城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行

アクセスカウンタ

zoom RSS 箕輪初心:生方▲岩手A「紫波」の『野村胡堂あらえびす記念館』

<<   作成日時 : 2017/10/25 07:40   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

彦部家先祖の地:岩手「紫波」を訪ねること、紫波の方々と交流
すること、岩手の文学者:野村胡堂・宮沢賢治に触れること、世
界遺産「平泉」を見ることを目的にした旅行に参加した。
野村胡堂は岩手県紫波郡彦部村(現紫波町)に生まれた。
野村胡堂は小説家・作家のとしてのペンネームで、音楽評論家と
しての筆名は野村あらえびすである。本名は野村長一である。
『銭形平次 捕物控』の作者として知られる。「男だったら、一つ
にかけろ。」紫波町には「野村胡堂あらえびす記念館」建設され
ている。

画像

画像


箕輪初心:生方▲岩手@「斯波氏・彦部氏先祖の地:紫波」の歴史的重要性
http://53922401.at.webry.info/201710/article_23.html



【1】平成29年(2017)10月7日
04:40家→裄V家
06:00 彦部家 当主に挨拶
06:15 彦部家→・・・紫波IC
12:30 道の駅【かりん亭】 八重嶋勲氏
13:20 彦部公民館

野村胡堂の生家
 ★撮りそびれた

彦部小学校
画像

画像

野村胡堂あらえびす記念館

館長様より写真・動画撮影許可されました。
 ブログ掲載も許可されました。お顔が出てしまいますが
 と言いましたが、OKしてくださいました。

画像


裄V先生より、本をいただきました。
 ありがとうございました。
画像

画像

画像

画像

画像

画像


画像

◆野村胡堂の生涯
(1882年10月15日〜1963年4月14日)
・明治15年(1882) 岩手県紫波郡彦部村(現紫波町)に農家の次男と
 して生まれた。
 彦部尋常小学校で学んだ。
 紫波高等小学校で学んだ。
 高等小学校のときに自宅が全焼した。
  『絵本太閤記』や『水滸伝』を熱心に読んだ。
 
・明治29年(1896)盛岡中学校(現盛岡第一高等学校)に入学した。
  同窓生に金田一京助がいた。
  下級生に石川啄木がいた。
   校友会雑誌の編集を手がける。
   胡堂は啄木に俳句・短歌の手ほどきをしたと言われている。
・明治??年    第一高等学校に入学した。
・明治38年(1907) 東京帝国大学法科大学に入学した。
  学資が続かず退学し、『報知新聞』を発行する報知社に入社して
  政治部に配属された。
  『報知新聞』に人物評論欄「人類館」を連載した・
  「胡堂」を号とした。
   「あらえびす」の筆名でレコード評論等も執筆した。
   社会部夕刊主任、社会部長、調査部長兼学芸部長、
   編集局相談役を歴任。
・昭和6年(1931) 『文藝春秋オール讀物號』:文藝春秋発行の
  創刊号に「岡本綺堂の半七捕物帳のような捕物帳」の執筆
  を依頼された。構想を練っていた時、建設現場で見かけた
 「錢高組」の看板と社章から「銭形」の名前と投げ銭を思いつ
 いたという。また、『水滸伝』に登場する没羽箭張清が投石を
 得意にしていたというエピソードも、投げ銭のヒントとなった
 という。
  『銭形平次 捕物控』の第1作目「金色の処女」を発表した。
  (1931年以降、第二次大戦を挟んで1957年までの26年間、
   長編・短編あわせて383編を書いた。
・昭和24年(1949)「捕物作家クラブ」の初代会長に就任する。
   後に「日本作家クラブ」と改名して会長を継続した。
・昭和31年(1956) 紫波町彦部に胡堂文庫(現紫波町中央公民館
図書室として紫波町が運営)を設立した。
  レコード1万枚を東京都に寄贈した。
・昭和38年(1963)
 1月 紫波町に、銭形記念図書館も設けた。
   武鑑600冊を含む古典籍960点余りを東京大学史料編纂所
    に寄贈した。
 2月 私財のソニー株約1億円で財団法人野村学芸財団を設立
   した。学生等への奨学金の交付を目的とした。
・昭和38年(1963)4月14日 野村胡堂が肺炎のため亡くなった。享年80。
  東京都杉並区上高井戸
  金田一京助が野村胡堂の葬儀委員長を務めた。


*******************************
・昭和41年(1966)~昭和59年(1984)
「銭形平次」 大川橋蔵  フジテレビで放映された。
   舟木一夫がテーマソングを歌った。
  「男だったら、一つにかけろ。〜〜〜〜〜
   誰が呼んだか、誰が呼んだか、銭形へ〜じ〜〜〜」
★よくTVを見たもんだ。

