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zoom RSS 箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政119『井伊谷宮』と宗良親王復刻版

<<   作成日時 : 2017/11/21 06:04   >>

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 「井伊谷宮」は井伊直虎や井伊直政が遊んだ場所であろう。
平成29年(2017)11月1日、井伊谷に3回目の訪問した。石原さ
んの案内で井伊谷をめぐった。井伊谷宮も3回目である。Hpに『
御祭神「宗良親王」は、後醍醐天皇第四王子(宮内庁調べ)であ
らせられ、今より約650余年、動乱の南北朝時代に一品中務卿
(いっぽんなかつかさきょう)征東将軍として、この地を本拠に
50余年の間、吉野朝方のためにご活躍になられました。』とあっ
た。しかし、宗良親王は井伊谷には2年しかいなかったようだ。
でも、墓があるので、重要な場所であったことは確かである。
興国5年・康永3年(1344) 信濃国伊那郡大草の豪族:香坂高宗
(滋野氏支流望月氏の一族:香坂弾正・春日弾正祖先)に招かれ、
信濃大河原(現長野県大鹿村)に入った。宗良親王は文中2年
(1373)までの約29年間?、30年?大河原を拠点とした。
「信濃宮」と呼ばれた。
『園太暦(えんたいりゃく)』では観応3年(1353)@「・・・先月
18日、関東の凶徒(足利氏側の武士)は武蔵国狩野川の城
(●田中先生…神奈川県、伊豆の狩野城では)没落した。」
A「・・・大王(宗良親王)たちは上野国と信濃国の堺にある碓氷峠
 まで、進出され・・・」
B新田一族諸将は15日に上野を発ち・・・園殿」
宗良親王が上野国国境にも来たことが明らかになった。
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箕輪初心:生方▲2017井伊直虎・直政bT【南北朝時代の井伊氏と宗長親王】
http://53922401.at.webry.info/201701/article_11.html



【1】平成29年(2017)11月1日***************
07:00 家→駐車場
07:58 高崎 ⇒08:52着東京09:03発⇒10:31着 
 2時間33分 12,070円 お土産を買った。
JR北陸新幹線 あさま606号 東京行
JR東海道新幹線 ひかり465号 岡山行
☆石原さんにTEL
10:40 南口のトヨタレンタカー
@三方ヶ原古戦場跡  
  犀ヶ崖資料館には行かなかった。
12:00 井伊谷
   昼食「昌盛館」…中華丼・台湾味噌ラーメン
   石原さんの誕生日祝いだった・
A井伊谷遺産センター
B自耕庵と妙雲寺:直虎の位牌・南渓の位牌
●自耕庵と直虎の墓伝説
・永禄4年(1561)5月、桶狭間の戦い
 井伊直盛が戦死した。娘であった井伊直虎(次郎法師)が
「自耕庵」を造立した。龍潭寺二世の南渓和尚を講じて開山した。
井伊直虎は龍たん寺の南の一角に住んでいた。晩年は「自耕庵」
に住んだ。井伊直虎の死後、井伊直虎の塗りの位牌に記された
『妙雲院殿月舩祐圓大姉』あったことから「妙雲寺」と改められた。
●臨済宗妙心寺派「浩徳山妙雲寺」
檀家の方が平日なのに石原さんの依頼で特別に開けてくださった。
「大河ドラマ「おんな城主 直虎」の放送が決まってから、妙雲寺で
まず、歴代住職の位牌が並んでいる場所の一番奥から見つかりました。
普段は位牌を全部取り出すことがないので全く気が付かなかったの
ですが、大掃除の時に発見しました。
 南渓の肖像画は私がここから発見しました。
と障子戸の上の所をさして教えてくださった。
歴代住職の肖像画が保管されていますが、全部は開いてません。
どんなお宝が出てくるかは分かりません。
●本尊:虚空蔵菩薩

