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zoom RSS 箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政120祝田【蜂前神社】と『徳政文書』

<<   作成日時 : 2017/11/26 08:14   >>

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平成29年(2017)11月1日、井伊谷・気賀の散策となった。
国民宿舎で、石原先生に「井伊直親の墓と蜂前神社」の地図を
いただいたので、作戦を練った。朝飯前が勝負である。「蜂前
神社」は国道257号線の祝田の坂が下り終わる左に位置して
いた。」なんだ。5〜6回通った場所ではないかと思った。
11月2日、井伊直親の墓から『蜂前神社』に向かった。
「直虎」という名前が書かれた資料は、蜂前神社所蔵の『永禄
11年11月9日付、次郎直虎・関口氏経連署状』の1点しか
確認されていない。文書に「次郎直虎」とあることから、他史
料で「次郎法師」と書かれている人物を「直虎」と呼んでいる。
・永禄8年(1565)〜永禄11年(1568)の間、次郎法師(井伊直
虎?)が当主であった。永禄9年(1566) 今川氏真による徳政令
の発令後、今川家家臣:匂坂直興は徳政を進め、小野正次(道好)
を使って、2年後の永禄11年(1568)に井伊直虎・関口氏経の連
名で徳政が出された。井伊直虎が地頭の座を失った。
私は古文
書を全て読める訳ではないので、2つのHpから引用し、説明文・Hp
等を参考に内容を考えた。
 
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◆参考資料
『戦国期の徳政と地域社会』阿部浩一著(吉川弘文館、2001年)
『浜松市立博物館』


◆参考サイト
永禄11年11月9日 祝田郷宛、次郎直虎・関口氏経連署の徳政
http://japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com/entry/2017/10/02/165002

次郎直虎出現の背景 井伊谷徳政を巡るゴタゴタ
http://www.rek.jp/021


●蜂前神社
井伊直虎ゆかりの神社だ。
公民館の裏手に乗用車が10台程駐車できる。

無人であった。


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○案内板
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 神社の前に広がる平野もかつては今川家の家臣として井伊家の領
地でした。この一帯をかつては刑部郷といい、これは奈良時代から
続く古い地名です。井伊直盛の代に今川義元に謀反を疑われた一族
の直満・直義が殺害され、直満の子・亀之丞は信州に身を隠し、許
婚だった直盛の娘も出家してしまいます。
 弘治元年(1555)帰還した亀之丞は名を直親と改め、神社のある
祝田村に住みました。桶狭間の合戦で主君・義元とともに直盛が戦
死すると直親が家督を継ぎましたが、今川家から徳川家への離反を
疑われて謀殺されます。存亡の危機を迎えた井伊家は、出家してい
た直盛の娘を当主として迎えました。女性として井伊谷領主を継い
だ井伊直虎に対し、永禄9年(1566)、今川氏真は井伊谷及び祝田・都
田の地域に徳政令(賃貸関係の破棄)を命じました。
直虎は独自の判断で、徳政令の実施を2年間押しとどめています。蜂
前神社には、その時の経過がわかる古文書が残っています。
(★説明板)
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○境内案内板
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「蜂前神社の由来
祭神 本社 熯速日命
左脇宮 甕速日命
右脇宮 武甕槌命
由緒
十五代應神天皇十一年庚子三月八日(西暦270年) に八田毛止惠と
云う人が勅命によって遠江國に 下向して 
   八田(祝田村の古名)四十五町 
   廣田(刑部村の古名)七十町 
   岩瀬(瀬戸村の古名)八町三反 
合計百二十三町余りを開墾して本社を八ケ前に 勧請して蜂前神社
と斎き奉り子孫代々 祝部として奉仕しました。
脇宮二社は十九代允恭天皇の御代に勧請され  その頃から社号は
鳥飼神社、羽鳥大明神と 稱へられ延長五年(西暦九二七年)蜂前
神社と 改め古名に復しました 延喜式神名帳に記載されている
式内社で あり旧社格は郷社であります。」


