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zoom RSS 箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政122気賀F『大河ドラマ館』

<<   作成日時 : 2017/11/29 07:38   >>

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平成29年(2017)11月2日、浜名湖水運の要衝・気賀に「大
河ドラマ館」が期間限定で設置された。大河ドラマ館の開館期
間は、2017年1月15日〜2018年1月14日まである。NHK
大河では、気賀は「武士のいない商人の町」であり、堺のよう
な「町人な町」イメージで設定なのであろう。流れ者・牢人た
ちが集ってきた。その中には元泥棒?遊び人?自由人?の龍雲丸
を登場させている。中村屋は実在に近い設定になっている。
NHK大河「おんな城主 直虎」の宣伝材料の一つであるが、写真
が撮れないのでつまんなかった。どうせ、残り5〜6回で終わり
なのだし、「大河ドラマ館」も1月14日まで、・・・写真位は?
井伊谷妙雲寺も檀家の方が「12月28日に土日解放を終わりに
しようかな。」と言っていたが、石原先生が「1月14日頃にすれ
ば」とお願いしていたのを思い出した。
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箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政113『井伊谷遺産センター』
井伊谷の歴史
http://53922401.at.webry.info/201711/article_15.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政114『井伊谷妙雲寺』直虎と南渓
の位牌・南渓肖像画
http://53922401.at.webry.info/201711/article_16.html

箕輪初心:生方▲井伊谷『謂伊神社』&モロード様
=客人神のうんこ神様?
http://53922401.at.webry.info/201711/article_18.html

箕輪初心:生方▲『井伊谷宮』と宗良親王復刻版
http://53922401.at.webry.info/201711/article_19.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政117『龍潭寺』:昊天が彦根清涼寺開山
http://53922401.at.webry.info/201711/article_20.html


箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政119気賀A展望台からの気賀と『堀川城』
http://53922401.at.webry.info/201711/article_22.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政117気賀B「長楽寺」・『井伊直親の墓』
http://53922401.at.webry.info/201711/article_23.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政120祝田【蜂前神社】と『徳政文書』
http://53922401.at.webry.info/201711/article_24.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政121気賀D『刑部城』
http://53922401.at.webry.info/201711/article_25.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政122気賀E『本陣・復元関所』と【近藤家】
http://53922401.at.webry.info/201711/article_26.html



【1】平成29年(2017)11月1日***************
07:00 家→駐車場
07:58 高崎 ⇒08:52着東京09:03発⇒10:31着 
 2時間33分 12,070円 お土産を買った。
JR北陸新幹線 あさま606号 東京行
JR東海道新幹線 ひかり465号 岡山行
☆石原さんにTEL
10:40 南口のトヨタレンタカー
@三方ヶ原古戦場跡  
  犀ヶ崖資料館には行かなかった。
12:00 井伊谷
   昼食「昌盛館」…中華丼・台湾味噌ラーメン
   石原さんの誕生日祝いだった・
A井伊谷遺産センター
B自耕庵と妙雲寺:直虎の位牌・南渓の位牌
●自耕庵と直虎の墓伝説
・永禄4年(1561)5月、桶狭間の戦い
 井伊直盛が戦死した。娘であった井伊直虎(次郎法師)が
「自耕庵」を造立した。龍潭寺二世の南渓和尚を講じて開山した。
井伊直虎は龍たん寺の南の一角に住んでいた。晩年は「自耕庵」
に住んだ。井伊直虎の死後、井伊直虎の塗りの位牌に記された
『妙雲院殿月舩祐圓大姉』あったことから「妙雲寺」と改められた。
●臨済宗妙心寺派「浩徳山妙雲寺」
檀家の方が平日なのに石原さんの依頼で特別に開けてくださった。
「大河ドラマ「おんな城主 直虎」の放送が決まってから、妙雲寺で
まず、歴代住職の位牌が並んでいる場所の一番奥から見つかりました。
普段は位牌を全部取り出すことがないので全く気が付かなかったの
ですが、大掃除の時に発見しました。
 南渓の肖像画は私がここから発見しました。
と障子戸の上の所をさして教えてくださった。
歴代住職の肖像画が保管されていますが、全部は開いてません。
どんなお宝が出てくるかは分かりません。

