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zoom RSS 箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政 126『柿本城』&【鈴木重時→鈴木重好(井伊家家老)】

<<   作成日時 : 2017/12/05 08:21   >>

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・平成29年(2017)11月2日、比丘尼城→宇利城→野田城→設楽が原
→長篠城→武田勝頼の本陣→鳳来寺→柿本城などに行った。
天文元年(1532)頃、三河足助鈴木氏の末裔:鈴木長門守重勝・嫡男
:重時が吉田郷に土着した。鈴木重勝は上吉田に白倉山城、下吉田に
柿本城を築いた。鈴木重勝は娘を井伊直満に嫁がせた。
戦国時代、
近藤康用は宇利城主・比丘尼城主であった。菅沼定盈(みつ)は野田城
主であった。菅沼忠久・忠道父子は井伊谷の隣のキ田に住んでいた。
・永禄11年(1568) 12月15日 徳川家康が岡崎から菅沼定盈を
大将に菅沼忠久・近藤康用・鈴木重時が道案内し本坂峠を通り、井伊
谷に侵攻した。井伊直虎が徳政令を発布し小野政次に井伊谷を乗っ取
られた形になった直後であった。
・永禄12年(1569)鈴木重時は堀江城攻めで討ち死にした。
 鈴木重好11歳であった。
・元亀3年(1572) 鈴木重好は武田信玄家臣:山県昌景は柿本城にせま
 った時は浜松に逃げ込んだ。
・天正18年(1590)井伊直政が箕輪城に入城した時、鈴木重好や近藤
 秀用・菅沼忠道も箕輪に付いてきた。
・慶長7年(1602)井伊直政が亡くなった。鈴木重好は5500石で井伊家
 家臣の中で石高が最も多かった。

画像

 (★バッテリーがなくなり、無料画像借用)


 
箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政35【鈴木重勝→鈴木重時→鈴木重好】
http://53922401.at.webry.info/201702/article_13.html
★鈴木重時の妹は井伊直満の妻→井伊直親→井伊直政
  鈴木重時は井伊直親の伯父である。
★鈴木重時の正室は奥山朝利の娘である。
  鈴木重時は井伊直政の従兄弟である。子が鈴木重好である。

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政36【菅沼忠久→菅沼忠道】
&【菅沼定盈&菅沼定利】
http://53922401.at.webry.info/201702/article_15.html
★菅沼忠久の妻は、鈴木重時の娘(重好の姉)である。
★菅沼忠久と鈴木重好は義兄弟である。

箕輪初心★源頼朝29【側近:近藤七国平】
http://53922401.at.webry.info/201502/article_15.html

箕輪初心:生方▲愛知県@『比丘尼城』:【足利直冬→熊谷重実→近藤満氏】
http://53922401.at.webry.info/201712/article_3.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政36【近藤康用→近藤秀用→5近藤】
http://53922401.at.webry.info/201702/article_14.html
★近藤康用の妻は鈴木重時の娘。
★近藤康用の娘が中野三信(井伊直政家臣)の妻
★中野三信の父:中野直之の妻は奥山朝利の娘

・弘治元年(1555) 当井伊家23代当主:井伊直盛には男子が
  いなかった。今川義元の許しを得て井伊直親を改めて嗣子
 として迎え入れた。

●井伊直親を養子にして家を継がせた。
本来なら、井伊直盛の娘(直虎)と井伊直親が結婚するはずであった。
ところが、井伊直盛の娘は井伊直親が死んだと思い込んで出家していた。
今川家一族からの養子より身内に近い娘からということで
 ・・・・・
新野左馬助親矩の娘は今川義元の命令で、ほかの今川家老:
狩野主膳・庵原朝昌・三浦正俊(三浦元直かも?)などに
嫁がせていた。
そこで、井伊直親と結婚することになったのが奥山朝利の娘であった。
 