・4分間の説明
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箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政64▲徳政令の歴史
&第14話「徳政令の行方」
http://53922401.at.webry.info/201704/article_11.html

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●蜂前神社の文書
・永正8年(1511)  祝田禰宜宛て「井伊直平判物」
  井伊直平が祝田助四郎の土地を付与したことを
  祝田禰宜に伝えた。
「祝田助四郎に下知之事 年貢・・・・(後略)」
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  (★「井伊直平判物」蜂前神社)

◆享禄3年(1530) 井伊家家臣:小野貞久から祝田の田地寄進され
  た。祝田禰宜と小野兵庫助との領地争いがあった。

◆天文21年(1552) 井伊直盛により祝田の市場の特権を得た。
(★「井伊直盛判物」蜂前神社文書)


◆弘治2年1556) 12月18日 左馬助・瀬戸方久宛て「井伊直盛年貢割付状」
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 祝田の鯉田の年貢に関して、通年は20貫文であった。しかし、
 水損のための年貢減免を求める百姓の要求があった。
  20貫文の年貢を14貫文に引下げる「ことにした。
 左馬助・瀬戸方久を代官として17人に割付をした。
 しかし、田畑が流出しても年貢は払うように・・・と
 百姓に命じた。
 (★「井伊直盛判物」蜂前神社文書)


◆永禄7年(1564)7月6日 「井伊直政年貢割付」
 井伊万千代(井伊直政)が祝田の120貫文の年貢の配分を行って
 いる。
  (★「井伊直政判物」蜂前神社文書)。



●井伊谷の徳政令等文書
・永禄8年(1565)〜永禄11年(1568)の間、次郎法師(井伊直虎)が
当主であった。
・永禄9年(1566) 今川氏真による徳政令の発令後、今川家家臣・匂坂
直興に主張し、小野道好を手玉に取り、2年後の永禄11年(1568)に
井伊氏により実行された。



・永禄9年(1566)
 「井伊谷徳政令」の過程
  小野政次(道好)は井伊家当主となった井伊直虎と対立した。
 小野政次(道好)は井伊直虎が井伊谷城の女城主となってからも、
 小野政次の企みは続いた。

 井伊谷の男は桶狭間の戦い200に近い者が討ち死にした。
 さらに、杜山城攻め・曳馬城攻めで、多くの男だ戦死した。
 農家の若い男の働き手を失った。
 井伊谷では、井伊家への年貢と高利貸しへの借金の二重の
 苦しみで、逃散も出始めていた。
 瀬戸村でも、祝田村でも高利貸しの瀬戸方久に金を返せなく
 て困っていた。
 祝田村の百姓が、「高利貸しの瀬戸方久にお金を返せなくて困って
 いる」と、祝田禰宜(蜂前神社の宮司)に訴えた。
 祝田禰宜が小野政次に相談した。
 
 小野政次は、今度は商人:祝田禰宜と手を組んで?利用して?
  農民たちを煽って、今川氏真に対して徳政令を求める訴えを起
  こさせるように仕向けた。

 小野但馬守政次は井伊家を飛び越え、駿府今川館で寿桂尼・今川
 氏真に徳政令の発布を願い出た。

・永禄9年(1566) 小野但馬守が井伊直虎の失脚を目論み、今川氏真
  の力を利用して、井伊直虎の領地に徳政令を出させようとした。
  今川氏真が祝田や瀬戸などに徳政令(住人の借金の帳消し・棒
  引き)を発布を命令した。
※小和田哲男氏は祝田村のみで、今川氏真の徳政令は
  残っていない。
(★『井伊直虎』小和田哲男著P165)
 
 今川氏真による「井伊谷徳政令」の命令は、今川氏の井伊谷
 乗っ取り作戦である。

  徳政令を公布しなければ農民たちが一揆をおこす。
 徳政令を公布すれば、井伊家の財政は破綻する。
@の「戦乱型徳政令」とA「飢饉型徳政令」であろう。

 井伊直虎は徳政令を実施しなかった。

小和田哲男説では凍結されたのが「直虎本に人ではなく、
井伊一族井伊主水佑ではないか・・・
根拠は永禄11年9月14日の≪瀬戸文書「戦国遺文」≫
である。」
 ★井伊直虎ピンチ・・・最大の難局であった。

