城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行

アクセスカウンタ

zoom RSS 箕輪初心:生方▲岩手B「紫波」の『彦部氏館&彦部氏の墓:正養寺』

<<   作成日時 : 2017/10/26 07:26   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

彦部家先祖の地:岩手「紫波」『彦部氏館(機織館)&
彦部氏の墓:正養寺』を訪ねた。

★彦部家家伝の「高階朝臣家譜」によると、天武天皇の第一子:高
市親王となっている。天智天皇の大化の改新から始まる。彦部家
は奈良→京都→勿来(福島)→紫波(岩手)→鎌倉→京都→桐生
と動いた。(★『彦部屋敷』現彦部当主:彦部篤夫著
画像



箕輪初心:生方▲岩手@「斯波氏・彦部氏先祖の地:紫波」
の歴史的重要性
http://53922401.at.webry.info/201710/article_23.html

箕輪初心:生方▲岩手A「紫波」の『野村胡堂あらえびす記念館』
http://53922401.at.webry.info/201710/article_24.html

箕輪初心:生方▲群馬『彦部家の歴史:飛鳥時代〜戦国時代』
http://53922401.at.webry.info/201612/article_1.html




◆彦部氏の歴史
・応徳3年(1086) 高階河内守惟章は下野国に下向し、佐久山館に
居住した。
・寛治4年(1090) 源義家と高階惟章の娘の間に惟頼が生まれた。
  「尊卑分脈」義家4男。  
 高階惟章は男子が生まれなかったので、源八幡太郎義家と娘との
 間に生まれた高階惟頼を養子として高階家を譲った。
★高階氏には清和源氏嫡流の血が入り、清和源氏と関係を深めるき
 っかけとなった。
・康和4年(1102)高階惟頼は陸奥国菊多郡の検断職を命ぜられ、
 いわき(勿来の関)に下向した。
・天喜2年(1104) 高階惟頼は源頼義・義家に従い、安倍氏の滅亡
 をはかった。志和(紫波)の陣が岡が本陣になった。
   子の高階惟長は足利義兼に仕えた。
・治承4年(1180) 8月17日源頼朝が以仁王の令旨に応じて
 伊豆国で挙兵した。河内源氏一族の足利義兼は以仁王を養育
 したワ子内親王(八条院)の蔵人でもあった関係から、足利
 義兼は源頼朝に従軍していた。足利義兼に仕えていた高階惟
 長も従軍した。
・元暦元年(1184) 5月、足利義兼・高階惟長は木曽義仲の遺
 児・源義高の残党狩りで戦功を挙げた。
 その後、源頼朝の弟:源範頼に属して平氏を追討した。
 足利義兼は功績により、上総国の国司(上総介)に推挙された。
・文治5年(1189) 足利義兼・高階惟長・子の高階惟重は奥州
 合戦にも従軍した。
・建久元年(1190) 大河兼任の乱
出羽国において奥州藤原氏の残党が挙兵すると,足利義兼が追討使
 となり、高階惟重は従軍し、功績をあげた。
・承久元年(1221)承久の乱
高階惟重が活躍した。
@高階惟重の系統が高階氏の嫡流であり、後に高氏を称した。
A高階惟重の弟:高階惟光の系統が彦部氏となった。
 高階惟真は上野国の秀郷流足利俊綱に殺された。

高階惟頼の孫:惟範は幼少であったため、那須家で育てられた。
源頼朝から志夫郡が与えれた。
彦部光朝の本拠は「奥州菊田郡彦部郷」であった。
 大高外五か村で二百町歩を給された。
 大高館(現福島県いわき市勿来町)に住んだ。
  (★『彦部屋敷』:彦部篤夫著)
   大高寺へ仏像を寄付した。
 大高(高階)惟範の子:大高(高階)惟長→窪田惟長を名乗った。
 
B斯波氏は足利宗家4代当主の足利泰氏の長男:足利家氏から始まる。
 足利家氏は「斯波氏の祖」であるが、晩年「足利尾張家」を名乗った。
 斯波(足利)家氏は陸奥国斯波郡(紫波郡、しわぐん)を領した。
★彦部光朝は足利(斯波)家長に従ったと考えられる