●奥山朝利の子ども
@嫡男:奥山朝宗 (?〜永禄3年(1600)
  奥山朝利の嫡男:奥山六左衛門朝忠(永護院の兄)
  は井伊家家老になっていた。
   奥山朝忠→奥山朝宗→奥山朝久。
A次男:奥山朝重 (?〜?)   井伊源左衛門家
   奥山朝重→奥山朝正→奥山朝長。
B3男:朝家 (?〜?)
   奥山源太郎朝家→奥山朝房→奥山朝次。   
C4男勘三郎 不明
●奥山朝利にはたくさんの娘がいた。
D娘@→井伊直親の妻(おひよ)・・・井伊直政を生んだ。
  戒名から「永護院」と呼ばれている。
 8人姉妹の中でも一番格上の井伊直親に嫁いだ。井伊直政の母となった。
  →永禄12年(1571)松下清景の妻として再婚した。
★天文8年(1539)生まれとすれば、32歳かあ。

E娘A→中野直由の妻
 中野直由の嫡男:中野直之
長男:中野三孝(三信):妻が近藤康用の娘・・・井伊家家老。
次男:中野一定→松下清景の養子:松下一定:井伊家家老・安中藩第一家老

F娘B→小野玄蕃朝直(小野政次の弟)の妻
  ・永禄3年(1560) ▲桶狭間の戦い
  井伊直盛・小野正次(道好)弟:小野玄蕃朝直も討ち死に。
  ・天正3年(1575) 2月井伊直虎に付き添われて井伊直政
   (15歳)は浜松の徳川家康に出仕した。
 虎松(井伊直政)と小野玄蕃の息子:亥之助(小野朝之)
   が出仕した。徳川家康から
   井伊虎松は「万千代」の名前を貰った。
   小野朝之は「万福」の名前を貰った。
  井伊直政と小野朝之は従兄弟であった。
   2人の母は奥山朝利の娘で、姉妹であった。
 
G娘C→西郷伊予守正友の妻
 天正15年(1587) 井伊直政の付家老2000石となった。
  嫡男:西郷重員3000石。慶長14年(1615)没。
  西郷員吉・・・妻は井伊家家老:椋原正長の娘。

H娘D→鈴木重時の妻・・・鈴木重好:井伊家家老
I娘E→菅沼淡路守の妻
  ★菅沼忠久の妻は、鈴木重時の娘。 
   菅沼忠久の嫡男:菅沼忠道の可能性が高い。
J娘F→橋本四方助の妻
K娘G→平田森重の妻(於徳)

★奥山朝利は娘たちを井伊家の有力家に嫁がせていった。
 奥山家の影響力を強めていった。
小野玄蕃の妻になった娘・中野直由の妻になった娘もいた。





【1】平成29年(2017)11月1日***************

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政113『井伊谷遺産センター』
井伊谷の歴史
http://53922401.at.webry.info/201711/article_15.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政114『井伊谷妙雲寺』直虎と南渓
の位牌・南渓肖像画
http://53922401.at.webry.info/201711/article_16.html

箕輪初心:生方▲井伊谷『謂伊神社』&モロード様
=客人神のうんこ神様?
http://53922401.at.webry.info/201711/article_18.html

箕輪初心:生方▲『井伊谷宮』と宗良親王復刻版
http://53922401.at.webry.info/201711/article_19.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政117『龍潭寺』:昊天が彦根清涼寺開山
http://53922401.at.webry.info/201711/article_20.html



【2】平成29年(2017)11月2日***********
○06:00 気賀の町中に・・・
箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政119気賀A展望台からの気賀と『堀川城』
http://53922401.at.webry.info/201711/article_22.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政117気賀B「長楽寺」・『井伊直親の墓』
http://53922401.at.webry.info/201711/article_23.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政120祝田【蜂前神社】と『徳政文書』
http://53922401.at.webry.info/201711/article_24.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政121気賀D『刑部城』
http://53922401.at.webry.info/201711/article_25.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政122気賀E『本陣・復元関所』と【近藤家】
http://53922401.at.webry.info/201711/article_26.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政123三ヶ日町『佐久城』
&【浜名氏と上野国長谷寺】
http://53922401.at.webry.info/201711/article_29.html

箕輪初心:生方▲浜松市三ヶ日町『千頭峯城遠望』&【井伊谷・三ヶ日の歴史】
http://53922401.at.webry.info/201712/article_1.html


===宇利峠(静岡県⇒愛知県へ)==========

P▲城891比丘尼城(近藤康用の支城)

箕輪初心:生方▲愛知県@『比丘尼城』:【足利直冬→・熊谷重実→近藤満氏】
http://53922401.at.webry.info/201712/article_3.html

