城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行

アクセスカウンタ

zoom RSS 箕輪初心:生方▲井伊直政141『天正13年(1585)第一次上田合戦〜天正17年』

<<   作成日時 : 2017/12/31 08:44   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

天正11年(1583) 真田昌幸は上杉景勝対策で徳川家康の上田城
を造らせた。しかし、天正13年(1585) 徳川家康から真田昌幸が
離反して第一次上田城の戦いとなった。井伊直政は撤退指揮の
ために信濃の派遣された。豊臣秀吉と徳川家康のパイプ役であ
ったため、石川数正は人質を差し出していた。石川数正の徳川
家康からの離反が撤退理由の一つであった。天正14年(1586)
豊臣秀吉は懐柔策として朝日姫を徳川家康に嫁がせた。しかし、
徳川家康は上洛はしなかった。豊臣秀吉は人質として母:大政所
を差し出した。大政所の世話役は井伊直政と本多重次であった。
井伊直政はお菓子など女性の好む物に気を配ったという。徳川家
康は懐柔策に屈して豊臣秀吉に臣従することにした。豊臣秀吉が
人質として岡崎に出していた秀吉の生母・大政所の警衛をまかさ
れた。豊臣秀吉から対応に感謝された。井伊直政は石川数正に
会った時には怒ったといいう。結果、従五位下に叙任、豊臣姓を
与えられた。しかし、井伊直政は藤原姓を名乗った。天正16年
(1588)井伊直政が従四位下を賜った。徳川の陪臣としては破格の
待遇を受けた。天正17年(1589)通称「名胡桃事件」が起こった。
画像

 (★出典:不明)



【1】歴史年表
・天正11年(1583)   
真田昌幸は上田城を築城・・・真田氏(1582〜1622)40年間 
 *真田昌幸は信濃上田城、上野岩櫃城と沼田城の3城を持つ。
●上田城築城。(長野県上田市尼ヶ渕)
※真田昌幸は徳川家康を利用して、上田城を造らせた。
つまり、徳川家康に
「 上杉景勝を攻めると上田を通る。浜松城をからにするのは
 危険である。たから、上田城を造り、そこに私が入るので
 上杉景勝攻めの先鋒になります。・・・。」
みたいなことを手紙に書いて送った。
徳川家康は「もっともだ。」といって、上田城築城の応援部隊を
送った。
 (★平山優説・黒田基樹説)
           
・天正12年(1584)
▲3月から11月 小牧長久手の戦い
  徳川家康 VS 羽柴秀吉(豊臣秀吉)
井伊直政が旧武田家臣を率いて森長可を討ち取り、池田恒興
 を苦しめた。

11月 鉢形城主・箕輪城主北条氏邦(氏康4男)は沼田城に
   侵攻した。

真田昌幸500人 VS 北条綱可2000人。
 真田昌幸は手古丸城(群馬県東吾妻町大戸)で勝利した。

・天正13年(1585)    
徳川家康は北条氏直を天正10年(1582)10月29日に
 協定していた。(信濃侵攻のため)
 徳川家康は娘を北条氏直に嫁がせた。

徳川家康は真田昌幸に「上州沼田領の北条氏への明け渡し」
 を命令した。             

→真田昌幸は明け渡しを「自分で切り取った城であるから、
 いやだ。」と拒否し、豊臣秀吉に言いつける。
 徳川家康と真田昌幸は対立した。    
               
@6月 真田昌幸は徳川配下から上杉景勝に接近。
   →真田昌幸は上杉景勝に所属。

・7月15日 次男:真田信繁(真田幸村)を人質にして上杉景勝に
  従属した。
  真田信繁(真田幸村)は海津城に行った。
  海津城将は須田満親であった。
 (★「天地人」・真田昌幸:芝辻俊六著)
真田昌幸が徳川家康と対立して上杉方に転じた際には、
 須田満親は真田昌幸との交渉役を務めた。
 徳川・北条と敵対していた上杉景勝に臣従した。
 徳川・北条連合 VS 上杉・羽柴秀吉連合

 同時に、徳川家康にも手紙を出した。
 「・・上杉景勝につく・・・」
 徳川家康は激怒した。

★徳川家康は自分が造った上田城攻撃をすることになった。
そして、北条氏邦を沼田城に侵攻させた。
 (★平山優)