●直虎のお位牌
●南渓のお位牌
●南渓谷の肖像画
●青面金剛


C渭伊神社と天白磐座遺跡
D井伊谷宮・・・3回目
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*井伊谷城と三岳城遠望
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E龍潭寺・・・・・3回
  ★龍たん寺の現和尚様:武藤某様は大學の同期か一つ下らしい。
F気賀の「浜松市姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館」
本のプレゼント「浜松市の銅鐸
○展望台&万葉の里…歌碑が多い。
○国民宿舎「奥浜名湖」
○石原氏宅…たくさんに本をいただいた。
・「井伊家傳記」訳本上下:たちばな会著
  ・「井伊氏ゆかりの石塔」
  ・「井の国物語」谷光洋著、版画家でもある。
  ・「気賀と万葉歌碑」
  ・「高崎史帳」森田秀策著
  ・その他。
○19:00国民宿舎「奥浜名湖」…★景色は最高。
・「花の舞酒造」の「奥浜名湖」を飲んだ。
★浜松・浜名湖の味である浜松駅前より安い「うなぎ」を堪能
   できず、残念。鰻屋・鰻屋。夕食は別にすれば良かった。
だって、体裁のよい和食料理で、酒飲みには物足らなかった。

【2】平成29年(2017)11月2日***********
○気賀の町中に・・・
G▲城887気賀の堀川城
H気賀の長楽寺
○(陣屋⇒大河ドラマ館)
I井伊直親の墓
J蜂前神社
K▲城888刑部城…武田信玄のコース
○気賀の関所…町中十字路近く。入り口が小さく、駐車不可
  慶長6年(1601) 徳川家康により創設された姫街道の関所である。
○朝飯…国民宿舎「奥浜名湖」&精算11600円?
L気賀近藤氏5000石の陣屋
M大河ドラマ館…600円。★NHKの宣伝で、歴史好きの人には?
・気賀街歩きはしなかった。
※「花の舞酒造」…梅酒「直虎」は飲んだので行かなかった。
  元の米と水にこだわった日本酒製造の工場見学。販売・試飲も可。
N▲城889三日日の佐久城
O▲城890三ヶ日の千頭峯城
===宇利峠(静岡県⇒愛知県へ)==============
P▲城891比丘尼城(近藤康用の支城)
Q▲城892宇利城(近藤康用の最初の城)
R▲城893野田城(菅沼氏の最初の城)
S▲長篠古戦場跡…馬防柵等の見物・
21▲長篠城2回目…本の購入「」
22▲城894医王寺と武田勝頼本陣
23▲鳳来山東照宮&鳳来寺…★井伊虎松がいたとされる坊
24▲城895柿本城(鈴木重時の城)
===宇利峠(静岡県⇒愛知県へ)==============
25▲奥山方広寺…★臨済宗方広寺派大本山。井伊氏分家の奥山氏が
 南北朝時代に建て奥山氏が庇護した。
井伊直虎の許婚::井伊直親の妻「ひな」の実家
 昼飯は精進料理のうな重は1200円。
※奥山館・奥山城・竜ヶ岩洞(2億5千万年前)には行けなかった。

○井伊谷の石原先生宅
26◆北岡大塚古墳
○井伊谷の石原先生宅
◆俺は帰りながら、閃いた。
 K大學の吹奏楽団の「祐太郎君」に会いてえな?・・・
★浜松泊まりを決定。東京大田区泊まり・群馬駆け戻りをやめた。
 
○GS…1900円
○トヨタレンタカー 約15000円
★可愛いお姉さんがビジネスホテルを教えてくれた。
○ホテルセレクトイン浜松駅前素泊まり4200円
「祐太郎」君にTEL…「明日、8:30に会うことになった。」
★祐太郎の声を聞けて、良かった。
○夕食「藤田」…鰻&酒で3480円
○ホテルセレクトイン浜松駅

【3】11月3日、
○07:00 駅前散策
○朝食…パン屋
○08:30 祐太郎君
28▲城897二俣城
29▲城898鳥羽山城
30▲城899大平城(おいひら城)
31▲城900引間城(曳馬城)
32 椿姫観音
○昼食「うなぎの佳川」…2800円+α。祐太郎君のおごり
13:40浜松駅…祐太郎君と別れた。
14:11発 15:40着 (89分)ひかり468号 東京行
16:11 東京→高崎
18:00 家
★次に浜松に行くときは
浜松市内では、楽器博物館・浜松基地・宿蘆寺
浜松井伊谷では、三岳城(三嶽城)・渋川館・初山窯・キ田城・奥山城
浜松の山奥では、犬居城・高根城
隣の市では【舟ケ谷城】直虎を支えた新野氏の居城・横須賀城
宿泊するなら「舘山寺温泉」国民宿舎紅竹 6000円

