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zoom RSS 箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政136『47話:決戦は高天神』&高天神城

<<   作成日時 : 2017/12/20 06:13   >>

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@起…家康は万千代のアドバイスで家臣に本音を伝えた。
A承…高天神城攻めが始まった。万千代が策を打ち出す。
B転…中野・奥山が井伊谷の材木伐りで武田の間者を探しだした。
C結…直虎と万千代が仲直りをし、中野も奥山も万千代の家臣に。
◆ゆかりの地…高天神城・中村砦・・・・9月
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箕輪初心:生方▲遠江【高天神城】後編「本丸→三の丸」
&『歴史:今川→徳川→武田→徳川の城』
http://53922401.at.webry.info/201610/article_4.html


本多忠勝「石川殿、殿がお待ちでございます。」
と馬上から声をかけた。

●岡崎城
瀬名と信康が事実上殺されたことで、岡崎城は大騒ぎになっていた。
忠勝「岡崎城をさってしまうものや自ら命を落とすものまで現れました。
  ・・・殿が自ら仕置きをなされたのです。」
石川「仕置き?」

岡崎城で、家康はみなの前で話した。
「その方ら、わしに愛想が尽きたか?信じて、貰えぬかもしれんが、
 わしは2人を守りたかった。じゃが、力及ばず、織田から守れな
 かった。信康は無罪で、瀬名も信康をかばうため濡れ衣を着た。
 (死んでいった。)2人を守り切れなかった。信康はわしには
 もったいない息子であった。瀬名は・・瀬名がおらなければ、
 岡崎にももどれんかったと思う。そして、瀬名の願いは徳川が
 駿河をとることであった。
 故に、わしはなんとしても駿河をとりたい。妻と我が子を守れない
 わしは見限られてもしかたない。じゃから、皆の力を貸して欲しい。
 貸して欲しい。・・・
 家康は自分の不甲斐なさに愛想をつかしていると述べると同時に
 家臣たちにお願いするのだった。
平岩親吉「やりましょう。」
 家臣たちの息が上がった。
 「やろう。」
 「やりましょう。」
酒井は石川に「・・わしも生き恥をさらした。ともに恥を背負ってい
 ってくれぬか。」
と声をかける。
石川が家康に声をかける。
石川が「はい。」

榊原は万千代に「殿に腹割って話しするよういったのはそなたか?」
聞いた。

万千代は頭を下げた。
「昔、井伊の先代(直虎)が逃散した百姓たちに自分は力がない。故に
 力を貸してほしいと訴えたことがありまして、そうして、頼まれた
 百姓たちは今もなお、力強き味方にございます。」
本多忠勝が2人の後ろから抱きついた。
忠勝「駿河、取るぞ。」
と大声で叫ぶ。
「まず、高天神じゃ。」
家康「駿河取るぞ。エイエイオー・・・・」
「エイエイオー・・・」

◆ナレーター
「こうして武田に対して駿河攻めに向かっていくことになったのじゃあ。」

〜〜〜ミュージック〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

●井伊谷
なお虎「・・・虎松に戦のない世を・・・
 とは言ってもなにから始めたら?」
と碁石を眺める。

「殿」
奥山・中野らがやって来た。
「戦にでるとのこと、・・・」
「またか。」
奥山「高天神城の回りに砦を築くとのこと。砦と言えば、材木・・・
 近藤様に声がかかりました。」
★天正9年(1581) 実際は近藤康用は足が悪く、近藤秀用が出仕して
いた。
 天正16年(1588)3月12日近藤康用が井伊谷で死去。73歳。
 
直虎は浮かぬ顔をしている。
中野「何か気になることでも・・?」
直虎「いや・・戦というものはなくならないものじゃのうと・・」

南渓「武田攻めか」

直虎「織田と徳川の差はそれ程あるのですか?」
南渓「右大臣で・・天下布武も間近いらしい。」
直虎「織田に天下はとれませんでしょう。」
「ほう?皆、間近というておるがの」
直虎「・・・おうたことはありませぬが、何の罪もない男の首を取る
 男でしょう。・・・誇りを奪われた者がずっと従うでしょうか。
 ・・・」
「なるほど・・・」

◆ナレーター・地図
「高天神城を落とすため、横須賀城を造り、本陣を置いた。・・・」

●横須賀城
万千代が軍議に参加している。
万千代「・・・こことここに砦を築けば、兵糧がたてます。」
奥山「立派になられて、・・
中野「この前まで、小便たれておったのがのう?」
万千代がふりむく。