・昭和45年(1970)日本作家クラブが神田明神境内に「銭形平次の記念碑」
  を建立した。

・平成22年(2011)
野村胡堂原作『銭形平次』のテレビドラマで、ギネスブックに
  最長のドラマとして認定された。
 大川橋蔵主演の『銭形平次』が放映開始50周年を機に、あらえびす
 文化賞に選ばれた。
 原作者の野村胡堂の表彰状は、野村胡堂の孫で野村学芸財団理事の
 住川碧氏が受け取った。
 ドラマ主題歌を歌った木一夫も特別賞として表彰された。

・平成28年(2016) 4月24日 日本作家クラブが創設した第1回
あらえびす文化賞特別賞を受賞した。

 
『ルパン三世』には、銭形警部が登場する。
  銭形平次の子孫で、先祖から受け継いだ十手で戦うこともある。
『金田一少年の事件簿』には私立探偵の「銭形ケンタロウ」が登場する。

画像



13:55 ▲城882 機織館=彦部館
14:35 正養寺:彦部家の墓
15:35 ▲城883斯波氏居城跡(足利義兼関連)
16:00 ▲城884斯波氏詰め城:高清水城 
     天正16年(1588)南部氏に滅ぼされた。
16:30 ▲城885陣ヶ岡 源頼朝
17:00 ラ・フランス温泉館
18:00 ホテル湯楽々
18:30 懇親会

【2】平成29年(2017)10月8日
06:00 志和神社
07:00 武田曲屋
07:30 朝食
08:30 ホテル湯楽々発
09:30 宮沢賢治記念館
11:00平泉 中尊寺(世界遺産)

★個人行動…タクシー
11:30 高館義経堂
11:45 無量光院跡(世界遺産)

12:00 金鶏山の麓:源義経妻子の墓
12:15 合流 …1年忌の買い物・土産
12:40 昼食:泉橋庵「天ぷら等」
13:30 毛越寺 (世界遺産)
14:15 無量自在観音院跡(世界遺産)
14:25 酒の土産
14:30 出発
   大渋滞
21:30 彦部亭
22:40 家
   ★彦部先生・裄V先生はじめ多くの方に感謝します。



■箕輪初心◆◆平泉@中尊寺写真集
http://53922401.at.webry.info/201111/article_15.html

箕輪初心■■世界遺産「平泉A毛越寺写真集」
http://53922401.at.webry.info/201111/article_16.html

箕輪初心★松尾芭蕉22『奧の細道』J【平泉】&▲岩手3山
http://53922401.at.webry.info/201208/article_6.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201208/article_6.html

▲▲  箕輪初心▲岩手山 ▲▲
http://53922401.at.webry.info/201205/article_11.html

▲▲  箕輪初心▲早池峰山 ▲▲
http://53922401.at.webry.info/201205/article_13.html

▲▲  箕輪初心▲栗駒山 ▲▲
http://53922401.at.webry.info/201205/article_14.html



◆紫波町の歴史
・縄文時代   先住民が集落をつくり生活を営んでいましたが、

●@「日本武尊」は蝦夷侵略のための宿営した伝説
・景行40年(110)「日本武尊」が草津温泉に来ていることにことにな
っている。
・景行43年(113)「日本武尊」が陣ヶ岡に宿営した。
  ★しかし、縄文時代なので、無理がある。

●A「安倍比羅夫が陣ヶ岡に宿営した伝説」
・斉明5年(659) 東北陣営として宿泊した。

●B「道嶋の宿(すくね)が陣ヶ岡に宿営した伝説」
・8C後半〜9C前半  

●C「坂上田村麻呂の東征で陣ヶ岡に宿営した伝説」
・延暦11年(791) 蝦夷東征
  大伴弟麻呂(正使)+坂上田村麻呂(副使)に任じられた。

・延暦12年(793) 蝦夷東征
「征東副将軍坂上大宿禰田村麿已下田村麻呂は四人の副使(副将軍)
の一人ながら中心的な役割を果たした。

・延暦15年(796) 坂上田村麻呂は陸奥按察使、陸奥守、鎮守将軍を
  兼任する官職になった。
  翌年には征夷大将軍に任じられた。

・延暦20年(801) 坂上田村麻呂は蝦夷のあてるいを降伏させた。
 ※陣ヶ岡に宿営した。
  坂上田村麻呂の軍隊によって攻められ、斯波郡(紫波郡)として
  治められるようになった。
志賀理和気神社や白山神社などは田村麻呂が勧請された(伝)。

