵攻を止めて、
  長篠に撤退した。
  武田信玄は野田城を落とした直後から度々喀血が酷くなった
  武田信玄は長篠城で療養していた。

3月10日野田郷内で山家三方衆の人質と菅沼定盈の交換が成立した。
  菅沼定盈は返された。
 菅沼定盈は解放されたが、野田城には武田軍が入城しているため、
 従兄弟:西郷清員の下條村へ移った。 

3月?日 武田軍は近習・一門衆の合議で4月初旬には遂に甲斐に
 撤退することになった。

4月12日、武田軍を甲斐に引き返す三河街道上で死去した。
  享年53  「駒場説」が有力説。

▲5月 徳川家康が駿河に侵攻・・横須賀城

▲7月 徳川家康が長篠城を攻撃。

======元亀から天正へ===================
・天正元年(1573) 8月 武田方となっていた長篠城主:菅沼正貞は
 開城し退去した。

▲9月 徳川家康が長篠城奪還。

徳川家康は武田軍の再侵攻に備えて、長篠城を拡張工事した。
 3月10日野田郷内で山家三方衆の人質と菅沼定盈の交換が成立した。
  菅沼定盈は返された。
 菅沼定盈は解放されたが、野田城には武田軍が入城しているため、
 従兄弟:西郷清員の下條村へ移った。 

3月?日 武田軍は近習・一門衆の合議で4月初旬には遂に甲斐に
 撤退することになった。

4月12日、武田軍を甲斐に引き返す三河街道上で死去した。
  享年53  「駒場説」が有力説。


●徳川家康は岡崎城に危機が迫り、奥三河における武田勢力を牽制する
 ため平を味方に引き入れようと奥平貞能に使者を送った。
  奥平貞能の答は「御厚意に感謝します」と色よい返事をしない。
  徳川家康は織田信長に相談した。
 織田信長は「家康の長女・亀姫を定能の長男・貞昌に与えるべし」
 との意見を伝えてきた。
 徳川家康は奥平貞能に
 @亀姫と嫡男:貞昌の婚約
 A領地加増
 B貞能(定能)の娘を本多重純(本多広孝の次男)に入嫁させること
 を提示した。

6月22日、奥平貞能(定能)は徳川家康に
@信玄の死は確実なこと
A定能親子は徳川帰参の意向であること
を伝え、再び徳川家康の家臣となることを約束した。

7月 武田軍は長篠城の救援に向かった。
===元亀4年(1573) 7月28日→天正元年(1573)7月29日==== 

8月 長篠城主・菅沼正貞は降伏し、長篠城を明け渡した。
   菅沼正貞は、徳川と通じているとの疑念をもたれ、武田軍に
   身柄を拘束された。

8月21日、奥平一族郎党は亀山城を退去し、徳川方に走った。
8月26日 奥平次男:仙千代をはじめとした人質3人が処刑された。
(★ウィキペディアより)

●武田勝頼は、奥平貞能親子の離反に怒った。
  奥平貞能2男=奥平貞昌の弟:仙丸
  日近奥平貞友の娘:おふうを磔にした。

奥平貞能は長男:貞昌(信昌)に家督を譲って隠居し、徳川家康の許で
 奥三河の地勢や人物関係を教える助言役に徹していたと言われている。

徳川家康は武田軍の撤退が始まり、武田信玄の死が広まった直後に
長篠城を奪還した。菅沼定盈は長篠城攻めに参加した。


長篠城には徳川方から武田方に転じていた奥三河の国衆:奥平貞昌
 (奥平信昌)が武田信玄の死を疑っていた父:奥平貞能の決断で
 奥平一族を連れて徳川方へ再帰属した。
 


・天正2年(1574) 12月 菅沼定盈は野田城を奪還した。
 菅沼定盈が再度城主として入城した。

************************
武田&織田・徳川の長篠城戦いの事前状況
※長篠城は、三河路の小城である。しかし、
 武田も徳川とって長篠城の領有は重要な意味を
 持っていたのである。
武田の3遠計画 VS 松平元康の領土計画