平安時代には井伊氏の館があった。鎌倉時代末期には、詰め城
として井伊谷城と6つの砦が築かれた。南北朝時代初期には、
強力な詰め城として三岳(三嶽)城が造られた。
・南北朝時代、建武4年(1337)、三方ヶ原の戦いで井伊一族は南朝
方:宗長親王にに加勢し、今川範国と戦ったが、敗戦を喫した。
・暦応2年・延元4年(1339)〜暦応3年・興国元年(1340)南朝:
宗良親王を迎えた井伊氏の井伊谷に北朝:足利方の高師泰・仁
木義長ら の軍勢が現浜松・井伊谷に押し寄せてきた。三岳城に
籠もったが、攻略され、更に大平城で敗北した。宗良親王
は信濃に逃亡した。井伊谷は今川了俊の支配下になった。以後、
敵対していた今川氏支配下に置かれ、井伊氏は受難の時代が続く。


 (★平成28年(2016)6月に石原さんが送ってくださった資料)

箕輪初心:生方▲大草城&大河原城*宗良親王&香坂高宗
http://53922401.at.webry.info/201606/article_12.html
 ★宗長親王は信濃の大草城・大河原城を拠点とした。

@共保(ともやす)→A共家(ともいえ)→B共直(ともなお)→
C惟直(これなお)→C道直(みちなお)→E盛直(もりなお)→
F良直(よしなお)→G彌直(みつなお)→H泰直(やすなお)→
I行直(ゆきなお)→J景直(かげなお)→K道政(みちまさ)→
L高顕(たかあき)→M時直(ときなお)→N顕直(あきなお)→
O諄直(あつなお)→P成直(なりなお)→Q忠直(ただなお)→
R直氏(なおうじ)→S直平(なおひら)→21直宗(なおむね)→
22直盛(なおもり)→23直親(なおちか)→直虎(なおとら)→
24直政(なおまさ)→25直孝(なおたか)→26直澄(なおずみ)→
27直興(なおおき)→28直道(なおみち)→29直恒(なおつね)→
30直惟(なおのぶ)→31直定(なおさだ)→32直=iなおよし)→
33直幸(なおひで)→34直中(なおなか)→35直亮(なおあき)→
36直弼(なおすけ)→37直憲(なおのり)→38直忠(なおただ)→
39直愛(なおよし)→40直豪(なおひで)→41直岳(なおたけ)
(★「彦根藩による井伊家系譜の編纂」野田浩子編纂)

@平安時代には井伊氏の館があった。



A鎌倉時代末期には、詰め城として井伊谷城と6つの砦が築かれた。
・元徳2年(1330)頃
 「南朝方の井伊介は井伊谷城に籠り坂田山に6砦を構築した。」

・井伊谷城の本郭


B南北朝時代初期には、強力な詰め城として三岳(三嶽)城が造られた。

●南北朝時代
・元弘3年(1333) 元弘の乱
後醍醐天皇の画策による元弘の乱で鎌倉幕府が滅亡した。
 建武の新政が開始された。
   
・延元元年・建武3年(1336)頃
 光明天皇を擁立した足利尊氏が建武政権の軍勢を破って
 京へ入り、後醍醐天皇は吉野へ逃れることとなった。
後醍醐天皇は大和国吉野(奈良県)の南朝方となった。
足利尊氏の離反?謀反?によって世の中は
 南北朝時代となった。

 足利尊氏(北朝) VS 後醍醐天皇(南朝)
 
南北朝の対立が本格化した。

●井伊氏が詰め城:三岳城を築いた。

・建武3年(1336)
1月2日、北畠顕家軍は鎌倉を攻め、足利義詮・桃井直常(上野国
榛東村)の軍勢を破り、鎌倉を占領した。
1月3日、佐竹貞義が北畠顕家の追撃に鎌倉に向かった。
 北畠顕家は鎌倉を出て進撃を開始した。
1月6日には遠江に到着した。
1月12日 近江愛知川に到着した。
1月13日 坂本で新田義貞・楠木正成と合流した。
 北畠顕家は坂本の行宮に伺候し、後醍醐天皇に謁見した 
1月27日〜30日 新田義貞・楠正成・北畠顕家らは足利尊氏を破り、
  京から退去させた。
2月10日〜11日 豊島河原合戦
  足利尊氏を摂津国豊島河原で破った。
 足利尊氏は九州へと落ち延びた。