 ※高崎に清水寺を建てた。(伝)

・弘仁元年(810) 「上毛野朝臣」を賜姓された。
以降は朝廷の要職に就き、東国系氏族に代わり上毛野氏の中核をな
 した。

・弘仁2年(811)
 上毛野朝臣穎人(かいひと)『新撰姓氏録』の編集に関わった。
上毛野公道信・上毛野公諸兄・上毛野公藤野・上毛野公赤子
など男女7人が朝臣を賜った。
  (★群馬県史通史編2P446)
箕輪初心:生方▲群馬『豊城入彦命の子孫:上毛野氏の歴史』
http://53922401.at.webry.info/201509/article_11.html
 

      
●「源頼義・義家の前9年の役の本陣説」
・永承6年(1051)〜康平5年(1062)前九年の合戦
・天喜2年(1504) 源頼義・義家の本陣になった。
 源義家が戦勝祈願した蜂神社や御手植の杉(切り株)などの謂れの
 ある史跡も残っている。 
 志和(紫波)が戦場となった。
安倍氏は
 A説…安倍氏は陸奥国の土着の有力豪族説
  陸奥国の奥六郡(岩手県北上川流域)に柵を築き、半独立的な勢力
  を形成していた。
 B説…安倍氏は陸奥国の侵略軍の有力豪族説(最近の有力説)

 その後、平泉の藤原基衡の弟:清綱の子:俊衡が紫波に住み、樋爪氏を
 名乗り、治めた。
(源義経の空白の6年は樋爪俊衡が匿った可能性が高い。)
 (★『紫波の歴史めぐり』:会長:八重嶋勲・副会長:内城など著)

・平安末期
親鸞の弟子:是信房という僧侶が紫波を訪れ、浄土真宗
 を広めた。
  正音寺や高清水観音堂に仏像が安置された。


●E「源頼朝の藤原泰衡追討の本陣になった説」    
・文治5年(1189) 源義経を保護した事で、鎌倉幕府と奥州藤原氏と
対立が対立した。
源頼朝は、 藤原氏や樋爪氏を攻め北上する。
 源頼朝自ら軍を率いて「陣ヶ岡」に陣を張った。
 厨川を目指す途中、軍勢を紫波町の陣ヶ岡に集結させ、
 一週間宿営した(伝)。
 駆けつけた武士は28万4千人とも言われている。
  (★『吾妻鏡』) 
 ★嘘過ぎるのはすぐに分かる。
この時、足利義兼も参加している。

・建久元年(1190) 大河兼任の乱
出羽において奥州藤原氏の残党:大河兼任の乱が挙兵した。
 足利義兼が追討使として平定してした。
 足利義兼が紫波を治めた。
足利義兼は幼い時に父:足利義康を亡くした。
  足利義兼は、上野国の八幡庄:寺尾(高崎市)にいた伯父:
  源(新田)義重の軍事的庇護を受けていた。

・鎌倉時代

・建武2年(1335) 南朝方である北畠顕家が多賀城(現宮城県)に
  入城したことに対抗して、北朝方の足利尊氏は一門の
  斯波高経の長子:斯波(足利)家長を陸奥守に任じ、
  奥州の南朝勢力と対峙させた。
  奥州管領任ぜられ斯波館に住んだ。
  斯波家長は高水寺城を築城した。

・建武4年(1337)12月 北畠顕家が再び西上した。
  鎌倉の杉本で斯波家長が敗死した。

・室町時代 紫波一帯は斯波氏が治め高水寺城を拠点とした。
 詰の城:高水寺城は最頂部に本丸がある。南に二の丸(若殿屋敷)、
 東に家臣の右京屋敷や姫御殿などがある。
 高水寺城・志和館(城)と称された。
「高水寺城」の名称は、『吾妻鏡』に記されている紫波地方の古刹
 高水寺の一郭を居館としたことに由来する。城跡は現岩手県紫波町
 の中央にある。北上川右岸標高180mの段丘に築かれている。
 階梯式に近い形状である。東西550m、南北700mに及ぶ。
 周辺にも御所関連の居館跡が発掘されている。

斯波氏はいろいろな分家に分かれたが、奥州に土着した一族は
 奥州斯波氏と呼ばれた。中でも高水寺城を本拠地とした斯波氏は、
 高水寺斯波氏と呼ばれ、斯波郡六十六郷を治め隆盛を極めた。
 高水寺斯波氏は奥州斯波氏の中でも斯波家長の系統に属し、
 足利家一門である上に、斯波氏発祥の地を治めたことから名族
 とされた。天皇家・将軍足利家や足利一族にしか許されてなかった
 「斯波御所」「奥の斯波殿」の尊称が許された。
 また、室町幕府では重職であった関東管領と同格の奥州探題職を
 歴任していた斯波一族の大崎氏と同格であった。