●直虎のお位牌
●南渓のお位牌
●南渓谷の肖像画
●青面金剛


C渭伊神社と天白磐座遺跡
D井伊谷宮・・・3回目

E龍潭寺・・・・・3回
  ★龍たん寺の現和尚様:武藤某様は大學の同期か一つ下らしい。

F気賀の「浜松市姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館」
「浜松市の銅鐸」の本…石原先生、ありがとうございます。
 三遠式銅鐸、近畿式銅鐸(弥生時代)
都田川流域は全国有数の銅鐸出土地である。
 浜名湖周辺では約26個の銅鐸が出土しているそうである。
 銅鐸7点や発掘当時の展示もあった。
  資料は400円であった。
 もちろん、群馬県にはない代物である。
 企画展「井伊谷の歴史パネル」

○細江神社
○万葉の里…歌碑が多い。
○展望台…気賀の眺めが最高。
○国民宿舎「奥浜名湖」

○石原氏宅…たくさんに本をいただいた。
・「井伊家傳記」訳本上下:たちばな会著
  ・「井伊氏ゆかりの石塔」
  ・「井の国物語」谷光洋著、版画家でもある。
  ・「気賀と万葉歌碑」
  ・「高崎史帳」森田秀策著
  ・その他資料。
○19:00国民宿舎「奥浜名湖」
  ★景色は最高。

 ・「花の舞酒造」の「奥浜名湖」を飲んだ。

 ★体裁のよい和食料理で、酒飲みには物足らなかった。
  


【2】平成29年(2017)11月2日***********
05:30 起床
06:00 気賀の町中に・・・
○本陣

G▲城887気賀の堀川城

H気賀の長楽寺
○(陣屋⇒大河ドラマ館)

I井伊直親の墓
J蜂前神社
K▲城888刑部城…武田信玄のコース
○気賀の関所…町中十字路近く。入り口が小さく、駐車不可
  慶長6年(1601) 徳川家康により創設された姫街道の関所である。
○朝飯…国民宿舎「奥浜名湖」&精算11600円?
L気賀近藤氏5000石の陣屋

M大河ドラマ館…600円。★NHKの宣伝で、歴史好きの人には?
●建物
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●チケット売り場
大人(16歳以上):600円
小中学生(6歳以上):300円
未熟学児:無料
障がい者割引入場券:無料
ドラマ館&龍潭寺セット入場券1000円

●パンフレット等
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●入り口
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  巨石のオブジェ
  建物入口右側には、ミニ写真の無料プレゼントがありますが、・・・
  言われたが、忙しいので止めた。
  2番で入った。

 注意@… 入口からは飲食禁止です。
 注意A…再入場できません。
注意B…「建物」・「巨石セット」・「井伊谷 井戸端セット」以外は
     撮影禁止です・・・★つまんねえの600円も払って

●大河ドラマ情報
浜松でのロケ地や直虎ゆかりの地を紹介するコーナー

●井伊谷 井戸端セット
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写真撮影可能
  井伊直虎
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  小野政次
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  井戸
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●井伊氏居館セット

●直虎シアター
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●美術の世界
出演者の衣装や小道具などが展示
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●気賀の関所に戻った。