真田昌幸の次男:真田
 信繁を人質として預かった。

7月第1次上田合戦 
  徳川軍来攻、上田城頭の激戦
 ・徳川家康は真田昌幸を攻めるために小県に出兵。
  徳川軍・・・大久保忠世・大久保彦左衛門・鳥居元忠
  ・平岩親吉など+保科正直(家康異父兄弟:箕輪城明け渡し)
  +屋代+諏訪+依田玄蕃
   VS 
  真田騎馬200余騎馬+雑兵1500余人・・
  国分寺〜神川・・・(加沢記)

8月2日徳川の大軍と上田城東の神川の付近で合戦・・撃退。
 
★平山優説・黒田基樹説を使って
 小国は大国に勝つ3つの作戦とは?
閏8月 第一次上田合戦
真田昌幸2000人弱程 VS 徳川家康勢7000余
真田方は約1200人であった説もある。(伝)?

徳川家康と北条氏直は、鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉ら約
 7000の兵力を昌幸の居城・上田城に侵攻させた。
 
 徳川軍は甲斐から諏訪道を北国街道に進み、上田盆地の信濃国分
 寺付近に兵を着陣した。
 ※国分寺は上田城の東4km?に押し寄せたのであった。


●真田の作戦・・・少人数で大群を討つ作戦
1)真田昌幸は築城の途中である上田城に籠城した。
・上田城本郭に500余を待機させた。
・上田城の横郭・町中に見張り兵を配置した。
・神川(かんがわ)に200余の遊撃前衛部隊を配備した。

2)長男:信幸を支城:戸石城に籠城させた。
伊勢山(戸石城)の800余説
伊勢山(戸石城)の300余説・・・有力説

3)従兄弟:矢沢三十郎頼康&上杉の援兵:須田満親を支城:
 矢沢城に籠城させた。
 300余説?+500余説?=800余説?
※平山説では上杉の援兵は少なかった。
合計・・・総勢2000余を配置した。

●家臣
祢津長右衛門・祢津志摩守・望月主水・小泉源五郎・矢野・
日置・原・春原・石毛・荒木・高槻・金井・上原・三輪
板垣信形・来福寺(忍者元締め)・成沢・松崎・田中・窪田
・堀田・車・高野・塚本
上州衆・・・・池田・市場・白倉・吉田・・・・など。


4)上田城下には互い違いの矢羽根のような千鳥掛けの柵
===ウナギのびんどうのような逆矢羽根型の柵を
造らせた。★説明が難しい。
======塀・柵======================
/ / / / / / / / / / / / / / / /
 \ \ \ \ \ \ \ \ \ \ \ \ \ \
======塀・柵======================

5)複雑な並びの町家・山野に約3000の武装した百姓兵を
 伏兵とした。

6)橋の構造を工夫した。


【2】上田城の門の2階の「第一次上田合戦」のいシュミレーション
・閏8月1日 
  真田信幸は支城の戸石城に兵300余名で着陣した。
  徳川軍の主力部隊を奥地に誘き寄せる作戦だった。
  結果・・巧みに奥へ誘い込み、大手口で勝利した。

・閏8月2日
徳川勢の先手が上田城の南東の神川(かんがわ)に差し掛かった。
200の真田前衛部隊が迎え撃ち、槍での争いを数回あわせた。
作戦通り、後退し始めた。
真田昌幸は城門を閉ざし、櫓の上で甲冑もまとわず、家臣と囲碁を
打っていた。★塚本という家臣らしいことが載っていた。
  
 徳川勢は真田勢が小勢で弱いと思い、一気に上田城を落とそうと
上田城内になだれ込んだ。
真田昌幸の『空城の計』とも知らず、・・・・。
真田昌幸は諸葛亮孔明が琴を奏でて司馬仲達を退けた『空城の計』
による心理作戦を展開した。
★徳川家康が三方ヶ原の敗戦でうんこを漏らしながら?引き上げて、
浜松城の大手門を開け、内と外に篝火を焚かせ、太鼓を叩かせた
た。警戒した武田軍山県昌景・馬場信房は兵を引き挙げさせた。
そして、浜松城は落城を免れたという『空城の計』のように・・・

