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zoom RSS 箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政88【第28話「死の帳面」】と北条幻庵の生涯

<<   作成日時 : 2017/08/13 07:17   >>

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@起…寿桂尼は北条を通じて鈴を取り戻し、上杉との同盟を模索した。
A承…直虎は方久に堀川城を任せた。
B転…直虎は寿桂尼に協力を依頼されたが、死の帳面には×が記載。
C結…直虎・政次は井伊を守るため、寝返りを決意した。
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【1】おんな城主直虎28話「死の帳面」

◆ナレーター
「・・・直虎はあの手この手で・・・
 @鉄砲
 A木綿
(B木材)
ついには気賀を治めることのなったのじゃ。

◆ナレーター
「じゃが、その裏では・・・」
今川・・・もう一人の女子(寿桂尼)は熾烈な戦いをしておったのじゃ。
今宵はちと趣を・・・
この場面からはじまりじゃ。・・・」

●駿河今川館
「ドイツもこいつも、タイツもブーツも・・・」
と今川氏真が怒っている。
寿桂尼はその姿を心配する。

〜〜〜ミュージック〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

武田義信が幽閉された後に、自害をした。
「あの鬼に殺されたに、決まっておる。」
寿桂尼「鈴を今川にお返しいただけるように書状を・・・」

「龍王、はよう。」
「たつひさをよべ?」

◆ナレーター
「(今川氏真の妹):鈴(武田義信妻)は武田に留まっていた。

●躑躅が崎
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武田信玄は鷹の面倒を見ながら。・・・
「菩提を弔う気はないのか?」

「駿府から死者が参りました。」
「捨て置け。」
「尼御台さまで、・・・」
「心の臓がいかれておってのではないか?」

・・
「あの女、化け物か?」

寿桂尼は心配のあまり甲斐に向かっただった。
ありきたりの挨拶があった。

寿桂尼は、「此度は・・・ご子息様をなくされ・・・」
「・・家臣の一部に載せられて・・・・」

寿桂尼は武田信玄に鈴を今川のもとにかえすように願いでた。
「亡き夫の菩提を弔わせとうございます。」

武田信玄はかえりくないと本人が言っていると詭弁を使う。

寿桂尼は「私が説き伏せまする。」
と言った。
狸爺「まあ、まあ、とごまかす。
寿桂尼は武田信玄の言い分にしたがい、
「宜しく、・・・」
信玄はにたっと・・・
「そうそう、京におられる父上(武田信虎)樣は?」
「・・・親子の縁を切り申したので・・・」
寿桂尼は「尾張の若造(織田信長)と仲良うしておられる
 とか、尾張の若造に足下をすくわれ申さぬように・・・」
と牽制する。

「・・ご忠告痛み入ります。」
★長篠の戦いでの事実があるが、ドラマやなあ?嘘ッペえ。


●今川館
寿桂尼は手紙を書く。・・・

寿桂尼は必死であった。
今川氏真の妻の実家の北条に武田家の仲裁をお願いしようと
考えた。

★ワンクッションをおいて、北条へ・・・・
 凄すぎる。武田信玄も認める大物であった。

でも、寿桂尼は倒れてしまいそうだった。
「北条に行きます。」


●結果、
◆ナレーター
「(寿桂尼の命がけの奔走が功をそうし、・・・」
北条の立場を理解していた。


●躑躅が崎
北条幻庵・・・北条早雲の男子の中では末子である。
北条幻庵は武田信玄にあった。

◆ナレーター
「・・・」

●今川館
北条幻庵が今川館に着ていた。
幻庵「武田が誓詞をだせと・・」
氏真「武田が書いてくるべきではないか」
寿桂尼「大守様、・・」

小野政次と関口氏経が様子を察した。

◆ナレーター
「鈴は駿府に戻され、武田と今川の関係は一反の決着をみた。
 一方、・・・・」



●気賀
直虎はは、気賀につくった堀川城で完成のお祝いをしていた。
宴の席で、直虎は思わぬことを発表した。
「方久を堀川城の城代にする。」
「私が城代ですか?」
と方久が驚く。
「それが最もやりやすいと思うのじゃが、・・・」
なんと、堀川城代を瀬戸方久に任せるというのである。
中村屋をはじめとする商人たちも賛成した。
町人も喜んだ。
「祝田村はどうなりますので、・・・」
「時々、見に行ってやる。」
「召し上げではないので、・・・」
「そんなせこいことはせぬ。」