窪田惟長の子:窪田光朝 (1216〜77)奥州斯波郡彦部郷に移った。
 紫波郡彦部郷に住して彦部を名字としたのである。
 彦部家初代:彦部光朝は「奥州彦部郷」に移って彦部六郎と称した。
 ★彦部家・桐生市史では、菊多郡彦部郷→紫波の彦部郷の立場をとっ
 ている。
 
 彦部光朝の子:彦部光継は 鎌倉幕府の招きに応じて一族を志和
 (斯波)の彦部郷に残して出府した。
 彦部光継は、鎌倉幕府の幕府昵近衆となった。
 以後、彦部氏は鎌倉に住した。
(★『彦部屋敷』:彦部篤夫著)

・鎌倉時代末期には、斯波氏(高氏)と彦部氏は足利高氏の被官と
 なっていた。

・元弘元年(1331) 元弘の乱 
 彦部光貞(光高・秀貞か)は足利高氏(尊氏)に従って上洛した。
 以後、南北朝の争乱に際して足利氏に従って活躍した。
 彦部光貞は九州で再起した足利尊氏が東上して、楠木正成、新田義貞
 と戦った。しかし、湊川の戦いで討死した。
  (★『彦部屋敷』:彦部篤夫著)
C足利家臣:高師直の家臣に彦部氏がいる。
 高師直の家臣には松本、大田原、南、大高、岡松、大平、彦部など
  が見える。
 彦部光貞の嫡男:光春は、足利将軍の直臣に取り立てられ、奉公衆と
 して重用された。
 
 彦部光春の弟:彦部秀通系は足利尊氏に仕えた。
 子の彦部直春は初代鎌倉公方:足利基氏に仕え、上野国
  勢多郡内の地頭職になった。
  彦部秀通→直春→通春→通定→師信→宗信→信親→師光→秀昌
  彦部師光は広沢の加賀屋敷に住んだ。
 
・正平10年/文和4年(1355) 彦部松法師丸3歳で家督を継ぎ、
三河国額田郷内の地頭職になった。
  奥州から出た彦部氏嫡流は足利氏とともに行動するなかで、
  足利氏の所領が集中する三河に所領をえた。

・元中9年/明徳3年(1392) 南北朝統一を成し遂げた。
  彦部忠春は、南北朝合一をなしとげた足利義満に仕えた。 

・応永4年(1397) 室町幕府3代将軍足利義満が河内の領地と交換に
  西園寺を譲り受けた。
  足利義満から彦部氏が金閣寺造営の作事奉行を命じられた。
  鹿苑寺塔頭龍華院の開基となっっている。
  一方、彦部光春の弟:秀通の系は鎌倉府に仕えて、鎌倉府奉公衆
  として続いた。

・応永7年(1400)
4代:斯波高経の4男で斯波義将は越前・越中の守護大名であった。
 息子の代:斯波義重が尾張守護に着任した。
  父:義将から越前の守護職を譲られ兼任することになった。
・応永12年(1405) 尾張・遠江・越前の守護として戦国時代に至るまで
約150年間斯波氏の領国となった。

   
・戦国時代、11代彦部晴直(1507〜65)は、足利家第10代義稙
・第11代義澄・第12代義晴・第13代義輝の4代の将軍に仕えた。
彦部晴直の母は近衛関白政家の娘で、近衛政家の室は足利家第8代義政
の娘であった。彦部晴直は近衛前久(前嗣→龍山)とともに、武田信虎
などの武将の天皇家・将軍家の謁見に一役かった。
・永禄2年(1559)長尾景虎(上杉謙信)上洛の時の将軍や天皇との
謁見の取次も行った。永禄3年(1560)近衛前嗣親子・彦部信勝が
長尾景虎を追って越後から関東下向し、厩橋で長尾景虎に会った
後、桐生城入りした。永禄4年(1561) 近衛前嗣は彦部信勝は、
長尾景虎は関東管領になり、上杉政虎を名乗るのを見届けた。
彦部信勝は近衛親子の帰京後も桐生の広沢に留まった。
・慶長5年(1600) 関ヶ原の合戦
彦部屋敷から徳川家康に竹竿380本と旗絹を献納された。
 桐生領五十四ヶ村は賦役御免になった。