・建武3年(1336) 延元2年
 6代目:香坂心覚が南朝方として牧城(後牧之島城)で挙兵した。
 牧城は攻撃を受けても落城しなかったと伝えられる
   (★『市河文書』・『高梨文書』・・・信濃史料)

・建武4年・延元2年(1337)
 後醍醐天皇は、妙法院門跡を還俗して宗良を名乗らせた。
 宗良親王は、(後醍醐天皇の第8皇子(第5皇子?)
 延暦寺天台座主であったが後醍醐天皇の命により伊勢で還俗して、
 宗良親王を名乗った説もある。(宗良親王27歳)
 @尊良親王や恒良親王らを新田義貞に奉じさせて北陸(金ケ崎城)
 等へ向かわせた。
 A懐良親王を征西将軍に任じて九州へ向かわせた。
 B宗良親王を東国へ向かわせた。
  井伊氏は南朝方:宗長親王に属した。
 C義良親王を奥州へ向かわせた。
 各地に自分の皇子を送って北朝方に対抗させようとした。

 ▲三方ヶ原の戦い
  南朝方:井伊一族 VS 北朝方:今川範国
井伊氏が敗北し、三岳城に籠城した。
 秋、 宗長親王が一ノ瀬より井伊奥山に入った。
(★『遠江井伊氏物語』:武藤全裕著)
 
 9月 井伊道政の娘が尹良親王を生んだ。
  (★『遠江井伊氏物語』:武藤全裕著)
   ★年代が合わない?こんな早く子どもは生まれない。)

・暦応元年・延元3年(1338)
★北畠親房は現福島県の霊山寺城から現群馬の新田から本庄に渡り、
 四方田(新幹線本庄駅から100m)を破った。
1月、宗長親王は井伊谷を出て、橋本(新居町)で北畠親房と合流
 した。北畠親房はリーダーとして、宗良親王・義良親王を奉じた。
 後醍醐天皇の皇子達が伊勢に集結した。
 また有力な豪族を集め、日本各地に南朝の勢力拡大を目指して、
 計画した。
 北条時行も、中先代の乱で敗れた後、伊勢に赴き南朝側で戦に
 加わった。
▲美濃青野原の戦い
▲奈良の戦い
▲天王寺の戦い
宗長親王は吉野に入った。

・延元3年建武5年(1338) 9月 伊勢を出発した。
●井伊谷に入った宗長親王********************
1)宗良親王の井伊谷移動過程2説
 @北畠親房の陸奥国への移動説
 北畠親房は宗良親王・義良親王を伊勢国大湊(三重県伊勢市)
 より陸奥国府=陸奥国霊山=北畠親房の城(現福島県伊達市)
 へ行こうとした。伊勢湾を渡ろうとするが、座礁により遠江国
 白葉(静岡県西部)に漂着し、宗良親王は井伊谷の豪族井伊道政の
 もとに身を寄せた。北条時行も井伊谷城に入った。
(★『遠江井伊氏物語』】武藤全裕著)
A北畠親房は後醍醐天皇の考えに従って宗良親王・北条時行だけ
  を井伊谷から遠江・駿河・信濃・越前・越中・越後を南朝側に
しようと井伊谷城に入った。

2)宗長親王が井伊谷に入った理由
  @井伊谷と周辺には南朝方:大覚寺統の荘園・御厨が集中して
   いた。井伊氏を南朝方に走らせた要因が既にあった。
(★『遠江の雄:井伊氏』小和田哲男著)
  A後醍醐天皇は遠江の荘園の存在に着目し、南朝方の拠点を作ろう
  として宗良親王を送り込んだ。

3)井伊氏井伊介は誰か?宗良親王の庇護した井伊氏2説 
@井伊道政説・・・通説
   宗良親王の子:尹良親王の説
  ・尹良親王が井伊城に生まれている(伝)。
  ・尹良親王の母は井伊道政も娘と言われている(伝)。
  ・尹良親王は信濃の浪合で討死した(伝)。
A井伊行直説・・・最近の有力説
  井伊道政は後世の南朝史観による創作人物であると考えられるよう
  になった。
  井伊道政の娘が宗長親王に仕えて尹良親王が生まれた。
  尹良親王は長南朝再起のために戦ったが、信濃の
  「浪合の戦い」で討死したという。
  遠江・信濃・三河で「尹良:ユキヨシ様信仰」があるが、尹良親王
 の存在が伝説であり、井伊道政のことも後世の創作と考えられるように
 なった。(最近の有力説:井伊行直説)。