井伊直虎は今川家から徳政令を出すよう命じられた際、
商人が破綻して今後資金を調達できなくなる可能性があると考えた。
しかし、徳政令を出さなかった場合に農民たちが一揆を起こす可能性
も考えられた。
今川家は一揆の混乱に乗じて井伊の領地を奪おうと考えていた。
こうした状況の中、井伊直虎は徳政令の見送りを決定した。
商人を保護し井伊家の経済的安定を優先する決断を出した。
今川家には「少し待って欲しい」と話し、商人との間での徳政令
の免除を行う措置を進めた。今川家は当時徳政令の見送りに対し怒
っていたが、直虎は徳政令を1年半引き伸ばした。
駒澤大学の久保田昌希先生は
「徳政令をめぐり直虎は慎重に行動し見事に乗り切り平和を呼び
戻す努力をした。」
と説明した。
 (★『NHKTV歴史ヒストリア』)

 ★個人的には、井伊家代官であった瀬戸方久は井伊直虎に徳政令を
  実施しないように働きかけた。
  井伊直盛の時代には井伊家の経済的バックボーンが瀬戸方久
  ということになっていたと考えられる。(弘治2年の文書)
 金貸し業=高利貸し:瀬戸方久は、借金を帳消しにされてはたまった
 ものではない。
 井伊家も徳政令を実施すれば、領地の経済が破綻することは目に見
 えていた。
 債務者と債権者のような関係ではなく、組むことで利益やメリット
 をもった関係ということになる。
 井伊直虎と瀬戸方久の利害が一致したので、協力して乗り切ろうとし
 た。

◆永禄9年(1566) 井伊次郎法師(直虎)が渋川村の福満寺に梵鐘を
 建立した。瀬戸方久は鋳造の資金を寄附した。
瀬戸方久は鋳造の資金を担い、「四郎右衛門」の名で願主として
 名を連ねている。
(★『女城主・井伊直虎』楠戸義昭著(PHP研究所)P189)
★井伊直虎は瀬戸方久を味方に付け、経済的支援を依頼したことが
うかがえる。

 ※小野但馬守が井伊直虎の財源である瀬戸方久を失墜させようとした。
 井伊直虎がのらりくらりかわし、徳政令を実施しなかった。
 小野但馬守政次(道好)は今川氏真の出した命令を実行しない
 ことに対して
 「次郎法師が徳政令を実行しない。」
 と今川氏真に訴えた。