箕輪初心:生方▲群馬『彦部家の歴史:飛鳥時代〜戦国時代』
http://53922401.at.webry.info/201612/article_1.html


【1】平成29年(2017)10月7日
04:40家→裄V家
06:00 彦部家 当主に挨拶
06:15 彦部家→・・・紫波IC
12:30 道の駅【かりん亭】 八重嶋勲氏
13:20 彦部公民館
  野村胡堂あらえびす記念館
    ▲河村城遠望
画像

画像

13:55 ▲城882 機織館=彦部館



 ★紫波町の方が軽トラックで案内してくださった。
  ありがとうございます。
画像

画像

画像


画像

翌日、地方新聞2社の記事に掲載された。



14:35 正養寺:彦部家の墓?供養塔
画像

画像

画像

画像

★花が飾られていた。
画像

画像



15:35 ▲城883斯波氏居城跡(足利家長関連)

16:00 ▲城884斯波氏詰め城:高清水城 
     天正16年(1588)南部氏に滅ぼされた。
16:30 ▲城885陣ヶ岡 源頼朝
17:00 ラ・フランス温泉館
18:00 ホテル湯楽々
18:30 懇親会

【2】平成29年(2017)10月8日
06:00 志和神社
07:00 武田曲屋
07:30 朝食
08:30 ホテル湯楽々発
09:30 宮沢賢治記念館
11:00平泉 中尊寺(世界遺産)

★個人行動…タクシー
11:30 高館義経堂
11:45 無量光院跡(世界遺産)

12:00 金鶏山の麓:源義経妻子の墓
12:15 合流 …1年忌の買い物・土産
12:40 昼食:泉橋庵「天ぷら等」
13:30 毛越寺 (世界遺産)
14:15 無量自在観音院跡(世界遺産)
14:25 酒の土産
14:30 出発
   大渋滞
21:30 彦部亭
22:40 家
   ★彦部先生・裄V先生はじめ多くの方に感謝します。



■箕輪初心◆◆平泉@中尊寺写真集
http://53922401.at.webry.info/201111/article_15.html

箕輪初心■■世界遺産「平泉A毛越寺写真集」
http://53922401.at.webry.info/201111/article_16.html

箕輪初心★松尾芭蕉22『奧の細道』J【平泉】&▲岩手3山
http://53922401.at.webry.info/201208/article_6.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201208/article_6.html

▲▲  箕輪初心▲岩手山 ▲▲
http://53922401.at.webry.info/201205/article_11.html

▲▲  箕輪初心▲早池峰山 ▲▲
http://53922401.at.webry.info/201205/article_13.html

▲▲  箕輪初心▲栗駒山 ▲▲
http://53922401.at.webry.info/201205/article_14.html



◆紫波町の歴史
・縄文時代   先住民が集落をつくり生活を営んでいましたが、

●@「日本武尊」は蝦夷侵略のための宿営した伝説
・景行40年(110)「日本武尊」が草津温泉に来ていることにことにな
っている。
・景行43年(113)「日本武尊」が陣ヶ岡に宿営した。
  ★しかし、縄文時代なので、無理がある。