 ●宗良神社・・・御料には入れない。

4)宗長親王はどこに 宗良親王のいた城2説
@井伊氏詰め城:三岳城
井伊氏は居城:三岳城を修築し、支城群を整備して、
 北朝方の今川氏の攻撃に備えた。
A井伊氏詰め城:井伊谷城 (看板)
井伊道政は遠江介・井伊介とも称した。


・延元3年・建武5年(1338)閏7月2日、▲藤島の戦い
 新田義貞は越前国藤島の灯明寺畷で斯波高経の軍勢と交戦中
 に戦死した。

箕輪初心●福井「金ヶ崎城」@新田義貞&A木下藤吉郎
http://53922401.at.webry.info/201104/article_21.html

箕輪初心●福井「杣山城」=新田義貞の最後の城
http://53922401.at.webry.info/201104/article_30.html

箕輪初心●新田義貞D「若狭に逃亡〜福井で38歳没」
http://53922401.at.webry.info/201102/article_44.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201102/article_44.html
★京都嵐山の檀林寺に首塚がある。


箕輪初心■福井「6回目奥・7回目」=奥の細道番外編
★福井県丸岡市の称念寺に新田義貞の胴塚がある。

箕輪初心▲本庄【金窪城】&新田義貞四天王:畑時能の最後
http://53922401.at.webry.info/201409/article_20.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201409/article_20.html


兄:新田義貞亡き後の軍勢をまとめて越前黒丸城を攻め落と
 したものの、足利軍に敗れて越前から退いた。
宗良親王を迎えた井伊氏は、井伊谷城・三岳城を修築し、支城群を
 整備して、北朝方の今川氏の攻撃に備えた。

・暦応2年・延元4年(1339)
8月16日(9月19日) 後醍醐天皇吉野で崩御した。享年52。
  後村上天皇即位した。先帝の崩御は三岳城の宗良親王にも知
  らされた。宗長親王は紅葉を折ってそれに
 「思うには 猶色あさきもみじかな そなたの山はいかが時雨るる」
 という歌を添えて四条隆資のもとに届けた。

7月22日 北朝方の高師泰(越後殿下)の軍が大平城に侵攻し、
  高師兼(尾張殿)の軍は浜名方面に侵攻した。

7月26日 三岳城の出城と鴨江城が落城した。

10月30日 三ヶ日千頭峯城が落城した。
南朝:宗良親王を迎えた井伊氏の井伊谷に北朝:足利方の高師泰
 ・仁木義長ら の軍勢が井伊谷に押し寄せてきた。

10月30日 谷津砦・上野砦が落城した。
 支城群は次々と陥落し、ついに三岳城が危機にさらされた。
・暦応3年・興国元年(1340)
 正月30日 三嶽(岳)城が落城した。
  宗良親王は三岳城を逃れて大平城(浜北区)に入った。

8月24日 高師泰と遠江国守護の仁木義長の軍が大平城を攻撃した。
(★三ヶ日町の大福寺「瑠璃山年録残編裏書」)
   大平城も支えきれず、太平城が陥落した。
大平城は歴史の上に登場することはなかった。    
  (★小和田哲男著)

・興国2年(1341) 2月 宗良親王は駿河の阿部城狩野貞長のもと
 を辞した。
 8月頃 富士山麓を廻り甲斐国を経て信濃国へ入った。 
(★井伊谷を語りつぐ会)
 宗長親王は信濃へと敗走したのであった。

宗良親王が信濃に居を移されたのちの井伊氏は、北朝方に帰服する者、
 南朝にそのまま臣従を通す者に分かれたようである
宗良親王は北陸の新田氏を頼って落ち延びようとした。
しかし、新田義貞が討ち死にし、脇屋義助も北陸から撤退していた。

中越後の魚沼地方(現十日町市)は新田氏(大井田・田中・新田
 など)、南浦原地方は五十嵐氏の南朝方の勢力範囲である。
信濃川流域の古志・三島地方も小国氏、村山氏などが南朝に属し
ていた。

・興国2年(1341)
 寺泊には五十嵐氏の館(現聚感園:松尾芭蕉の句碑がある。)

春、宗良親王は寺泊の五十嵐氏館に留まった。
 宗良親王の出現によって越後の南朝軍は活気を取り戻すが、
「ふる里と聞きしこし路の空をたに猶うらとほく帰る雁かね」

 北朝軍の対応も早かった。
  上杉朝定、吉良時衡、高井(北信濃)の市河、中野氏は新田氏
 の拠点である妻有庄(津南町〜現十日町市)に殺到し、館を焼き
 払った。
  ▲信濃川渡し場の戦い
  南朝は敗れ、越後の拠点を失っていく。

・興国3年(1342)、宗良親王は中越から越中に移った。
越中には奈呉ノ浦、石黒庄など南朝方の荘園があった。
  奈呉浦貴船(木舟)城主:石黒越前守重之の館に入らせ給ふ
   (★遠江国風土記伝)
   越中奈呉ノ浦(現新湊市「奈呉」)。
  放生津(現富山県射水市)に滞在した。


箕輪初心★松尾芭蕉32『奧の細道21』【越中編】
http://53922401.at.webry.info/201208/article_16.html
  
 牧野村下牧野の雪見岡には親王の歌が残っている。
「いたつらに いきては帰る 雁はあれと 都の人のことつてもなし」
「今は又 とひくる人も なこのうらに しほたれてすむ蟹としらなん」
下牧野には八宮樸館塚が残っている。
 宗良親王の黒木御所の木材を埋めた場所と伝えられている。
 宗良親王は2年間滞在した?。
 宗良親王は四面楚歌状態・・・軍事行動は取れなかった。

・興国4年康永2年(1343)宗良親王は信濃に逃れた。
★更科の牧島城主:香坂心覚(滋野一族)を頼ったかもしれない。
香坂心覚が挙兵したが、北朝方の小笠原氏や村上氏らの攻撃に
  あい敗北した。
香坂氏の一部が伊那谷:大河原に移ってきた(伝)。

・興国5年康永3年(1344)
伊那郡の豪族:香坂高宗(滋野氏支流望月氏の一族)に招かれて、
 大河原(現長野県大鹿村)に入った。
★@大河原城主:香坂高宗は更科の牧島城主:香坂心覚の子である
 と言う説もある?
B高宗は香坂心覚の甥説もある。一緒に移ってきたのかもしれん?
 
 宗良親王は文中2年(1373)までの約30年間拠点とした。
 「信濃宮」と呼ばれた。

●大河原城(大鹿村)に入った。香坂高宗の居城である。

@南朝方・・・
  諏訪の諏訪氏、
 佐久・小県の滋野一族(滋野氏、海野氏、弥津氏、望月氏)、
 伊那の香坂氏(滋野一族)、中沢氏、藤沢氏、
 松本の仁科氏、
 更科の香坂氏(滋野一族)、川中島栗田氏(善光寺系)など。
A北朝方・・・
 府中小笠原氏
 伊那小笠原氏系・・飯島氏、片桐氏、大島氏、名子氏、松岡氏、
 坂西氏などであった。

以後、宗良親王は大河原を拠点として南朝勢力拡大にするようになる。

・正平2年(1347) 楠正行(楠正成の子)が吉野(千早城・赤坂城)
 で挙兵した。
 宗良親王は、吉野への合流を目指して、御坂峠(恵那山)を経て
 木曽から美濃に行った。
 犬山、鳴海(尾張)を通って・・・・

箕輪初心★松尾芭蕉H【笈(おい)の小文】前編
http://53922401.at.webry.info/201207/article_23.html

 狩野介貞の安倍城(駿河)に入った。
  駿河の狩野貞長は伊豆の狩野氏一族である。
 狩野貞長(伊豆の狩野一族)は安倍城を本城としていた。
 南朝方の駿河武士のリーダーであった。
 狩野貞長の安倍城に興良親王(護良親王の子)が滞在していた。