Q▲城892宇利城(近藤康用の最初の城)
箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政125愛知県A『宇利城』と【近藤康用・秀用】
http://53922401.at.webry.info/201712/article_4.html

R▲城893野田城(菅沼氏の城)
S▲長篠古戦場跡…馬防柵等の見物
21▲長篠城2回目…本の購入「」
22▲城894医王寺と武田勝頼本陣
23▲鳳来山東照宮&鳳来寺…★井伊虎松がいたとされる坊

24▲城895柿本城(鈴木重時の城)

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 (TVより)
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  (★無料画像より)
スマホもデジカメもバッテリーが切れた。
井伊谷と柿本城は車で30分程の道のりである。

田沢城・井平城を止めて・・・・

===??峠(静岡県⇒愛知県へ)==============
25▲奥山方広寺…★臨済宗方広寺派大本山。井伊氏分家の奥山氏が
 南北朝時代に建て奥山氏が庇護した。
井伊直虎の許婚::井伊直親の妻「ひな」の場所
※奥山館・奥山城・竜ヶ岩洞(2億5千万年前)には行けなかった。

○井伊谷の石原先生宅
26◆北岡大塚古墳
○井伊谷の石原先生宅
○GS…1900円…2日で190km走ったのか?
○トヨタレンタカー 約15000円
○ホテルセレクトイン浜松駅前素泊まり4200円
○夕食「藤田」…鰻&酒で3480円
○ホテルセレクトイン浜松駅
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【3】11月3日、
○07:00 駅前散策
○朝食…パン屋
○08:30 祐太郎君
28▲城897二俣城
29▲城898鳥羽山城
30▲城899大平城(おいひら城)

箕輪初心:生方▲浜松市『大平(おいだいら)城遠望』
&【井伊道政・宗良親王】
http://53922401.at.webry.info/201712/article_2.html

31▲城900引間城(曳馬城)
32 椿姫観音
○昼食「うなぎの佳川」…2800円+α。
 祐太郎君のおごり。ありがとう。
13:40浜松駅…祐太郎君と別れた。
14:11発 15:40着 (89分)ひかり468号 東京行
16:11 東京→高崎
18:00 家




●『宇利・野田・柿本・井伊谷の歴史』
・元弘3年(1333)
足利尊氏の家臣:新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼした。
 (田中大喜説)

 足利尊氏が六波羅攻めをした。
 熊谷直鎮(なおつね)が参陣した。源平合戦で活躍した熊谷次郎直実
 の子孫である。
 熊谷直鎮(なおつね)は戦功により三河国簗郡を賜った。

・延元元年・建武3年(1336)頃
 光明天皇を擁立した足利尊氏が建武政権の軍勢を破って
 京へ入り、後醍醐天皇は吉野へ逃れることとなった。
後醍醐天皇は大和国吉野(奈良県)の南朝方となった。
足利尊氏の離反?謀反?によって世の中は
 南北朝時代となった。

 足利尊氏(北朝) VS 後醍醐天皇(南朝)
 
南北朝の対立が本格化した。

●井伊氏が詰め城:三岳城を築いた。


*北朝方
※宇利庄の領主は北朝方の足利尊氏の子:足利直冬であった。
 足利直冬の領地:宇利庄に比丘尼城はあった。

今川範国・了俊は駿河、遠江両国の守護であった。
高師秦は三河国の守護であった。
足利尊氏の親戚で北朝方に属していた。

*南朝方
  井伊道政?あるいは井伊行直は南朝方であった。
  遠江の井伊谷を中心に南朝方の勢力拠点となっていた。

・建武4年(1337)、三方ヶ原の戦い
南朝:井伊氏 VS 北朝:足利系今川範国・了俊

 三河・遠江の国境付近や浜名湖周辺では、北朝方と南朝方の勢力
 が入り乱れて激しい攻防が繰り広げられた。

 宗良親王は難破し、井伊谷に行った。
井伊道政は後醍醐天皇の皇子:宗良親王とともに三岳城に籠もった。

井伊氏は、三嶽城(井伊谷)・奥山城を中心に、南を鴨江城 (浜松市)、
北を天山城(あてやまじょう、田沢城、浜松市引佐町)、西を千頭峯城
(浜松市三ケ日町)、東を大平城(おいだいら)と、支城で固めた。
  