●A「安倍比羅夫が陣ヶ岡に宿営した伝説」
・斉明5年(659) 東北陣営として宿泊した。

●B「道嶋の宿(すくね)が陣ヶ岡に宿営した伝説」
・8C後半〜9C前半  

●C「坂上田村麻呂の東征で陣ヶ岡に宿営した伝説」
・延暦11年(791) 蝦夷東征
  大伴弟麻呂(正使)+坂上田村麻呂(副使)に任じられた。

・延暦12年(793) 蝦夷東征
「征東副将軍坂上大宿禰田村麿已下田村麻呂は四人の副使(副将軍)
の一人ながら中心的な役割を果たした。

・延暦15年(796) 坂上田村麻呂は陸奥按察使、陸奥守、鎮守将軍を
  兼任する官職になった。
  翌年には征夷大将軍に任じられた。

・延暦20年(801) 坂上田村麻呂は蝦夷のあてるいを降伏させた。
 ※陣ヶ岡に宿営した。
  坂上田村麻呂の軍隊によって攻められ、斯波郡(紫波郡)として
  治められるようになった。
志賀理和気神社や白山神社などは田村麻呂が勧請された(伝)。

 ※高崎に清水寺を建てた。(伝)

・弘仁元年(810) 「上毛野朝臣」を賜姓された。
以降は朝廷の要職に就き、東国系氏族に代わり上毛野氏の中核をな
 した。

・弘仁2年(811)
 上毛野朝臣穎人(かいひと)『新撰姓氏録』の編集に関わった。
上毛野公道信・上毛野公諸兄・上毛野公藤野・上毛野公赤子
など男女7人が朝臣を賜った。
  (★群馬県史通史編2P446)
箕輪初心:生方▲群馬『豊城入彦命の子孫:上毛野氏の歴史』
http://53922401.at.webry.info/201509/article_11.html
 

      
●「源頼義・義家の前9年の役の本陣説」
・永承6年(1051)〜康平5年(1062)前九年の合戦
・天喜2年(1104) 源頼義・義家の本陣になった。
 源義家が戦勝祈願した蜂神社や御手植の杉(切り株)などの謂れの
 ある史跡も残っている。 
 志和(紫波)が戦場となった。
安倍氏は
 A説…安倍氏は陸奥国の土着の有力豪族説
  陸奥国の奥六郡(岩手県北上川流域)に柵を築き、半独立的な勢力
  を形成していた。
 B説…安倍氏は陸奥国の侵略軍の有力豪族説(最近の有力説)

 その後、平泉の藤原基衡の弟:清綱の子:俊衡が紫波に住み、樋爪氏を
 名乗り、治めた。
(源義経の空白の6年は樋爪俊衡が匿った可能性が高い。)
 (★『紫波の歴史めぐり』:会長:八重嶋勲・副会長:内城など著)

・平安末期
親鸞の弟子:是信房という僧侶が紫波を訪れ、浄土真宗
 を広めた。
  正音寺や高清水観音堂に仏像が安置された。


●E「源頼朝の藤原泰衡追討の本陣になった説」    
・文治5年(1189) 源義経を保護した事で、鎌倉幕府と奥州藤原氏と
対立が対立した。
源頼朝は、 藤原氏や樋爪氏(彦部在)を攻め北上する。
 源頼朝自ら軍を率いて「陣ヶ岡」に陣を張った。
 厨川を目指す途中、軍勢を紫波町の陣ヶ岡に集結させ、
 一週間宿営した(伝)。
 駆けつけた武士は28万4千人とも言われている。
  (★『吾妻鏡』) 
 ★嘘過ぎるのはすぐに分かる。
この時、足利義兼も参加している。

・建久元年(1190) 大河兼任の乱
出羽において奥州藤原氏の残党:大河兼任の乱が挙兵した。
 足利義兼が追討使として平定してした。
 足利義兼が紫波を治めた。
足利義兼は幼い時に父:足利義康を亡くした。
  足利義兼は、上野国の八幡庄:寺尾(高崎市)にいた伯父:
  源(新田)義重の軍事的庇護を受けていた。

・鎌倉時代

・建武2年(1335) 南朝方である北畠顕家が多賀城(現宮城県)に
  入城したことに対抗して、北朝方の足利尊氏は一門の
  斯波高経の長子:斯波(足利)家長を陸奥守に任じ、
  奥州の南朝勢力と対峙させた。
  奥州管領任ぜられ斯波館に住んだ。
  斯波家長は高水寺城を築城した。