家臣の彦部氏(機織館)・川村氏(川村城)などの支城に住んで
 いた。外に星山氏・犬吠森氏など100以上の領主を家臣にして
 統治した。
 (冊子:八重嶋勲先生著)

・戦国時代
・天文18年(1549) 甲州武田氏の末裔:三戸南部利直は岩手郡滴石
 (現雫石)に侵攻して勢力下に置いた。全盛期を迎えた。

 斯波氏は三戸南部利直と対立するようになった。

・永禄8年(1565)から三戸南部利直の南進進出が活発化するに従い、
  対立が激化した。
  斯波詮直は劣勢に立たされるようになった。

 斯波詮直は三戸南部利直の傍系家臣である九戸政實の弟:弥五郎
 (康實)を養子を迎えるという降伏に近い和睦した。
 斯波詮直の娘婿は高田吉兵衛を名乗り、「吉兵衛館」に住んだ。
 事実上の三戸南部利直への従属を余儀なくされた。

・天正元年(1573)織田信長によって足利幕府が崩壊した。
 斯波一族で奥州探題の地位にあった大崎氏も奥州の一大名と
 なっていた。
 斯波詮直は斯波郡六十六郷の統治が困難になっていた。
斯波詮直は高田吉兵衛と不仲になっていった。離縁した。

 斯波詮直(1548〜1597)の斯波家内部の内紛で
 家臣が離反していく者もでた。

・天正16年(1588) 高田吉兵衛は南部利直に加勢する者を集めた。
 斯波氏家臣・岩清水右京・梁田大學等の謀叛が起こった。
 F南部利直は陣ヶ岡に陣を置いた。
  南部利直によって高水寺城は落城し、高水寺斯波詮直は逃亡した
南部利直は盛岡城(不来方城)築城まで十数年、ここにいたという。
  斯波氏の滅亡した。
  彦部氏はにげたものと思われる。
  
・天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原侵攻
  奥州の仕置き
  南部信直が兵1000を引き連れ、小田原城攻めと奥州仕置に
 従軍していた。

6月、九戸政実の乱
  九戸政実は三戸南部側である花巻城:南盛義を攻撃した。
  南盛義は討ち死にし、南部家中は緊張状態が続いた。
奥州仕置軍は平泉周辺まで進撃し、大崎氏、葛西氏、黒川氏ら
   小田原に参陣しなかった在地領主の諸城を制圧して検地など
   を行った。
   浅野長政らが郡代、代官を配置して奥州仕置軍勢を引き揚げた。

 10月 陸奥国各地で、奥州仕置に対する不満から葛西大崎一揆、
  仙北一揆など大規模な一揆が勃発した。
   南部信直は和賀・稗貫一揆に兵を出した。
  南部信直は稗貫氏の鳥谷ヶ崎城で一揆勢に包囲されていた浅野長政
  を、救出するのが精一杯であった。

・天正19年(1561)  
  南部信直は高水寺城を「郡山城」と改めた。
  高田吉兵衛は中野修理康実と名乗り、城代として在籍した。
  後、南部康実を名乗って、家老職になった。

 南部氏一族の九戸政実が南部家当主の南部信直および
 奥州仕置を行う豊臣政権に対して反乱を起こした

 6月20日 豊臣秀吉は奥州再仕置軍を編成した。

   白河口には豊臣秀次を総大将に率いられた3万の兵に
   徳川家康が加わった。
   仙北口には上杉景勝、大谷吉継
   津軽方面には前田利家、前田利長が
   相馬口には石田三成、佐竹義重、宇都宮国綱が

   伊達政宗、最上義光、小野寺義道、戸沢光盛、秋田実季、
   津軽為信らには諸将の指揮下に入るよう指示した。
   奥州再仕置軍は一揆を平定しながら北進した。
   蒲生氏郷や浅野長政と合流した。
蒲生氏郷は陣ヶ岡に陣を置いた。

  8月下旬 浅野長政・蒲生氏郷は南部領近くまで進撃した。

  9月1日 九戸勢の前線基地である姉帯、根反城が落ちた。
       九戸政実は九戸城に籠城した。

  9月2日 総勢6万の兵が九戸城を包囲した。
  @城の正面にあたる南側には蒲生氏郷と堀尾吉晴が布陣した。
  A猫淵川を挟んだ東側には浅野長政と箕輪城主:井伊直政が
   布陣した。
  B白鳥川を挟んだ北側には南部信直と松前慶広が布陣した
  C馬淵川を挟んだ西側には津軽為信、秋田実季、小野寺義道、
  由利十二頭らが布陣した。     
  攻防を繰り返した。5000の籠城組は人数が減っていった。
  九戸政実は白装束で降服した。・・処刑された。
蒲生氏郷が九戸城と城下町を改修し、南部信直に引き渡した。
  南部信直は南部家の本城として三戸城から居を移し、九戸を
  福岡と改めた。
  豊臣秀吉の天下統一が完成した。


・慶長2年(1597) 紫波詮直は旧臣にかくまわれていたが、
  病没したと言われる。
  子孫は三戸南部氏に仕えたとも、二条家に仕えたともされている。
南部氏も紫波町中心部である日詰を重要視して

・寛文7年(1667) 郡山城が廃城となった。
  明治初めまで南部氏が支配した。

・明暦元年(1655 ) 南部盛岡藩3代藩主・南部重直が嗣子を定めずに
  病没したため、幕府の命により遺領10万石を、重直の2人の弟、
  七戸重信の本藩8万石と、中里数馬の八戸藩2万石に分割された。
  八戸藩が分立して志和地区は八戸領となった。
 紫波町は代官所や藩の御蔵が置かれ奥州街道の宿場町や北上川の舟運
  の川港として商業が中心の町として発展した。

・延宝6年(1678) 近江商人の村井権兵衛が志和で酒造りを始めた。
  「池田流」の杜氏を大阪から招き、南部杜氏の源流となる志和近江屋
  を発足させた。
  「南部杜氏」集団の誕生につながった。

・明治時代
・明治12年(1879 ) 紫波郡役所が設けられ、紫波町地域は16 の戸長役場
  区域に分割となった。
・明治22年(1889) 町村制施行とともに、日詰町、古館、水分、志和、
赤石、彦部、佐比内、赤沢、長岡村の1 町8 カ村となった。

・昭和30年(1955) 1 町8 カ村が合併し、現在の紫波町が誕生した。

「討伐・征伐」という言葉は一般化されつつあり、公的機関や素人
ブログでも「討伐」「征伐」の言葉を平気で使っている。歴史用語
としては正当な国家権力(朝廷や幕府)が反逆した罪人を攻め討つ
という意味で使われる。辞書にも「軍隊を送り、抵抗する者を討ち
滅ぼすこと」とある。上位にある者が下位にある者を正当性を主張
するための根拠」を大義名文としているケースも多く見られる。戦
国時代が同レベルの者が相手を攻める場合も必要となる。私は「小
田原征伐」・「朝鮮征伐」なんて言葉は特になじめない。また、明治
以降の公然と天皇制・薩長史観ベースの「勝てば官軍」のような歴
史観になじめない。従って、私は「侵攻。侵略」という言葉を使う。
日本って、歴史教育は「国=国家権力により基準が示される。」が、
北朝鮮の思想統制とあまり変わらない気がしてならない。東北地方は
古代〜中世において、あまりのある差別を受けたと言っても過言で
はない歴史観を国によって植え付けられたと思いませんか?




★彦部家家伝の「高階朝臣家譜」によると、天武天皇の第一子:高
市親王となっている。天智天皇の大化の改新から始まる。彦部家
は奈良→京都→勿来(福島)→紫波(岩手)→鎌倉→京都→桐生
と動いた。南北朝時代、足利尊氏に従って新田義貞と戦って、重
臣になった。室町時代は足利義満から金閣寺造営の作事奉行を命
じられた。戦国時代は11代彦部晴直(1507〜65)は、足利家
第10代義稙・第11代義澄・第12代義晴・第13代義輝の4代の
将軍に仕えた。彦部晴直の母は近衛関白政家の娘で、近衛政家の
室は足利家第8代義政の娘であった。彦部晴直は近衛前久(前嗣
→龍山)とともに、武田信虎などの武将の謁見に一役かった。
永禄2年(1559)長尾景虎(上杉謙信)上洛の時の将軍や天皇との
謁見の取次も行った。永禄3年(1560)近衛前嗣親子・彦部信勝が
長尾景虎を追って越後から関東下向し、厩橋で長尾景虎に会った
後、桐生城入りした。永禄4年(1561) 近衛前嗣は彦部信勝は、
長尾景虎は関東管領になり、上杉政虎を名乗るのを見届けた。
彦部信勝は近衛親子の帰京後も桐生の広沢に留まった。


★明日は「彦部氏館・彦部家の墓」かな?

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
箕輪初心:生方▲岩手A「紫波」の『野村胡堂あらえびす記念館』 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる