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zoom RSS 箕輪初心:生方▲箕輪城258&井伊直虎104小和田哲男先生『箕輪城と講演会』

<<   作成日時 : 2017/10/22 07:43   >>

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10月8日、「おんな城主直虎第40話」で、直虎ゆかりの地で
松下清景が住んだ【箕輪城の稲荷曲輪(松下)】と井伊家菩提寺
【竜門寺の松下3代の墓】が紹介された。
10月21日、小和田哲男先生が箕輪城を見学された。
メインは、@郭馬出西虎口の復元門、A木俣郭、B稲荷曲輪(松下)
であられた。西原先生の依頼で私と岡田先生も案内させていただいた。
それから、小和田哲男先生が高崎市箕郷町の「箕郷文化会館」で
「直虎から井伊直政の箕輪城入城前」を講演をされた。

掲載許可を得ていなかった。しまった。ご尊顔を掲載できない。
画像




【1】箕輪城
@郭馬出西虎口の復元門
画像


A木俣郭

B稲荷曲輪(松下)


【2】小和田先生の講演会『直虎から井伊直政の箕輪城入城前』
はじめに

@箕輪城の話…西原さんより手紙をいただいて
 中世の城門の復元は数が少ない。
 ★石川県の鳥坂城が復元されている。

A時代考証の難しさ…原作なし。
   脚本家:森下さんから原稿を読んで、史実と台詞を注意する。
 例1「鳩が豆鉄砲を食らったような顔」・「眼鏡にかなった」は
  使えない。
 例2、「小野政次の槍で殺されたシーン」はグレイゾーンであった。

B「黒田官兵衛」…明智光秀が長篠で助言はしていないと訂正した。
 史実は坂本城で島津家久と会っていた。

C「黒田官兵衛」…刀でなく、太刀2尺7寸であった。と指摘された。
  (福岡市立博物館)」

DNHK時代考証は7作目
 「おんな城主直虎」は2万石で下から目線のドラマであるのので、
  隠し田等、百姓との結ぶつきが深かった。


1、直虎までの井伊氏
系図…寛政重修諸家譜
@始祖共保…系図
 系図は「天下4姓」…源氏・平氏・藤原氏・橘氏で作られることが
 多い。
 井伊共保は「捨て子」で井伊家の養子になった。藤原氏を先祖と
 したかった。★井伊谷の井戸
 南北朝時代 南朝側。★宗長親王を助けた。→山に隠れた。
 戦国時代  斯波氏についた。今川に負けた。→山に隠れた。
A直平の時、今川義元に臣従
 直平の娘が人質になった。
 今川義元が見染めて側室にした。関口親広に下げ渡し、拝領妻に
 なった。できた子がテレビでは瀬名(築山殿)である。
 ★天正7年に殺された。
 南渓は坊さんになった。(斎藤道三の日蓮宗京都妙覚寺の書状)
B直親の死で、次郎法師が家督
 ・松岡城・松源寺(高森町)にいた。
 ★奥様「当時の松源寺はもっと山の『寺』という地名の場所に
  いました。」
 ・「おとわ」を創作した。 
★天文23年(1554)井伊家筆頭家老:小野和泉守政直が没した。
   龍泰寺(現龍潭寺)に埋葬した。
 ・井伊直親が戻ってきた。

C次郎法師から直虎へ
・永禄3年(1560)桶狭間の戦い
  ★徳川家康・関口氏経は大高城にいたので、生き残った。
・井伊直盛は今川義元の最前線にいて討ち死にした。

2、虎松(直政)が世に出るまで
@虎松を養育する直虎
★永禄5年(1562)12月14日 井伊直政の父:井伊直親は
 小野の讒言「井伊直親が松平元康(徳川家康)に内通している。」
  の申し開きのため、駿府に向かった。
  井伊直政の父:井伊直親ら19名は今川家臣:朝比奈泰朝に
  懸川(掛川)で殺された。

★永禄8年(1565) 龍潭寺2世:南渓禅師は次郎法師は還俗させ
 て、「女地頭」に立て、虎松の後見人とした。
  (★『遠江井伊氏物語』武藤全裕著)
・『井伊家伝記』…「次郎」
   母は奥山朝利の妹?娘?。テレビでは「しの」
  ★系図では「ひな」
・戦国のおんな城主
  例1、結城家の女城主??
  例2、立花ァ千代(ぎんちよ)
  例3、寿桂尼
  例4、井伊直虎

A三河鳳来寺で成長か?
 ここで、仏教・孫子・剣術・槍などを学んだ。

B母が松下源太郎と再婚
★永禄12年(1568)井伊直政実母は今川家臣:松下源太郎清景
 (浜松頭陀寺城従兄弟で義兄:松下之綱の松下一族)と再婚した。
・松下虎松になった。
・天正2年12月、松下清景は松下虎松(井伊直政)を養子に迎えた。

・天正3年(1575) 2月15日 井伊直虎に付き添われて松下虎松
 (井伊直政15歳)は浜松の徳川家康に小姓として出仕した。
2説
 1、徳川家史料…偶然
 2、井伊家史料…正装して、鷹狩りを待っていた
松下清家の弟:常慶が情報を流した。
    松下常慶は情報集め活動をしていた。
    徳川家康は後ろめたかった。


3、万千代時代の直政
実際は井伊直政の実母→養父:松下清景
 →
徳川家康から
 @松下虎松は復姓を許されて「井伊万千代」の名前を貰った。
 A小野朝之は「万福」の名前を貰った。
井伊直政と小野朝之は従兄弟であった。
 2人の母は奥山朝利の娘で、姉妹であった。

@万千代寵童説
小和田先生は「なかったであろう。」

A高天神城攻めの軍功
★天正8年(1580) 徳川家康は5000人の軍勢を率いて高天神城奪回
を図った。
井伊直政が戦功があった。

B「乾君甲賀・伊賀越え」
★天正10年(1582)本能寺の変
 徳川家康・穴山信君は堺にいた。
 護衛30人程のなかに井伊直政がいた。褒美を貰ったのは
 井伊直政だけであった。

4、直政のもとで高田軍団再構築
@北条氏直との講和交渉
★新府城:徳川家康 VS 若神子城:北条氏直
  獅子吠城の戦い
★天正10年(1582)10月27日、和睦。
井伊直政が正使・木俣守勝がの副使になった。
「木俣守勝は井伊直政を補佐し、北条家との交渉をうまく
  進めた。井伊直政は交渉上手であった。」


A武田遺臣への本領安堵
※丸山半右衛門宛徳川家康朱印状(井伊家文書032534)


・井伊直政と本多正信が交渉に当たった。

B「井伊の赤備え」の誕生
  武田遺臣800人の内、75名が直政へ

C小牧長久手の戦いとその後の直政(★外交官井伊直政)
★天正12年(1584) 小牧・長久手の合戦
 史料1「徳川家康感状写」…疑問?
 史料2「井伊直政副状」…信憑性が高い。


(石川数正の離反…豊臣秀吉のヘッドハンティング)
 武田軍法への遺構

D人質として岡崎に下った大政所:仲の
 ・朝日姫
   ・大政所

5,箕輪城主12万石へ
・天正16年(1588)4月14日 後陽成天皇の行幸
 井伊直政が徳川家臣で1人が随行
 小和田先生「徳川と同じ、国人領主であった。格が上だった。」

・天正18年(1590)井伊直政が箕輪城主になった。
  徳川家康…250万石
  井伊直政……12万石
箕輪城の改修工事
 ※箕輪城絵図(★日本城郭体系:山崎一著)
・木俣
  ・稲荷曲輪(松下)


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