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zoom RSS 箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政105直政略史と井伊家の墓

<<   作成日時 : 2017/10/23 15:10   >>

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【0】井伊家出自
・鎌倉時代 
  井伊氏を惣領家として多くの庶子家を分出している。
 5代井伊盛直から井伊谷井伊氏(現浜松市井伊谷)・赤左井伊氏
 (浜松市北区)・貫名井伊氏(袋井市)の3家に分かれた。

@井伊谷7代(長野主膳作成系図では8代)井伊弥直の子からは
  田中氏・伊平氏・ 谷津氏・石岡氏に分流した。
  さらに田中氏からは田沢氏・松田氏らが分出した。
 
A赤佐井伊氏からは井伊宗家を凌ぐ勢いを見せた奥山氏が分かれた。
 
B貫名井伊氏からは日蓮宗の宗祖:日蓮が出ている。
 結果・・・宗家・分家の名字を地図と重ね会わせると、浜名湖の北部〜
 東部一帯・・・と言っても、袋井市までが井伊氏の勢力範囲であった
 ことが分かる。横地(菊川市)・勝間田(榛原郡)まで入れると遠江
 全体に近い。
画像


【1】井伊家宗家・・・井伊直虎・虎松
◆井伊虎松:井伊家24代跡継ぎ
@井伊直虎:井伊家宗主・虎松の後見人
A井伊直虎の母:新野親矩(今川重臣)の妹
B井伊虎松の母:奥山朝利(井伊家庶子家・奥山朝利の娘)


【2】井伊谷七人衆
1)筆頭家老:小野家・・・小野但馬守政直(道高)・TV鶴丸:
 政次(道好)
篁(たかむら)屋敷跡:遠江国赤狭郷小野村(現浜松市浜北区
   尾野小野海道)である。
→25小野兵庫助重正→26小野和泉守政直→27小野但馬守
『小野氏系図』
○26代目:小野和泉守政直
・天文13年(1544)
12月14日 連歌師:宗牧が井伊谷の小野和泉守政直宅に
 訪れた。井伊次郎宅ではない。
 「姪直盛いまだに年若しと雖、末々子なきにをいては、直満
 が男直親を嗣とせむことを契約せしところ、直盛が家臣小野
 和泉某もとより直満と不和なりしかば、これをきらひて今川
 義元に讒し、直満・直義兄弟逆意ありと訴ふ。義元これを信じ
 天文十三年十二月、兄弟を駿府にめして、糾問す。直満申解
 と雖も、和泉様々に讒言をかまへ、二十三日つゐに殺害せらる。」
(★『東国日記』連歌師:宗牧著)
(★『井伊直虎』小和田哲夫著P85~86)
12月23日
「天文十三年十二月二十三日 (井伊直宗の子)井伊彦二郎直満・
 同平次郎直義が小野和泉守の讒言により、今川義元のため生害
 (自害)された。」
 (★『井伊家伝記』)
理由は 1)「養子之儀二付遺恨」
   2)「両人私之軍謀相企」
@井伊家・・・武田信玄の家臣によって井伊領が横領されるのを
  防ぐため。『井伊家伝記』には無理があるかもしれません。
説@通説・・・小野家は形式上では井伊家筆頭家老であった。
  小和田説では、小野和泉守政直は仕切っていて、ほかの家老
  親戚衆・引き付け衆を仕切っていた説であるが、・・・
 井伊家乗っ取りを企んだ。
 (TVも2回目でそうに解説している。)
新野左馬助の目付と別に、今川からの第2の目付的な要素があった。
説A・・・井伊氏が鈴木重時と結ぼうとしていた説
説B・・・北条氏綱が奥平貞昌に井伊を取ったら500貫あげるね説。
裏で井伊直満が動いていた。
説C・・・井伊直満が井伊直盛にかわって井伊家の主導権を握ろう
  とした説である。北条ろ小野和泉守は井伊直満の謀反を防ぐために
  今川家に訴えたとことになる。
  TVでも、「井伊直盛がそれらしいことを言って、井伊直平の小野の
   手打ちを止めさせている。・・何の証拠もありません。
★何れにしても
「井伊直満を死に追いやったと思われているにも関わらず井伊家が
 処分しないのはおかしいが、今川からの回し者要素があるので、
 今川を無視して勝手に井伊家が家老の小野和泉守を裁くことが
 できなかったのあろう。」