★気賀港からの直虎遊覧船(みをつくし直虎浅橋周遊・引佐細江湖
一周20分千円)があるのに・・・気賀街歩きは止めた。



N▲城889三日日の佐久城
O▲城890三ヶ日の千頭峯城
===宇利峠(静岡県⇒愛知県へ)==============
P▲城891比丘尼城(近藤康用の支城)
Q▲城892宇利城(近藤康用の最初の城)
R▲城893野田城(菅沼氏の最初の城)
S▲長篠古戦場跡…馬防柵等の見物・
21▲長篠城2回目…本の購入「」
22▲城894医王寺と武田勝頼本陣
23▲鳳来山東照宮&鳳来寺…★井伊虎松がいたとされる坊
24▲城895柿本城(鈴木重時の城)
===宇利峠(静岡県⇒愛知県へ)==============
25▲奥山方広寺…★臨済宗方広寺派大本山。井伊氏分家の奥山氏が
 南北朝時代に建て奥山氏が庇護した。
井伊直虎の許婚:井伊直親の妻「ひな」の実家
 昼飯は精進料理のうな重は1200円。
※奥山館・奥山城・竜ヶ岩洞(2億5千万年前)には行けなかった。

○井伊谷の石原先生宅
26◆北岡大塚古墳
○井伊谷の石原先生宅
◆俺は帰りながら、閃いた。
 K大學の吹奏楽団の「祐太郎君」に会いてえな?・・・
★浜松泊まりを決定。東京大田区泊まり・群馬駆け戻りをやめた。
 
○GS…1900円
○トヨタレンタカー 約15000円
★可愛いお姉さんがビジネスホテルを教えてくれた。
○ホテルセレクトイン浜松駅前素泊まり4200円
「祐太郎」君にTEL…「明日、8:30に会うことになった。」
★祐太郎の声を聞けて、良かった。
○夕食「藤田」…鰻&酒で3480円
○ホテルセレクトイン浜松駅

【3】11月3日、
○07:00 駅前散策
○朝食…パン屋
○08:30 祐太郎君
28▲城897二俣城
29▲城898鳥羽山城
30▲城899大平城(おいひら城)
31▲城900引間城(曳馬城)
32 椿姫観音
○昼食「うなぎの佳川」…2800円+α。
 祐太郎君のおごり…ありがとう。
13:40浜松駅…祐太郎君と別れた。
14:11発 15:40着 (89分)ひかり468号 東京行
16:11 東京→高崎
18:00 家
★次に浜松に行くときは
浜松市内では、楽器博物館・浜松基地・宿蘆寺
浜松井伊谷では、三岳城(三嶽城)・渋川館・初山窯・キ田城・奥山城
浜松の山奥では、犬居城・高根城
隣の市では【舟ケ谷城】直虎を支えた新野氏の居城・横須賀城
宿泊するなら「舘山寺温泉」国民宿舎紅竹 6000円


箕輪初心:生方▲大草城&大河原城*宗良親王&香坂高宗
http://53922401.at.webry.info/201606/article_12.html
 ★宗長親王は信濃の大草城・大河原城を拠点とした。


【●】「姫街道と気賀の歴史」
愛知県御油宿から静岡県見付宿の間を浜名湖の北岸経由で結ぶ東海道
の脇街道である。正式には本坂通と呼ばれている。
愛知県と静岡県の境にある本坂峠は姫街道の難所である。

・弥生時代
  銅鐸文化で栄えた。当然、米生産をしている。

・古墳時代
  前方後方墳が造られた。(北大岡古墳など)
  古墳の文化はかみつけの国(群馬県)にも伝えられた。

・奈良時代
 奈良官道(東海道)は、湖北(浜名湖の北)を通っていた。
 気賀を通る。
 防人も此処を通って奈良・九州に行かなくてはならなかった。
 『万葉集』には、「引佐細江のみおつくし」等、湖北の地名や風景を
 詠み込んだ防人歌が載せられている。
ここから先は死ぬか生きるかの山道が待っていた。
 気賀から見る浜名湖は絶景であったのであろう。
 東山道の高崎付近と同じで歌を詠む場所であったのだろう。
  「伊香保路(榛名山)」が9首ある。
愛知県側の国名が「穂の国」(三河の国・宝飯郡)であった。
「穂の坂」または「穂の境」がなまって「本坂」になったと言われる。
 奈良時代の浜名湖は現在の広さの半分であった。
 北半分で、湖水は浜名川によって遠州灘(太平洋)へ流れ出ていた。
 「引佐郡伊福郷」が気賀である。