方久復活・・・
「瀬戸方久、お預かりするからには、気賀を銭の、銭のうなる地に
変えて見せましょう。」

「銭では解決できぬこともある。・・・」


祝い宴には、舟にのって龍雲丸もきた。
「来てくれたか?こっちじゃ、こっち。」
龍雲丸は、直虎に挨拶をした。
「いや、きたのか。」
「へえ。ここから、世をかえねば、ならねえんで・・・」
「そうか。」
とにこっとした。
二人にしかわからない会話をかわしあった。


●今川館
「ようやく、武田との関係がおちついたので、上杉輝虎殿に・・・
 書状を書いていただきたいのですが、」

「泣き言をつづった見苦しい書状になると思いますが、・・・」
「出過ぎたまねをしたのはあやまります。・・・
 でも、いつまで・・・」
しかし、その代償は大きかった。
と、心臓の発作が・・・・倒れてしまった。
心臓病を再発し、再び寝たきりの状況になっていまった。

床に伏せたまま、・・・
「余のせいじゃ。余がうつけゆえ、・・・お命を縮めたのじゃ。」
春「うつけ・・・私は一度も思うたことはありませぬ。向かい風の
 なかで、よう忍んでおられると、・・・」
「嘘をもうせ、・・・」
「今、そうおもうたかもしれませぬ。」

「扇子がさかさです。」
「今川にとついで参りましたとき、夢のようでした。・・蹴鞠
 をして、華やかでした。・・・・
 継いでいくのは殿しかおられぬのです。」

「またしろう、又四郎はおるか?」
「はっ」
「・・・ありったけの鼓を集めよ。・・・音を聞けば、元気を取り戻す
 やもしれぬ。・・・美しい調べの中で、冥土に向かわれるであろう。」

夜、宴が始まった。
春「・・・殿も」
 今川氏真は笙(しょう)を吹いている。
 ・篳篥(ひちりき)・龍笛・・・和琴、太鼓・鞨鼓(かっこ)
 が演奏されている。


◆回想・・・
翌朝、寿桂尼は雅楽の音で目覚めた。そして、立ち上がった。
縁側に出てみると、舞が行われている。
今川義元に龍王(氏真)は蹴鞠をもったまま、
  外にいざなう。それを寿桂尼は見ている。・・・
笑わぬ、落語家が笑っている。・・・

「おばば樣、よくお戻りで、・・・」
「太守樣、・・・」

「つらい思いをさせますたね。」

「ばばはとりもとしたいだけなのです。光にみちた今川のたけに
・・・」
「龍王におおしえください。」
(寿桂尼はさらに上杉謙信とも和睦を結ぶために・・・)


●井伊館
直虎は、井伊に帰って碁を小野政次とさした。
政次は、「では、気賀がうまくまわりそうなのですか?」
二手、三手・・・

「殿、そろそろ戦のことを考えた方がよろしいかみしれませんね。」
「武田と今川の争いは収まったのであろう?」
「表向きはです。裏では武田は攻め込む手はずを整えておりましょう。
 大方樣(寿桂尼)のおぐあいもよろしくないようでございます。一挙に
 事が動くかもしれません。」

直虎は愕然となった。
「寝返りが始まり、戦にもつれ込みます。・・このまま何もぜずにおれ
 ば、今川の兵として井伊は駆り出されるだけです。そろそろ、なん
らかの手を打ねば、・・・。」
と政次は直虎にアドバイスした。
「我らも寝返る支度をするということか?」

直虎は、直親も同様のことを考えて今川に斬られた。
「・・・直親のの敵をとらねばならぬな・」
という想いをもった。


●井伊館
翌朝、南渓和尚が来た。
南渓は直虎に手紙を見せた。
寿桂尼からであった。
「・・・寺の届いての。」
直虎に会いたいとの手紙であった。
「・・・女子同士、腹を割って話したい。・・・」
南渓和尚「(寿桂尼)におそらく会えるのは最後になろう。
 お主も話したいことをはなしてきてはであろうどうかのう。」
とすすめた。



直虎は、南渓の言葉に従い駿府に向かった。

●今川館
帳面を書いていた。

「忙しいところ、呼び出してすまなかったの。」
直虎は深くお辞儀をした。
「滅相もないことでございます。・・・」
「このところ、覚えが悪くなっての。様々の書き付けることにしたのじゃ。」
直虎は、持参した包みを解いた。
「井伊で出来あがりました綿布です。・・・
とプレゼントした。
「後見のお許しをいただきましてから3年。なんとか、かような
ところまでこぎ着けました。・・・駿府をうるおすまでにはまだまだ
 でございます。」
寿桂尼は布を抱きながら「そなたがのう。・・たいした者じゃ。」

「そなた、あれをどう思うでおる?」
「あれ とは?」
「直親のことじゃ。・・・
◆回想
「恨むなと・・・我らが何をしたか、おおかた察しがついておろう?
 ・・・今でも恨んでおろう?・・」
寿桂尼は直親の時のことをどう思っている?
寿桂尼は今でも恨んでおるだろうと直虎に確認する。
しかし、直虎は「家を守るということは、きれいごとだけではたっせ
 られません。狂うででもおらねば、手を汚すことが愉快な者など
 おりますまい。
 汚さざるを得なかった者の闇はどれほどのものかと・・・
 そうおもいます。」」
と直虎は伝えた。

寿桂尼は涙を流した。
直虎は「女大名」とまでよばれた大方様が老けたことを痛感した。
寿桂尼「@年端もいかぬ小さな女(おとわ)がおいえのために蹴鞠を
 けっておったお姿は未だにわすれられぬ。・・・A瀬名の命乞いに
 乗り込んできたとき、徳政を覆すたけに来たとき、・・・
 そなたが(直虎が)わが娘であればと・・ずうっとおもうてお
 りました。
と本気で涙した。
「直虎と名乗ったとき、右も左も分かりませんでした。南渓和尚から
 渡されたのは仮名目録でございました。・・・大方様が作られたと
 おききし、どれだけ、励まされたことか、・・・」
「知っておると思うが、今川は武田に戦をしかけられそうになって
 おる。」

「井伊殿、どうか、我が亡き後、今川を見すてないでおくれ。・・そなたの
 才覚を持って、太守様を支えて欲しいのじゃ。」
直虎は頭を下げながら、
「・・・ご安心、くださいませ。」
寿桂尼も頭を下げていた。
しかし、胸中は複雑であった。

帰り際、ある武将とすれ違った。
侍女に「あのお方にも会われるのですか?」
「はい。」

寿桂尼は帳面をつけていた。
「大方様、水野様が、・・・」




●井伊館
直虎は政次に囲碁をしながら、
「大方様は縁のある方、一人一人にお別れをしておられるそうじゃ。」
一部始終を伝えた。
「最後のお務めとおおもいなのでしょうな。・・・・
 今川の国衆は先代・先々代・・・
 すこしでも、離反を食い止めようとされているのでしょう。」
「それでも、我らはねがえるのじゃな。全ての恩をわすれ。・・」
「井伊のお家を守るためです。」
2人は今川家を裏切ることを決めた。



●今川館
水野は汗だくであった。
今川氏真は扇子で指図・・・
家臣により水野が切られた。
◆ナレーター
「今川の粛正の風が吹き始めた。」

◆ナレーター
「寿桂尼は帳面の中味を今川氏真に見せていた。この1冊の
 帳面によって、・・・」
今川家ではズラリとつけられた家臣に×○がつけられている。
半数近くに×は付けられている。
今川氏真は×「水野弥平太夫」を見ていた。

そして、井伊直虎の欄にも・・・
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『遠江国 井伊谷
朱で× 井伊次郎直虎
遠江国井伊谷之城主ニテ候
 父直盛次郎法師 諱直虎
 目付小野但馬申候
徳政之事右申聞入候』

「何故、信用できぬとされたのですか?あの女子、お気に入りでは
 なかったのですか?」
寿桂尼は、「あれ(直虎)は家を守るためにはきれいごとだけでは
 達せられぬと言うたのじゃ。・・・いつも己に言い聞かせている
 言葉じゃ。同じようなことを言うておるのであろう
 ・・・われに似た女子は衰えた主家に義理立てなど決っして
 せぬ。
氏真は帳面を
「では、井伊については筋書き通りに・・・」
寿桂尼と今川氏真の二人で話し合ったのであった。
今川では寿桂尼が×をつけたものたちの粛清が着々と始まっていた。
★『テーマは「死の帳面」』…いい題名ですね。


●龍たん寺
南渓は「どうやら、今川が上杉と結ぶ策を講じているらしい。」
直虎と政次が南渓の部屋にいた。
「使いの僧が行き交っているようでの。」

同盟に力を入れているのだという。
「するとどうなるのですか?」
南渓は地図の上に武田は黒、・・今川・北条は白・・上杉の白を置く。
 「それに、上杉が加われば、3方を囲むことになる。」
「もし、これが成立すれば、武田はずいぶんと苦しくなろうの。」
武田が上杉、今川、北条に囲まれては武田といえど戦はできない
 やもしれぬ。
「では、このまま動かぬのですか?」
南渓は「・・・(武田の頼みは)徳川の出方ひとつかもしれぬ。
  
 ・・・徳川が考えをかえれば、武田は戦ができぬかもしれぬ。
(今川を攻めれなくなるだろうの。)

直虎は、「家康に上杉と手を組み武田を囲むように進言すればいいの
 ではないか。」
「おやめくださいませ。さようなことが今川にしれるところとなれば、
・・・・
「井伊は戦をさけるとのではなかったか?・・・これとて、
 戦を避けること、咎めはなかろう。井伊を守ることには
 変わりあるまい。」
政次は黙りこくった。
南渓はうんうんと頷く。

そういって自室で手紙を書きはじめた。

●岡崎城
瀬名「・・・殿、殿・・・」
家康は碁を一人で碁を打っていた。
場所を変えて、黒の一手を打ち、にんまり笑った。
そこへ、瀬名が碁盤をぐちゃぐちゃにした。
「あ、あ、なんということを・・・」
「井伊から書状が参りました。」
開き始めた。
びびる家康。・・・はい、どうぞ。


◆ナレーター
つづく。

【2】ゆかりの地
1)小田原城

2)北条早雲の像


3)小田原の北条幻庵屋敷
北条幻庵屋敷跡は小田原市の足柄街道沿いの久野(くの)にある。
 かなり広い敷地であったようである。
 現在は「幻庵廟」と庭園の名残とされる「池」がある。



●今回の北条幻庵が登場した。
・明応2年(1493) 北条幻庵が伊勢盛時(北条早雲)と
  駿東の母:側室・栖徳寺殿(葛山氏の娘)との間に生まれた。
 4男である。
********************************
箕輪初心▲静岡裾野【葛山城】大森弟系葛山→北条綱成娘→武田信玄6男
http://53922401.at.webry.info/201412/article_5.html
 ★北条早雲の側室:葛山氏広の妹?・・北条幻庵が生まれた。
******************************
幼名は菊寿丸。
 
北条早雲の男子の中では末子であり、側室の子でもあったことから
 戦国時代の習いで、僧籍になった。
 北条早雲は北条幻庵を送り込んで掌握をしようと考えたようである。
 箱根権現社の別当寺:金剛王院に入寺して僧となった。
 箱根権現は鶴岡八幡宮に次いで関東武士の信仰を集めてあり、箱根山
 を重視した

・永正16年(1519) 4月28日 北条幻庵は僧籍のまま、北条早雲より
 4400貫の所領を与えられた。
  (★『箱根神社の文書』)
 8月、北条早雲は死去した。

・大永3年(1523) 長兄:北条氏綱が箱根権現を再造営した。
   棟札に39世別当:海実・菊寿丸の名がある。
  近江の三井寺にて修業した。

・大永4年(1524) 北条幻庵が出家した。
   箱根権現の40世別当になったと考えられている。

・天文4年(1535)8月、甲斐・山中の戦い
武田信虎 VS 長兄:北条氏綱
北条幻庵も活躍した。
10月 武蔵・入間川の戦い
上杉朝興 VS 長兄:北条氏綱 
  北条幻庵は北条一門の長老として、北条氏綱を補佐した。

・天文5年(1536) 北条幻庵は宗哲と名乗った。
( 伊勢長綱→北条長綱→北条幻庵宗哲と号した。)

・大永6年(1526) ▲籠坂峠の戦い
  北条氏綱 VS 武田信虎
 葛山氏広は北条方に属した。
 息子:葛山氏元は北条氏綱の息女を娶った。

・天文7年(1538)年頃まで、北条幻庵は鎌倉別当として在職した。
政治面の僧侶として活動していた。
  足利将軍家の作法伝奏を家業とした伊勢家として文化知識も多彩
  であった。
  和歌・連歌・茶道・庭園・一節切り・鞍鐙作りの名人としても知
  られていた。特に「鞍打幻庵」とも呼ばれた。
   TVで紹介された。
  馬術や弓術にも優れていた。
  弓は無双の達人であった。

・天文11年(1542)北条幻庵は第2代当主・北条氏綱の4男:
 北条氏尭を後見していた。
 北条氏尭は北条幻庵の後見を受けながら、上野平井城の城将を
 務めた。

・天文10年(1541) 北条氏綱が死没した。
  北条氏康を後見するため、小田原の久野(1590)に居を構えた。

・天文11年(1542)5月、甥の玉縄城主・北条為昌が死去したため、
   北条幻庵は武将として三浦衆・小机衆を配下にした。

・天文12年(1543) 北条幻庵は「静意」の印文がある印判状の使用を
  開始した。
  北条幻庵の屋敷がある久野の地名を取って「久野御印判」とも呼
  ばれている。

・天文14年(1545) 7月、今川義元が関東管領の上杉憲政と内通し、
北条氏綱に奪われていた東駿河へ侵攻した。

 北条幻庵は長久保城を守っていた。

・弘治年間(1555)~ 北条幻庵・北条氏尭は房総半島に進軍するなどで
活躍した。

・永禄2年(1559)2月「北条家所領役帳」
  北条幻庵は北条家中で最大の5457貫86文の所領を領有した。
  直臣約390名の所領高は合計64250貫文である。
  北条幻庵は北条氏全体の9%を領有した。

・永禄3年(1560)、長男:北条三郎が夭折した。
 北条幻庵は次男:北条綱重に家督を継がせた。
 北条幻庵は武蔵小机城主に北条氏尭を後見した。
北条氏尭もほどなく没した。

永禄3年(1560) 桶狭間の戦い
今川義元が敗死した。
 今川氏の威勢が衰えた。
 甲斐と相模と駿河の三国間で甲相駿三国同盟を締結していたにも
 関わらず、
 武田信玄は信濃方面の戦いから東海道に進出する南下策に転換し
 た。
 ★長尾景虎の第1次関東出兵は始まった。


・永禄4年(1561) 長尾景虎の関東進出
北条氏尭は河越城に入城し、長尾軍攻撃を死守した。
 2月 小田原城の戦い・・・

・永禄9年(1566)
臼井城の戦い
  上杉輝虎(謙信)は下総臼井城攻めに失敗した。
  上杉謙信に与力・帰属していた関東の大名・豪族の多くが北条氏
  に降った。
 9月 上野金山城主由良成繁が北条氏に組した。

 9月29日 武田信玄は箕輪城を攻略した。
城主・長野業盛は自刃した。
  越後と国境を接する上野に武田の勢力が伸びていた。
  
常陸太田城主佐竹義重が関東・東北進出を志向し、上杉謙信と
対立するようになる。


・永禄10年(1567) 武田信玄は西上野の領国化をしていった。
 上杉謙信の関東における支配地は沼田領と厩橋領、桐生領
 までに縮小した。

上野厩橋城代を務める上杉謙信の直臣bRの北条高広まが
 北条氏に通じて謀反を起こした。

▲三船山合戦
里見氏 VS 北条氏康
  北条氏は敗北によって上総の大半を失った。
 
 結果…北条氏は北に上杉氏、東に里見氏、西に武田氏を敵と
  して三方に抱える状況となった。


・永禄11年(1568) 武田信玄は駿河侵攻を開始した。
  今川氏真を遠江:掛川城に追放した。

〜〜〜〜武田信玄の小田原城攻撃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
・永録12年(1569) 武田信玄の小田原城攻撃・・・
 ・永録12年(1569)武田信玄49歳。
8月24日 武田信玄は2万の軍勢を率いて甲府躑躅ヶ崎館を出立
 した。
   (★『甲陽軍鑑』)
西上野の碓井峠を越えて南下し、安中・・藤岡・・
 ★おそらく、箕輪城代:浅利信種と合流した。

  富岡国峰城主:小幡憲重・信貞も合流した。


 武田信玄・武田勝頼・武田信廉・
 山県昌景・内藤昌豊(松本城)・馬場信春
 ・曽根昌世・浅利信種・小幡信貞・・・・・etc。

9月10日  鉢形城を包囲し、北条氏邦を攻撃した。
  (★『上杉家文書』)

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心●箕輪城115「北条三鱗会に井伊直政の手作り
甲冑作成依頼」
http://53922401.at.webry.info/201311/article_29.html

箕輪初心●『鉢形城の歴史詳細』&47回寄居北條まつり2008
http://53922401.at.webry.info/201305/article_15.html

箕輪初心◆埼玉『第52回寄居北條まつり2013鉢形城』
http://53922401.at.webry.info/201305/article_14.html

箕輪初心●埼玉『鉢形城』&北条氏邦の箕輪城の大改修
http://53922401.at.webry.info/201305/article_16.html

箕輪初心■箕輪城シリーズS「第12代:北条氏邦」
http://53922401.at.webry.info/201010/article_34.html


9月26日 別働隊岩殿城主:小山田信茂1000が出陣し、
  小仏峠を越えた。
(★『甲斐国志』)
 北条家臣:横地監物・中山勘解由ら2000は檜原で、待ち
 受けた。

箕輪初心▲埼玉飯能市『中山家範館』:北条氏照の重臣
http://53922401.at.webry.info/201407/article_2.html

9月27日 武田勝頼が拝島から北条氏照の滝山城を攻撃した。
 1日で、攻撃をやめたが、滝山城は落城寸前だった。
箕輪初心▲滝山城:北条氏照の武蔵進出拠点の城
http://53922401.at.webry.info/201411/article_3.html

箕輪初心▲東京【八王子城】:北条氏照築城
http://53922401.at.webry.info/201411/article_4.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201411/article_4.html
 ★八王子城を造るきっかけになった。

9月28日 武田信玄は小仏峠から入った小山田氏らと合流した。
  牛ヶ渕の合戦・・・
 相模国へ進入した。・・・

10月1日 武田信玄は上杉謙信同様、幸田門(今の幸田門でない。)
 に着陣した。
  北条氏康の小田原城を囲んだ。
※小田原城は有名な惣構えが着工前であった。
 武田信玄は上杉謙信と同じく、幸田門(今の幸田門より二の丸
 より)・・小田原城を包囲し3度にわたって挑発した。

○箕輪初心●神奈川:小田原城=百名城
http://53922401.at.webry.info/201106/article_19.html

 しかし、北条側は小田原城を出なかった。

10月4日 小田原の守りが固いと見るやすぐさま撤兵した。・・・
 (★『上杉家文書』『甲陽軍鑑』)。

10月5日 小田原城城下周囲を放火して軍勢を引き上げた。
 小田原を出発し、平塚から相模川沿いに厚木→中津→角田
 →三増と進んだ。
 
 北条氏康は北条氏照・氏邦に先回りさせ、三増峠付近で待ち伏せ
 することとした
 (★『甲陽軍鑑』)。

※滝山城などの北条方
甲州街道守備軍の北条氏照・・・滝山城
秩父方面守備軍の北条氏邦・・・鉢形城
北条綱成 北条氏忠 高城蔵人 原胤栄
上田朝直
八王子片倉城で合流した。
箕輪初心▲東京八王子【片倉城】:カタクリの里
http://53922401.at.webry.info/201411/article_18.html

・軍勢2万が要所である三増峠
(相模原市緑区根小屋〜愛甲郡愛川町三増)に着陣した。

武田信玄は小幡重貞を迂回させて、三増峠の北側にある後北条
 氏方の津久井城の抑えとした。
 武田信玄は後詰の遮断と帰路の確保を目的に小幡憲重&
 信貞父子(国峰城)の軍に津久井城を囲ませた。
★小幡憲重は小幡信貞の父。重貞、重定ともされる。
   妻は長野業正の娘?妹とも?
★小幡重貞→信貞→信実→
  妻は長野業正の娘・・・長野正弘系図(高崎浜川来迎寺)
箕輪初心●相模:津久井城=三増峠の戦いの地
http://53922401.at.webry.info/201411/article_17.html

また山県昌景らに志田峠を越えさせて、待ち伏せする後北条軍の背後
に回らせた
(★『甲陽軍鑑』)。

10月6日 早朝、武田軍と北条軍が対陣した。
さらに北条氏政が2万余りを率いてやってきた。
北条氏照・氏邦の部隊と武田軍を挟撃し、殲滅する作戦であった。

 内藤昌豊は、小荷駄隊を中心にして志田峠を進んだ。
 (『甲陽軍鑑』)
 小荷駄隊が武田軍の先頭だった。
 北条氏照の攻撃を受けて被害を負っている。
 (『山吉文書』)。


10月7日 北条氏政本隊は到着前であった。
 北条氏照・氏邦の部隊は先手を打って奇襲攻撃を仕掛けようと
 していた。
 武田信玄はこれを察知して、部隊を3隊に分けた。
@本隊・・北条軍の攻撃を正面から受けて立つ
 A左翼・・浅利信種隊や浦野重秀(大戸城)隊・・・上野隊
 B右翼・・山県昌景隊 
 ・・・2部隊は北条軍を横から急襲する作戦であった。

10月8日 三増峠の戦い
現神奈川県愛甲郡愛川町の三増周辺・・・・

武田信玄2万  VS 北条氏照&北条氏邦 6,000〜2万
北条氏は甲斐に帰国しようとする武田軍相手に有利に展開した。
 武田軍は損害を受けた。
 北条綱成が指揮する鉄砲隊の銃撃により左翼の浅利信種や浦野
 重秀が討ち死にした。
浅利信種は鉄砲に当たって討ち死したのだ。
  (★『北条記』)
 浦野重秀(上野国大戸城)も戦死したのだ。
  一説には、武田側は200余人の犠牲者を出したとされる。

緒戦では、北条氏照の奮戦で、武田氏の先手衆を押し切り、成果を
 上げた
 (★『上杉文書』『北条五代記』『北条記』)。

しかし、山県昌景率いる武田の別働隊が志田峠 (三増峠南西約1km)
に機動した。高所から奇襲に出ると戦況は一気に武田に傾いた。
 山県昌景が突撃すると、挟み撃ちの形となり、北条氏は退却・敗北
 した。
  (★『甲陽軍鑑』『戦国合戦大事典』)

北条軍は背後の津久井城守備隊の内藤隊などの予備戦力が、武田軍別
働隊に抑えられて救援に出なかったこともあり、大きな被害を受けた。
左翼隊は戦死した浅利に代わって軍監:曽根昌世が代わりに指揮を
とった。
北条綱成の軍勢を押し戻すことに成功した。

緒戦では苦戦したものの、最終的には武田軍の勝利とされている。
先に三増峠に布陣したのは武田軍で、布陣をを知らなかった北条軍が
不意の攻撃を受け、敗退したという。
(★『北条五代記』『北条記』)

有利に戦いを進めていた北条軍に対し、武田信玄は伏兵で反撃をし、
形勢を逆転させた。

武田信玄は、北条氏康本隊の到着を恐れ、迅速に戦いを進めた。
武田信玄は自軍の勝利と見ると、軍勢を反畑(相模原市緑区)まで
移動させ、勝ち鬨を挙げた。その後、武田軍は甲斐に撤退した。
★武田信玄は賢明であった。
北条氏康&氏政父子の北条本隊2万は荻野(厚木市)付近に到着して
いたが、北条軍の敗北を聞いて小田原城に退いた。
 (★『甲陽軍鑑』)
結果・・・
@武田側・・・・1,000余(北条五代記)
900(甲陽軍艦)
A北条側・・・・ 2,000余(諏訪家文書・武田信玄書状)
         3,269(甲陽軍鑑)
しかし、本当に武田軍が勝ったのかは疑問である。

★もし、戦が長引いて、北条氏康&氏政父子の部隊が到着していたら、
武田軍は挟み撃ちにされて、大敗していた可能性があった。

★5回の川中島の戦いを期に上杉謙信との戦いをやめたのに続いて、
 三増峠の戦いを期に、後北条氏との決戦を避けているように
 感じられる。2年後には北条氏康が上杉謙信と手を切り、武田信
玄と再同盟するきっかけともなったのだ。
やがて、武田信玄は今川〜徳川〜織田へと戦いを挑んだ。


・永禄11年(1568)武田信玄は今川氏真を駿府館を逃亡した。
 今川氏真は、今川氏筆頭老臣:朝比奈泰朝が守る掛川城に落ちて
 いった。
※エピソード
 武田方が北条氏真の正室早川殿(北条氏康の娘)の保護を怠った
 ために、早川殿は徒歩で逃げる羽目になった。
 北条氏康が激怒したために北条氏は武田氏との同盟を破棄した。
 北条氏政が今川氏との同盟によって駿河に兵を進め、信玄との
 戦いを開始した話もある。

・永禄12年(1569)
1月、北条早雲の孫:北条幻庵の子:北条綱重が蒲原城主となった。
 北条綱重は本郭を大改築したという。
 既に武田・今川の同盟関係は破綻しており、改築は対武田戦を想定
 したものであった


 武田信玄 VS 今川氏真・北条氏康
武田勝頼を総大将に武田信豊・山県昌景・真田幸隆(幸綱)
  ・真田信綱(幸綱長男)・曽根昌世など・・・

11月、武田信玄は薩捶山砦を落とした
  武田勢がその勢いで北条勢力の駿河国蒲原城にも攻めかかった。
  蒲原城は北条幻庵の子:北条綱重が城主であった。
12月 駿河(静岡県)の蒲原城の戦い
12月5日の夜、武田勢は蒲原城下の蒲原宿に火を放った
12月6日未明 武田勝頼は由比・倉沢に布陣した。
  本陣には小山田備中守隊だけが残り、他の軍勢は蒲原城を目指
  して進軍を開始した。
  蒲原城方は、北条綱重らがたけだ本陣を急襲するべく出撃した。
 しかし、道場山にいた武田勝頼隊が襲いかかった。
  武田方の別動隊が勘場田城を目指して突撃した。

 北条綱重は急いで蒲原城に戻ろうとしたが、武田勢と乱戦となった。
 蒲原城の城兵1千は武田軍の猛攻の前に北条綱重らは討死し、蒲原
 城は陥落した。
 武田信玄は、蒲原周辺の在地領主を組織して「蒲原衆」として
 蒲原城の守りにつかせた。
 

 北条幻庵は次男:綱重、3男:長順らを相次いで失った。
 北条幻庵は北条氏康の7男・北条三郎(後の上杉景虎)を娘と結婚させ
 養子に迎えた。
 北条幻庵は北条三郎に家督と小机城を譲った。
 隠居して幻庵宗哲と号した説もある。

4月 「越相同盟」が北条氏邦ルートにより勧められた。
  上杉謙信の家臣は度重なる関東出兵による疲弊から、同盟の締結を
  強く望んだ。
 4月までに4点の同盟条件が調えられた。
 @8月15日の放生会以前に、謙信が武田攻めのため信濃に出陣する。
 A北条氏政の子・国増丸(後太田源五郎)を上杉謙信の養子にする。
 B上杉謙信が上野及び武蔵の内岩付城他数箇所を領有する。
 C足利義氏を古河公方とし、上杉謙信が関東管領を務める。
(★上杉家文書)
 6月越相同盟が締結された。
 上杉謙信は、北条高広の帰参を許した。
 
 関東における上杉・北条両氏の勢力範囲が定められた。
 上杉謙信は足利義氏の古河公方就任を認め、北条氏は謙信の関東管領職
 継承を認めた。
 北条氏政の実子と上杉謙信の家臣:柿崎景家の子:晴家が人質として
 互いに交換されることになった。
 血判誓詞の交換をもって同盟は成立した。
 しかし、北条氏政が上杉謙信の求めた実子による養子縁組要求を拒否
 したために、既に北条幻庵の養子:北条氏康の実子である7男:北条
 三郎(後の上杉景虎)との縁組になった。

  北条三郎(上杉景虎)が、上杉謙信の養子となり、越後に入ったた
 め、北条三郎(上杉景虎)と離縁していた娘と北条氏光を結婚させて
 小机城主とし、家督は次男・北条氏信(北条綱重)の子で孫になる
 北条氏隆に継がせた。

○北条幻庵は北条5代の菩提寺・早雲寺の庭園をつくった。
 禅史跡北條幻庵作 枯山水の庭。

******************************
箕輪初心▲神奈川箱根【早雲寺】:後北条5代の墓&連歌師:宗祇の碑
http://53922401.at.webry.info/201411/article_27.html
*******************************


●晩年は、久野の北条幻庵屋敷にて隠居生活を送ったようである。
「初代・北条早雲から北条氏直までと5代に渡って仕えた。」
(★北条五代記)

・天正17年(1589) 11月1日 北条幻庵は没したとされる。
   97歳の長寿であった?・・・
 没年も1584年説、1585年説がある。

・天正18年(1590) 豊臣秀吉が小田原攻め
7月5日 小田原城開城。

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箕輪初心●神奈川:小田原城=百名城
http://53922401.at.webry.info/201106/article_19.html

箕輪初心▲神奈川【小田原城3回目】写真集前編
http://53922401.at.webry.info/201411/article_24.html

箕輪初心▲神奈川【小田原城3回目】:写真集後編
http://53922401.at.webry.info/201411/article_25.html

箕輪初心▲神奈川平塚 紫雲寺【大森氏頼の居館跡=矢崎城】
http://53922401.at.webry.info/201411/article_22.html

箕輪初心★北条早雲の生涯=伊豆・相模国盗り物語
http://53922401.at.webry.info/201309/article_25.html

箕輪初心●群馬【名胡桃城A】=北条氏滅亡のきっかけの城
http://53922401.at.webry.info/201202/article_22.html

箕輪初心●岩櫃城探検隊第8弾【中山城2回目】
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201311/article_13.html
 ★名胡桃事件を手引きしたといわれる中山氏

箕輪初心▲神奈川【小田原城の歴史詳細】:大森氏→北条氏5代
http://53922401.at.webry.info/201411/article_26.html


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