 井伊直虎は今川氏真から徳政令を出しように指示された。
 〜〜〜でも、のらりくらりと2年引き延ばした。

「井伊谷徳政」に関する文書に名前の出てくる人物として、
 ・家老 小野但馬守(徳政推進派)
 ・井伊主水佑 (徳政停止派)・・・★井伊一族


※井伊主水佑により、今川が出した徳政令の執行が停止されていた。
 百姓らが不服に思って今川方に訴えた。
 今川家臣の関口氏経が徳政実施に向けて働きかけた。


徳政令の執行が停止されていたが、百姓らが
 今川方に訴え、今川家臣:関口氏経が徳政実施に向けて働
きかけた。と考える方が妥当性がある。


・永禄10年(1567)6月30日祝田禰宜宛て「匂坂直興書状」 
  匂坂直興は祝田禰宜に、徳政推進の状況を伝える
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(★「匂坂直興書状」「蜂前神社文書」)  
【意味】
 あの一儀(徳政令)を色々と越後殿(関口氏経)へ申し出ました。
先年御判形(今川氏真の徳政令命令初、花押付)で決まったことですか
ら、御手紙をお送りいただいても構わないのですが、私たちが御奉行所
の前で裁許(判断)を受けて、御披露する前に何故(どんな理由)を仰
せなのか、また、次郎殿(井伊直虎?)の手前、何かとお気を
遣うのでしたら、小野但馬守へ申して、次郎殿の(考えを)ご存分
をしかと聞き届けてなさって、早々にご指示なさるのがもっともよい
方法であると思います。
次郎殿(井伊直虎様?)から関口氏経様へ書状をしたためてもらうか
または直接会われてお伝えになさるように、小野但馬守へ申されます
ようにしなさい・・・。私たちの方からも小野但馬守へその旨を申します。たとえ
次郎殿(井伊直虎?)より(関口氏経様へ)ご連絡がなかったとしても、
小野但馬守より『安助』(?)まで「もっともである。」との御手紙をお送
りにください。次郎殿(井伊直虎?)もそれを使って関口氏経様へ申し
上げますように伝えてください。小野但馬守へよくよく御相談なさいま
すように申しあげます。

関口様が「次郎殿(井伊直虎?)の方をなんとかしてほしい」と思っ
ておられるようなので、祝田禰宜から小野但馬守)へ申しあげて、
次郎殿が徳政の実施の考えをしかと確認して、「早々に徳政を仰せ
付けてくださるのがもっともいい方法である。」と次郎殿から関口
様へ仰せられるように、小野但馬守へ言ってください。
つまり、小野但馬守が次郎法師に対して徳政の実施の必要性を説くこ
とで、次郎法師が徳政に賛成して、徳政を命令する意向を関口越前
守様に伝えることを、小野へ求めているということになる。
井伊家家老:小野但馬守は当主次郎法師(井伊直虎?)に対して、徳
政の実施と政策判断するよう説得し、考えを聞き出して今川方に伝え
る立場であったことがわかる。
つまり、小野但馬守は徳政賛成派であった。
次郎法師は小野但馬守の意見を受け入れるレベルの関係であったと
思われる。



◆永禄10年(1570)10月13日 
 今川氏真が瀬戸方久に、買い取った土地の保証をする。
「於遠州井伊谷之内永代買之事。・・・(後略)
 永禄十丁卯年十月十三日 上総介(花押) 瀬戸宝久 」
(★「今川氏真判物」中川・瀬戸文書)


◆永禄10年12月28日 祝田禰宜宛て「匂坂直興書状」
  井伊谷の徳政の実現交渉をめぐって祝田禰宜が駿府での交渉役
  である。匂坂直興との緊密な連絡にあたっている。
 徳政が認可されるとの状況を伝える。
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(★「匂坂直興書状」蜂前神社文書 )
【意味】
 年末ですが、(徳政の)御披露(発表・命令)がないので、
今年中に判断が済まされないので、こちらの駿府で年を越し
ます。とはは言うももの、(徳政令の)儀(事)は変わることは
ありませんので、其の間、心易く(ご安心)してくださいますよ
うに。・・・・なかんずく(とりわけ)、あの儀(徳政)は奉者(仲
介者)がちょっとの隙もなく忙しくて、うまく調整できませんで
した。春には早々に調べ、担当者を調整し選びますので、
私たちにお任せ下さい。小野但馬守と此方(こちら=匂坂)で
打ち合わせをします。心易くご安心下さい。この分ですと、ご
心得(御承認)いただけるでしょう。くれぐれもそなた(祝田禰宜)
は御内密になさいますように申しあげます。
12月28日 匂坂左近直興(花押) 祝田禰宜殿 参。
 (★「匂坂直興書状」蜂前神社文書)

◆永禄11年(1168)1月25日
 匂坂は藤左衛門に報告した。
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◆永禄11年(1168)8月3日 祝田宛て「匂坂直興書状」
 祝田郷に惣次の徳政が実現することが伝えられた。
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【意味】
「徳政のことを済ませられました。関口越後守氏経からの
御状(お手紙)を井伊次郎へに一つ、家臣衆へ一つ出しましたので、
まずは心易くご安心下さい。都田にも一つ取りました。祝田・都田
の両郷のことは、どちらも惣次で行なうように、小野但馬守へ詳細
を申しました。其の間、小野但馬守をよ〜く頼み込んで、すぐに
井伊次郎より徳政の命令を出されるのがもっともいい方法です。
この上は誰も異議を述べてはいけません。・・・(後略)
 (★「匂坂直興書状」蜂前神社文書)
交渉の結果、第一段階として、徳政令を出す手紙が関口氏経から
 井伊次郎たちにに出されることになった。