徳川軍に攻め寄せられた際に上田城の門を開け放ち徳川勢を引き入
れようとすれば、用心深い指揮官ほど逆に警戒する。徳川勢に見破
られた場合は全滅の危険性があるが・・・鳥居元忠・大久保忠世は、
功績を焦って、突入した。

真田昌幸は家臣と囲碁を打ち続けた。
そして、真田昌幸は家臣に手鼓を打たせて『高砂の謡』を謡った。

徳川勢は挑発に乗った。鳥居元忠・大久保忠世は上田城に楽に入れた。
徳川勢は大手門も突破しようとした。・・・
 
真田昌幸はようやく甲冑を着け、櫓台に立った。眼下には戦功を焦る
鳥居元忠・大久保忠世らの主力兵が狭い二の郭(二の丸)にうじゃ
うじゃひしめきあっていた。門に取り付いたり、城壁
をよじ登っていたり・・・と攻めあぐんでいる。

真田昌幸はこの時を待ってましたとばかりに「攻め太鼓」を打ち鳴
らした。
「ドン・ドン・ドン・ドドドドド・・・」
合図で城門上に隠し、繋いでおいた縄を切らせ、大木や大石を
徳川勢の頭上に落下させた。

「撃てえ・・・」
同時に、堀狭間から鉄砲や弓矢を一斉に撃ちかけた。


鳥居軍・大久保軍は大混乱になり、撤退した。
勝機と見た真田昌幸は城門を開かせ、総攻撃を命じた。
「出撃・・・。」
真田昌幸は上田城内の500の兵を追撃させた。
真田勢の怒涛の勢いに、徳川勢は浮き足立ち、逃げ惑うばかり
となった。
★袋のネズミ状態になったのだ。

上田城下には互い違いの矢羽根のような千鳥掛けの柵===ウナギの
びんどうのような逆矢羽根型の柵で、徳川勢はなかなか逃げられない。
★行きはよいよい帰りは怖い。通りゃんせ、通りゃんせ、ここは
ど〜この細道じゃ・・・状態になってしまった。

上田城外にいた200の遊撃前衛部隊は横郭に後退し、集結していた。
遊撃前衛部隊の200の兵を横から攻撃した。
 
 それから、上田城の町家に撤退した徳川勢に火を放った。
強風にあおられて、鳥居勢はまたまた大混乱となった。

 また、町家や山野に伏兵していた武装した百姓軍が火を合図に徳川勢
に打ちかかった。百姓兵は石礫を投げた。

 さらに、真田信幸は300?800?の兵で戸石城より討って出た。
徳川勢の退路を遮断し、真田信幸軍が襲いかかった。
真田勢は追撃の手を緩めなかった。

徳川勢の先手:鳥居・大久保勢は@城内軍、A遊撃前衛部隊、B百姓軍、
C真田信幸軍の四方から攻められた。・・・はさみ撃ちにされてしまった。

その上、千鳥掛けの柵{{{{{{くくくく《《・・・ハの字形に互い違いに
配置した柵で、塀・柵に突き当たってしまうと逃げにくい。
行きはすんなり行けるが、帰りが逃げにくい。
 (★和根崎剛氏・平山優氏の説明)
======塀・柵======================
/ / / / / / / / / / / / / / / /
 \ \ \ \ \ \ \ \  \ \ \ \ \ \
======塀・柵======================

複雑な町家のトラップに引っかかり、退路を見失った。
真田勢に、弓に刺さったり・鉄砲に撃たれたり・槍に突かれたりと
徳川勢は大混乱に陥いった。
 
 上田城に戻った徳川軍は鉄砲隊に次々と撃ち落とされた。

北国街道に撤退する徳川勢は、戸石城から討って出ていた真田信幸の
突撃で崩された。
真田軍は巻狩りのコの字状態にして、東方向に逃げ場を作った。
徳川軍主力隊はやっとのことで上田城の東方3km程の神川まで敗走
した。

徳川勢の多くが神川(かんがわ)を渡るに及んだ。
そこで、真田昌幸は最後の作戦に取りかかった。
真田昌幸は上流に築いておいた堰を切って落とすことを命令した。
雨による増水の上、さらなる増水=====
徳川勢を溺死させた。
これが最後の仕上げとなった。