●武田家:当時の状況
 総石高は約130万石・・・当時最大規模。
 +動員可能兵力・・・3万3000人で最大だ。
長篠城攻めに全兵力を割く訳には行かない。
 @武田氏老臣・・内藤昌豊・馬場美濃守信房など
   武田勝頼を軽んじる傾向があった(伝)。
→長篠城&織田・徳川との戦い反対派に発展
 A武田氏新興・・跡部勝資
→長篠城&織田・徳川との戦い断行派に発展
→武田勝頼にとっては 武田家の三河長篠城が徳川家の
  支配下にあるのは、望ましくない状況であった。
 武田勝頼「俺は父:信玄にも劣らない武将になろう。
  『武田家に、勝頼あり。』と威信を内外に示すため
  には、長篠城奪還が必要不可欠だろう。やってやる。」

▲松平=徳川家:当時の状況
 総石高約50万石。・・・動員可能兵力は、10000強程度?。


■織田家:当時の状況
 総石高は400万石強? 総兵力は10万以上。
 (※織田信長は、武田対策に投入できる兵員数に
   限界があった。)
 織田信長の当面の課題は、武田信玄と傀儡将軍:
 足利義昭の信長包囲網だった。
 織田信長の危惧 
 @浅井・朝倉の連合軍
 A武田信玄の将軍家接近
 
★織田信長「何、武田信玄が死んだか。ラッキー、包囲網
 は足並みが乱れるだろう。俺の敵は。東の武田・西の毛利だ。
 近いうちに武田を叩いておこうかのう。」・・・

・天正2年(1574)9月 織田信長は長島一向一揆を鎮圧した。
人間バーベキューと言われる状態だった。

**************************
・天正2年(1574)
2月 武田勝頼が美濃:明智城を攻撃。
5月 武田勝頼が遠江:高天神城を攻略。
      三方ヶ原の戦い

●武田勝頼が長篠城奪還に向けて動きだした。
★徳川家康「しかし、我が兵力は約10000。単独では
 武田勝頼に勝つことはできないだろう。織田信長の
 助力を得なければこの事態を打開できないだろう。」
 と思った。 

・天正3年(1575) 
▲2月 徳川家康は奥平貞昌を長篠城主に任命。
5代:奥平貞能と嫡子:奥平信昌が作手を退去。
 貞能・信昌親子は徳川家康に本領安堵。
 徳川家康は
 @長女:亀姫を松平信昌と婚姻すること、
 本領など三千貫文の地を宛行うこと、
 を約束した。
 奥平貞能と奥平信昌が徳川氏に従属。
 徳川家康は、奥平貞昌を長篠城に入って守るように命じた。
 徳川家康は堀川城攻め同様、寝返った者を最前線に置いた。

 5代:奥平貞能は額田郡亀穴城城代。
 6代:奥平貞昌21歳は長篠城城代。
 奥平貞昌の大叔父、叔父、弟、甥の4世代で支族を分出。
 奥平貞昌の宗家は、奥平氏族をの重臣として厚遇
 身内から有力7家&小領主5氏が選出。
 計・・12家は7族5老奥平氏の家老衆となった。




■4月 織田信長は本願寺攻撃中


4月 武田勝頼は1万5千の大軍を率いて三河へ侵攻した。
 「何、武田勝頼の大軍が長篠を攻め寄せてきた。」
 という知らせ。・・・
★織田信長「もしかして、武田勝頼との決着をつける絶好の
  チャンスかも・・・。」 

●4月末 武田勝頼の一部隊が長篠に到着。

●5月6日 武田勝頼の本隊は吉田城を攻略。
        二連木城・牛久保城を攻略。

●5月8日 武田勝頼は約1万5000の兵力を投入し、
     長篠城奪還のため、長篠城を包囲。

@大通寺山・・・馬場信房等2000
A天神山・・・・土屋昌次等2500
B篠場野・・・・穴山信君等1500
C有海原・・・・山県昌景等1000
D医王寺山・・・武田勝頼等3000 
E鳶が巣山・・・武田信実等1000
F岩代・・・・・内藤昌豊等2000
 G本陣後方・・・甘利信康等2000 
Hその他:久間砦・中山砦・姥が懐砦・君が伏床砦