◆永禄11年(1168)8月4日 井伊次郎宛て「関口越後守氏経書状」
 今川家家臣:関口氏経から井伊谷徳政の施行が命じられた。
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【意味】
「井伊谷の徳政のこと。去る寅年(永禄9年の御判形(今川氏真の徳
政・花押付)をもって命令されたとはいえ、井伊主水佑が私にところに、
祝田郷中と都田上下給人衆中が今も尚、徳政の沙汰(ご命令)がない
と、本百姓が今許詔(裁決)を求めて手紙を書いてきたので、御判形
(今川ご捺印付き徳政命令書)の通りにせよと申し付けた。
寅年(永禄9年)に命令されましたところに、銭主(金を貸した者)が難
渋して、今も御沙汰がないこと、大いに。この上は、銭主
がどのような訴えを申し立てても、許容することがあってはなりません。
そのために一筆を申し入れます。
 8月4日 関口越後守氏経(花押) 井伊次郎 参 」
(★「関口氏経書状」蜂前神社文書)

◆永禄11年(1568)9月14日付 瀬戸方久宛の「今川氏真の安堵状」
 井伊領の土地を瀬戸方久が買い取っていた。
「去丙寅年、惣谷徳政之義雖有訴訟、
 方久買得分者、次郎法師年寄誓句
 并主水佑一筆明鏡之上者、年来買
 得之名職同永地、任証文永不可有相違」
【意味】
 「去丙寅年永禄9年(1566)の井伊谷徳政令の事であるが、
 訴訟があったと雖も、瀬戸方久が土地を買い取った。
 次郎法師と年寄(井伊家家老衆)の誓いの言葉、
 並びに、井伊主水助の一筆で明鏡のごとく明らかである。
 これから先、買い得た名(「祝田十郎」)と領主の職を同じ
 くこの地で任せる。認めた証文は相違べからずと土地につ
 いは保証する。
(★「今川氏真判物」瀬戸文書)
 ★瀬戸方久は有力銭主(=金の貸し出し屋)である。
 弘治2年(1577) 「祝田十郎名」・井伊谷での買い得た地を
今川氏真から安堵されている。さらに念押しの証文を
 だした。今川氏真と瀬戸方久は何らかの取引があったので
 あろう。瀬戸方久は徳政令の代わりに土地の安堵を再び
 申し出たのであろうか?


◆永禄11年(156811月9日 
関口氏経・井伊直虎から祝田郷の禰宜・百姓らに対し徳政を命じたの
 で名職などを請取るよう命が下された。
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「祝田郷徳政之事者
去寅年以御判形雖被
仰付候、銭主方令難
渋干今就無落着、
本百性被訴訟之条、
任先御判形旨申付
処也、以前々筋目名
職等可請取之、縦
銭主方重而雖企
訴訟不可許容者也、
仍如件、
      関口
永禄十一辰  氏経(花押)
  十一月九日
      次郎
       直虎(花押)     
  祝田郷
    祢宜
    其外百性等」
 (★「井伊直虎・関口氏経連署状」蜂前神社文書)
【意味】
祝田郷の徳政の事は、去る寅年:永禄9年(1566)の御判形(氏真の
出した徳政令を命じる花押が据えてある文書)をもって仰せ付けられ
候といえども、銭主方(瀬戸方久などの金を貸している者)は難渋せ
しめ今に落着なきについて、本百性(年貢を払っている百姓)の訴訟
せらるるの条(法律・約束事)、先の御判形の旨にまかせ申し付くる
ところである。前々の筋目をもって名職等これを請け取るべし。たと
え、銭主方(瀬戸方久など)が重ねて訴訟を企てるといえども許容す
べからざるものなり、よって件のごとし(お決まり文句)。」
画像