●井伊谷
檜林・・・
万千代「・・・籠城して4年、・・・兵糧攻めをするしかないと・・・」

家康は高天神城を落とすために兵糧攻めをした。

織田信長にも屈しない力を身につけるため、これからは味方にする力だと家康は得意気に言います。

奥山が竜宮小僧の話をしている。
人足@「川三郎・・」
人足A「さんたらぼっち」

中野は「川三郎」の言葉に気になった。

奥山に話す。・・・・
奥山「高瀬様の育ったところでは確か?・・・」
中野「それだ。」・・・

「高瀬様はどこから来た。」

中野は間者2人を弓で威嚇した。

●高天神城
軍議・・・
「中野殿?」
万千代「伯父上。その者たちは?」
中野「武田の間者であったらしい。」
奥山「・・お渡しする故、そちらで決めて下さい。

万千代「おい、お前ら、もはや戻れぬであろう。
    高天神城の井戸がどこにあったか、知っておるか?」
万千代は、高天神城の水を切りたかった。

●龍たん寺
直虎「織田が梯子を外されるというのですか?」
南渓「方広寺の法要でな。・・・安国寺の恵瓊・・・」

万千代から手紙が届いた。
南渓「・・・初めてではないか?」
直虎「水の手を断ったことで、2万石となったと・・・。」
龍潭寺の昊天も驚いた。
昊天「2万石となれば井伊谷全体とかわらない。」
★昊天は井伊谷龍潭寺5世で、井伊直政が死んだとき、彦根清涼寺
 龍潭寺の開基になっている。
★傑山が龍潭寺3世である。

「奥山と中野を召し抱えたいとある。」
「しかし、近藤殿が許しましょうか?」
★実際は奥山が天正6年の記述がある。『寛政譜』
直之と六左衛門が万千代のもとへ


直虎は「万千代の心が知りたい。確かめたい。」

●横須賀城
万福「殿・・」
万福「おとわ様、何故?」
直虎「・・・万千代に確かめたいと思っての。」

本多忠勝「この方は?」
万福「井伊家の先代です。」

忠勝「・・・むさ苦しいところですが、・・・」

直虎「あの者たちは?」
忠勝「織田の者たちですよ。」

忠勝「・・・援軍を送りつけてきたのですよ。」
直虎「・・・万千代は役にたっておりますか?」
忠勝「・・・変わりましたよ。来たばかりの時は・・・」

直虎「戦ってきたのか?」

万千代は「殿は・・・丸ごとを家臣にしていこうとしています。」
話した。

●回想
家康「丸ごと、・・・敵を味方とする力をつける、

「戦はお嫌いなのです。」

●回想・・・小野の言葉。

直虎「・・・但馬との、戦わぬ道を考えた・

「戦のない世になればの。」
「俺がしますよ、・・」
「・・・そうか、そうか・・・」
と納得した。

●井伊谷の森
「徳川様が直々・・・近藤様が・・・」
中野「・・・それがしは井伊谷の番人です。」

●横須賀城
万千代「井伊谷を望みませんと¥答えて下さい。」


直虎は、六左衛門をた。


武田が長引いていた。
武田がたが「降伏したい。」
との矢文が届いた。
「武田の城も明け渡す。」
と書状には書かれている。

しかし、織田の使者がやってきた。
「力づくで落とすように・・・」
と命令してきた。
「徳川がしないのであれば、織田が変わってたる。」

家康「そううまくはいかぬものじゃのう。」
家康は仕方なく攻め込むことにした。
雨が降っていた。

常慶「武田がでて参りました。」
家康「では、参るか?」

武田側は、攻めてでてくるしかなくなった。
徳川が皆殺しを決断した。

●井伊谷
直虎「ご無念であったろう。」
奥山「・・・近藤様は?」
直虎「近藤様は井伊を望まぬなら・・・」

●井戸
中野「徳川が織田に頭を押さえつけられる様は昔の井伊をみるようでの」
・・・しかし、俺まで・・・
直虎「・・・徳川を守ることは井伊をまもることだ。」
中野は去ろうとする。
直虎「・・・虎松に仕えてくれぬか? 」