・平安時代
「井伊谷」井伊氏が入ってきた。井伊氏の館があった。

・鎌倉時代
湖南(浜名湖の南)で窯業が発達すると、東海道は湖南に移り、湖北
 の本坂越えの道は「ひね街道」(「ひね」は遠州弁で「古い」の意)、
 江戸時代に「姫街道」(「ひめ」は「ひね」の転訛。異説あり)と呼ば
 れたそうである。

・鎌倉時代末期
 井伊谷に詰め城として井伊谷城と6つの砦が築かれた。

・南北朝時代
・南北朝時代初期 強力な詰め城として三岳(三嶽)城が造られた。

・建武4年(1337)、三方ヶ原の戦い
 宗良親王は難破し、井伊谷に行った。
 南朝:井伊氏 VS 北朝:足利系今川範国・了俊

 井伊一族は南朝方:宗長親王にに加勢し、今川範国と戦ったが、
 敗戦を喫した。

・暦応2年・延元4年(1339)〜暦応3年・興国元年(1340)南朝:
宗良親王を迎えた井伊氏の井伊谷に北朝:足利方の高師泰・仁
木義長ら の軍勢が現浜松・井伊谷に押し寄せてきた。三岳城に
籠もったが、攻略され、更に大平城で敗北した。宗良親王
は信濃に逃亡した。井伊谷は今川了俊の支配下になった。以後、
敵対していた今川氏支配下に置かれ、井伊氏は受難の時代が続く。
(★平成28年(2016)6月に石原さんが送ってくださった資料)

・室町時代
・文明13年(1481) 中村家14代正實(まさざね)が、今川氏から
遠江国磐田郡大橋郷に領地を与えられた。
中村家は源氏の源範頼の末裔である。
   源範頼は、源頼朝の弟・源義経の母違いの兄である。

・明応7年(1498)?、 明応8年(1499)?
  超巨大地震が発生した! 
  浜名川が山津波で塞がれると、浜名湖の水が溢れ、新たな湖水の
 排出路ができた。
 ※排出路を「今切(いまぎれ)」と言った。

  地震が収束すると、浜名湖の面積は倍に広がり、今切口は広く
 なってしまった。
 淡水湖であった浜名湖は汽水湖となった。
浜名湖と遠州灘が大きく切られてから舟で渡るようになった。
 東海道も「舟を使うのは不便」だとして、湖北(本坂越え)に
 戻った。
 「交通の要地」として吉村湊(後気賀湊)と気賀は再び注目された。
 
・戦国時代
中村家は今川家の家臣として代官を勤めたいた。
中村家はTV大河ドラマ『おんな城主直虎』では商人であったが、
  史実では武士である。中村与太夫は、実在の人物である。
  今川家から浜名湖で自由に航行する権限もらい、船輸送・貿易を
  管理していた。
  
  井伊谷は、本坂越え街道・鳳来寺信濃道に通じる中継地であった。
  井伊家の財源は、運輸業が中心であった。
主な貿易輸入・運送品は、「三河塩」・「木綿」だったと考えられる。
主な貿易輸出・運送品は、「陶器」であったと思われる。
  井伊家は貿易業(吉村湊からの水上輸送)に目を付けていた。
 
・永禄3年(1560) 桶狭間の戦い
今川義元が戦死した。
  井伊直盛も戦死した。井伊直親があとを継いだ。
井伊家は中野直由が形式上、井伊谷城主になった。
遠江国は「遠州錯乱」と呼ばれる混乱状態に陥った。

土地の人々が砦を築き、地名から堀川城と名付けた。
  キ田川の対岸にも刑部城を築いた。
 
 徳川家康の遠江侵攻に備えた。
 しかし、未だ今川氏の勢力下であった。

 今川家の力が弱くなったのにつけ込み、密かに気賀に集まる者も
 増えていった。
 
 井伊直盛時代の「井伊谷七人衆」の1人であったが、「桶狭間の戦い」
後、独立して気賀領主となったと伝えられている
「遠州気賀領主新田左衛門入道喜兼(元直平ノ家臣也)」
  (★『井伊直平公一代記』)
井伊家は貿易業(吉村湊からの水上輸送)に目を付けた。
気賀には新田友作・家臣の石田党、丸井党、蒲生党、中村党が
集まっていた。