○27代目:小野但馬守政次(道好)
・永禄3年(1560) ▲桶狭間の戦い
  井伊直盛が討ち死に。そして小野正次(道好)弟:小野玄蕃朝直
  玄蕃の弟:小野源吾も討ち死にした。
★小野玄蕃の妻は奥山朝利の娘。つまり、井伊直親の妻の妹であった。
  妻同士が姉妹だったのである。
★小野の子孫は浜松市尾野に残った。

  筆頭家老の兄:小野政次は井伊谷に残っていて無事であった。
・永禄11年(1568) 甲斐の武田信玄が今川氏真の駿河に侵攻した。
  今川氏真が小野正次(道好)は井伊虎松を殺害して井伊谷を掌
  握し、軍勢を率いて加勢するように命じられた。
・永禄11年(1568)11月9日 井伊直虎は関口氏経と連署で徳政令を出した。
 ★今川氏真の介入
 今川氏真は小野正次を使って井伊直虎を地頭職から解任させた。
 小野正次(道好)は井伊谷を井伊氏より横領した。
 井伊虎松や次郎法師、祐椿尼は井伊氏菩提寺の龍潭寺に避難した。
 12月 徳川家康は井伊谷に侵攻した。
  小野正次(道好)の横領に対し、近藤康用・鈴木重時・菅沼忠久の
  井伊谷三人衆を派遣し、井伊谷を奪還させた。
  小野正次(道好)は敗北して井伊谷から「龍ヶ淵」逃亡したが
   近藤康用に捕えられた。
・永禄12年(1569) 堀川城の攻撃
4月7日 小野正次(道好)は仕置きで、井伊谷「蟹淵」で
      処刑された。
5月7日 小野正次(道好)の2人の男子も斬罪となった。
  小野正次(道好)の弟:小野玄蕃の子:朝之が家督を継いだ。
  

●永禄12年(1568)龍潭寺に匿われた井伊直政
 の生母=実母:奥山朝利の妹?娘?は今川家臣:松下源太郎清景
 (浜松頭陀寺城)と再婚した。
★@松下清景の姉は松平元康(徳川家康)家老:松下之綱であった。
  井伊家が今川氏から独立した松平元康との関係を模索した。
と考えられる。松下清景の弟:松下常慶のコネもあった。
 NHK大河では、松下常慶(寛政譜では安綱・常慶入道)
★A松下清景は虎松(井伊直政)井伊直政の養父となった。

●松下虎松の住んだ場所諸説
@松下虎松(井伊直政)は、実母:奥山朝利の娘・養父:松下清景と
共に頭陀寺の松下屋敷に住んでいたという説がある。
A松下虎松(井伊直政)は手習いを浄土寺で行っているので、浄土寺
 のある浜松城下の松下清景宅に住んでいた
 説もある。
★松下之綱の屋敷(引馬城の大手口隣)に近かったかもしれない。
松下清景は、徳川家康に仕えていたので、浜松城の近くであること
は確かであるが、住んだ場所は分かっていない。

・天正2年(1574) 第一次 高天神城の戦い
 武田信玄 VS 徳川家康
 ※松下一族は 高天神城籠城した。後に降伏した。
織田氏家臣で長浜城主になっていた豊臣秀吉は松下之綱は家臣と
 して召し出された可能性がある。
(★『松下加兵衛と豊臣秀吉―戦国・松下氏の系譜』冨永公文著)
(★通説天正11年(1583)10月6日*出典『松下文書』)

・天正2年12月、松下清景は松下虎松(井伊直政)を養子に迎えた。
★一連の徳川の家臣にさせる作戦の一つであろう。

・天正3年(1575) 2月15日 井伊直虎に付き添われて松下虎松
 (井伊直政15歳)は浜松の徳川家康に小姓として出仕した。
★実際は井伊直政の実母→養父:松下清景→従兄弟で義兄:松下之綱
 (清景の姉の夫)→松平元康(徳川家康)のラインであったであろう。
松下虎松(井伊直政)と 小野玄蕃の息子:亥之助(小野朝之)が
 徳川家康に会った。
徳川家康から
 @松下虎松は復姓を許されて「井伊万千代」の名前を貰った。
 A小野朝之は「万福」の名前を貰った。
井伊直政と小野朝之は従兄弟であった。
 2人の母は奥山朝利の娘で、姉妹であった。

●松下清景は井伊家筆頭家老となった。
 松下清景は養子:松下虎松が井伊万千代(→井伊直政)と名乗って
 井伊家当主となったので、松下清景家に子がいなくなった。
 中野直之の次男:中野一定を養子に迎え、松下一定を名乗らせた。
 
●井伊直政と小野朝之・松下一定はともに数々の戦に出た。

・天正3年(1575) 長篠の戦い
 松下加兵衛は豊臣秀吉の前備として兵100を預けられた。
 (★山内一豊公紀:冨永公文氏の天正2年松下之綱の秀吉臣従説が
   有力視されたことになる。)

・天正8年(1580) 奥山朝忠(奥山朝利の孫)は井伊直政に
  出仕した。中野直之も出仕した。

・天正10年(1582)
 3月11日 武田氏滅亡。
 6月12日 本能寺の変  織田信長・織田信忠が死亡。

※天正10年(1582) 8月26日(9月12日)養母:井伊直虎が死んだ。
(★『遠江井伊氏物語』:龍潭寺前住職:武藤全裕著)
墓は井伊谷龍潭寺である。
※天正壬午の変
若神子城:北条氏直
 VS
新府城:徳川家康
 ★甲州:若神子城・獅子吼城の戦い・谷戸城の戦い
   獅子吠城では北条氏の大導寺政繁と戦う。
   谷戸城では武田家臣を使って戦った。 

●井伊直政は北条氏との交渉で徳川方の使者として政治的手腕を
   発揮。
 →井伊直政が正使・木俣守勝がの副使になった。
  木俣守勝は井伊直政をよく補佐し、北条家との交渉をうまく
  進めた。
10月27日、和睦。
 徳川川家康の次女:督姫(19歳)が、北条氏直(22歳)の正室として
 嫁ぐことになった。(翌年8月15日、督姫は小田原城へ入った。)

 この後、井伊直政付きになり、筆頭家老となった。

 徳川家康が武田氏の旧領:信濃国・甲斐国を支配。
    →武田家の旧臣達を多数与力に抜擢。            
 
 ●井伊直政は武田氏の旧臣達約120人と
  家康の旗本の一部が配属された。
  新編高崎市史では山県昌景の家臣75名が家臣になった。
 (★寛政譜)
     
 兜や鎧など使用する全ての装備品を赤色で統一。
  →「井伊の赤備え」と呼ばれる部隊の大将となった。
     理由・・・山県昌景の意志を尊重し、朱色の軍装を復活
   赤は目立ちやすく、自分の部下達がどこにいるか分かる。 

   甲州平定において、北条との交渉
   →井伊直政が正使・木俣守勝がの副使になった。
  木俣守勝は井伊直政を補佐し、北条家との交渉を
   うまく進めた。
  この後、井伊直政付きになり、筆頭家老となった。
   万千代元服。井伊兵部少輔直政を名乗る。


・天正11年(1583)徳川家康の養女で駿河沼津三枚橋城主
    :松平康親の娘である花後の唐梅院)と結婚。
 ●旗本先手役に任ぜられて、本多忠勝や榊原康政の
    同僚となる。→徳川四天王

・天正12年(1584) 小牧・長久手の合戦
  豊臣秀吉軍・・・犬山城から南下する
  織田信雄・徳川家康連合軍・・・小牧山城跡を
    改修し陣城を築く。
  江崎氏は長久手への道案内で徳川家康から褒美の
  軍扇を下賜される。
  →和解が成立し、小牧山城は再び廃城となった。

・天正13年(1587) 8月 第1次上田合戦 真田 VS 徳川
 井伊直政は小諸城で待機した。
 石川数正の豊臣秀吉の寝返りで攻撃が中止となった。
  徳川家康は武田軍法をまとめさせた。
  井伊直政家臣:山県昌景の旧家臣→三科・広瀬などが中心で
  あった。

・天正14年(1586)
5月 豊臣秀吉は妹:朝日姫を徳川家康の正室として嫁がせた。

9月、母:大政所を人質として徳川家康のもとに送り、配下としての
上洛を家康に促した。井伊直政は2人に親切にした。豊臣秀吉は、無
事に送り届けてくれたことに感謝し、腰に差していた名刀を与えた上、
大坂城で歓迎会を開いた。
井伊直政を朝廷に奏請して、従5位に任じた。
豊臣秀吉から井伊直政に家臣の誘いもあった。
 (★『井伊直虎』小和田哲男著)

・天正16年(1588) 徳川家康を裏切って小笠原貞慶について松岡貞利は
改易となった。
(★『座光寺文書』)
しかし、井伊直政は松岡貞利の磔をするのを止めた。

・天正15年(1587) 3月 豊臣秀吉の九州遠征
  松下之綱は前備の直属部隊として兵150を率いて従軍した。
  (『久野保心氏所蔵文書』名古屋市立鶴舞中央図書館蔵)
  4月9日付け豊臣秀吉の前備17名に宛てた朱印状
  「松下加兵衛の事、先年(秀吉が)御牢人の時、御忠節の仁(人)
  に候」
  松下加兵衛長則か之綱との旧縁を書いている。
  (★『松下文書』)
松下之綱(妻が松下清景の姉)は従五位下・石見守に叙位・任官
  され、丹波3,000石を加増され6,000石となった。

(★『松下加兵衛と豊臣秀吉―戦国・松下氏の系譜』冨永公文著)
 
  松下之綱の娘:おりんは石田三成の紹介で、島左近のところで
  行儀見習いをしていた。柳生宗矩が訪ねてきて、結婚することに
  なった。

・天正18年(1590)
・3月17日 山中城攻めでは、徳川勢は西の丸から2の丸・本丸
       攻めになった。
・3月18日 井伊直政は単独で足柄山城を攻略した。
・6月22日 井伊直政と松平康親の部隊は小田原城の笹曲輪へ
        攻め入った。
  井伊直政は笹郭攻めでの功績を評価された。
  小田原城落城のきっかけを作った。
(★上杉謙信・武田信玄が入れなかった小田原城内に初めて攻め込んだ。)
・7月5日 小田原城開城
・7月11日 北条氏直は父:氏政・叔父:氏照を介錯した。
・7月13日 篠(笹)郭を攻略した立役者は、井伊直政の家臣:長
   野業実(なりざね)であった。
  長野業実は@井伊直政から、名刀「備前三郎国光」、
       A豊臣秀吉から最上栗毛馬「木下半助」
  を頂戴した。
    (★出典不明・真偽不明)
  長野業輝=長野伝蔵→長野業実。
  天正十八年属井伊直政、在小田原(★「系図纂要」)
 豊臣秀吉から井伊直政は箕輪城支配を任された。
   (★箕輪城シンポジウム:中井均先生)

※徳川家康が関東に入封。

・天正18年(1590)旧暦の8月3日〜7日の間に箕輪城に入封した。
   (★『井伊軍志』:井伊達夫著)

・8月7日付 豊臣秀吉朱印状 (★『彦根市史近世1−6』)
「今日七日於奥州長沼到来、可被見候、箕輪罷移之由尤候、
 知行方相改、普請等可申付  候、此方へ可見廻之由無用候
 ・・・(後略)」
 井伊直政が豊臣秀吉の命令で箕輪城主になった。
  (★『齋藤慎一先生講演会2006』)

・9月 井伊直政次男:井伊直孝が駿河中里で生まれた。

・天正18年(1590)8月 井伊直政が箕輪城主となった。
 松下清景も箕輪城(群馬)に入った。
慶長2年(1597) 箕輪で亡くなった。松下一定が跡を継いだ。
松下清景の子孫は箕輪城→高崎城(群馬)→佐和山城(滋賀)
→彦根城→安中城(群馬)→西尾城(愛知)→掛川城(静岡)
→与板陣屋(新潟)と移り住むことになる。


・酒井忠次・下総国臼井城3万7000石。家次が入城。
   ※酒井家次は高崎城に井伊直政の後に入り12年間。
   その後、越後高田10万石へ・・
・本多忠勝・・・下総国大多喜城10万石・館山城里見対策。
・榊原康政・・・上野国館林城10万石・・・・
・井伊直政・・・上野国箕輪城12万石・・・上杉・真田対策。
 

※近藤秀用は箕輪城の南300mの富岡(車郷小学校南)に居を
  構えた。
2年後、井伊直政を離れ、井伊谷金指で1000石を賜った。
 ★井伊谷のボランティアガイドの子孫の方だいる。
※木俣守勝は、箕輪城内の「木俣」に居住した。

★箕輪初心私見「箕輪城の改修工事や城下町の建築。
 連雀町・本町・紺屋町・田町・四ッ谷などは町作りの
名残である。」
※松下源太郎(井伊直政養父)は松下=稲荷曲輪に居住。
 →墓は鬼門「龍門寺」にある。
※龍門寺を建立・・・白庵和尚 
井伊直政の開基の寺は「龍」がつく。
浜松龍たん寺→箕輪龍門寺→高崎龍広寺→彦根龍譚寺→安中
龍たん寺


井伊直政の「新旧附属与力衆の階級的安定と親和」 
@親戚衆と井伊谷の家臣(奥山・中野・今村)
 A徳川家康からの付家老(木俣・西郷・井伊谷3人衆・椋原)
B旧武田家臣山県昌景家臣衆と土屋昌恒家臣衆の家老
  川出良則(妻は井伊直政の姉:高瀬姫)・三科・広瀬・早川
 C今川家→武田家家臣
   庵原・孕石・横地など
 D旧武田家臣→旧北条氏家老
   石原主膳(叔父は三枝守友か?)・宇津木泰繁・岡本半助宣就  
 E新規召し抱え上州の家老衆
   長野業実・和田知矩など

  松下清景(妻は井伊直政の実母)が筆頭家老であったが、
 実質bR位であった。
  内政面・外交面から、
  木俣守勝(妻は新野矩親の娘)・川出良則(妻が直政の姉)
  西郷重員(西郷の局の一族)・鈴木重好(母は奥山朝
  利の娘)なとが発言権が強かった。

★徳川家康に随行して、井伊直政・木俣守勝が大坂、伏見に
 滞在している間は、木俣守勝のライバル:井伊直政の姉の夫
 :川出良則が内政面と箕輪城・城下町の整備を取り仕切った。

6)箕輪城の修築工事&城下町の整備
@箕輪城の曲輪に有力家臣を配置した。
  付家老:木俣守勝は、箕輪城内の「木俣」に居住。  
  井伊直政養父:松下源太郎は松下=稲荷曲輪に居住。
  (→墓は井伊家鬼門「龍門寺」)
 川出良則(武田家臣山県隊→井伊直政の姉:高瀬(春光院)が妻
     高瀬の墓は彦根長純寺にある。)
 ・奥山朝忠(井伊直政従兄弟) 
 ・中野三孝(井伊親族)
 ・井伊谷3人衆:康用の子:近藤秀用・菅沼忠久・鈴木重時
  の子:重好など
A内宿を武家屋敷
B城の整備★「特に真田・上杉対策?」 
「井伊氏の時代に城の拡張工事
 (堀の深さ10m・3の丸と本丸への橋・二の丸と大堀切
 ・郭馬出西門整備・木俣・水の手曲輪・法峰口・新曲輪・水堀など・・・
・東側を空堀→水堀。
 新曲輪
・大手門の丸戸張に鉄砲狭間付きの塀と構築した
・大手道・大手門(後高崎城槻木門)設置。『上州高崎城大意』
・大手ことう門・三の丸


C城下町の建築。 ・南南・・・4つ通に商人・工人の民家
 ・白銀町・紺屋町・本町・鍛冶町・連雀町・田宿・四ッ谷
 ・寺の分散配置・・・戦略上の城の出丸である。
※龍門寺を建立・・・白庵和尚(下野の大中寺和尚)
  井伊直政の開基の寺は「龍」がつく。
   浜松龍譚寺→箕輪龍門寺
  (→竜門寺末寺高崎龍広寺→彦根龍譚寺・清涼寺)
※日向峯恵徳院(井伊直政の叔母の寺)の建立。
  日向峯は箕輪松之沢
  →萬松寺:滝沢寺4世が再建。元北条氏邦の鬼門の寺か?)
※滝沢寺…中野越後が中興開基→酒井家次の家紋が屋根にある。

 ※徳川家康は極楽院を2回保護した。
 ★井伊直政は長野本流は長野鎮良家と考えている。

・天正19年(1591) 井伊直政が九戸一揆の蒲生氏郷と鎮圧に向かった。
  南部信直は一族の九戸を攻めた。井伊直政らが2万で囲んだ。
   九戸政実が降服した。   

▲慶長2年(1597)松下清景が箕輪城で亡くなった。
墓は井伊家菩提寺:箕輪の竜門寺。

中野家からの養子:松下一定が跡を継いだ。
★子孫が箕輪に残っている。家紋も同じである。

・慶長3年(1598) 高崎城を築城した。
川出良則(妻は井伊直政の異母姉:高瀬姫→春光院)が仕切った。
★井伊直政は木俣守勝らと伏見などにいたため、2年6ヶ月
中、実質1年弱しか高崎城にいなかった。

・慶長5年(1600)関ヶ原の戦い
 徳川秀忠20000が烏川の増水で、3日間高崎城・城下町に
 逗留した。長野堰からの新井堰の開削で水があった。
 高崎城に徳川秀忠が入った。
 寺などに家臣が泊まった。

・慶長5年(1600) 佐和山城に移封となった。

▲慶長7年(1602) 2月1日 井伊直政は関ヶ原の傷が原因で死去。
  享年42。墓は清涼寺。法名「祥寿院殿清涼泰安居士」。

・慶長10年(1605) 徳川家康からの付家老:椋原正直・西郷重員
 を中心とした家臣団が鈴木重好・重辰父子の不正を徳川家康に
 直接告発した。
 鈴木重好が追放され、水戸藩の家老になった。
 子:鈴木重辰は椋原・西郷ら和解した。

・慶長11年(1606) 井伊直勝は彦根城が完成すると佐和山城から
  彦根城へ居城を移した。
 木俣守勝は土佐曲輪→表門右奥(開国記念館隣)となった。

・慶長15年(1610) 木俣守勝がなくなった。
  井伊直継は徳川家康の承認を得て鈴木重辰と椋原正直を家老に
  任じた。
  木俣守勝の養子・守安(父:狩野一庵、母:新野親矩娘)を
  第1家老としなかった。徳川家康は
  @井伊谷以来の家臣:松下・小野などは直継に配属した。
  A武田氏の遺臣:広瀬・三科・孕石などは異母弟・直孝に配属した。

・元和元年(1615) 井伊直勝(直継)が安中藩を嗣いだ。
第1家老は中野直之の次男:松下一定(中野三孝の弟)であった。
第2家老は小野政次の甥:小野朝之であった。
第3家老は、安中出身の萩原図書であった。 

元和年間後、
@中野越後守直由の妻は安中藩菩提寺として
 井徳山龍潭寺の建立を直系の孫:松下一定に願い出た(伝)。
・寛永8年( 1632)、松下一定が安中の龍潭寺に鐘楼を寄進した。
(★安中市城下の信号:多胡電機南東50m〜)現存しない。

A井伊直勝(→直継)は大泉寺を建立した。
  井伊直継の母親の墓碑と井伊直継の妻の墓碑
   ※唐梅院大泉寺・・・昭和46年(1971)安中市指定史跡に指定。
・実母:松平康親の「娘」→徳川家康養女→井伊直政の正妻:お花の
 方→唐梅院の五輪塔
戒名:唐梅院殿台誉崇玉大姉
・井伊直継の側室:中島新左衛門娘お岩の方の五輪塔
   戒名:隆崇院殿念誉寿専大姉 

B井伊直勝書状
  竜門寺に広馬場(榛東村)に50石を寄進した。
(★竜門寺文書)

▲寛永17年(1641)4月7日松下高冬が没した。

▲寛永18年(1642) 6月23日松下一定が没した。享年68。
 法名「正覚院傑堂天英居士」。墓は竜門寺
 

●寛永19年(1642)9月24日 徳川家光朱印状  (大猷院)
「当寺領上野国群馬郡
 広馬場村五十石を・・・(後略)
 よってくだんのごとし」
 幕府の朱印地として認められた。
 (★竜門寺蔵・群馬県立文書館写しあり:許可が必要)

●正保2年(1646) 6月23日、上野安中藩から井伊直継の子:井伊
  直好が3万5000石で入封した。
  井伊直好は西尾城の改築を完成させた。

●万治2年(1659) 1月28日 井伊直好は遠江掛川藩に移封された。

・寛文2年(1662)7月11日、井伊直継は掛川城で病死した。

●宝永2年(1705) 井伊直矩が与板藩主になった。

●寛延3年(1750) 井伊直政の150回忌
 「祥寿院殿清涼泰安大居士」
 箕輪の竜門寺に井伊両家から井伊直政の肖像画と
 井伊直政の木像が送られた。
※井伊直政の肖像画…平成29年群馬県立博物館展示中)
※井伊直政の木像(非公開・昭和2年群馬県史・昭和8年高崎
         市史の白黒写真がある。)

*******************************
◆◆ 井伊直政&井伊家の墓 ◆◆
・慶長5年(1600)関ヶ原の戦い
井伊直政は徳川家康の4男:娘婿の松平忠吉(忍城)とともに出陣
 した。福島正則を謀って先陣をきった。関ヶ原の戦いの後半、西軍:
 島津義弘の徳川軍の中央突破の退却時に殿(しんがり)を務めた島津豊
 久を討ち取った。しかし、井伊直政は鉄砲で撃たれ負傷した。
 徳川家康が自ら薬を与えた。戦功により、石田三成のいた佐和山(滋賀)
 を与えられ、18万石を領した。
 井伊直政は佐和山城の南「愛宕」に住んだ。
 (★石垣が残存する、)
・慶長7年(1602) 2月1日 井伊直政は関ヶ原の傷が原因で死去。
  享年42。法名「祥寿院殿清涼泰安居士」。
  墓は彦根清涼寺にある。(非公開)

1)静岡県浜松市北区引佐町井伊谷の龍潭寺
@元祖初代:井伊共保公〜24代 井伊直政公までの墓。
A井伊谷三人衆の墓
  鈴木重時:永禄12年2月5日堀江城合戦で戦死 享年42歳
  菅沼忠久:天正10年没
  近藤康用:天正16年3月2日井伊谷で没 享年73歳 
★3人とも徳川家康の命で井伊直政について、箕輪城に来や付家老
  である。ちなみに近藤康用は箕輪城に来たが、2年で出奔した。
井伊家が彦根に移ると、三人衆のうち近藤家が幕末まで井伊谷井伊領
 を治めていた。  

2)滋賀県彦根市古沢町の清涼寺(井伊家菩提寺)
@井伊直政の墓
  ※清涼寺は一般公開していない。私は詣でました。
A旧藩主の無縫塔の墓石6基
   井伊家一族の墓石の数は58基。
B井伊直弼腹臣:長野主膳の夫妻の墓
  ★岡本信就の子孫:岡本黄石(宇津木からの養子)が
   長野主膳を処断した。
 ★長野主膳は伊勢の津の長野氏の末裔・・・箕輪城長野氏
   ではない。(★野田浩子先生曰く)
※開山は井伊直政の旧領である上野国の叢林寺(渋川市子持)から
 招かれた愚明正察(ぐみょうしょうさつ)禅師である。
愚明正察は一時、箕輪長純寺にもいた。(長純寺の現和尚曰く)

3)滋賀県彦根市中央町の長松院
彦根藩初代?:井伊直政が戦傷により破傷風にかかり病没した。
  井伊直政の遺意により、芹川の三角州にて荼毘に付された。
  その跡地に長松院が創建された。
@井伊直政の位牌
A井伊直弼の位牌 
B井伊家家老(徳川家康からの付家老):三浦元貞の一族の墓
   井伊直政が亡くなった時に徳川家康に早馬で死を報告した。

4)和歌山県伊都郡高野町高野山の高野山奥の院
@井伊直政の宝篋印塔
A廟・・・開いていない。

5)群馬県高崎市宮元町の高崎山竜広寺
@井伊直政の供養塔
A井伊直弼の娘:ワカの墓&夫:渡辺あきらの墓

6)群馬県高崎市安中の無邊山大泉寺 
@井伊直政正室=初代安中藩藩主:井伊直勝の母:唐梅院の墓
A井伊直勝の側室:2代安中藩主・直好の母の墓


7)東京都世田谷区の豪徳寺
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★井伊直政の墓はない。井伊直孝の代からである。
彦根藩領であった世田谷の豪徳寺には井伊家歴代の藩主&正室・側室、
子息・子女ら井伊家一族の墓は87基ある。


8)栃木県佐野市堀米町の天応寺
 ・寛永10年(1633)2代井伊直孝〜15代まで235年間、彦根藩領
 であった。
 @井伊直孝の墓碑・供養碑
 A井伊直澄の墓碑・供養碑
 B井伊直弼の墓碑・供養碑など
  井伊直弼の墓碑は、笠に唐破風を乗せた小松石でできている。
 いずれも遺髪を納めたと言われている。


*****************************
10)井伊家菩提寺【竜門寺と松下3代の墓】
・天正18年(1590)井伊直政が12万石で箕輪城主に任ぜられ、
 井伊直政が鬼門の寺として箕輪城北東に開基した。
 大中寺8世:白庵開山が開山した。
 関東の曹洞宗3名刹
  ・上総の関宿:総寧寺…北条氏政寄進・徳川家康寄進
  ・武蔵の越生:龍隠寺…太田道灌ゆかりの地
  ・下野の富田(栃木市):大中寺…上杉謙信の叔父:大中寺
    6世住職快叟(かいそう)→8世:白庵
 
1)石柱

2)参道
参道には小さな石仏が並んでいる。参拝者をお出迎えって感じで
 ある。
「おそらく33観音であろう。馬頭観音・千手観音・如意輪観音
  など小品であるが・・・安永・享和・文化の年号がある。
 「東明屋石川文五郎」(★子孫は檀家世話役)「伊香保岸権右衛門」
 (★岸権旅館)などの銘がある。
(『箕郷町誌』:近藤義雄先生等)

3)山門「四本柱建唐破風造り」
・寛政8年(1796)井伊家の命により、柏木沢の青山貞宴が再建した。
高崎市指定重要文化財 指定年月日:昭和49年10月22日
四本柱、唐破風作りの向唐門の山門である。
「榛名山竜門寺」の産額が掲げられている。
屋根には○に橘の家紋の瓦が乗っている。
表の桁に「橘(タチバナ)」が刻まれている。
裏の梁に戦陣の「井桁」の紋が刻まれている。

4)本堂
 屋根に橘瓦・・・
 須弥壇に橘マーク・・・
 布団も茶碗も橘マーク

※松下の家紋は「四つ目結」の家紋である。

4)松下家の墓 本堂裏手
@左から井伊直政の継父・松下源太郎の墓。(井伊直政のbR家老)
A真ん中の一番高い墓は中野直之の次男:松下一定
  (安中藩bP家老)
B右は松下一定の子:松下高冬


@松下清景の墓:法名「大光院心月不染居士」
▲慶長2年(1597)松下清景が箕輪城で亡くなった。

A松下一定の墓:法名「正覚院傑堂天英居士」。
▲寛永18年(1642) 6月23日松下一定が没した。享年68。
 法名「正覚院傑堂天英居士」。墓は竜門寺

B松下高冬の墓:法名「慈通院一燈玄光居士」
▲寛永17年(1641)4月7日松下高冬が没した。

井伊谷龍たん寺の中野氏の墓は、初代:中野直房、2代:中野直村、
3代:中野直由、4代:中野直之と記されている墓がある。

******************************

11)西郷山法華寺(高崎)
  井桁に橘のマークがついている。


12)龍広寺
 井伊直政供養塔…年不詳
 井伊直弼の娘:和田ワカの墓




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