     武田軍の猛攻開始。

▲→城主:奥平貞昌以下500の兵は鉄砲200挺で
  長篠城の城兵は粘り強く抗戦を続けた。

▲5月10日 奥平貞昌は、織田信長、徳川家康へ救援を
 依頼。

●5月11日 武田軍は野牛門を猛攻。
         長篠城は岩石落とし・弓・鉄砲で応戦。

●5月12日〜14日 武田勝頼は総攻撃を開始。

■5月13日 織田信長が岐阜を出発

■5月14日 織田信長が岡崎に到着。
徳川家康と合流

●武田軍が長篠城内に侵入・・・食料庫を破壊。

▲鳥居強右衛門勝商は、武田勢によって包囲された
 城を抜け出し、岡崎の徳川家康に援軍を頼みに行く
 ため川を潜水し、対岸に渡った。長篠城を脱出

▲5月15日 鳥居強右衛門が岡崎に到着。
  鳥居強右衛門が織田信長に謁見。
  ※鳥居強右衛門徳川家康に報告すると、制止を聞かず、
 長篠城に帰ることにした。
▲5月16日 しかし、鳥居強右衛門は武田の兵に捕まった。
●武田勝頼は「長篠城に向かって『援軍は来ない。』と
 告げれば、命を助けてやる。」という取引を持ちかけた。
▲しかし、鳥居強右衛門は大声で援軍の到来を城兵に告げた。
●武田勝頼は長篠城対岸で磔にしたのだった。
(★鳥居強右衛門勝商の磔の絵)
▲鳥居強右衛門の決死の働きで長篠城は士気が上がった。
■5月13日 織田信長が岐阜を出発。
織田信長は3度目の松平元康からの手紙には
 「もし、援軍を出してくれぬなら、武田に遠江を譲って
  和睦し、武田の先方となって尾張を攻める。」とある。
(★甲陽軍艦)
 @織田信長は、棒1本と縄1本を持つように指示した 
A織田信長は、出陣しない武将から鉄砲&足軽鉄砲隊
  を出させた。

******************************
■5月14日 織田信長が岡崎に到着。
徳川家康と合流38000になった。
▲鳥居強右衛門勝商は、武田勢によって包囲された
 城を抜け出し、岡崎の徳川家康に援軍を頼みに行く
 ため川を潜水し、対岸に渡った。長篠城を脱出
▲5月15日 鳥居強右衛門が岡崎に到着。
  鳥居強右衛門が織田信長に謁見。
  ※鳥居強右衛門徳川家康に報告すると、制止を聞かず、
 長篠城に帰ることにした。
▲5月16日 しかし、鳥居強右衛門は武田の兵に捕まった。
●武田勝頼は「長篠城に向かって『援軍は来ない。』と
 告げれば、命を助けてやる。」という取引を持ちかけた。
▲しかし、鳥居強右衛門は大声で援軍の到来を城兵に告げた。
●武田勝頼は長篠城対岸で磔にしたのだった。
(★鳥居強右衛門勝商の磔の絵)
▲鳥居強右衛門の決死の働きで長篠城は士気が上がった。

(★鳥居強右衛門勝商の磔の絵)

▲■5月17日 織田・徳川は野田城に到着。野陣。

▲■5月18日 織田信長3万、徳川家康8千=3万8000
の援軍は長篠城の西方約4kmにある設楽原に到着した。
 @織田信長は後方の極楽寺山に本陣を置いた。
 A 副将:織田信忠は天神山である。
 B徳川家康達は連吾川に沿って西側に陣を築いた。