・暦応2年・延元4年(1339)〜暦応3年・興国元年(1340)南朝:
宗良親王を迎えた井伊氏の井伊谷に北朝:足利方の高師泰・仁
木義長ら の軍勢が現浜松・井伊谷に押し寄せてきた。三岳城に
籠もったが、攻略され、更に大平城で敗北した。宗良親王
は信濃に逃亡した。
 井伊谷は今川了俊の支配下になった。
以後 敵対していた今川氏支配下に置かれた。

・建徳元年/応安3年(1370) 今川了俊が九州探題に任じられた.。
 今川了俊は南朝方のくすぶる九州を北朝方の九州にするために
 派遣された。
  遠江・駿河の武士を引き連れて九州へ赴いた。
「遠江・駿河の人々…横地・勝間田・奥山・井伊・早田・河田」
 井伊氏惣領家と庶子家の奥山・早田氏らが従軍していた。

・室町時代〜〜〜(略)
 
・戦国時代
・応仁元年(1467) 応仁の乱
  比丘尼城は熊谷重実の居城となっていた。
熊谷重実は源平合戦で活躍した熊谷次郎直実の子孫である。

・文明年間(1469〜87)宇利城を築城した。
  熊谷重実が宇利城に移った。
比丘尼城は宇利城の支城とも考えられる。
  熊谷重実の子:実長は今川氏に属していた。


・享禄3年(1530) 岡崎城の松平清康(徳川家康の祖父)は三河統一を
 進めていた。
 宇利城の熊谷備中守実長を攻めるために兵3000余で軍を進めた。
野田城の菅沼定則、作手城の奥平貞勝はすでに松平清康に従っていた。
 菅沼定則は先陣として豊川渡渉の道案内をつとめ、奥平貞勝も松平
 清康軍に合流した。
近藤満用は宇利村の一部を領していたと思われる。

 松平清康軍は宇利城に迫った。
 松平清康が宇利城を攻めた折、近藤満用は松平氏に臣従したようで
 ある。(つまり、裏切った)
松平清康は富賀寺の山頂に陣取った。1000余の兵で搦手を押えた。
松平信定、松平右京亮親盛らの一族衆は2000余の兵で大手口に
迫った。
 宇利城の大手めがけて松平勢が殺到した。
 宇利城へ一番乗りしたのは松平右京亮の隊であった。
 宇利城主:熊谷重実は松平右京亮隊に襲いかかった。
 松平右京亮は討死を遂げてしまった。

 松平勢が反撃にでた。
 菅沼定則に内通した岩瀬庄右衛門(子孫が「幕末3俊:岩瀬 忠震)
 が火を放った。
 城主の熊谷実長は裏山伝いに落ち延びた。
  
松平清康の三河の統一が成し遂げられた。
 
 熊谷方の武将・近藤満用、近藤平左衛門、近藤力之丞がいた
  というので、裏切った武将は近藤氏ということになる?
近藤氏は松平清康方として奮戦し、熊谷備中守を討ち取り、
  宇利城を賜るとなっている。
(★『近藤氏系譜』
近藤満用は宇利城主(現新城市中宇利)となった。
近藤満用の長子:乗直は、松平清康に従った。
 戦傷で歩行の自由を失い、弟:忠用が家督を継いだ。
 宇利城は戦功第一となった菅沼定則に山吉田とともに与えられた。

天文元年(1532)頃、三河足助鈴木氏の末裔:鈴木長門守重勝の嫡
 男:重時が吉田郷に土着した。
 鈴木重勝は上吉田に白倉山城、下吉田に柿本城を築いた。
 下吉田は「山吉田」とも言われる。
 鈴木重時は柿本城を本城とした。

・天文5年(1536) 今川義元が家督を継いだ。
 井伊氏と今川氏で和議が結ばれた。
 今川義元の西進が始まった。

・天文11年(1542)▲三河田原城(愛知県田原市)攻撃 
  井伊直虎の祖父:井伊直平の子:14代(19代)井伊直宗が
  野伏により討死した。
  井伊直盛(井伊直虎の父)が跡を継いだ
  井伊直平の妻(井伊直盛の母)は井平直郷の娘であった。
  井伊直宗の妻:浄心院は、久留女木に如意院建てて、夫:
  井伊直宗の菩提を弔った。
  井伊直平は井平城(小屋山城)に隠居していたようである。