山村修理、尾藤主膳、竹田高正などもいた。


・永禄5年(1663)
井伊直親は小野政直の息子・小野道好(政次)の讒言により、今川氏真
 から松平元康(徳川家康)との内通の疑いを受けた。
 今川家の縁戚でもあり、井伊直盛の妻:祐椿尼は妹であった新野親矩
 の取りなしで、陳謝のために駿府へ向かうことになった。

・12月14日(1563年1月8日)…3月2日説
  井伊直親は掛川で今川家の重臣:朝比奈泰朝の襲撃を受けて殺害
  された。享年27。


・永禄7年(1564) 中野直由が戦死した。
  中野直之があとを継いだ。
  奥山六左衛門はひよ(井伊直政の母・中野直之の妻の姉)の姉弟で
  あった。
 井伊家にはダレも跡継ぎがいなくなった。


・永禄8年(1565) 次郎法師は還俗し、井伊直虎と名乗り女領主に
  なった。

・永禄11年(1568) 今川氏真が瀬戸方久に出した徳政令を免じる
  安堵状を出した。条件は新城の備蓄を賄うようにち付帯事項が
 付いていた。新城が刑部城・堀川城では、と見られている。
 
 今川氏真は、徳川家康の遠江侵攻に備え、刑部城や堀川城の改修
 工事を命じた。
 そして、両城に集まったのは、各地からの牢人・農民である。




永禄11年(1568) 今川氏真の命を受けた小野正次(道好)の介入を
  受け、徳政令を井伊直虎・関口氏経の連名で発令した。


【●】井伊直虎の領主支配を終わって***************
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・永禄11年(1571)
徳政令が実施されると今川家は井伊谷を押収した。
  小野道好に井伊谷城を奪われた。
  井伊直虎は井伊谷城を追われてしまった。
 直虎は井伊谷城・井伊館も井伊谷領地も失って身を寄せたのは
 龍潭寺松岳院であった。
 井伊直虎34歳・・・
 井伊虎松は鳳来寺へ逃れた。(8歳〜14歳まで鳳来寺で過ごした。)
    
直虎は今川家・徳川家のいずれかの側につくかの選択を迫られた。
 井伊家の家臣らはほぼ同数で意見が分かれた。
 直虎は亡き許嫁:井伊直親が生前ひそかに今川家から徳川家へつく
 準備を進めていたことから、直虎はその意志を受け継いだとされる。

12月12日 武田信玄が今川領に入ってきた。
  さった峠の戦い
  今川勢は地の利を生かして峠を守った。
  しかし、今川家は既に瀬名信輝・葛山氏元・朝比奈政貞・三浦義鏡
  など駿河の有力家臣が21名も武田信玄や徳川家康に内通して
  いた。
12月13日 今川氏真は身の危険を感じて、今川氏真は駿府の今川館
  に撤退し、賤機山城に籠城しようとした。
  しかし、賤機山城は馬場信春に占領されていた。
今川氏真・早川殿は掛川城に逃げ込んだ。

今川は滅亡状態・・・

18代中村源左衛門正吉は、主君を今川家から松平(徳川家康)
 に変えた。
 井伊谷三人衆(近藤康用・鈴木重時・菅沼忠久)に、浜松城
  (旧引馬城)主となっていた徳川家康が加担した。