・・・・

直虎「・・・弔い合戦でもある。」
中野「・・・おのれで考えて・・・井伊谷の番人・・・
   断れる訳がないでしょう。・・・やってみるしか
    ないですか・」
直虎「すまぬ。之の字。」

◆ナレーター
「・・・かくして、奥山・中野は・・・万千代に仕え・・
  武田攻めに・・・」

「天10年3月11日、戦国一のを誇った武田家が滅亡を迎えた。」

●安土城
明智「これより、武田遺領の仕置きを伝える。」

明智「・・・・
   駿河は・・・・。」

酒井が走ってくる。
万千代「仕置きは・・・


●龍たん寺
手紙・・・
「徳川が駿河を拝領したそうです。」

徳川は三河・遠江・駿河の三つの国の大名になった。
家康「駿河を取ったぞ。信康、瀬名・・・」


◆ゆかりの地
@高天神城


●▲■ 高天神城の歴史
・応永23年(1416)九州探題今川貞世(了俊)が築城?(諸説有り)

・明応から文亀年間(1492〜1503) 駿河の守護:今川氏が遠江の
        斯波氏への対抗のために築城?

・永正年間(1504〜1520)今川氏親の支城として重臣:福島
        正成が入城。
  永正10年(1513)頃(初見資料)福島正成が入城

・大永元年(1521)  飯田河原合戦
  (今川氏と武田信虎の争い)
  城将の福島正成が甲斐に侵攻。戦死説あり。

・天文5年(1536)  今川氏の後継者争い(花倉の乱)
  玄広恵探+福島正成 VS 軍師:太原崇孚雪斎+今川義元   
  今川義元の勝利。
  福島正成は武田信虎を頼って甲斐に逃亡
  →武田信虎により殺害。
  福島正成の子:勝千代は北条氏綱を頼り相模に逃走→
  北条氏綱の養子→北条綱成と名乗り、玉縄城(鎌倉大船)主。
  →高天神城に今川義元家臣馬伏塚城主:小笠原長興(氏興)・
   長忠親子が入城。

・永禄3年(1560) 桶狭間の戦い
 今川義元が敗北。
 ▲松平元康(徳川家康)は今川家を離反し、岡崎城に戻り独立。
 比馬城(引馬城・曳間城・浜松城前身)を攻略。
桶狭間の戦いから駿河侵攻にかけての今川氏の衰退・滅亡に
 よって城主・小笠原長興(氏興)は徳川氏に臣従した。
 遠江・駿河の国境近くにある高天神城は、徳川氏にとって遠江支配
 の重要拠点であった。


・永禄11年(1568)  甲相駿三国同盟を破棄した武田信玄が
  駿河に侵攻→今川氏真は掛川城に逃亡。
 
  高天神城を徳川家康が占領。
  属将:小笠原長忠を城将として置いた。

・永禄12年(1569)
  
駿河・遠江を領していた今川氏真が武田信玄と徳川家康に
 挟撃され滅亡した。
 駿河は武田信玄に、遠江は徳川家康の所領となった。

 武田信玄が金谷台地に五つの砦を築城した。
 11月 「金谷城」を築城した。
(★『武徳編年集成』)
  金谷城が諏訪原城かどうかは断定できないが、
  武田信玄は馬場信春に命じて諏訪原城か元になる
  城を築城開始した。

 武田信玄は駿河平定後、遠江・三河方面へ手を伸ばし始めた。
 
 武田と徳川は間もなく争うようになった。
徳川氏とは小競り合いが続く。

・元亀元年(1570) 武田信玄は今川氏真の支城の
  花沢城・田中城(藤枝)→今川方の西駿河諸城を攻撃。
 2月→花沢城,徳之一色城(田中城)を開城。

▲元亀元年(1570)説  徳川家康は居城であった岡崎城を長子:
  信康に譲り、曳馬城(浜松城)に入城した。
  
 武田信玄は田中城(藤枝)を築城した。

・元亀2年(1571)武田信玄は遠江に侵攻し2万5千騎を率いて
   高天神城を攻撃した。
  武田信玄は城門を襲ったが難攻不落と見て、包囲を解いて退却した。            

 ※武田氏と織田氏は同盟関係は維持していたため、織田氏は
 徳川氏に援軍を送らなかった。

 北条氏康の死。
 →北条氏は武田氏と和睦して甲相同盟が復活した。
 
・元亀3年(1572)武田信玄は諏訪原城・小山城の築城に着手した。 
 
武田信玄は西上作戦における遠江侵攻・・・徳川家康の城に大攻勢
をかけた。
北条氏の後顧の憂いがなくなった武田信玄は西上作戦を開始する。
武田信玄は軍は兵を3つに分けて、遠江国・三河国・美濃国に同時
侵攻を行った。
@山県昌景は、別働隊を率いて信濃から三河へ侵攻した。
 軍勢は5,000人とされる。
 9月29日、信濃諏訪より東三河に侵攻。
 徳川家康の息のかかったの武節城の攻略
 東三河の支城である長篠城を攻略した。
 遠江国に侵攻。
A秋山虎繁(信友)は、信濃大島城(長野県下伊那郡松川町)
 から高遠城より東美濃に侵攻した。
 軍勢は5,000人とされる。
 秋山勢は織田氏の岩村城を包囲した。
 (事実上の織田氏との同盟破棄)
 11月初旬に攻略。女城主:織田の叔母を妻にした。

B武田信玄率いる本隊は駿河から遠江・三河に侵攻した。
 本隊は2万2,000人(北条氏援軍2,000人)とされる。
 10月3日、甲府より出陣し、諏訪→青崩峠から遠江国に侵攻。
 途中、犬居城で馬場信春隊5,000人を別働隊として只来城に
 向かわせた。
 本隊は南進して二俣城へ向かった。

 武田軍は総計3万人・・・当時の武田氏の最大動員兵力であ
 った。
 (★ウィキペディアより編集)
10月13日 馬場信春隊は只来城を落とした。
 馬場信春隊は二俣城を包囲した。
 武田信玄率いる武田軍本隊も二俣城に向かっていた。
 10月14日 一言坂の戦い

 徳川家康は二俣城を取られたくないと思った。
 徳川家康が偵察に出たが、武田軍本隊と遭遇してしまった。
 一言坂で敗走した。

10月16日 武田軍本隊も二俣城の包囲に加わり、降伏勧告を行う。
 二俣城は1,200人の兵力しかなかったが拒否した。

10月18日 ▲二俣城の戦い
 武田軍の攻撃が開始された。
11月初旬 山県昌景隊も包囲に加った。
 そして、二俣城の水の手を絶った
12月19日 助命を条件に開城・降伏した。
  遠江国の北部が武田領となっていた。

 高天神城と浜松城とを結ぶ遠江の要所・二俣城を攻略した。
 高天神城は孤立した。
しかし、高天神城はまだ徳川氏の拠点として機能していた。

二俣城などの遠州諸城を落とし、浜松城に肉薄した。
 
武田信玄は浜松城が堅固な守りであることを知ると西に
 進軍した。
西に進軍。・・・罠。
 
徳川家康は「庭先を踏みつけられて見過ごすは弓矢をとる
  者の恥だ。」
 と言って、徳川家康は浜松城から討って出た。
  ▲三方ヶ原の戦い
 武田軍25000  VS   家康11000+織田信長の援軍3000  
    結果・・徳川家康が× 浜松城に撤退。
****************************
箕輪初心★小幡一族&熊井土一族&三方原の戦
http://53922401.at.webry.info/201304/article_10.html

・元亀4年・天正元年(1573)
・天正元年(1573)

  武田勝頼は、普請奉行馬場信春、補佐を武田信豊に命じ、
東海道沿いの牧之原台地上に城を築かせた。
   (★『甲陽軍鑑』)
  諏訪原城は牧之原台地の突端部を利用し、三方は牧ノ原
  台地の断崖となっている。
甲州流築城術の特徴:丸馬出&三日月堀が5ヶ所あり、
  枡形虎口などの遺構も残っている。
  前面の巨大な空堀が断崖へと続いている。
  高天神城に向けて戦闘正面を強化した構造となっている。   
  諏訪原城を築城説? 改築説?・・・・。
  馬場信房が城代になった。
  在番として今福友清(淨閑斎)・子の今福丹波守顕倍が守った。
  室賀・小泉も寄騎していた。
   
  諏訪原城・小山城・田中城・相良城などが大井川西岸の防衛
ライン及び高天神城への補給線を確保する重要な拠点となった。
  徳川家康の遠江から防衛ライン・徳川への攻撃ラインとなった。
 
  武田信玄は諏訪原城に入城。天神城の攻略を目指した。

2月16日 ▲野田城の戦い
  武田軍は徳川軍にとって東三河防衛の要所である野田城を攻略
 した。

しかし、武田信玄の病状悪化していった。
 武田軍は西上作戦を切り上げて甲斐国への撤退を決断した。

4月12日(5月)武田信玄は病死した。
 武田信玄は「西上作戦」から三州街道を甲府へ帰陣する途中、
 信濃伊那郡駒場で死去した。
 武田信玄の死は秘密にされ、武田勝頼が武田氏の跡目を継いだ。
武田勝頼も遠江の獲得を目論んだ。
 
 武田勝頼は、父:信玄の意志を引き継ぎ、駿河攻めから
 遠江に侵攻した。
 徳川家康の軍勢と雌雄を決する戦いを挑んだ。

 ところが、武田軍が体制を整える間に、織田信長・徳川家康は
 反撃に出た。
 7月18日織田信長は将軍:足利義昭を追放した。
 天正元年とした。
 8月 岐阜城にいた織田信長は越前の朝倉義景と近江の浅井長政
  (信長の義弟)を相次いで滅ぼし、越前・近江を手中にした。

  徳川家康も武田信玄の死を機に反撃に転じた。
  長篠城の奪回や、武田方の作手亀山城主奥平貞能を寝返らせる
  など三河における失地回復を進めていた。



・天正2年(1574) ▲第一次高天神城の戦い
5月 武田勝頼は、2万5000人の大軍を率いて、遠州東部の徳川
方の重要拠点である高天神城に攻めかかった。

高天神城は徳川軍:小笠原長忠1,000人である。
▲徳川方の小笠原長忠は匂坂牛之助を浜松城に派遣し、
  徳川家康に援軍を要請した。
しかし、徳川家康は武田の山県昌景別働軍・秋山信友別働隊
に備えねばならなかった。
徳川家康軍の総兵力は10000人程・・・・
そこで徳川家康は同盟を結んでいた織田信長に救援を要請した。
5月5日〜織田信長は賀茂祭に出席していた。
5月16日 織田信長は京都を出立した。
5月28日 織田信長は岐阜に帰還した。

 高天神城は、武田軍による猛攻で西の丸を失陥し、兵糧が窮乏
 して落城の危機に陥っていた。
  
  →織田信長は援軍を出さず、徳川家康も単独行動できなかった。

6月14日 織田信長の援軍が岐阜を出陣した。
6月17日 三河の吉田城 に到着した。
6月18日 高天神城の小笠原長忠の一族:小笠原信興が武田勝頼
   に内通して反乱を起こした。

   小笠原長忠は持ちこたえられずに降伏した。
   小笠原長忠は穴山信君の講和に応じて開城した。
   小笠原長忠は武田勝頼に降参。
  須賀康高らは徳川家康を頼って浜松に逃亡。
 
  こうして、高天神城は武田軍の手に落ちた。

6月19日 織田信長の元に高天神城の陥落の報が入った。
  徳川家康がやってきて礼を述べた。
  織田信長は徳川家康に兵糧代として大量の黄金を贈った
  という。
6月21日に岐阜に帰還した。
(★『信長公記』)


           
結果・・・武田勝頼は小笠原長忠のいる高天神城を
     攻略した。武田氏の手中にした。
武田勝頼は有頂天・自信過剰になって、家臣の言う事を聞かなく
なったという。
(★『甲陽軍鑑』)
特に、武田信玄の時代の老将:内藤昌豊・馬場信房など・・・
爺は煙たい存在なのである。
長篠の戦いでは、跡部勝資の言うことを聞いたようである。

また、武田家臣の統制力・権威を強めたという解釈もある。 
→「長篠・設楽ヶ原合戦」のきっかけとなる事件となった。
→高天神城は武田氏の遠江における最大の拠点となった。
  岡部真幸が入城。
  高天神城を本格的に整備・改修。
       
 
・天正3年(1575)▲長篠・設楽ヶ原合戦
   武田勝頼軍  VS  徳川・織田連合軍     
   武田軍の大敗。
  ・・・箕輪城主:内藤豊後守昌豊(昌秀)戦死。


徳川家康は二俣城・犬居城・諏訪原城を奪取した。
武田方の大井川沿いの補給路を封じた。



▲第二次高天神城の戦い             
徳川家康は高天神奪還のため、馬伏塚城を本陣に
 高天神城を監視した。



・天正6年(1578)徳川家康は横須賀城築城。
 周囲に付城三井山、山王山、宗兵衛山など「六砦」を築城。
  高天神城の武田勢の兵糧弾薬の搬入を遮断し、 高天神城への
 締め付けを強化した。
 武田方にとって高天神城の維持はメリットが大きかったが、
 補給線の長さからデメリットも大きかった。

 武田軍は前面の家康・背後の北条氏・・・
 城将以下900名の城兵は玉砕を覚悟した。

・天正8年(1580)城将:岡部真幸は躑躅ヶ崎館帰陣。
援軍を要請した。
   徳川氏の家臣:大河内源三郎正局を石牢から救出。
     
10月、徳川家康は5000人の軍勢を率いて高天神城奪回を図った。
  徳川家康は高天神城を囲んで周囲に鹿垣をつくり、兵糧攻めを
 行った。
徳川家康の包囲10ヶ月・・・・。
  
  城将:今川旧臣の岡部元信・岡部長教が守る高天神城は、
  武田勝頼の援軍なく、高天神城中で飢えとの戦いであった。

  武田勝頼は甲斐から援軍を送ることができなかった。
 天正6年(1578年)3月 御館の乱後に上杉景勝と甲越同盟を
 結んだ。(妹:菊姫は上杉景勝の妻)ため、後北条氏との甲相
 同盟が破綻し、駿河において北条氏政の攻勢を受けていた。
 織田信長との関係もあったのであろう。
武田勝頼も援軍を送ろうとするが、東西に敵を抱える状況で
 援軍ができない状況が続いたのであろう。
 織田信長は武田勝頼の信用失墜を狙ったのであろう。

・天正9年(1581)
1月3日 織田信長は武田勝頼出陣の噂を知った。
  織田信長は織田信忠を清洲城に入れた。
  しかし、武田勝頼が出陣した形跡はなかった。

 3月、逃亡兵が続出した。
徳川家康の包囲によって城兵の大半が餓死した。

3月22日早暁 出撃。
大将岡部丹波守真幸(元信)、軍監江馬直盛以下残兵800名は
  二手に分れて城外に出撃した。
  →武田軍700余名が討ち取られ、高天神城は落城。
  岡部真幸(元信)は大久保忠教によって討ち取られた。
  武田軍の横田甚五郎尹松は「犬戻り猿戻り」の険阻な尾根道を
   夜間の脱出(★現在でも残っていた)。甲斐へ逃亡。
   (★『戦国の城:学研1993』)
※3月25日午後10時頃、武田軍は城から討って出るが徳川軍は
 応戦し、岡部元信と兵688の首を討ち取った。
  (★『信長公記』)。
生き残った城兵は助命された。
武者奉行孕石元泰のみが切腹させられた。
徳川家康が今川氏の人質であった時代に、孕石元泰が人質時代に辛く
当たったことを遺恨に思ってのことであった。
 (★ウィキペディアより)
人質時代の徳川家康と孕石元泰の屋敷が隣り合わせであった。
徳川家康は鷹狩り好きで、放った鷹が獲物や糞を孕石の屋敷に落
としていた。孕石元泰は度々苦情を申し立てていた。徳川家康は
苦情に腹を立てて恨んでいた。孕石元泰は徳川家康により数十年
後、切腹させられたのである。
(★『家忠日記』・『三河物語』)
・永禄11年(1568)孕石元泰は武田信玄の家臣となった。
・天正10年(1582) 孕石備前守泰時は井伊家家臣となって、足軽
鉄炮隊隊長となって、後の小牧・長久手の戦いで活躍した。
孕石備前守泰時は井伊直政の箕輪城・高崎城時代〜17家老の1人
となった。

 →武田勝頼は遠江方面の拠点を戦失した。
 木曾義昌や穴山梅雪等の家臣団の離反に繋がっていく。
穴山梅雪は長篠の戦いにも既に参加していなかったけど・・・

▲徳川家康は武田氏への前線基地を横須賀城に移し、
 高天神城は廃城となった。

・天正10年(1582) 織田信長家臣:滝川一益・徳川家康の
   甲州への進撃。
 →武田勝頼は新府城を焼き、岩殿城へ・・・
  3月11日 追い詰められ自害。


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箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政136『47話:決戦は高天神』&高天神城 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
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