矢沢城でも矢沢頼幸が800余の守兵で依田勢1500を退けた。

上田城・神川の戦いは徳川軍の犠牲者は300余名?一説には1,300名
にも上ったという。真田勢は40人程であったという。
●真田信幸の書状
徳川方の死者は1300余、真田方の死者は40余。
●大久保忠教の記録
徳川方の死者は300名余。

●大久保彦左衛門の『三河物語』
「徳川勢は悉く腰がぬけて、・・。」
戦意喪失状態であった。


真田幸村は徳川方の屋代秀正の旧領をもらって、
諏訪久三に安堵させた。
        (★千曲市諏訪家文書)
   
 
 
・真田昌幸は上杉景勝を通じて豊臣秀吉に接近。
・豊臣秀吉は上杉景勝に上田城の援助命令を出した。
 ・上杉景勝援軍が海津城→地蔵峠→真田の根小屋城
   (上田市真田・・砥石城北)に到着。
でも、須田の援軍の到着は遅く、自力で動くしかなかった。
(★平山優・黒田基樹説)
 ●根小屋城(=曲尾城)

 
 ・徳川軍は丸子城に矛先を変え、東側の八重原に布陣。
 ・真田昌幸は手白塚(塩川)に出て牽制。
8月19日 諏訪頼忠が丸子城を攻撃開始。
  合戦が開始。「丸子表の戦い」で、
 ・丸子城主丸子三左衛門(三右衛門)らが少兵力で城を死守。
●丸子城

8月20日  真田昌幸は長瀬河原へ出て、鉄砲で諏訪軍の背後
  を急襲。
  徳川方の岡部長盛は軍を三手に分けて出撃し、河原町に放火。
  真田軍を退破。
  辰ノ口側から丸子城に攻撃。→結局落城せず。 
  真田昌幸・信幸父子が国分寺で徳川軍を撃破

8月26日 井伊隊5000到着。→すぐに撤退命令。
★徳川家康は真田昌幸が上杉景勝や豊臣秀吉に根回ししていた
とは知らず、上田を攻めていた。石川数正・小笠原の離反。
上杉方:須田の救援に来た事を知った家康は撤退命令を出した。 

結果・・・天下に勇名→有名人なった。
※昌幸、信之(当時は信幸)・上杉の援軍、武装農民など
  総数3000人が徳川勢10000人を破った。
次男・信繁(幸村)は春日山城に人質で、参加していない。
「上田軍記」では信繁が参戦したと書いてある。

8月29日付(合戦の3日前) 
矢沢三十郎(矢沢頼綱の子)宛ての海津城代:須田満親書状
未だ申し通せず候と雖も一翰啓せしめ候 
今度御証人(人質)として御幼若の方(=信繁=幸村)
御越し申し痛み入り存じ候
その口に於いて御稼ぎの由是非なき次第に候
先日曲尾筋(真田町)へ助勢申し候ひき、
重ねて今日人数さし遣わし候 
御用等御隔心なく仰せ談ぜらるべく候 
洪水にて路次自由ならざる故、吾等遅参所存の外に候 
何様面談を以って申し承るべく候       恐々謹言
尚々其元昼夜の御苦労察し入り候 
御稼ぎの段並びに御証人指し越され候 
則ち春府(=春日山城)へ申し達し候

結果・・上田合戦における真田の軍略に惚れ、また恐れた本多忠勝
が真田家を取り込むため、徳川家康に自らの娘を嫁がせることを
提案した。徳川家康は、上田合戦後に面会した真田信幸の器量に
感じ入っており、自陣営の武将として取り込んでおきたいという
思いがあったことから快諾した。稲:小松姫を自らの養子
※松代藩3代藩主:真田幸道が幕府に提出した書状には「台徳院
(秀忠)」の養女)として、真田家へ嫁がせることとしたようで
ある。

9月   北条氏直は沼田城に侵攻2回。
9月5日・矢沢頼綱宛の上杉景勝からの書状
 「直江から聞いた。矢沢頼幸の活躍を〜〜。
   (沼田用心してくれ。」)
         (★松代の矢沢家文書)
  ・矢沢頼綱が沼田城を死守。上田から援軍が到着。

10月17日 真田昌幸宛の豊臣秀吉からの返事
  「(徳川を裏切った)松本城領主:小笠原貞慶と相談し、
            〜〜〜。」(★真田宝物館)
    
