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zoom RSS 箕輪初心:井伊直政140『本能寺の変〜天正壬午の乱〜小牧長久手の戦い』

<<   作成日時 : 2017/12/24 09:12   >>

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天正10年(1582)6月2日「本能寺の変」で織田信長が死んだ。徳川家康
や徳川家臣:井伊万千代など35人は堺にいた。徳川家康は織田家臣:長
谷川秀一・西尾吉次・穴山信君と堺を出た。長谷川秀一の伊賀越え案を採
用し、長谷川の取次で河内国〜山城国〜近江国・小山・甲賀経て、岡崎に
無事戻った。8月までには井伊万千代は「兵部少輔」と改称している。
天正壬午の乱で8月8日、新府城:徳川家康と若神子城:北条氏直は対峙
した。井伊兵部少輔たちは8月9日から徳川家康の奉者になって旧武田家臣
を味方に付け始めた。8月26日、井伊直虎が死んだ。井伊家の家督を継ぐ
ことになった。井伊直政は井伊直虎に代わり、第24代井伊家当主になった。

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・家康の造った土塁
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10月29日、徳川と北条が和睦した。井伊万千代の活躍があった。
正使:井伊直政と副使:木俣守勝は北条氏直の伯父:北条氏規と交渉
に望み、和議を結んだ。講和の条件は
「@北条氏直に徳川家康の娘督姫を娶らせる。」
 A甲斐・信濃は徳川家康に、上野は北条氏直に。しかも、それぞ
れ切り取り次第とし、相互に干渉しない。」であった。

井伊直政はその後も12月9日まで、奉者として武田旧臣を取り込んだ。
井伊直政の奉者数ははトータルで
『徳川文書の研究』中村孝也著では「井伊直政は40人に…」
『譜代大名の創出と幕藩体制』小宮山敏和著は「井伊直政が奉者の21%
(216通の内46通)を占める。」
『井伊直政』野田浩子著では「67通の奉者」
としている。

井伊万千代は元服し、「井伊直政」となった。

井伊直政は旧武田家臣:山県昌景・土屋昌恒・一条信龍・原昌胤など
の家臣を配下にすることを許可され、小姓から士大将=旗本先手衆と
なった。
旧山県昌景部隊の「赤備え」と呼ばれる赤武者隊の軍装を許された。

・天正11年(1583)
1月11日井伊直政は徳川家康の養女:松平周防守康親の娘「花」
(後唐梅院)を正室に迎えた。
★徳川家と井伊家の関係を更に強化された。




4月、賤ヶ岳の戦い
豊臣秀吉は織田信長の跡継ぎを決める清洲会議で「吉法師」を当主
に押し立てて柴田勝家と対立していた。
豊臣秀吉は織田信長の次男:信雄を味方に加えた。
賤ヶ岳の戦いで織田信長の三男・信孝を擁する柴田勝家に勝利した。

賤ヶ岳の戦いの後、柴田勝家の遺領の越前は丹羽長秀に与えられ、12
0万石となった。
池田恒興は美濃13万石を拝領し大垣城に入り、池田元助が岐阜城に
入った。
大坂は豊臣秀吉が接収し、大坂城を築城した。

しかし、豊臣秀吉は織田信雄を安土城から退去させた。
これ以後、織田信雄と豊臣秀吉の関係は悪化した。

・天正12年(1584)
2月27日、豊臣秀吉は井伊直政を「令外官修理大夫」に任命した。
(★実際は天正14年に、遡って、出した。「井伊直政」野田浩子著)

3月6日、織田信雄は親秀吉派の三家老を処刑した。
 豊臣秀吉は、織田信雄に対し出兵を決断した。

3月13日、徳川家康が清洲城に到着した。
井伊直政が山県昌景が使用していた旗・幟をはじめ武具・甲冑まで
赤一色の武装にした。山県昌景は旧武田の先鋒・別働隊をつとめて
いた。井伊直政が「赤備え」を踏襲することになった。
井伊直政は飯富兵部の甲冑を身につけて出陣したと言われている。
 (★井伊谷龍たん寺所蔵甲冑)
117人(『寛政譜』)とも170人(『井伊年譜』)とも言われる甲州武士
団こそ「井伊の赤備え」として井伊直政を徳川家の中での不動の地位
に押し上げる原動力となっていく。
井伊直政は3000の兵士を率いる別働隊として動くことになる。



箕輪初心●愛知【小牧山城】=織田信長D築城・家康陣城
http://53922401.at.webry.info/201206/article_5.html

・天正12年(1584) 小牧・長久手の合戦
  豊臣秀吉軍・・・犬山城から南下する
  織田信雄・徳川家康連合軍・・・小牧山城跡を
    改修し陣城を築く。
  江崎氏は長久手への道案内で徳川家康から褒美の
  軍扇を下賜される。
→和解が成立し、小牧山城は再び廃城となった。