     ■
■佐久間 ■
・・・・・→信長 ■丹羽長秀
■織田信長 ■織田信忠 ■羽柴秀吉



   ▲石川数正
▲松平信康 ▲鳥居元忠
▲松平元康 ▲本多忠勝
  ▲榊原康政
▲平岩親吉 ▲内藤信成
▲本多忠勝 ▲大久保忠世・忠佐

5月18〜20日 馬防柵を構築開始。

▲ついに、奥平貞昌は徳川家康と織田信長の連合軍
 3万8000の到着まで、長篠城を守り抜いた。

●5月19日 武田勝頼は軍議を開いた。
@武田氏老臣・・内藤昌豊・馬場信房・山県昌景など
   →長篠城&織田・徳川との戦いに反対。
 A武田氏新興・・跡部勝資
→長篠城&織田・徳川との戦いを断行。

武田勝頼は
 「3日がかりで、陣を作る織田・徳川軍は弱い。
  びびってるな。・・・武田は織田・徳川戦で
  一度も負けたことがない。兵力差なんて
  なんのその・・・」と、思ったのだろう。


●5月20日 武田勝頼は長篠城攻略を一時休憩。
 武田軍は長篠城の包囲を解いて、設楽原へ進出した。
 武田軍と織田徳川連合軍は設楽原の地で対峙した。

▲馬場信房
▲真田信綱
▲土屋昌次
   ▲穴山信君
▲一条信龍
 ▲武田勝頼・・・3000 武田信光・望月信雄
▲小幡信貞
▲武田信廉
▲内藤昌豊
▲原昌胤
▲山県昌景
▲武田信実(長篠城押さえ:鳶が巣山)

▲5月21日 
 長篠役・設楽原決戦の始まりである…。

●設楽原決戦の本隊
武田勝頼
武田信廉、
武田信豊・望月信永(信濃望月城)兄弟、
一条信龍(信玄10男:武川衆)、武田信友・信光親子、穴山信君、
小山田信茂(岩殿城)
山県昌景・昌次親子 (★家臣が後、井伊直政の家老クラス5人排出)
内藤昌秀(当時、箕輪城代)
馬場信春
土屋昌続・昌恒兄弟、土屋貞綱
   (★土屋昌恒の家臣は井伊直政の家臣)
真田信綱・昌輝・武藤喜兵衛(後、真田昌幸)兄弟
原昌胤(★後、家臣の一部が井伊直政の家臣)
横田康景・原盛胤兄弟
跡部勝資
  (★長男:昌明は内藤昌豊の養子。昌明次男が後、井伊家家老)
長坂光堅
甘利信康
米倉重継(武川衆)
柳沢信俊(武川衆。後、子孫の所領は高崎市旧群馬町)
小幡昌盛(元小畠氏…小幡に改姓。)
初鹿野昌久(後、さいたま市に城を構えた。)
岡部正綱(元今川:高天神城代)
朝比奈信置(元今川:掛川城代)
小笠原信嶺(信濃国林城・松本城代)
室賀信俊(信濃国室賀城:千曲市)
屋代正長(信濃国屋代城・荒砥城など:千曲市)
大井貞清(元信濃内山城主:佐久市→上野国根小屋城代・・・)
専光寺快川(恵林寺「心頭滅却すれば火も亦た涼し」)
根津月直(信濃国根津下城主・叔父の妻が真田幸綱の妹)
鎌原重澄(上野国鎌原城主:真田信綱のはと従兄弟)
安中景繁(上野国安中城主:甘利信康の娘婿)
小幡憲重(討死したとされるが詳細不明)・信貞親子

●長篠城監視部隊:鳶ヶ巣山砦など守備隊(長篠城の南対岸)
鳶ヶ巣砦:河窪信実、小宮山信近
姥ヶ懐砦:三枝昌貞・守義・守光兄弟
君ヶ伏床砦:和田業繁
中山砦:五味高重、飯尾助友・祐国兄弟、名和無理之助
久間山砦和気善兵衛、倉賀野秀景、原胤成

●有海村駐留部隊(長篠城の西対岸)
高坂昌澄、小山田昌成、雨宮家次、山本勘蔵信供
 父:高坂弾正(春日虎綱)10000は海津城で上杉景勝を牽制。


★明日は「設楽ガ原」かな?

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