  近藤忠用・近藤康用父子は共に今川氏親に従った。
  知行221貫文を安堵されていた。

・永禄3年(1560) 桶狭間の戦い
今川義元が戦死した。
  井伊直盛も戦死した。井伊直親があとを継いだ。
井伊家は中野直由が形式上(直親の遺言)で、井伊谷城主になった。

  刑部城代:庵原忠良も討ち死にした。

  遠江国は「遠州錯乱」と呼ばれる混乱状態に陥った。
 新田氏は井伊直盛時代の「井伊谷七人衆」の1人であったが、
「桶狭間の戦い」後、独立して気賀領主となったと伝えられている
「遠州気賀領主新田左衛門入道喜兼(元直平ノ家臣也)」
  (★『井伊直平公一代記』)
 気賀には新田友作・山村修理・尾藤主膳:竹田高正などもいた。
 気賀に堀川城や刑部砦が築かれた。

 刑部城は庵原忠良から長谷川→今川義元の家臣:新田美作入道
 の居城となった。
 後、庵原忠良の一族が新野親矩の娘を貰ったのも頷ける。
 (太原雪斎も庵原一族)

・永禄4年(1561) 鈴木重時は菅沼忠久・近藤康用らと井伊直親を
 今川氏真に味方するように進言した。
 今川氏真から褒美を貰った。

・永禄5年(1663)
井伊直親は小野政直の息子・小野道好(政次)の讒言により、今川氏真
 から松平元康(徳川家康)との内通の疑いを受けた。
 今川家の縁戚でもあり、井伊直盛の妻:祐椿尼は妹であった新野親矩
 の取りなしで、陳謝のために駿府へ向かうことになった。

・12月14日(1563年1月8日)…3月2日説
  井伊直親は掛川で今川家の重臣:朝比奈泰朝の襲撃を受けて殺害
  された。享年27。

・永禄7年(1564) 中野直由が戦死した。
  中野直之があとを継いだ。
  奥山六左衛門はひよ(井伊直政の母・中野直之の妻の姉)の姉弟で
  あった。
 井伊家にはダレも跡継ぎがいなくなった。
   
・永禄8年(1565) 次郎法師は還俗し、井伊直虎と名乗り女領主に
  なった。

・永禄11年(1568)
9月 瀬戸方久は今川氏真より、「祝田十郎名」と11ヶ所の金で買った
  土地を安堵された。しかし、新城を築くようにと条件付きであった。
★新城が「堀川新城」・「刑部城の拡大工事」なのか不明である。
 TVでは、堀川城になっていたが、安堵された土地はキ田川左岸なので
 刑部城かも知れない???

11月 井伊直虎は関口氏経と連署で徳政令を出した。
  ★今川氏真が介入してきたことを意味する。
「井伊直虎は今川氏家臣関口親永一族:関口氏経の息子
 (次郎法師の母方の従兄弟)を井伊次郎と名乗らせて
 当主とした説もある。
 (★『鉾前神社古文書』)に唯一「井伊直虎の名がある。」
 井伊直盛嫡子「井伊直親養子」、妹に「女子」とあるだけである。
 (★『おんな城主井伊直虎と井伊家の歴史』井伊達夫著)

11月 徳川家康が遠江の平定に着手
  菅沼忠久が徳川家康に加担する菅沼一族の野田菅沼定盈
  (野田城)から今川家の離反の誘いを受けると、承諾した。
  菅沼忠久が鈴木重時や近藤康用も誘った。

 野田菅沼3代目当主の定盈の計らいによって菅沼忠久や鈴木重時と
 共に徳川家康に属し、所領を安堵された。
 
 井伊谷三人衆(近藤康用・鈴木重時・菅沼忠久)も
 徳川家康に加担することになった。

 遠州切り取りの第一歩、刑部城の攻略の先鋒は旧今川義元配下だっ
 た野田城の菅沼新八郎定盈(さだみつ)に井伊谷3人衆であった。

 近藤康用は子:近藤秀用を従軍させていた。
 老齢である上、長年の戦働きによる負傷で歩行困難となっていた
 からである。

 徳川家康は本坂峠を越えて岡崎から湖北へ攻め込んだ。
 徳川家康は井伊谷城を攻略した。
 徳川家康から近藤康用が井伊谷を安堵された。
 近藤康用が支配することとなった。