E10月 真田昌幸は豊臣秀吉の招きで、信幸、信繁(幸村)を
     伴って大坂城に出仕。 

※『豊臣秀吉と大坂城』跡部信著では、
「豊臣秀吉は徳川家康に人質を要求し、既に石川数正・本多重次の
 親族を人質になっていたが、さらに、豊臣秀吉は徳川家康に人質
 を要求してきた。
10月28日、徳川家康の家臣:本多忠勝・榊原康政・井伊直政の
 親族は豊臣秀吉の人質となった。
   
11月 徳川軍は信濃から撤退した。(★真田三代) 
 ・徳川家康は内密に更級郡を上杉景勝の家臣:屋代秀正
  に手紙を送る。

・真田昌幸は埴科郡虚空蔵山(麻績)にて
  上杉景勝軍の配下:屋代秀正を撃破した。

【●】平成28年(2016)1月17日平山優氏の説明******
 徳川方は、真田昌幸のいる上田城二の丸(郭)まで進んだ。
@負けたふりして、城内に誘い、狭い場所で大群を鉄砲で
   習い撃ちをする作戦だった。
  結果・・・鉄砲の集中攻撃を受け撃退された。
A更に後退の際に城方の追撃を受けた。
B逆矢羽根型の柵(ウナギのびんどうのような)を造り、
移動を困難にした。
C真田昌幸は戸石城から横合いから側面攻撃をした。
   横谷掛かり的な作戦であった。
   結果・・・壊乱した。
D追撃戦・・・矢沢勢も加わって神川で多数の将兵が溺死した。
増水もあって多数死んだ。
(★平山優)
8月3日
「真田手ごわし」と見た徳川勢は・・・・
 八重原の台地まで退陣し、軍勢を整えた。
 そして真田の属城:丸子城攻撃に切り替えた・・・。
(★上田城のシュミレーション動画)・・★よく分かった。

 徳川方は真田氏に味方した丸子三右衛門の籠城する丸子城を
  攻めた。
  要害と頑強な抵抗に阻まれ攻略できなかった。

〜〜〜以後20日間程対陣を続けた。

  上杉勢援軍:須田軍との小競り合いをした。
  上杉勢の増援の報・・・・
 徳川家康は援軍;井伊直政、大須賀康高、松平康重の5000を
 出した。
 鳥居元忠は徳川家康から井伊直政・松平康重5000の援軍を得て、
 再度、上田城を攻めようとした。
 しかし一時撤退命令がでた。
 
8月28日 徳川軍の大半が上田より撤退した。
   大久保忠世らは小諸城に留まって真田勢と小競り合いを繰
 り返した。

11月 川家の重臣:石川数正が出奔して豊臣秀吉の元に
 走るという事件が起きたため、上田城攻めは中止となり、
  完全に撤退し、三河に引き返した。
  (★ウィキペディア)
@上田城の門2階のビデオは非常に優れている。
  両者の動きが同時に地形図や城内の縄張りに→→で示されて
  いる。★とっても優れものである。
A上田市立博物館・・・神川合戦の合戦図が所蔵されている。

結果・・真田昌幸はわずか2,000の兵力で徳川軍
 に1,300人もの死傷者を出させるという大勝であった。
 真田軍は40人ほどの戦死者だった。
 
真田信繁は上杉氏のもとに人質として置かれたが、
徳川方に帰属した信濃国衆である屋代氏の旧領が与えられた。
  

◆◆第一次上田合戦の作戦がち
(★平山優・黒田基樹)・・・知将:真田昌幸の凄さ
真田昌幸の巧み地の利を活かした戦法・城の構造を生かした戦術
 と長男:信幸の活躍により、徳川軍を撃退した。
@負けたふりして、誘って大量に殺戮する作戦
A城の外の柵を設けた側面攻撃の作戦
B増水した神川に追い込んで溺死させる作戦
・・・自分の都合のよい戦いに持ち込むで、徳川勢を撤退させた。
 真田昌幸は戦略に長けていた。大坂城真田丸の原点がここに
 見られる。
 
・天正13年(1585)9月〜天正14年(1586)5月
沼田城代:矢沢頼綱(真田昌幸の叔父・矢沢三十郎頼康の父)
が北条氏邦や家臣:猪俣邦憲が数回に渡って攻撃を仕掛けたが、
全て撃退に成功している。

◆◆ 第一次上田合戦の影響 ◆◆
真田軍は4〜5倍の敵を見事に撃退した。
@『上田合戦』に勝利した。真田の名は一躍有名となった。
A真田昌幸は優れた智謀であると評されることとなる。
B「徳川敗北」の報は天下を巡り、「真田恐るべし。」と諸大名
  から一目置かれるようになった。
C上田合戦を契機に真田氏は、武田の旧臣から信濃の大名と
 して豊臣系大名の間で認知されることになった。
D徳川家康の真田氏に対する評価は高まり、結果として本多忠勝
の娘:小松姫を養女として真田信之へ嫁がせて懐柔するきっかけ
となった。
E真田昌幸は以後、上杉景勝、豊臣秀吉に臣従し、領国と城の整
備に努めることができた。真田昌幸は上田地方(小県郡)の統一
した。


◆参考文献
『真田昌幸』柴辻俊六著
『真田三代 幸綱・昌幸・信繁の史実に迫る』平山優著
『真田三代』平山優著
『真田四代と信繁』丸島和洋著
などたくさん・・・・
上田市立博物館・・・神川合戦の合戦図が所蔵されている。

◆参考動画
上田城の門2階のシュミレーションビデオは非常に優れている。
  両者の動きが同時に地形図や城内の縄張りに→→で示されて
  いる。★とっても優れものである。
◆参考TV
平成28年(2016)1月2日 ぶらたもり「和根崎剛氏の説明」
平成28年(2016)1月17日 平山優氏・黒田基樹氏の説明

***「NHK大河:真田丸」****************
・天正13年(1585)、徳川家康の配下:真田昌幸は、上州沼田
領を北条氏直に譲るよう命じられた。しかし、真田昌幸は命令
を拒絶し、上杉景勝に臣従した。徳川家康は自分の造った
上田城を攻撃することになった。第一次上田合戦は、徳川勢
7000余VS真田勢は2000人弱だった。@負けたふりして、城内
に誘い狭い場所で大群を鉄砲で狙い撃ち、A城の外に設けた柵
で側面攻撃、B増水した神川に追い込んで溺死、・・・自分の都
合のよい戦いに持ち込んだ。(★黒田基樹)。
★「空城の計」がどんぴしゃであった。
『真田丸』は時代考証は平山優・丸島和洋・黒田基樹の大先生方が
担当している。合戦中に真田幸繁は荒砥城:屋代秀正を攻撃してい
る史実・【上田軍記】から真田幸繁を第1次上田合戦に活躍させるこ
とにしたのであろう。【加沢記】は真田幸繁の名はないが、流れを
【加沢記】をベースにして、ドラマを構成したのであろう。そして、
三谷幸喜氏が「いつ死んだか分からない梅の死」を脚本化したので
あろう。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心:生方▲真田丸32【真田昌幸:空城の計&第一次上田合戦】
http://53922401.at.webry.info/201602/article_4.html

箕輪初心●真田3代D『5回主家を変えた真田昌幸』
http://53922401.at.webry.info/201111/article_30.html
<< 作成日時 : 2011/11/30 07:25 >>

*************************
11月13日、徳川家康の重臣:石川数正が突然、徳川家康の下から
出奔し、豊臣秀吉の下へ逃亡した。石川数正は豊臣秀吉の取次役であ
った。理由は諸説ある。
石川数正の豊臣秀吉の寝返りで攻撃が中止となった。
 
井伊直政は撤退を指揮し小諸城から撤退した。

石川数正は徳川の軍事的機密を知り尽くしていた。
以後、徳川家康は機密漏えいに対応するため三河以来の軍制を武田流に
改めることになった。
井伊直政も広瀬景房や三科形秀などに武田軍法の情報を集めさせ、軍制
を武田流に変えた。

徳川bR石川数正の出奔は秀吉の取次役
 平山説・・・家康と数正の関係悪化説。秀吉に傾いていった。
11月28日 家康は使者:織田信雄の講話拒否した。
E徳川家康は秀吉に軍制がばれたので、武田遺臣に文書・記録を提出
 させた。

11月29日〜12月23日 天正の大地震

E徳川家康は地震によって秀吉の攻撃から救われた。
11月29日〜12月23日 天正の大地震
徳川家康は地震によって豊臣秀吉の攻撃から救われた。

12月14日 徳川家康は本拠を浜松城から駿府城に移した。

F豊臣秀吉の徳川への懐柔策
・天正14年(1586)
2月 秀吉は尾張に出兵すると通達した。
   織田信雄はは家康の説得に出かけた。
   岡崎城で会見し和睦を承諾させた。

2月23日 豊臣秀吉は真田昌幸に矢留をした。
信濃の徳川領の侵攻を止めさせた。

4月 豊臣秀吉は妹:旭姫を徳川家康に嫁がせた。
臨戦態勢を解除した。  

5月14日 豊臣秀吉は徳川への懐柔策として妹:朝日姫を徳川
 家康の正室として嫁がせた。
 岡崎城での旭姫の接待役・警護役は井伊直政と本多重次であった。

8月7日付 豊臣秀吉→徳川家康への書状
真田問題を仲裁するので、家康の出馬を延期するように求めた。
★早く上洛せよ・・と思っていた。

9月25日付 豊臣秀吉→上杉景勝への書状
 「真田は表裏者なので、成敗するつもりであったが、
  今回は取りやめた。」
  と伝えた。 

9月 真田昌幸は上洛を促す・・・徳川家康の与力大名へ 
★徳川家康の与力大名
真田昌幸・小笠原貞慶・木曾義昌であった。

9月?日 豊臣秀吉は家臣を岡崎に派遣した。
 「上洛要請&大政所の下向」
を伝えた。
 表向きは旭姫との謁見であるが、・・・・

9月26日 徳川家康の正式な上洛が決まった。

9月27日?、豊臣秀吉は母:大政所を人質として徳川家康のもとに
 送り、配下としての上洛を徳川家康に促した。
 井伊直政は2人旭姫と仲を客人として親切にした。様子伺いをし、
 お菓子なども持っていって挙げたという。

10月 徳川家康は豊臣秀吉に臣従した。

12月12日、井伊直政は大政所を大坂城に送り届けた。

豊臣秀吉は、無事に送り届けてくれたことに感謝し、腰に差していた名刀
 を与えた上、大坂城で歓迎会を開いた。
豊臣秀吉は井伊直政は気遣いのできる男であったと聞かされ、余興の座を
持ってくれ、豊臣秀吉から井伊直政に家臣の誘いもあったもかもしれない。

・天正15年(1587)
2月23日、説@井伊直政が豊臣秀吉より豊臣直政従五位下を賜った。 
8月18日 説A井伊直政が豊臣秀吉より豊臣直政従五位下を賜った

・天正16年(1596)
4月 井伊直政が従四位下に任じられた。
 井伊直政は聚楽第行幸と「侍従」を賜った。
 (『井伊家系図:寛政諸家系図伝』) 
徳川家中で、井伊直政のみが一段身分が上の公家成に該当する侍従に
任官され、昇殿を許された。  
徳川家中で最も高い格式の重臣となった。

・天正16年(1588) 徳川家康を裏切って小笠原貞慶について松岡貞利は
 改易となった。
 しかし、井伊直政は父:井伊直親を庇護した恩人とし、松岡貞利を
 殺さず、家臣とし、駿河に土地を与えた。

庵原朝昌(妻は新野親矩の娘)も豊臣秀吉の家臣から井伊直政の
家臣になったようである。侍中由緒記では、天正18年としている。

・天正17年(1589)
真田昌幸は上杉景勝を介して徳川家康と和睦した。
 真田家は徳川氏の与力大名となった。
 徳川家康は真田信幸の才能を高く評価し、本多忠勝の娘:小松姫を
 養女とし、駿府城に真田信幸を出仕させて娶らせた。

◆◆◆名胡桃事件***********************
◆天正17年(1589) 豊臣秀吉の裁定が行われた。
 真田昌幸が「祖先墳墓の地」であると主張した。
 名胡桃城を含めた全体の三分の一は真田領に、
 沼田城を中心とする三分の二は北条領と定められた。
 
 真田氏は手放した土地の代替地として信濃国箕輪を与えら
 れた。

★7月 津田盛月と富田一白が沼田に派遣された。榊原康政の元
 で沼田城は北条氏に引き渡された。

★真田昌幸は直ちに寄親:徳川家康に伝えた。

★10月10日付 真田信幸宛徳川家康の文書
「名胡桃の件・・・津田・富田を介し、(秀吉)に相談せよ。」
 (★群馬県史)・・・私の勘違いか? 