 北朝方の今川氏と駿河各地で抗争を繰り広げた。
 6ヶ月の戦い・・・・

 しかし、興良親王は狩野貞長の兵力は小さく不安なので、安倍城
 を出た。

 再び信濃に帰ることにした。
 富士の裾野を回り、現御殿場〜甲斐に入り、峠越え〜釜無川を
 遡って・・・・台ケ原、白州松原(北杜市白州)・・・・
●松原諏訪神社(北杜市白州町)
案内板「白須松原は南北朝時代、征東将軍宗良親五遠州井伊谷
   より信濃の保科氏をたよっ山伏姿に変装しこの松原にしば
   し休まれた。 」

 信濃:富士見から入笠山をこえて伊那谷へ、高遠(後保科氏?)
 溝口(後保科氏一族)、市瀬より大河原へ至るルートを取ったと
 される。


箕輪初心:生方▲保科氏館跡&霞台城&保科温泉→高遠城
http://53922401.at.webry.info/201604/article_26.html

 宗良親王は大河原に戻った。
 信濃国で様子をうかがっていた。


・正平7年観応3年(1352) 宗良親王は南朝の征夷大将軍となる。
 閏2月6日 宗良親王を奉じて、新田義貞2男:義宗、脇屋義助
 の子:脇屋義治が挙兵した。
 鎌倉を一時占拠した。
 足利尊氏の反撃にあって鎌倉を追われた。
 
▲観応の擾乱
足利尊氏弟:足利直義 VS 足利家執事の高師直
  高師直側に足利尊氏と足利義詮が付いた。

 結局、足利直義は毒殺された。
 後醍醐天皇の後を継いだ後村上天皇は北朝倒幕を企てた。

後村上天皇は宗良親王を、征東将軍に任じ、南朝側の各豪族に
 参戦を呼びかけて挙兵した。
 宗良親王は新田義宗とともに、足利尊氏を武蔵国小手指原
 ・入間川原・高麗原に攻めた。
 ▲武蔵野原合戦
  
・正平7年/文和元年(1352) 足利尊氏 VS 新田義宗
   観応の擾乱→武蔵野合戦の一部が小手指ヶ原の戦い
 ▲小手指原(所沢)の戦い
 一時は新田義宗、義興、脇屋義治らが鎌倉を制圧した。

★新田義宗は宗良親王を鎌倉において、南朝方の天皇として
 担ぎ上げようとしたことになる。

箕輪初心▲埼玉所沢【小手指ヶ原古戦場の3つの合戦】
http://53922401.at.webry.info/201407/article_9.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201407/article_9.html
 

▲人見原、金井原の戦い
  南朝軍は負けて退却を余儀なくされた。 
  宗良親王はまた信濃大河原へ戻った。

▲山城(奈良)の戦い
  後村上天皇も賀名生(あのう:奈良五條市)に隠れた。

・正平8年(1353)

【史料14】『園太暦(えんたいりゃく)』観応3年(1353)
@「・・・先月18日、関東の凶徒(足利氏側の武士)は武蔵国狩野川
の城(●田中先生…神奈川県、私は伊豆の狩野城だと思う)没落した。」
A「・・・大王(宗良親王)たちは上野国と信濃国の堺にある碓氷峠ま
 で、進出され・・・」
B新田一族諸将は15日に上野を発ち
・・・
 園殿」
●田中大喜先生…新田義宗は宗良親王を鎌倉で擁立しようとした。
「武家の棟梁」新田氏誕生  
1カ月後、新田義宗は大敗した。

宗良親王は信濃に戻ったのもつかの間、
 新田義宗、脇屋義治の要請により越後に赴くことになった。
 10年後、再び越後へ戻った。寺泊である。
  越後長岡の蔵王堂城を中心に約3年の争奪戦が繰り広げられた。


 北朝軍である上杉氏の侵攻した。
  風間、村山氏の離反した。

▲嶽山城
 新田義宗が負けた。

▲新田義宗が沼田の白沢で討ち死にした。
 南朝軍は再起不能に陥った。

箕輪初心◆群馬:沼田会津街道=4コース〜鎌田〜尾瀬
★新田義宗の墓
http://53922401.at.webry.info/201311/article_23.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201311/article_23.html

・正平10年(1353) 宗良親王は失意のうちに信濃に戻った。
諏訪上社大祝と一族、矢島、武居、上原、金子、知久、仁科、
 香坂、栗田、三輪の結集した。

▲桔梗ヶ原(塩尻)の合戦。
 宗良親王は小笠原勢に決定的な敗北をした。
 宗良親王は北信を経て越後へ・・・。

・正平13年・延文3年(1558) 井伊弾正直秀は武蔵玉川矢口の渡し
 で足利基氏の兵に舟を沈められ、自刃した。

●貞治6年(1367) 今川了俊が井伊奥山直朝に宛てた文書が残っている。

・応安2年正平24年(1369)宗長親王は関東管領:上杉朝房の
  攻撃を受けた。

●建徳元年/応安3年 (1370)九州探題に任じられた今川了俊は遠江の
武士を引き連れて九州へ赴いた。
  軍勢の中には「遠江・駿河の人々:横地・勝間田・奥山・井伊
  ・早田・河田」とある。
  井伊氏宗家と分流の奥山・早田氏らが従軍していた。
井伊奥山直朝が討ち死にした。
(★この一冊でよくわかる! 女城主・井伊直虎:楠戸義昭著)

・建徳元年/応安3年(1370)
宗良親王は上洛しようとしたが果たさず、三河・遠江を経て再び
信濃大河原城(長野県下伊那郡大鹿村)に帰った。

●建徳2年/応安4(北) 九州探題の今川貞世(了俊)は京都を出発
 して九州合戦のため鎮西に向かった。井伊氏も伴った。

・応安7年/文中3年(1374) 宗良親王は挽回できないまま36年ぶりに
 吉野行宮へ戻った。64歳になっていた。
  しかし、吉野には顔見知りはいなかった。
  再び出家した。
 昔物語や歌会を催して過ごした。・・・・
 寂しさは消えず、南朝側歌人の和歌を集めた私的な和歌集
 の編集を開始していた。

 長慶天皇は勅撰集にするように命じた。
「新葉和歌集」を編纂したり、「李花集」をまとめたりした。
3年間過ごした。
後に再び信濃大河原に移られる。
 
●文中4年・天授元年・応安8年、永和元年(1375) ▲筑前世振山
井伊氏は今川貞世(了俊)に従い、南朝征西将軍:懐良親王を攻め
 るため筑前世振山で菊池・詫間等と戦った。
 奥山遠江守直朝が戦死した。
 
・天授4年(1378) 宗長親王は信濃国大河原に帰る。
  
・弘和元年/永徳元年(1381) 宗長親王は『新葉和歌集』完成した。
 1415首20巻を「新葉和歌集」を長慶天皇に奉覧した。

 ★以後は記録が残されていない。以後の消息は不明?

・元中2年/至徳2年(1385) 宗良親王が薨去された。享年72。 
★宗良親王が大河原で亡くなたのかもしれないし、井伊谷で
  なくなったのかもしれない。
8月10日宗良親王を自浄院(龍潭寺)に埋葬した説がある。
  法号にちなみ、寺号を冷湛寺と改めた。

▲宗良親王墓・・・静岡県浜松市北区引佐町井伊谷
  龍潭寺の隣にある。 
★墓には入れない。宮内庁の許可が取れる人だけか?

・元中3年/至徳3年 宗良親王霊を城山東麓の三宅神社に合祀し、
 二宮神社と改めた。

・元中9年/明徳3年(1392) 南北朝合体統一
足利義満が出した南北朝統一の主な条件は3つであった。
@南朝の持っている三種の神器を北朝に与えること
A皇位には持明院統(北朝)と大覚寺統(南朝)が交互につくこと
B領地は鎌倉幕府の時代に戻すこと

・南北朝時代が終わった。



★明日は龍たん寺かな?

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箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政132『二俣城』松井→依田→大久保
平成29年(2017)11月3日、浜松市の天竜を散策した。 祐太郎君の車でまず「二俣城」に行った。二俣城は、 井伊家被官:松井宗信が築いたと言われている。松井 家は松井宗能→松井貞宗→長男:松井信薫→次男宗信 →松井宗恒と続く家系で、子孫は「松居」を名乗り、井伊 直政に仕えた。「二俣城」は 武田信玄・勝頼親子と徳川 家康が激しい攻防戦を繰り広げた城として有名である。 また、徳川家康の嫡男である松平信康が切腹をした城 としても知られている。 天竜川と二俣川に挟まれた要害なの... ...続きを見る
城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー...
2017/12/15 07:07

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