 井伊谷3人衆が井伊谷城から道案内した。

▲刑部城攻め
 「井伊谷三人衆」:菅沼忠久・鈴木重時・近藤康用に野田菅沼定盈
 と大将として、刑部城を攻撃させた。

今川家臣:新田氏が籠城する兵力は多くて百程度だったと推測できる。
 刑部城主は新田氏は逃げたようである。

徳川家康は井伊谷城に次いで刑部城を落城させた。
刑部城には、菅沼定盈の叔父・菅沼又左衛門が城代となっていた。
その後、酒井左衛門尉忠次が入城した。

新田友作、尾藤主膳、山村修理らは、地元の農民など雑兵約1700人を集めて気賀の堀川城に立て籠もった。
しかし、満潮時であったのか?城は攻略できなかった。
  

「堀川城の説明板」
永禄11年(1558)12月、井伊谷周辺を味方に付けた家康が遠江
 へ侵攻します。気賀周辺の住民は氏真に付いて家康に抵抗しま
 した。駿府から敗走した氏真がたてこもった掛川城攻めが長引
 き、武田軍の遠江侵入の動きが伝わる中、気賀周辺の反徳川の
 動きも活発でした。こうした状況の中、家康は堀川城の兵の目を
 避けて、いったん三河に戻っています。」
(★浜松市教育委員会による現地案内板)
 

 ・永禄12年(1569)
2月 徳川家康は掛川城を落とした
 
 3月27日、再び堀川城を攻めた。
  中村正吉は船を出して、徳川家康を迎えた。
  堀川城は徳川勢によって一方的に殺戮された。
  1000人以上殺され、逃げた農民ら700人の首を刎
  ねられた。
 徳川家康は合計1700人、殺した。

約2000人説もあるようだ。
(★浜松市教育委員会による現地案内板)

 堀川城の戦いにて東林寺などが消失した。  

徳川家康の下命を受けて、井伊谷3人衆は堀江城を攻めた。
 今川方の守将:大沢基胤率いる城兵は激しく防戦した。
 反撃された。
 ●鈴木重時は近藤康用の子:登助(近藤秀用)と競い城門にたどり
 着いた。しかし鈴木重時は、大沢方の攻撃を受けて討ち死にした。
鈴木重時の後を継いだのは嫡子:重好であった。11歳であった。

 大沢基胤は結局は和睦する形で降伏した。
 ( 現舘山寺温泉:遊園地浜名湖パルパルや旅館ホテル九重の敷地)



・元亀3年(1572)
武田信玄が遠江国へ侵攻した。
 武田信玄本軍は二俣城を囲んだ。

 山県昌景は信濃から三河路を南下した率いる5000余の別隊が
柿本城へ押し寄せてきた。
山県勢は二俣城攻囲の信玄本軍に合流しようとしていたのである。
 柿本城には鈴木重好14歳と伯父:鈴木権蔵重俊、近藤秀用、
  井伊飛騨守らが手勢を率いて守っていた。
 信濃国から南下する別働隊の山県昌景が鈴木重好いる柿本城を攻めた。
 鈴木重好は叔父:鈴木出雲守が守備する遠江井伊谷の伊平城(小屋山城)
 へ退いた。
 しかし、山県昌景に小屋山城(伊平城)が陥落させられた。
 伊平直成も討ち死にした。
鈴木重俊は銃弾に倒れ、井伊飛騨守は討死した。
 
 鈴木重好と近藤秀用は徳川家康のいる浜松城に退いた。
 井伊谷城も攻略された。
やがて、二俣城も落城した。

12月22日(1月25日)「三方ヶ原の戦い」
徳川家康は武田信玄に敗れ、刑部は武田領となった。

・元亀3年(1572) 武田信玄は「刑部砦」かその付近で越年した。
 武田信玄の軍は2万人以上の大軍であった。
 
・天正元年(1573)
 正月 武田信玄は龍たん寺を焼き、三河国への進軍を再開した。

 2月 武田軍によって三河国設楽郡の野田城を落とされた。
 城主・菅沼定盈が拘束された。
 
 武田信玄の発病によって長篠城まで退き、武田信玄の死去により
 撤兵した。

 徳川家康は井伊谷・気賀・刑部を武田から取り戻した。

・天正3年(1575) 長篠の戦い


鈴木重好は長篠の戦いで貢献した鳥居元忠の娘を娶った。
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・天正18年(1590) 井伊直政は箕輪城に入城した。
近藤康用の子:近藤秀用・鈴木重時の子:鈴木重好は家老として
 箕輪城に入った。

