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zoom RSS 箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政125愛知県A『宇利城』と【近藤康用・秀用】

<<   作成日時 : 2017/12/04 08:43   >>

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平成29年(2017)11月2日、「堀川城」→「井伊直親の墓」→
「蜂前神社」→「刑部城」→三ヶ日「佐久城」「千頭峯城」を廻った。
愛知県新城市へと向かった。戦国時代、宇利城主・比丘尼城主は近藤
康用であった。野田城主は菅沼定みつであった。井伊谷のキ田屋敷に
は菅沼忠久・忠道父子に住んでいた。柿本城には鈴木重時・重好父子
が住んでいた。
永禄11年(1568) 12月15日 徳川家康が岡崎から菅沼定みつを
大将に菅沼忠久・近藤康用・鈴木重時が道案内し本坂峠を通り、井伊
谷に侵攻した。
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箕輪初心★源頼朝29【側近:近藤七国平】
http://53922401.at.webry.info/201502/article_15.html

箕輪初心:生方▲愛知県@『比丘尼城』:【足利直冬→・・熊谷重実→近藤満氏】
http://53922401.at.webry.info/201712/article_3.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政36【近藤康用→近藤秀用→5近藤】
http://53922401.at.webry.info/201702/article_14.html
★近藤康用の妻は鈴木重時の娘。
★近藤康用の娘が中野三信(井伊直政家臣)の妻
★中野三信の父:中野直之の妻は奥山朝利の娘

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政35【鈴木重勝→鈴木重時→鈴木重好】
http://53922401.at.webry.info/201702/article_13.html
★鈴木重時の妹は井伊直満の妻→井伊直親→井伊直政
★鈴木重好の正室は奥山朝利の娘である。
  井伊直政の従兄弟である。

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政36【菅沼忠久→菅沼忠道】&【菅沼定盈&菅沼定利】
http://53922401.at.webry.info/201702/article_15.html
★菅沼忠久の妻は、鈴木重時の娘(重好の姉)である。
★菅沼忠久と鈴木重好は義兄弟である。



【1】平成29年(2017)11月1日***************

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政113『井伊谷遺産センター』
井伊谷の歴史
http://53922401.at.webry.info/201711/article_15.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政114『井伊谷妙雲寺』直虎と南渓
の位牌・南渓肖像画
http://53922401.at.webry.info/201711/article_16.html

箕輪初心:生方▲井伊谷『謂伊神社』&モロード様
=客人神のうんこ神様?
http://53922401.at.webry.info/201711/article_18.html

箕輪初心:生方▲『井伊谷宮』と宗良親王復刻版
http://53922401.at.webry.info/201711/article_19.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政117『龍潭寺』:昊天が彦根清涼寺開山
http://53922401.at.webry.info/201711/article_20.html



【2】平成29年(2017)11月2日***********
○06:00 気賀の町中に・・・
箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政119気賀A展望台からの気賀と『堀川城』
http://53922401.at.webry.info/201711/article_22.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政117気賀B「長楽寺」・『井伊直親の墓』
http://53922401.at.webry.info/201711/article_23.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政120祝田【蜂前神社】と『徳政文書』
http://53922401.at.webry.info/201711/article_24.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政121気賀D『刑部城』
http://53922401.at.webry.info/201711/article_25.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政122気賀E『本陣・復元関所』と【近藤家】
http://53922401.at.webry.info/201711/article_26.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政123三ヶ日町『佐久城』
&【浜名氏と上野国長谷寺】
http://53922401.at.webry.info/201711/article_29.html

箕輪初心:生方▲浜松市三ヶ日町『千頭峯城遠望』&【井伊谷・三ヶ日の歴史】
http://53922401.at.webry.info/201712/article_1.html


===宇利峠(静岡県⇒愛知県へ)==========

P▲城891比丘尼城(近藤康用の支城)

箕輪初心:生方▲愛知県@『比丘尼城』:【足利直冬→・・熊谷重実→近藤満氏】
http://53922401.at.webry.info/201712/article_3.html

Q▲城892宇利城(近藤康用の最初の城)
○パンフレット
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○駐車場
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○大手口
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○説明板
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○登城口
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○松平右京亮の墓
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○姫御殿下→御馬屋平
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○主郭虎口
右主郭・左姫御殿
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○主郭
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・土塁
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本丸・姫御殿・御馬屋平・納所平・・・・
○納所平
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○石垣
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○井戸
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▼下山



R▲城893野田城(菅沼氏の城)
S▲長篠古戦場跡…馬防柵等の見物
21▲長篠城2回目…本の購入「」
22▲城894医王寺と武田勝頼本陣
23▲鳳来山東照宮&鳳来寺…★井伊虎松がいたとされる坊
24▲城895柿本城(鈴木重時の城)
===宇利峠(静岡県⇒愛知県へ)==============
25▲奥山方広寺…★臨済宗方広寺派大本山。井伊氏分家の奥山氏が
 南北朝時代に建て奥山氏が庇護した。
井伊直虎の許婚::井伊直親の妻「ひな」の場所
※奥山館・奥山城・竜ヶ岩洞(2億5千万年前)には行けなかった。
○井伊谷の石原先生宅
26◆北岡大塚古墳
○井伊谷の石原先生宅
○GS…1900円…2日で190km走ったのか?
○トヨタレンタカー 約15000円
○ホテルセレクトイン浜松駅前素泊まり4200円
○夕食「藤田」…鰻&酒で3480円
○ホテルセレクトイン浜松駅
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【3】11月3日、
○07:00 駅前散策
○朝食…パン屋
○08:30 祐太郎君
28▲城897二俣城
29▲城898鳥羽山城
30▲城899大平城(おいひら城)

箕輪初心:生方▲浜松市『大平(おいだいら)城遠望』
&【井伊道政・宗良親王】
http://53922401.at.webry.info/201712/article_2.html

31▲城900引間城(曳馬城)
32 椿姫観音
○昼食「うなぎの佳川」…2800円+α。
 祐太郎君のおごり。ありがとう。
13:40浜松駅…祐太郎君と別れた。
14:11発 15:40着 (89分)ひかり468号 東京行
16:11 東京→高崎
18:00 家


●『宇利・井伊谷の歴史』
・元弘3年(1333)
足利尊氏の家臣:新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼした。
 (田中大喜説)

 足利尊氏が六波羅攻めをした。
 熊谷直鎮(なおつね)が参陣した。源平合戦で活躍した熊谷次郎直実
 の子孫である。
 熊谷直鎮(なおつね)は戦功により三河国簗郡を賜った。

・延元元年・建武3年(1336)頃
 光明天皇を擁立した足利尊氏が建武政権の軍勢を破って
 京へ入り、後醍醐天皇は吉野へ逃れることとなった。
後醍醐天皇は大和国吉野(奈良県)の南朝方となった。
足利尊氏の離反?謀反?によって世の中は
 南北朝時代となった。

 足利尊氏(北朝) VS 後醍醐天皇(南朝)
 
南北朝の対立が本格化した。

●井伊氏が詰め城:三岳城を築いた。


*北朝方
※宇利庄の領主は北朝方の足利尊氏の子:足利直冬であった。
 足利直冬の領地:宇利庄に比丘尼城はあった。

今川範国・了俊は駿河、遠江両国の守護であった。
高師秦は三河国の守護であった。
足利尊氏の親戚で北朝方に属していた。

*南朝方
  井伊道政?あるいは井伊行直は南朝方であった。
  遠江の井伊谷を中心に南朝方の勢力拠点となっていた。

・建武4年(1337)、三方ヶ原の戦い
南朝:井伊氏 VS 北朝:足利系今川範国・了俊

 三河・遠江の国境付近や浜名湖周辺では、北朝方と南朝方の勢力
 が入り乱れて激しい攻防が繰り広げられた。

 宗良親王は難破し、井伊谷に行った。
井伊道政は後醍醐天皇の皇子:宗良親王とともに三岳城に籠もった。

井伊氏は、三嶽城(井伊谷)・奥山城を中心に、南を鴨江城 (浜松市)、
北を天山城(あてやまじょう、田沢城、浜松市引佐町)、西を千頭峯城
(浜松市三ケ日町)、東を大平城(おいだいら)と、支城で固めた。
  
・暦応2年・延元4年(1339)〜暦応3年・興国元年(1340)南朝:
宗良親王を迎えた井伊氏の井伊谷に北朝:足利方の高師泰・仁
木義長ら の軍勢が現浜松・井伊谷に押し寄せてきた。三岳城に
籠もったが、攻略され、更に大平城で敗北した。宗良親王
は信濃に逃亡した。
 井伊谷は今川了俊の支配下になった。
以後 敵対していた今川氏支配下に置かれた。

・建徳元年/応安3年(1370) 今川了俊が九州探題に任じられた.。
 今川了俊は南朝方のくすぶる九州を北朝方の九州にするために
 派遣された。
  遠江・駿河の武士を引き連れて九州へ赴いた。
「遠江・駿河の人々…横地・勝間田・奥山・井伊・早田・河田」
 井伊氏惣領家と庶子家の奥山・早田氏らが従軍していた。

・室町時代〜〜〜(略)
 
・戦国時代
・応仁元年(1467) 応仁の乱
  比丘尼城は熊谷重実の居城となっていた。
熊谷重実は源平合戦で活躍した熊谷次郎直実の子孫である。

・文明年間(1469〜87)宇利城を築城した。
  熊谷重実が宇利城に移った。
比丘尼城は宇利城の支城とも考えられる。
  熊谷重実の子:実長は今川氏に属していた。


・享禄3年(1530) 岡崎城の松平清康(徳川家康の祖父)は三河統一を
 進めていた。
 宇利城の熊谷備中守実長を攻めるために兵3000余で軍を進めた。
野田城の菅沼定則、作手城の奥平貞勝はすでに松平清康に従っていた。
 菅沼定則は先陣として豊川渡渉の道案内をつとめ、奥平貞勝も松平
 清康軍に合流した。
近藤満用は宇利村の一部を領していたと思われる。

 松平清康軍は宇利城に迫った。
 松平清康が宇利城を攻めた折、近藤満用は松平氏に臣従したようで
 ある。(つまり、裏切った)
松平清康は富賀寺の山頂に陣取った。1000余の兵で搦手を押えた。
松平信定、松平右京亮親盛らの一族衆は2000余の兵で大手口に
迫った。
 宇利城の大手めがけて松平勢が殺到した。
 宇利城へ一番乗りしたのは松平右京亮の隊であった。
 宇利城主:熊谷重実は松平右京亮隊に襲いかかった。
 松平右京亮は討死を遂げてしまった。

 松平勢が反撃にでた。
 菅沼定則に内通した岩瀬庄右衛門(子孫が「幕末3俊:岩瀬 忠震)
 が火を放った。
 城主の熊谷実長は裏山伝いに落ち延びた。
  
松平清康の三河の統一が成し遂げられた。
 
 熊谷方の武将・近藤満用、近藤平左衛門、近藤力之丞がいた
  というので、裏切った武将は近藤氏ということになる?
近藤氏は松平清康方として奮戦し、熊谷備中守を討ち取り、
  宇利城を賜るとなっている。
(★『近藤氏系譜』
近藤満用は宇利城主(現新城市中宇利)となった。
近藤満用の長子:乗直は、松平清康に従った。
 戦傷で歩行の自由を失い、弟:忠用が家督を継いだ。
 宇利城は戦功第一となった菅沼定則に山吉田とともに与えられた。


・天文5年(1536) 今川義元が家督を継いだ。
井伊氏と今川氏で和議が結ばれた。
今川義元の西進が始まった。

・天文11年(1542)▲三河田原城攻撃 
  井伊直虎の祖父:井伊直平の子:14代(19代)井伊直宗が
  野伏により討死した。

 近藤忠用・近藤康用父子は共に今川氏親に従った。
  知行221貫文を安堵されていた。


・永禄3年(1560) 桶狭間の戦い
今川義元が戦死した。
  井伊直盛も戦死した。井伊直親があとを継いだ。
井伊家は中野直由が形式上、井伊谷城主になった。
遠江国は「遠州錯乱」と呼ばれる混乱状態に陥った。


新田氏は井伊直盛時代の「井伊谷七人衆」の1人であったが、
「桶狭間の戦い」後、独立して気賀領主となったと伝えられている
「遠州気賀領主新田左衛門入道喜兼(元直平ノ家臣也)」
  (★『井伊直平公一代記』)
気賀には新田友作・山村修理・尾藤主膳:竹田高正などもいた。

気賀に堀川城や刑部砦が築かれた。

刑部城は庵原から長谷川・・・今川義元の家臣:新田美作入道
の居城となった。
庵原忠良の一族が新野親矩の娘を貰ったのも頷ける。


・永禄5年(1663)
井伊直親は小野政直の息子・小野道好(政次)の讒言により、今川氏真
 から松平元康(徳川家康)との内通の疑いを受けた。
 今川家の縁戚でもあり、井伊直盛の妻:祐椿尼は妹であった新野親矩
 の取りなしで、陳謝のために駿府へ向かうことになった。

・12月14日(1563年1月8日)…3月2日説
  井伊直親は掛川で今川家の重臣:朝比奈泰朝の襲撃を受けて殺害
  された。享年27。

・永禄7年(1564) 中野直由が戦死した。
  中野直之があとを継いだ。
  奥山六左衛門はひよ(井伊直政の母・中野直之の妻の姉)の姉弟で
  あった。
 井伊家にはダレも跡継ぎがいなくなった。
  

・永禄8年(1565) 次郎法師は還俗し、井伊直虎と名乗り女領主に
  なった。

・永禄11年(1568)
9月 瀬戸方久は今川氏真より、「祝田十郎名」と11ヶ所の金で買った
  土地を安堵された。しかし、新城を築くようにと条件付きであった。
★新城が「堀川新城」・「刑部城の拡大工事」なのか不明である。
 TVでは、堀川城になっていたが、安堵された土地はキ田川左岸なので
 刑部城かも知れない???

11月 井伊直虎は関口氏経と連署で徳政令を出した。
  ★今川氏真が介入してきたことを意味する。
「井伊直虎は今川氏家臣関口親永一族:関口氏経の息子
 (次郎法師の母方の従兄弟)を井伊次郎と名乗らせて
 当主とした説もある。
 (★『鉾前神社古文書』)に唯一「井伊直虎の名がある。」
 井伊直盛嫡子「井伊直親養子」、妹に「女子」とあるだけである。
 (★『おんな城主井伊直虎と井伊家の歴史』井伊達夫著)

11月 徳川家康が遠江の平定に着手
  菅沼忠久が徳川家康に加担する菅沼一族の野田菅沼定盈
  (野田城)から今川家の離反の誘いを受けると、承諾した。
  菅沼忠久が鈴木重時や近藤康用も誘った。

 野田菅沼3代目当主の定盈の計らいによって菅沼忠久や鈴木重時と
 共に徳川家康に属し、所領を安堵された。
 
 井伊谷三人衆(近藤康用・鈴木重時・菅沼忠久)も浜松城
  (旧引馬城)主となっていた徳川家康に加担することになった。

 遠州切り取りの第一歩、刑部城の攻略の先鋒は旧今川義元配下だっ
 た野田城の菅沼新八郎定盈(さだみつ)に井伊谷3人衆であった。

 近藤康用は子:近藤秀用を従軍させていた。
 老齢である上、長年の戦働きによる負傷で歩行困難となっていた
 からである。
鈴木重時は子:鈴木重好を同行させた。

 徳川家康は本坂峠を越えて岡崎から湖北へ攻め込んだ。
 徳川家康は井伊谷城を攻略した。
 徳川家康から近藤康用が井伊谷を安堵された。
 近藤康用が支配することとなった。

 井伊谷3人衆が井伊谷城から道案内した。

▲刑部城攻め
 「井伊谷三人衆」:菅沼忠久・鈴木重時・近藤康用に野田菅沼定盈
 と大将として、刑部城を攻撃させた。

今川家臣:新田氏が籠城する兵力は多くて百程度だったと推測できる。
 刑部城主は新田氏は逃げたようである。

徳川家康は井伊谷城に次いで刑部城を落城させた。
刑部城には、菅沼定盈の叔父・菅沼又左衛門が城代となっていた。
その後、酒井左衛門尉忠次が入城した。

新田友作、尾藤主膳、山村修理らは、地元の農民など雑兵約1700人を集めて気賀の堀川城に立て籠もった。
しかし、満潮時であったのか?城は攻略できなかった。
  

「堀川城の説明板」
永禄11年(1558)12月、井伊谷周辺を味方に付けた家康が遠江
 へ侵攻します。気賀周辺の住民は氏真に付いて家康に抵抗しま
 した。駿府から敗走した氏真がたてこもった掛川城攻めが長引
 き、武田軍の遠江侵入の動きが伝わる中、気賀周辺の反徳川の
 動きも活発でした。こうした状況の中、家康は堀川城の兵の目を
 避けて、いったん三河に戻っています。」
(★浜松市教育委員会による現地案内板)
 

 ・永禄12年(1569)
2月 徳川家康は掛川城を落とした
 
 3月27日、再び堀川城を攻めた。
  中村正吉は船を出して、徳川家康を迎えた。
  堀川城は徳川勢によって一方的に殺戮された。
  1000人以上殺され、逃げた農民ら700人の首を刎
  ねられた。
 徳川家康は合計1700人、殺した。

約2000人説もあるようだ。
(★浜松市教育委員会による現地案内板)

 堀川城の戦いにて東林寺などが消失した。  

徳川家康の下命を受けて、井伊谷3人衆は堀江城を攻めた。
 今川方の守将:大沢基胤率いる城兵は激しく防戦した。
 反撃された。
 鈴木重時は近藤康用の子:登助(近藤秀用)と競い城門にたどり
 着いた。しかし鈴木重時は、大沢方の攻撃を受けて討ち死にした。
 大沢基胤は結局は和睦する形で降伏した。
 ( 現舘山寺温泉:遊園地浜名湖パルパルや旅館ホテル九重の敷地)

・元亀3年(1573) 12月22日(1月25日)「三方ヶ原の戦い」
徳川家康は武田信玄に敗れ、刑部は武田領となった。

 武田信玄は「刑部砦」で越年した。
 武田信玄の軍は2万人以上の大軍であった。
 
・天正元年(1573)
 正月 武田信玄は龍たん寺を焼き、三河国への進軍を再開した。

宇利城の近藤康用は鈴木家の柿本城に逃げたとされる。

 2月 武田軍によって三河国設楽郡の野田城を落とされた。
 城主・菅沼定盈が拘束された。
 
 武田信玄の発病によって長篠城まで退き、武田信玄の死去により
 撤兵した。

 徳川家康は井伊谷・気賀・刑部を武田から取り戻した。

・天正3年(1575) 長篠の戦い

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
・天正18年(1590) 井伊直政は箕輪城に入城した。
近藤康用の子:近藤秀用・鈴木重時の子:鈴木重好は家老として
 箕輪城に入った。

・慶長元年(1592)近藤康用の子:秀用は 箕輪城から逃げ出した。

・慶長5年(1600) 関は原の戦い
 
 井伊直政が高崎城から近江佐和山に移封になった。

・慶長7年(1602)井伊直政が亡くなった。
  徳川家忠に近藤秀用は許された。
  上野国青柳(前橋市青柳)に5000石の所領を与えられた。
・慶長8年(1603) 池田輝政の仲介で徳川家康の勘気が解かれた。

・慶長19年(1614) 相模国内で1万石を加増され、小田原城の城番
となる。
 近藤秀用は大坂の陣に参陣して武功を挙げた。

・元和5年(1619) 井伊谷へ転封となった。
  近藤秀用は1万5000石の大名として井伊谷藩を立藩した。
  林業に力を入れた。
  近藤5家に分かれた。
 



★明日は「野田城」かな?

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