◆天正17年(1589)11月3日
「相模は真田の城を一つ取った。」
『松平家忠日記』

×11月3日 沼田城代の北条氏家臣猪俣邦憲が、真田氏の
名胡桃城代:鈴木重則家臣:中山九郎兵衛を寝返らせ、
偽の書状で重則を上田城に呼び寄せた隙に名胡桃城を占領した。
鈴木重則は岩櫃城において計略に気付き、急いで城に戻ろうと
したが間に合わず、恥じて正覚寺において切腹した。
というのが通説であるが、・・・
 (加沢記)
★みなかみ教育委員会では、第2次史料なので、これを使わな
 いことにしたそうである。

11月3日 真田信幸は寄親である徳川家康に「名胡桃の件」を
 報告をした。
 真田信幸が替地:伊那郡箕輪で知行割りを始めた。

◆天正17年(1589)11月10日付 真田信幸宛徳川家康の文書
 徳川家康は事件または危機切迫・・・豊臣秀吉に訴えるよう
 に。
★真田昌幸が上洛した。
 真田昌幸は徳川を通して秀吉に訴えでた。

◆天正17年(1589) 11月11日付 北条氏直宛豊臣秀吉の文書
   宣戦布告状(「北条文書」) 
氏直への戦線布告状の写し・・・
 
◆天正17年(1589)11月21日付 真田昌幸宛豊臣秀吉の文書
事件を知って、激怒し(「来年には潰すぞ。」)と邦憲
 の処罰と氏直の上洛を求め、昌幸に沼田周辺を固めるように
 と連絡してきた。
★「今後北条氏が出仕したとしても、城を乗っ取った者を成敗
 するまでは北条氏を赦免しない。」と記している。・・・


◆天正17年(1589)富田左近・津田隼人宛北条氏直の文書
事件は中山氏の遺言で一切関係がない。

◆天正17年(1589) 北条氏直宛徳川家康の文書
弁明で秀吉への取りなしを求める書状であった。

★天正17年(1589)11月24日付 諸大名宛豊臣秀吉の文書
北条氏との手切れ書を北条氏や諸大名に配布した。

★天正17年(1589)12月7日付 豊臣秀吉宛北条氏直の文書
「名胡桃城は真田氏から引き渡されて北条側となっている城なので、
そもそも奪う必要もなく、全く知らないことである。」と釈明した。

箕輪初心:生方▲真田丸97【第22話『裁定』】&加沢記「名胡桃事件」
http://53922401.at.webry.info/201606/article_6.html

箕輪初心:生方▲スキーbP3『神楽』
&真田丸86【名胡桃城のガイダンス施設】
http://53922401.at.webry.info/201604/article_17.html

箕輪初心:生方▲真田丸18【名胡桃事件への過程→秀吉の小田原攻撃】
http://53922401.at.webry.info/201601/article_21.html

箕輪初心●群馬【名胡桃城@】=北条氏滅亡のきっかけの城
http://53922401.at.webry.info/201202/article_21.html

箕輪初心●群馬【名胡桃城A】=北条氏滅亡のきっかけの城
http://53922401.at.webry.info/201202/article_22.html

箕輪初心●群馬旧高山村の城:中山城1回目&並木城
http://53922401.at.webry.info/201201/article_23.html

箕輪初心●岩櫃城探検隊第8弾【中山城2回目】
http://53922401.at.webry.info/201311/article_13.html
★名胡桃城代:鈴木主水が呼び出された城

★★箕輪初心●【横尾八幡城】
http://53922401.at.webry.info/201202/article_12.html
★真田昌幸が待機した城

箕輪初心:生方▲箕輪城173【後北条氏の西上州支配VS真田昌幸】
http://53922401.at.webry.info/201510/article_8.html

箕輪初心:生方▲真田丸98『名胡桃城の復元』
http://53922401.at.webry.info/201606/article_7.html

箕輪初心:生方▲名胡桃城発掘の三宅敦気先生講演会「名胡桃城」
http://53922401.at.webry.info/201611/article_19.html



★明日は「井伊直政、箕輪城入城」かな?

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
箕輪初心:生方▲井伊直政141『天正13年(1585)第一次上田合戦〜天正17年』 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる