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zoom RSS 箕輪初心:生方▲箕輪城257&井伊直虎102【松下3代の墓のある竜門寺】&創新館

<<   作成日時 : 2017/10/20 09:19   >>

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10月8日、「おんな城主直虎第40話」で、直虎ゆかりの地で
松下清景が住んだ【箕輪城の稲荷曲輪(松下)】と井伊家菩提寺
【竜門寺の松下3代の墓】が紹介された。
10月18日、竜門寺30世:喜美候部住職による供養で檀家
の皆様に西原巌先生が高崎市箕郷町の「龍門寺」で「井伊直政
と龍門寺」について松下家を取り上げながら講演された。
長純寺(私は檀家)の和尚様・善龍寺(叔父が檀家)の和尚様
もいらっしゃった。22日の父に1年忌・19日の叔父の葬儀で
世話になる。その後、私は前橋放送局のYさん・株ヤマトの
Kさんを松下清景の墓に案内した。エスビック創新館見学後、
「板さんち」で食事をした。裄V先生、ご馳走様でした。

10月21日、小和田哲男先生が高崎市箕郷町の「箕郷文化会
館」で「直虎から井伊直政の箕輪城入城前」について講演をさ
れる。
10月28日、箕輪城祭りがある。私は井伊直政バージョンの
おもちゃの甲冑に母の帯で作った陣羽織で出演する。
画像



説@…永禄12年(1568)
 説A…天正2年説

龍潭寺に匿われた井伊直政の生母=実母:奥山朝利の娘は
今川家臣:松下源太郎清景
 (浜松頭陀寺城)と再婚した。


★@松下清景の姉は松平元康(徳川家康)家老:松下之綱であった。
  井伊家が今川氏から独立した松平元康との関係を模索した。
と考えられる。松下清景の弟:松下常慶のコネもあった。
 NHK大河では、松下常慶(寛政譜では安綱・常慶入道)
★A松下清景は虎松(井伊直政)井伊直政の養父となった。

●松下虎松の住んだ場所諸説
@松下虎松(井伊直政)は、実母:奥山朝利の娘・養父:松下清景と
共に頭陀寺の松下屋敷に住んでいたという説がある。
A松下虎松(井伊直政)は手習いを浄土寺で行っているので、浄土寺
 のある浜松城下の松下清景宅に住んでいた説もある。
おそらくは松下之綱の屋敷に近かったであろう。
松下清景は、浜松城の近くに住んだことは確かである。





・天正2年(1574) 第一次 高天神城の戦い
 武田信玄 VS 徳川家康
 ※松下一族は 高天神城籠城した。後に降伏した。
織田氏家臣で長浜城主になっていた豊臣秀吉は松下之綱は家臣と
 して召し出された可能性がある。
(★『松下加兵衛と豊臣秀吉―戦国・松下氏の系譜』冨永公文著)
 ★冨永先生のサイン付を所有
(★通説天正11年(1583)10月6日*出典『松下文書』)

・天正2年12月、松下清景は松下虎松(井伊直政)を養子に迎えた。
★一連の徳川の家臣にさせる作戦の一つであろう。

・天正3年(1575) 2月15日 井伊直虎に付き添われて松下虎松
 (井伊直政15歳)は浜松の徳川家康に小姓として出仕した。
実際は井伊直政の実母→養父:松下清景→従兄弟で義兄:松下之綱
 (清景の姉の夫)→松平元康(徳川家康)のラインであったであろう。
松下虎松(井伊直政)と 小野玄蕃の息子:亥之助(小野朝之)が
 徳川家康に会った。
徳川家康から
 @松下虎松は復姓を許されて「井伊万千代」の名前を貰った。
 A小野朝之は「万福」の名前を貰った。
井伊直政と小野朝之は従兄弟であった。
 2人の母は奥山朝利の娘で、姉妹であった。

●松下清景は井伊家筆頭家老となった。
 松下清景は養子:松下虎松が井伊万千代(→井伊直政)と名乗って
 井伊家当主となったので、松下清景家に子がいなくなった。
 中野直之の次男:中野一定を養子に迎え、松下一定を名乗らせた。
 
●井伊直政と小野朝之・松下一定はともに数々の戦に出た。

・天正3年(1575) 長篠の戦い
 松下加兵衛は豊臣秀吉の前備として兵100を預けられた。
 (★山内一豊公紀:冨永公文氏の天正2年松下之綱の秀吉臣従説が
   有力視されたことになる。)

・天正8年(1580) 奥山朝忠(奥山朝利の孫)は井伊直政に
  出仕した。中野直之も出仕した。

・天正10年(1582)
 3月11日 武田氏滅亡。
 6月12日 本能寺の変  織田信長・織田信忠が死亡。

天正10年(1582) 8月26日(9月12日)養母:井伊直虎が死んだ。
(★『遠江井伊氏物語』:龍潭寺前住職:武藤全裕著)
墓は井伊谷龍潭寺である。


・天正15年(1587) 3月 豊臣秀吉の九州遠征
  松下之綱は前備の直属部隊として兵150を率いて従軍した。
  (『久野保心氏所蔵文書』名古屋市立鶴舞中央図書館蔵)
  4月9日付け豊臣秀吉の前備17名に宛てた朱印状
  「松下加兵衛の事、先年(秀吉が)御牢人の時、御忠節の仁(人)
  に候」
  松下加兵衛長則か之綱との旧縁を書いている。
  (★『松下文書』)
松下之綱(妻が松下清景の姉)は従五位下・石見守に叙位・任官
  され、丹波3,000石を加増され6,000石となった。

(★『松下加兵衛と豊臣秀吉―戦国・松下氏の系譜』冨永公文著)
 
  松下之綱の娘:おりんは石田三成の紹介で、島左近のところで
  行儀見習いをしていた。柳生宗矩が訪ねてきて、結婚することに
  なった。

・天正18年(1590)
・3月17日 山中城攻めでは、徳川勢は西の丸から2の丸・本丸
       攻めになった。
・3月18日 井伊直政は単独で足柄山城を攻略した。
・6月22日 井伊直政と松平康親の部隊は小田原城の笹曲輪へ
        攻め入った。
  井伊直政は笹郭攻めでの功績を評価された。
  小田原城落城のきっかけを作った。
(★上杉謙信・武田信玄が入れなかった小田原城内に初めて攻め込んだ。)
・7月5日 小田原城開城
・7月11日 北条氏直は父:氏政・叔父:氏照を介錯した。
・7月13日 篠(笹)郭を攻略した立役者は、井伊直政の家臣:長
   野業実(なりざね)であった。
  長野業実は@井伊直政から、名刀「備前三郎国光」、
       A豊臣秀吉から最上栗毛馬「木下半助」
  を頂戴した。
    (★出典不明・真偽不明)
  長野業輝=長野伝蔵→長野業実。
  天正十八年属井伊直政、在小田原(★「系図纂要」)
 豊臣秀吉から井伊直政は箕輪城支配を任された。
   (★箕輪城シンポジウム:中井均先生)

※徳川家康が関東に入封。

・天正18年(1590)旧暦の8月3日〜7日の間に箕輪城に入封した。
   (★『井伊軍志』:井伊達夫著)

・8月7日付 豊臣秀吉朱印状 (★『彦根市史近世1−6』)
「今日七日於奥州長沼到来、可被見候、箕輪罷移之由尤候、
 知行方相改、普請等可申付  候、此方へ可見廻之由無用候
 ・・・(後略)」
 井伊直政が豊臣秀吉の命令で箕輪城主になった。
  (★『齋藤慎一先生講演会2006』)

・9月 井伊直政次男:井伊直孝が駿河中里で生まれた。

・天正18年(1590)8月 井伊直政が箕輪城主となった。



【1】松下清景が住んだ【箕輪城の稲荷曲輪(松下)】
●松下清景 (?〜1597)

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  松下清景が家老として、箕輪城稲荷曲輪に住んだ。
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・????年 箕輪城の改修工事をした。

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【2】井伊家菩提寺【竜門寺と松下3代の墓】
・天正18年(1590)井伊直政が12万石で箕輪城主に任ぜられ、
 井伊直政が鬼門の寺として箕輪城北東に開基した。
 大中寺8世:白庵開山が開山した。
 関東の曹洞宗3名刹
  ・上総の関宿:総寧寺…北条氏政寄進・徳川家康寄進
  ・武蔵の越生:龍隠寺…太田道灌ゆかりの地
  ・下野の富田(栃木市):大中寺…上杉謙信の叔父:大中寺
    6世住職快叟(かいそう)→8世:白庵
 
1)石柱

2)参道
参道には小さな石仏が並んでいる。参拝者をお出迎えって感じで
 ある。
「おそらく33観音であろう。馬頭観音・千手観音・如意輪観音
  など小品であるが・・・安永・享和・文化の年号がある。
 「東明屋石川文五郎」(★子孫は檀家世話役)「伊香保岸権右衛門」
 (★岸権旅館)などの銘がある。
(『箕郷町誌』:近藤義雄先生等)



3)山門「四本柱建唐破風造り」
・寛政8年(1796)井伊家の命により、柏木沢の青山貞宴が再建した。
高崎市指定重要文化財 指定年月日:昭和49年10月22日
四本柱、唐破風作りの向唐門の山門である。
「榛名山竜門寺」の産額が掲げられている。
屋根には○に橘の家紋の瓦が乗っている。
表の桁に「橘(タチバナ)」が刻まれている。
裏の梁に戦陣の「井桁」の紋が刻まれている。

4)本堂
 屋根に橘瓦・・・
 須弥壇に橘マーク・・・

 布団も茶碗も橘マーク

※松下の家紋は「四つ目結」の家紋である。

4)松下家の墓 本堂裏手
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@左から井伊直政の継父・松下源太郎の墓。(井伊直政のbR家老)
A真ん中の一番高い墓は中野直之の次男:松下一定
  (安中藩bP家老)
B右は松下一定の子:松下高冬


合掌


現住職のお母様:千鶴子先生と西原先生と大塚先生が竜門寺位牌の
法名を浜松龍たん寺の武藤全裕和尚様に調べていただいて確認した
のである。照合済みである。

@松下清景の墓:法名「大光院心月不染居士」
▲慶長2年(1597)松下清景が箕輪城で亡くなった。
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A松下一定の墓:法名「正覚院傑堂天英居士」。
▲寛永18年(1642) 6月23日松下一定が没した。享年68。
 法名「正覚院傑堂天英居士」。墓は竜門寺
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B松下高冬の墓:法名「慈通院一燈玄光居士」
▲寛永17年(1641)4月7日松下高冬が没した。
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 (★家紋集より引用)



井伊谷龍たん寺の中野氏の墓は、初代:中野直房、2代:中野直村、
3代:中野直由、4代:中野直之と記されている墓がある。

・天正18年(1590)、松下清景は箕輪城(群馬)に入った。
慶長2年(1597) 箕輪で亡くなった。松下一定が跡を継いだ。
松下清景の子孫は箕輪城→高崎城(群馬)→佐和山城(滋賀)
→彦根城→安中城(群馬)→西尾城(愛知)→掛川城(静岡)
→与板陣屋(新潟)と移り住んだ。


箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政29【頭陀寺城】と松下之綱と
徳川家康と豊臣秀吉
http://53922401.at.webry.info/201702/article_4.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政30【松下清景】前編
http://53922401.at.webry.info/201702/article_5.html

箕輪初心●箕輪城シリーズ61「松下源太郎=稲荷郭&龍門寺」
http://53922401.at.webry.info/201102/article_24.html
★6年前に掲載したブログ

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政29【頭陀寺城】と松下之綱
と徳川家康と豊臣秀吉
http://53922401.at.webry.info/201702/article_4.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政30【松下清景】前編
http://53922401.at.webry.info/201702/article_5.html

箕輪初心:生方▲井伊31『殆どの歴史学者が知らない松下清景の墓
→松下一定の墓』後編
http://53922401.at.webry.info/201702/article_6.html

箕輪初心:生方▲箕輪城258・井伊99松下清景が住んだ【箕輪城】
と松下3代の墓のある【竜門寺】
http://53922401.at.webry.info/201710/article_7.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201710/article_7.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政100『第40話:天下の草履番』
と【箕輪城・竜門寺】
http://53922401.at.webry.info/201710/article_16.html




・酒井忠次・下総国臼井城3万7000石。家次が入城。
   ※酒井家次は高崎城に井伊直政の後に入り12年間。
   その後、越後高田10万石へ・・
・本多忠勝・・・下総国大多喜城10万石・館山城里見対策。
・榊原康政・・・上野国館林城10万石・・・・
・井伊直政・・・上野国箕輪城12万石・・・上杉・真田対策。
 

※近藤秀用は箕輪城の南300mの富岡(車郷小学校南)に居を
  構えた。
2年後、井伊直政を離れ、井伊谷金指で1000石を賜った。
 ※木俣守勝は、箕輪城内の「木俣」に居住した。

★箕輪初心私見「箕輪城の改修工事や城下町の建築。
 連雀町・本町・紺屋町・田町・四ッ谷などは町作りの
名残である。」
松下源太郎(井伊直政養父)は松下=稲荷曲輪に居住。
 →墓は鬼門「龍門寺」にある。
※龍門寺を建立・・・白庵和尚 
井伊直政の開基の寺は「龍」がつく。
浜松龍たん寺→箕輪龍門寺→高崎龍広寺→彦根龍譚寺→安中
龍たん寺


井伊直政の「新旧附属与力衆の階級的安定と親和」 
@親戚衆と井伊谷の家臣(奥山・中野・今村)
 A徳川家康からの付家老(木俣・西郷・井伊谷3人衆・椋原)
B旧武田家臣山県昌景家臣衆と土屋昌恒家臣衆の家老
  川出良則(妻は井伊直政の姉:高瀬姫)・三科・広瀬・早川
 C今川家→武田家家臣
   庵原・孕石・横地など
 D旧武田家臣→旧北条氏家老
   石原主膳(叔父は三枝守友)・宇津木泰繁・岡本半助宣就  
 E新規召し抱え上州の家老衆
   長野業実・和田知矩など

★B・D・Eは武田信玄・武田勝頼・山県昌景・土屋
   昌恒・和田昌明(跡部勝資長男)からみで、みな、
   かつての武田家臣でお仲間であった。

松下清景(妻は井伊直政の実母)が筆頭家老であったが、
  内政面・外交面から、
  木俣守勝(妻は新野矩親の娘)・川出良則(妻が直政の姉)
  西郷重員(西郷の局の一族)・鈴木重好(母は奥山朝
  利の娘)なとが発言権が強かった。
 

徳川家康に随行して、井伊直政・木俣守勝が大坂、伏見に
 滞在している間は、木俣守勝のライバル:井伊直政の姉の夫
 :川出良則が内政面と箕輪城・城下町の整備を取り仕切った。

6)箕輪城の修築工事&城下町の整備
@箕輪城の曲輪に有力家臣を配置した。
  付家老:木俣守勝は、箕輪城内の「木俣」に居住。  
  井伊直政養父:松下源太郎は松下=稲荷曲輪に居住。
  (→墓は井伊家鬼門「龍門寺」)
 川出良則(武田家臣山県隊→井伊直政の姉春光院が妻)
 ・奥山朝忠(井伊直政従兄弟) 
 ・中野三孝(井伊親族)
 ・井伊谷3人衆:近藤秀用の子:康用・菅沼忠久・鈴木重時
  の子:重好など
A内宿を武家屋敷
B城の整備★「特に真田・上杉対策?」 
「井伊氏の時代に城の拡張工事
 (堀の深さ10m・3の丸と本丸への橋・二の丸と大堀切
 ・郭馬出西門整備・木俣・水の手曲輪・法峰口・新曲輪・水堀など・・・
・東側を空堀→水堀。
 新曲輪
・大手門の丸戸張に鉄砲狭間付きの塀と構築した
・大手道・大手門(後高崎城槻木門)設置。『上州高崎城大意』
・大手ことう門・三の丸

●後世の箕輪城の縄張り図
江戸:富原道晴氏所蔵縄張り図 
画像



C城下町の建築。 ・南南・・・4つ通に商人・工人の民家
 ・白銀町・紺屋町・本町・鍛冶町・連雀町・田宿・四ッ谷
 ・寺の分散配置・・・戦略上の城の出丸である。
龍門寺を建立・・・白庵和尚 井伊直政の開基の寺は「龍」がつく。
   浜松龍譚寺→箕輪龍門寺
  (→竜門寺末寺高崎龍広寺→彦根龍譚寺・清涼寺)
※日向峯恵徳院(井伊直政の叔母の寺)の建立。
  (日向峯は箕輪松之沢→北条氏邦の鬼門の寺:松山寺か?)

※徳川家康は極楽院を2回保護した。
 ★井伊直政は長野本流は長野鎮良家と考えている。


・天正19年(1591) 井伊直政が九戸一揆の蒲生氏郷と鎮圧に向かった。
  南部信直は一族の九戸を攻めた。
   九戸政実が降服した。   

慶長2年(1597)松下清景が箕輪城で亡くなった。
墓は井伊家菩提寺:箕輪の竜門寺。

中野家からの養子:松下一定が跡を継いだ。
子孫が箕輪に残っている。家紋も同じである。

・慶長3年(1598) 高崎城を築城した。
川出良則(妻は井伊直政の異母姉:高瀬姫→春光院)が仕切った。
★井伊直政は木俣守勝らと伏見などにいたため、2年6ヶ月
中、実質1年弱しか高崎城にいなかった。

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 (★安藤氏の時代)

・慶長5年(1600)関ヶ原の戦い
 徳川秀忠20000が烏川の増水で、3日間高崎城・城下町に
 逗留した。

・慶長5年(1600) 佐和山城に移封となった。
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慶長7年(1602) 2月1日 井伊直政は関ヶ原の傷が原因で死去。
  享年42。墓は清涼寺。法名「祥寿院殿清涼泰安居士」。

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・慶長10年(1605) 徳川家康からの付家老:椋原正直・西郷重員
 を中心とした家臣団が鈴木重好・重辰父子の不正を徳川家康に
 直接告発した。
 鈴木重好が追放され、水戸藩の家老になった。
 子:鈴木重辰は椋原・西郷ら和解した。

・慶長11年(1606) 井伊直勝は彦根城が完成すると佐和山城から
  彦根城へ居城を移した。
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 木俣守勝は土佐曲輪→正門右奥(開国記念館となり)となった。

・慶長15年(1610) 木俣守勝がなくなった。
  井伊直継は徳川家康の承認を得て鈴木重辰と椋原正直を家老に
  任じた。
  木俣守勝の養子・守安(父:狩野主膳、母:新野親矩娘)を
  第1家老としなかった。
  @井伊谷以来の家臣:松下・小野などは直継に配属した。
  A武田氏の遺臣:広瀬・三科・孕石などは異母弟・直孝に配属した。

・元和元年(1615) 井伊直勝(直継)が安中藩を嗣いだ。
第1家老は中野直之の次男:松下一定(中野三孝の弟)であった。
第2家老は小野政次の甥:小野朝之であった。
第3家老は、安中出身の萩原図書であった。 

元和年間後、
@中野直由の妻は安中藩菩提寺として
 井徳山龍潭寺の建立を直系の孫:松下一定に願い出た(伝)。

場所は安中市城下・・信号南50m。現存しない。

寛永8年( 1632)、松下一定が安中の龍潭寺に鐘楼を寄進した。
(★安中市城下の信号:多胡電機南西30m〜付近)

A井伊直勝(→直継)は大泉寺を建立した。
   井伊直継の母親の墓碑と井伊直継の妻の墓碑
   ※唐梅院大泉寺・・・昭和46年(1971)安中市指定史跡に指定。
・実母:松平康親の「娘」→徳川家康養女→井伊直政の正妻:お花の
 方→唐梅院の五輪塔
戒名:唐梅院殿台誉崇玉大姉
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・井伊直継の側室:中島新左衛門娘お岩の方の五輪塔
   戒名:隆崇院殿念誉寿専大姉 
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  ★正室:鳥居忠政娘ではない。継室:中島新左衛門娘である。

B井伊直勝書状
  竜門寺に広馬場(榛東村)に50石を寄進した。
(★竜門寺文書)

寛永17年(1641)4月7日松下高冬が没した。

寛永18年(1642) 6月23日松下一定が没した。享年68。
 法名「正覚院傑堂天英居士」。墓は竜門寺
 

寛永19年(1642)9月24日 徳川家光朱印状  (大猷院)
「当寺領上野国群馬郡
 広馬場村■■榛名事経
 先規との■ 附けたり、■会可
 収納並び■中本諸役を
 免許■■可有相違候也
 よってくだんのごとし」
 幕府の朱印地として認められた。
 ★読めない字がたくさん・・・・
 (★竜門寺蔵・群馬県立文書館写しあり:許可が必要)

 
●正保2年(1646) 6月23日、上野安中藩から井伊直継の子:井伊
  直好が3万5000石で入封した。
  井伊直好は西尾城の改築を完成させた。
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箕輪初心●愛知【西尾城】&《吉良温泉》
http://53922401.at.webry.info/201212/article_8.html

●万治2年(1659) 1月28日 井伊直好は遠江掛川藩に移封された。
箕輪初心:生方▲遠江『掛川城』:復元木造天守閣が凄すぎる城
http://53922401.at.webry.info/201610/article_3.html

・寛文2年(1662)7月11日、井伊直継は掛川城で病死した。
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●宝永2年(1705) 井伊直矩が与板藩主になった。
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第1家老は松下一定の子孫であった。
第2家老は小野七郎左衛門であった。 

箕輪初心◆三国街道C:26堀の内〜30長岡〜31与板〜35寺泊
http://53922401.at.webry.info/201311/article_19.html


寛延3年(1750) 井伊直政の150回忌
 「祥寿院殿清涼泰安大居士」
 竜門寺に井伊両家から井伊直政の肖像画(平成29年群馬県立
 博物館展示中)と木像(非公開・昭和2年群馬県史・昭和8年高崎
 市史の白黒写真がある。)が送られた。


●現在


【3】「創新館」箕輪城奉賛会:裄V氏の博物館
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【4】板さんち
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 ご馳走様でした。




★明日は

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