@犬山城の占拠
3月13日、池田恒興が突如、羽柴秀吉軍に寝返り犬山城を占拠した。
池田恒興がどちらにつくか去就が注目されたが結局は豊臣秀吉方
 として参戦した。
 豊臣秀吉から戦いに勝利した場合には尾張1国を約束されていたと
 いう。
緒戦で犬山城を攻略した後、途中で上条城に立ち寄り、三好信吉
 ・森長可(恒興の婿)・堀秀政と共に徳川家康の本拠三河国を攻め
 ようとした。

3月15日
 徳川家康は小牧山城に駆けつけた。

同日、森長可は兼山城(金山城:可児)を出た。
3月16日 森長可は羽黒(犬山市)に着陣した。

 夜半、松平家忠・酒井忠次ら5000人の兵が羽黒へ向けて
 ひそかに出陣した。
A羽黒の戦い
3月17日早朝、酒井軍は森軍を奇襲した。
 森軍は酒井の先鋒:奥平信昌勢1,000を押し返していた。
 松平家忠の鉄砲隊が側面から森勢を攻撃した。
 さらに酒井勢2,000が左側より背後に回り込もうした。
 森軍は敗走した。森勢の死者は300余人という。

3月18日、徳川家康は小牧山城を占拠した。
  周囲に砦や土塁を築かせ羽柴軍に備えた。


3月21日 豊臣秀吉は兵30,000を率いて大坂城を出発した。

3月25日 豊臣秀吉は岐阜に進んだ。

3月27日 豊臣秀吉は犬山に着陣した。
 両軍は対陣したが、互いに相手の出方を覗った。

4月4日、池田恒興は豊臣秀吉に
 「兵を三河に出して各所に放火すれば、徳川は小牧を守ることが
 できなくなるであろう。」
 と進言した。

4月5日朝、豊臣秀吉は池田恒興・森長可を主とした隊を編成した
第一隊: 池田恒興 - 兵6,000人
第二隊:森長可 - 兵3,000人
第三隊: 堀秀政 - 兵3,000人
第四隊: 羽柴秀次 - 兵8,000人

4月6日 豊臣秀吉から「三河西部へむけて前進すべし。」
  と命令が下った。
夜半、羽柴秀次は岩崎城から出発した

4月7日 徳川家康は羽柴秀次軍が篠木(春日井市)・上条城の
  周辺に宿営した情報を入手した。

4月8日、夕方、丹羽氏次・水野忠重と榊原康政・大須賀康高ら
 4,500人が小牧を出発し、小幡城(名古屋市守山区)に入った。
 徳川家康と織田信雄の主力9,300も小牧山を出発し、真夜中に
 小幡城に着陣した。
 織田・徳川軍は兵を2分することに決めた。

4月9日
「丑三つ時」(午前2時〜)織田徳川軍は出発した。

未明、池田恒興・森長可が丹羽氏重(氏次の弟)が守備する岩崎城
 (日進市)の攻城を開始した。
B岩崎城の戦い
 丹羽氏重は落城した。
(岩崎丹羽家・氏次・氏重の祖は一色丹羽氏で、丹羽長秀の児玉
  丹羽氏とは血縁はない。)
 羽柴秀次は白山林(名古屋市守山区・尾張旭市)で休息していた。
 森長可、堀秀政隊は、長久手周辺で休息し、
 豊臣秀吉の進軍を待った。

 徳川軍は背後に迫っていた。

C白山林(名古屋市守山区・尾張旭市)の戦い

寅の刻(午前4時〜)頃 
 水野忠重・丹羽氏次・大須賀康高軍と側面から榊原康政軍が
 羽柴秀次軍を奇襲した。
 羽柴秀次軍が壊滅した。秀次は逃げ遂せた。
 木下祐久・木下利匡は羽柴秀次の殿で討ち死にした。

D桧ヶ根の戦い
 堀秀政軍に羽柴秀次軍の敗報が届いた。
 堀秀政軍3000は羽柴秀次軍の敗残兵を組み込んで桧ケ根に陣を
 敷いた。
 徳川軍は、檜ヶ根(桧ケ根、長久手市)で堀秀政を攻撃した。
 しかし、水野忠重・丹羽氏次・大須賀康高・榊原康政は
 返り討ちにされて追撃された。

織田徳川本隊は小幡城を出発して権堂山から色金山(長久手市岩作色金)
に着陣した。
色金山頂で徳川家康が軍議を開いた。
 (「床机石(しょうぎいし)」
徳川家康・織田信雄は別働隊:水野忠重・丹羽氏次・大須賀康高・
榊原康政の敗退を知った。
徳川家康は富士ヶ根に進んで、堀秀政軍と池田恒興・森長可軍を分断
した。
堀秀政は戦況が有利ではないことを判断し、池田と森の援軍要請を
無視して後退した。

D長久手の戦い
池田恒興、森長可に徳川軍出現の報が伝わり、引き返しはじめた。
徳川家康は富士ヶ根より前山に陣を構えた。
右翼に家康3,300人、
左翼に井伊直政勢3,000人、
中央に織田信雄勢3,000人。

池田恒興・森長可軍は
右翼に池田恒興の嫡男:池田元助、次男:池田輝政勢4,000人、
左翼に森長可3,000人、
後方に池田恒興2,000人。

4月9日巳の刻(午前10時前後頃)
徳川家康・井伊直政・織田信雄 
VS
池田恒興・池田元助・池田輝政、森長可 
  両軍が激突した。
 戦闘は2時間余り続いた。
 戦況は一進一退の攻防が続いた。
森長可が討死した。
 徳川軍が有利となった。

*****************************
「井伊直政の鉄砲隊が森長可を狙撃した。森長可は鞍に銃弾を受
 け落馬したことが災いとなり討死した。」
という説もあるが、不明である。

A『井伊直政』羽生道英著
 「赤鬼だ。」
 ・・・敵兵は・・・怯えている。
 森長可は
 「われこそは森武蔵守なり、井伊殿と見受けたり。・・・」
 ・・・27歳であった。
 ・・・両者は馬上で戦った。・・・
 やがて、朱塗りの甲冑が上に留まった。
「さらばじゃ。」
直政が・・・鎧通しを突き立てた。
 
B、『井伊直政』高野澄著
 昊天、傑山、井伊谷3人衆、木俣・西郷・椋原と甲州の4組・・
 森長可は出てこない。

C,『井伊直政と家康』江宮隆之著
井伊直政は「黒半月」に跨がり、・・・赤備えの具足で・・・
武田遺臣の・・・赤備え武士が続く。
熊井戸半右衛門が射撃を命じた。
(★熊井戸半右衛門は小幡信貞の第一家老であるが、この時は
 北条氏直の家臣で、井伊直政には天正18年に家臣になっている。)
50挺の鉄砲が火をふいた。
森長可が馬から落ちた。家臣が連れていく。
「額を射貫いたはずです。」
・・・「柏原与兵衛と申します。」

D、『直虎と直政』野中信二著
「あやつが鬼武蔵だ。白い羽織姿の男を撃て。」
大久保と水野らは長可1人をねらう。
・・足軽、杉山孫六は鉄砲を放った。
長可は槍を落とすと、一瞬のけぞるように・・・落ちた。
大久保が近づくと、・・・母衣衆は遺骸を置いて逃げた。
**************************


 池田恒興も永井直勝の槍を受けて討死にした。享年49。
 池田元助も安藤直次に討ち取られた。
 池田輝政は父・兄は既に戦場を離脱したと説得されて、戦場を
 離脱した。
 やがて、恒興・森軍は潰滅した。
 合戦は徳川軍の勝利した。
 徳川軍は小幡城に引きあげた。
 長久手の戦いにおける羽柴軍の死者2500余人、織田徳川軍の死者
 590余人という。

同日、豊臣秀吉は小牧山へ攻撃をした。
 豊臣秀吉は2万の軍勢を率いて長久手に進軍した。
 しかし、本多忠勝500に行軍を妨害された。
 夕刻、豊臣秀吉は「家康は小幡城にいる」との報を受け、翌朝の
 攻撃を決めた。
 夜、徳川家康と織田信雄は小幡城を出て小牧山城に帰還した。
 
4月10日 豊臣秀吉は報を聞き、楽田(愛知県犬山市楽田)に退いた。

4月17日 
E美濃の戦い
 徳川家臣:遠山利景が旧領であった明知城を奪還した。


5月4日 羽柴秀次は伊勢から尾張の加賀野井城、奥城、竹ヶ鼻城
  を囲み、水攻めなどで攻略した。


6月16日 豊臣秀吉は岐阜城に寄った。
6月28日 豊臣秀吉は大坂城に戻った。
 徳川家康は小牧山城を酒井忠次に任せ、清州城に移った。

・・・・・(中略)・・・・・・・・・・

11月12日
豊臣秀吉は織田信雄に「豊臣秀吉側への伊賀と伊勢半国の割譲」
 を条件に信雄に講和を申し入れた。
織田信雄は受諾する。

11月17日 徳川家康は大義名分がなくなり三河に帰国した。
その後、豊臣秀吉は滝川雄利を使者として浜松城に送り、徳川家康
との講和を取り付けようと試みた。
徳川家康は返礼として次男:於義丸(結城秀康)を豊臣秀吉の養子
にするために大坂に送った。
こうして、小牧・長久手の役は終わった。

「小牧・長久手の戦い」以降「井伊の赤鬼」として恐れられる様にな
った7。
「山より此方(こなた)に馳下(はせくだ)し、縦横に駈破(かけ
やぶ)り、敵終(つい)に打負(うちまけ)て、大将夥多(あまた)
打(うた)れしかば」
(★『名将言行録』)
豊臣秀吉に「赤鬼」と呼ばれるようになった。


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