徳川家康は岡崎から本坂峠を越えて湖北へ攻め込んだ。
 徳川家康は井伊谷城を攻略した。

12月15日、徳川家康が三河→奥山→遠州侵攻。
道案内は「井伊谷三人衆」だった。
近藤康用(やすもち)・鈴木重時・菅沼忠久だ。

小野政次(道好)は 井伊谷城から逃げた
 井伊谷城には近藤康用が入り、井伊谷を治めることになった。
 
 徳川家康から近藤康用が井伊谷を安堵された。
 近藤康用が支配することとなった。
 次いで刑部城を落城させた。
 
 今川方で近隣の堀江城主:大沢左衛門は家康に抵抗していた。
 
 新田友作、尾藤主膳、山村修理らは、地元の農民など雑兵約1700人を
  集めて気賀の堀川城に立て籠もった。
  

・永禄12年(1569)
2月 徳川家康は掛川城を落とした
 3月27日、再び堀川城を攻めた。
  中村正吉は船を出して、徳川家康を迎えた。
  堀川城は徳川勢によって一方的に殺戮された。

・天正2年(1574) 井伊虎松の実母:井伊直親内室:奥山ひよは
  松下源太郎清景と再婚した。
松下源太郎清景は井伊虎松を養子とし、継父となった。

・天正3年(1575) 直虎41歳は15歳になった松下虎松(直政)を
 徳川家康に家臣取り立てを願い出ることにした。
 井伊直虎は家康の行動を調べあげ、趣味の鷹狩りに赴く道すがら
 で直政に出会うよう仕掛けた。
 井伊直政の着物も目を引くようにと直虎は自ら縫い上げた。
 松下虎松は計画通り家康に出会った。
(大河ドラマは筋が異なる)
 徳川家康の妻が南渓和尚の姪=築山殿で井伊家は関わりがあった。
 
 徳川家康は、只者ではないと気に入った様子であった。
  (★「東照宮御実紀」)
 井伊万千代・小野万福という名を貰った。
 井伊直虎が万千代(直政)に「戦勝祈願の四神旗」を贈った。
  (★「京都井伊美術館」井伊達夫先生)
 井伊万千代が仕官し家督を継いだ。
松下清景は中野直之の次男:一定を養子とした。

 井伊直虎は龍潭寺松岳院で余生を送った。


・天正10年(1582) 3月11日 武田氏滅亡
・天正10年(1582) 6月2日 本能寺の変
織田信長と同盟関係に会った徳川家康にも危機が迫られた。
 堺からの伊賀越えし、三河に引き返した。
 井伊直政も警護役の1人であった。

・天正10年(1582)8月26日、井伊直虎は47歳で亡くなった。
墓は龍たん寺

位牌は龍たん寺・妙雲寺

*******************************
画像


・天正18年(1590) 井伊直政は箕輪城に入城した。

・慶長元年(1592)近藤康用の子:秀用は 箕輪城から2年で戻った。

※『都田村年代手鑑』(金原:下都田村の庄屋文書)に
「慶長元年申年二月より金指に市場始り申候」
「寛保二年戌年気賀に市場初り候」

・慶長6年(1601) 気賀の関所は本坂道を監視するためにに徳川幕府
  によって設けられた。
  東海道の箱根の関所、今切(新居)の関所とともに江戸に対する
  重要拠点となった。

・慶長7年(1602)井伊直政が亡くなった。
  徳川家忠に近藤秀用は許された。
近藤秀用は井伊谷1万石となった。
  林業に力を入れた。
  近藤5家に分かれた。気賀の関所にも近藤家が入った。

・慶長10(1605) 気賀の町が大火に見舞われ、町並みはほとんど消失した。
  関所は被災を免れた。

  ・宝永4年(1707) 東海地方を襲った大地震のため今切渡船場が破壊
され通行不能となった。
  交通は本坂通に集中した。
・宝永5年(1708) 東海道は復旧した。
  幕府は本坂通の通行を禁止した。
  しかし、旅人の多くは本坂通を利用した。

・明和元年(1764) 幕府は本坂通を東海道の別道として認め道中奉行の
支配下においた。
 
・明治2年(1869) 新政府は諸道の関所を廃止した。

・平成29年(2017) 「大河ドラマ館」は期間限定で設立された。

★明日は三ヶ日町「佐久城」かな?

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