・建武4年(1337)12月 北畠顕家が再び西上した。
  鎌倉の杉本で斯波家長が敗死した。

・室町時代 紫波一帯は斯波氏が治め高水寺城を拠点とした。
 詰の城:高水寺城は最頂部に本丸がある。南に二の丸(若殿屋敷)、
 東に家臣の右京屋敷や姫御殿などがある。
 高水寺城・志和館(城)と称された。
「高水寺城」の名称は、『吾妻鏡』に記されている紫波地方の古刹
 高水寺の一郭を居館としたことに由来する。城跡は現岩手県紫波町
 の中央にある。北上川右岸標高180mの段丘に築かれている。
 階梯式に近い形状である。東西550m、南北700mに及ぶ。
 周辺にも御所関連の居館跡が発掘されている。

斯波氏はいろいろな分家に分かれたが、奥州に土着した一族は
 奥州斯波氏と呼ばれた。中でも高水寺城を本拠地とした斯波氏は、
 高水寺斯波氏と呼ばれ、斯波郡六十六郷を治め隆盛を極めた。
 高水寺斯波氏は奥州斯波氏の中でも斯波家長の系統に属し、
 足利家一門である上に、斯波氏発祥の地を治めたことから名族
 とされた。天皇家・将軍足利家や足利一族にしか許されてなかった
 「斯波御所」「奥の斯波殿」の尊称が許された。
 また、室町幕府では重職であった関東管領と同格の奥州探題職を
 歴任していた斯波一族の大崎氏と同格であった。

家臣の彦部氏(機織館)・川村氏(川村城)などの支城に住んで
 いた。外に星山氏・犬吠森氏など100以上の領主を家臣にして
 統治した。
 (冊子:八重嶋勲先生著)

・戦国時代
・天文18年(1549) 甲州武田氏の末裔:三戸南部利直は岩手郡滴石
 (現雫石)に侵攻して勢力下に置いた。全盛期を迎えた。

 斯波氏は三戸南部利直と対立するようになった。

・永禄8年(1565)から三戸南部利直の南進進出が活発化するに従い、
  対立が激化した。
  斯波詮直は劣勢に立たされるようになった。

 斯波詮直は三戸南部利直の傍系家臣である九戸政實の弟:弥五郎
 (康實)を養子を迎えるという降伏に近い和睦した。
 斯波詮直の娘婿は高田吉兵衛を名乗り、「吉兵衛館」に住んだ。
 事実上の三戸南部利直への従属を余儀なくされた。

・天正元年(1573)織田信長によって足利幕府が崩壊した。
 斯波一族で奥州探題の地位にあった大崎氏も奥州の一大名と
 なっていた。
 斯波詮直は斯波郡六十六郷の統治が困難になっていた。
斯波詮直は高田吉兵衛と不仲になっていった。離縁した。

 斯波詮直(1548〜1597)の斯波家内部の内紛で
 家臣が離反していく者もでた。

・天正16年(1588) 高田吉兵衛は南部利直に加勢する者を集めた。
 斯波氏家臣・岩清水右京・梁田大學等の謀叛が起こった。
 F南部利直は陣ヶ岡に陣を置いた。
  南部利直によって高水寺城は落城し、高水寺斯波詮直は逃亡した
南部利直は盛岡城(不来方城)築城まで十数年、ここにいたという。
  斯波氏の滅亡した。
  彦部氏はにげたものと思われる。
  
・天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原侵攻
  奥州の仕置き
  南部信直が兵1000を引き連れ、小田原城攻めと奥州仕置に
 従軍していた。

6月、九戸政実の乱
  九戸政実は三戸南部側である花巻城:南盛義を攻撃した。
  南盛義は討ち死にし、南部家中は緊張状態が続いた。
奥州仕置軍は平泉周辺まで進撃し、大崎氏、葛西氏、黒川氏ら
   小田原に参陣しなかった在地領主の諸城を制圧して検地など
   を行った。
   浅野長政らが郡代、代官を配置して奥州仕置軍勢を引き揚げた。