11月
次郎法師を当主とする井伊体制は徳川家康の侵攻により完全に終わった。
井伊氏は領地を失い、次郎法師は「地頭」ではなくなった。

次郎法師と母:祐椿尼は井伊谷城を出て龍潭寺内の松岳院に入った。

12月 徳川家康は遠江に侵攻した。
井伊谷は徳川家康に服属しない限り、領地支配は認められないはずである。
結果…徳川家康の井伊谷領には近藤康用が入った。





【2】平成29年(2017)11月2日***********
05:30 起床
06:00 気賀の町中に・・・
○本陣

G▲城887気賀の堀川城

H気賀の長楽寺
○(陣屋⇒大河ドラマ館)

●スマホナビが堤防を示唆した。
I井伊直親の墓

●スマホナビが神社を示唆した。
J蜂前神社



K▲城888刑部城…武田信玄のコース
○気賀の関所…町中十字路近く。入り口が小さく、駐車不可
  慶長6年(1601) 徳川家康により創設された姫街道の関所である。
○朝飯…国民宿舎「奥浜名湖」&精算11600円?
L気賀近藤氏5000石の陣屋
M大河ドラマ館…600円。★NHKの宣伝で、歴史好きの人には?
・気賀街歩きはしなかった。


N▲城889三日日の佐久城
O▲城890三ヶ日の千頭峯城
===宇利峠(静岡県⇒愛知県へ)==============
P▲城891比丘尼城(近藤康用の支城)
Q▲城892宇利城(近藤康用の最初の城)
R▲城893野田城(菅沼氏の最初の城)
S▲長篠古戦場跡…馬防柵等の見物・
21▲長篠城2回目…本の購入「」
22▲城894医王寺と武田勝頼本陣
23▲鳳来山東照宮&鳳来寺…★井伊虎松がいたとされる坊
24▲城895柿本城(鈴木重時の城)
===宇利峠(静岡県⇒愛知県へ)==============
25▲奥山方広寺…★臨済宗方広寺派大本山。井伊氏分家の奥山氏が
 南北朝時代に建て奥山氏が庇護した。
井伊直虎の許婚::井伊直親の妻「ひな」の実家
 昼飯は精進料理のうな重は1200円。
※奥山館・奥山城・竜ヶ岩洞(2億5千万年前)には行けなかった。

○井伊谷の石原先生宅
26◆北岡大塚古墳
○井伊谷の石原先生宅
◆俺は帰りながら、閃いた。
 K大學の吹奏楽団の「祐太郎君」に会いてえな?・・・
★浜松泊まりを決定。東京大田区泊まり・群馬駆け戻りをやめた。
 
○GS…1900円
○トヨタレンタカー 約15000円
★可愛いお姉さんがビジネスホテルを教えてくれた。
○ホテルセレクトイン浜松駅前素泊まり4200円
「祐太郎」君にTEL…「明日、8:30に会うことになった。」
★祐太郎の声を聞けて、良かった。
○夕食「藤田」…鰻&酒で3480円
○ホテルセレクトイン浜松駅

【3】11月3日、
○07:00 駅前散策
○朝食…パン屋
○08:30 祐太郎君
28▲城897二俣城
29▲城898鳥羽山城
30▲城899大平城(おいひら城)
31▲城900引間城(曳馬城)
32 椿姫観音
○昼食「うなぎの佳川」…2800円+α。祐太郎君のおごり
13:40浜松駅…祐太郎君と別れた。
14:11発 15:40着 (89分)ひかり468号 東京行
16:11 東京→高崎
18:00 家

 
・戦国時代
中村家は今川家の家臣として代官を勤めたいた。
中村家はTV大河ドラマ『おんな城主直虎』では商人であったが、
  史実では武士である。中村与太夫は、実在の人物である。
  今川家から浜名湖で自由に航行する権限もらい、船輸送・貿易を
  管理していた。
  
  井伊谷は、本坂越え街道・鳳来寺信濃道に通じる中継地であった。
  井伊家の財源は、運輸業が中心であった。
主な貿易輸入・運送品は、「三河塩」・「木綿」だったと考えられる。
主な貿易輸出・運送品は、「陶器」であったと思われる。

   
・永禄3年(1560) 桶狭間の戦い
今川義元が戦死した。
  井伊直盛も戦死した。井伊直親があとを継いだ。
井伊家は中野直由が形式上、井伊谷城主になった。
遠江国は「遠州錯乱」と呼ばれる混乱状態に陥った。

土地の人々が砦を築き、地名から堀川城と名付けた。
  キ田川の対岸にも刑部城を築いた。
 
 徳川家康の遠江侵攻に備えた。
 しかし、未だ今川氏の勢力下であった。

 今川家の力が弱くなったのにつけ込み、密かに気賀に集まる者も
 増えていった。
 
 井伊直盛時代の「井伊谷七人衆」の1人であったが、「桶狭間の戦い」
後、独立して気賀領主となったと伝えられている
「遠州気賀領主新田左衛門入道喜兼(元直平ノ家臣也)」
  (★『井伊直平公一代記』)
 
気賀には新田友作・家臣の石田党、丸井党、蒲生党、中村党が
集まっていた。
山村修理、尾藤主膳、竹田高正などもいた。


・永禄5年(1663)
井伊直親は小野政直の息子・小野道好(政次)の讒言により、今川氏真
 から松平元康(徳川家康)との内通の疑いを受けた。
 今川家の縁戚でもあり、井伊直盛の妻:祐椿尼は妹であった新野親矩
 の取りなしで、陳謝のために駿府へ向かうことになった。

・12月14日(1563年1月8日)…3月2日説
  井伊直親は掛川で今川家の重臣:朝比奈泰朝の襲撃を受けて殺害
  された。享年27。


・永禄7年(1564) 中野直由が戦死した。
  中野直之があとを継いだ。
  奥山六左衛門はひよ(井伊直政の母・中野直之の妻の姉)の姉弟で
  あった。
 井伊家にはダレも跡継ぎがいなくなった。


・永禄8年(1565) 次郎法師は還俗し、井伊直虎と名乗り女領主に
  なった。
井伊直虎は運搬業・貿易業(水上輸送)に目を付けた。
 今川家の力が弱くなってきたからである。

・永禄11年(1568) 今川氏真が瀬戸方久に出した徳政令を免じる
  安堵状を出した。条件は新城の備蓄を賄うようにち付帯事項が
 付いていた。新城が刑部城・堀川城では、と見られている。
 今川氏真は、徳川家康の遠江侵攻に備え、刑部城や堀川城の改修
 工事を命じた。
 そして、両城に集まったのは、各地からの牢人である。

 
・永禄11年(1568) 今川氏真の命を受けた小野正次(道好)の介入を
  受け、徳政令を井伊直虎・関口氏経の連名で発令した。
  (★『蜂前神社文書』
小野道好に井伊谷城を奪われた。
18代中村源左衛門正吉は、主君を今川家から松平(徳川家康)
 に変えた。
 井伊谷三人衆(近藤康用・鈴木重時・菅沼忠久)に、浜松城
  (旧引馬城)主となっていた徳川家康が加担した。
徳川家康は本坂峠を越えて岡崎から湖北へ攻め込んだ。
 徳川家康は井伊谷城を攻略した。
 徳川家康から近藤康用が井伊谷を安堵された。
 近藤康用が支配することとなった。
 次いで刑部城を落城させた。
 今川方で近隣の堀江城主:大沢左衛門は家康に抵抗していた。
 新田友作、尾藤主膳、山村修理らは、地元の農民など雑兵約1700人を
  集めて気賀の堀川城に立て籠もった。
  

・永禄12年(1569)
2月 徳川家康は掛川城を落とした
 3月27日、再び堀川城を攻めた。
  中村正吉は船を出して、徳川家康を迎えた。
  堀川城は徳川勢によって一方的に殺戮された。

・天正18年(1590) 井伊直政は箕輪城に入城した。

・慶長元年(1592)近藤康用の子:秀用は 箕輪城から2年で戻った。



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