・慶長元年(1592)近藤康用の子:秀用は 箕輪城から逃げ出した。

・慶長5年(1600) 関は原の戦い
  井伊直政が高崎城から近江佐和山に移封になった。

・慶長7年(1602)井伊直政が亡くなった。
  徳川家忠に近藤秀用は許された。
  上野国青柳(前橋市青柳)に5000石の所領を与えられた。

井伊直勝は家督を継ぎ、佐和山藩主となり、名を井伊直継と改めた。
徳川家康から木俣守勝・鈴木重好は井伊直継の補佐を命じられた。
 また、佐和山城に代わる彦根城の築城を命じられた。
木俣守勝は井伊直継から1000石加増を受けて合わせて4000石となった。
 鈴木重好は5500石であった。70騎の組下を持っていた。
 息子は井伊直政の娘婿だった。
  (★『水戸鈴木家系譜』)
鈴木重好は木俣守勝とともに筆頭家老として政務を行った。

・慶長8年(1603)徳川家康が征夷大将軍となった。
井伊直継が徳川家康の命を受け、西国に向けての防衛拠点として
彦根城の築城を開始した。
井伊直継が彦根藩の成立となる。
総元締めが鈴木重好と木俣守勝であった。
@縄張り 
:早川幸豊(山県昌景→井伊家侍大将) 
   分家:玉村の与六部の早川与六
:石原主膳(山県昌景鉄砲奉行→北条氏政→井伊直政・井伊家家老)
:横地吉晴 (今川家家臣→北条家家臣→井伊直政・井伊家家老)
:孕石泰時(今川氏真家臣→山県昌景→井伊直政・井伊家家老)  
A普請奉行: 富上喜太夫・伴加右衛門・加藤金左衛門
B作事奉行:宇津木新九郎(宇津木泰繁の子ども)・横内弥左衛門
C大工棟梁: 浜野喜兵衛
(★『井伊軍志』:井伊達夫著)
A公儀御奉行3名、尾張藩や越前藩など7か国12大名が手伝った。
天下普請であった。
江戸幕府が大名に普請させたのは、京・大坂に備える必要あった
からである。
※高崎城の「遠構え」を彦根城の「惣構え(総構え)」を継承し、
武田流巨大丸馬出「鐘の丸」を構築した。

・慶長10年(1605) 木俣守勝が病気がちになったため、鈴木重好が
政務の中心となった。 
鈴木重好と同じく付家老(★『御付人』)の椋原正直や西郷重員
(正員の子)らを注進とした家臣は鈴木重好・重辰父子の不正を
徳川家康に直接告発した。
鈴木重好・重辰父子が彦根藩の金銀や米を流用したり、鈴木に近
い者を優遇したりするなどの不正を行っているとする全15か条
の告発文が出した。
木俣守勝は重好父子を弁護をした。
徳川家康は井伊家中の混乱を鎮めるために、鈴木重好を隠居させ、
上野国(★おそらく飛び地の安中)に帰らせ、鈴木重辰に跡を継
がせた。その上で、徳川家康は鈴木重辰と椋原正直・西郷重員ら
に起請文を書かせ、和解させた。

・慶長11年(1606) 井伊直勝は彦根城が完成した。
  佐和山城から彦根城へ居城を移した。

・慶長19年(1614) 相模国内で1万石を加増され、小田原城の城番
となる。
 近藤秀用は大坂の陣に参陣して武功を挙げた。

・元和4年(1618)、鈴木重辰は水戸徳川家の御付家老となり
  5000石を賜った。
以後代々水戸藩の家老をつとめた。
 幕末、水戸天狗党の争乱に関連して鈴木重棟が斬罪となる
 などして断絶の危機に瀕した。
 その後、再興された。

 明治を迎えた。


・元和5年(1619) 井伊谷へ転封となった。
  近藤秀用は1万5000石の大名として井伊谷藩を立藩した。
  林業に力を入れた。
  近藤5家に分かれた。
 



★明日は「野田城」かな?

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箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政 126『柿本城』&【鈴木重時→鈴木重好(井伊家家老)】 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
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