 10月 陸奥国各地で、奥州仕置に対する不満から葛西大崎一揆、
  仙北一揆など大規模な一揆が勃発した。
   南部信直は和賀・稗貫一揆に兵を出した。
  南部信直は稗貫氏の鳥谷ヶ崎城で一揆勢に包囲されていた浅野長政
  を、救出するのが精一杯であった。

・天正19年(1561)  
  南部信直は高水寺城を「郡山城」と改めた。
  高田吉兵衛は中野修理康実と名乗り、城代として在籍した。
  後、南部康実を名乗って、家老職になった。

 南部氏一族の九戸政実が南部家当主の南部信直および
 奥州仕置を行う豊臣政権に対して反乱を起こした

 6月20日 豊臣秀吉は奥州再仕置軍を編成した。

   白河口には豊臣秀次を総大将に率いられた3万の兵に
   徳川家康が加わった。
   仙北口には上杉景勝、大谷吉継
   津軽方面には前田利家、前田利長が
   相馬口には石田三成、佐竹義重、宇都宮国綱が

   伊達政宗、最上義光、小野寺義道、戸沢光盛、秋田実季、
   津軽為信らには諸将の指揮下に入るよう指示した。
   奥州再仕置軍は一揆を平定しながら北進した。
   蒲生氏郷や浅野長政と合流した。
蒲生氏郷は陣ヶ岡に陣を置いた。

  8月下旬 浅野長政・蒲生氏郷は南部領近くまで進撃した。

  9月1日 九戸勢の前線基地である姉帯、根反城が落ちた。
       九戸政実は九戸城に籠城した。

  9月2日 総勢6万の兵が九戸城を包囲した。
  @城の正面にあたる南側には蒲生氏郷と堀尾吉晴が布陣した。
  A猫淵川を挟んだ東側には浅野長政と箕輪城主:井伊直政が
   布陣した。
  B白鳥川を挟んだ北側には南部信直と松前慶広が布陣した
  C馬淵川を挟んだ西側には津軽為信、秋田実季、小野寺義道、
  由利十二頭らが布陣した。     
  攻防を繰り返した。5000の籠城組は人数が減っていった。
  九戸政実は白装束で降服した。・・処刑された。
蒲生氏郷が九戸城と城下町を改修し、南部信直に引き渡した。
  南部信直は南部家の本城として三戸城から居を移し、九戸を
  福岡と改めた。
  豊臣秀吉の天下統一が完成した。


・慶長2年(1597) 紫波詮直は旧臣にかくまわれていたが、
  病没したと言われる。
  子孫は三戸南部氏に仕えたとも、二条家に仕えたともされている。
南部氏も紫波町中心部である日詰を重要視して

・寛文7年(1667) 郡山城が廃城となった。
  明治初めまで南部氏が支配した。

・明暦元年(1655 ) 南部盛岡藩3代藩主・南部重直が嗣子を定めずに
  病没したため、幕府の命により遺領10万石を、重直の2人の弟、
  七戸重信の本藩8万石と、中里数馬の八戸藩2万石に分割された。
  八戸藩が分立して志和地区は八戸領となった。
 紫波町は代官所や藩の御蔵が置かれ奥州街道の宿場町や北上川の舟運
  の川港として商業が中心の町として発展した。

・延宝6年(1678) 近江商人の村井権兵衛が志和で酒造りを始めた。
  「池田流」の杜氏を大阪から招き、南部杜氏の源流となる志和近江屋
  を発足させた。
  「南部杜氏」集団の誕生につながった。

・明治時代
・明治12年(1879 ) 紫波郡役所が設けられ、紫波町地域は16 の戸長役場
  区域に分割となった。
・明治22年(1889) 町村制施行とともに、日詰町、古館、水分、志和、
赤石、彦部、佐比内、赤沢、長岡村の1 町8 カ村となった。

・昭和30年(1955) 1 町8 カ村が合併し、現在の紫波町が誕生した。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
箕輪初心:生方▲岩手B「紫波」の『彦部氏館&彦部氏の墓:正養寺』 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる