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zoom RSS 箕輪初心:生方▲『1991湾岸戦争と弟・小池百合子・アントニオ猪木』

<<   作成日時 : 2017/08/12 07:43   >>

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アメリカ・日本の嫌われ者の中にはフセイン・ビンラディン・カダ
フィ・金正恩などがいる。サッダーム・フセインと金正恩は「軍備
増強、ミサイル兵器による攻撃は世界を制す。」という考えではそ
っくりのような気がする。
今回は当時のサッダーム・フセイン大統
領が湾岸戦争を引き起こす過程を調べ、弟のたちのイラクでの様子
を思い出しながら書いてみた。
よく生きて帰って来たと今でも思う
ことがある。
弟の会社はイラクにコンビナート・石油のパイブライ
ンを造る計画をし、外国に材料・工事を発注する輸出プラントの会
社である。サッダーム・フセインに味方をした企業ではある。弟は
イラクの石油相とも晩餐会に参加していたようである。私設の外交
官とも言える。イラクからは月ごとに金を支払って貰うようにして
いたので、湾岸戦争での不利益は3億円で済んだとのことである。
輸出プラントの会社は影で?裏で?石油ショックなど、石油不足を解
消してきたのである。つまり、日本が石油を安く手に入れることに
一部で貢献している会社でもある。
写真は無料写真からの引用で
ある
画像


箕輪初心:生方▲『昭和20年の原子爆弾&72年後の核弾頭8月15日?』
http://53922401.at.webry.info/201708/article_12.html



・昭和63年(1988) イラン・イラク戦争が終結した。
 サッダーム・フセインはイラク軍の軍備増強、ミサイル兵器による
 攻撃などでイランを力で追い詰めることができると考えていた。そ
 して、イラクを(ランボーの映画撮影に協力した)核保有国イスラ
 エルを除いた中東最大の軍事大国へと押し上げた。
 イランがイラクの脅威から停戦に応じた。
 8年間に及ぶイラン・イラク戦争が終結した。
 
アメリカとソ連(後ロシア)などの武器や農産物・工業製品を
 輸出していた国が黒字である。儲かったといっても、帳面の上
 がけかもしれないが、・・・
(かつての日本は朝鮮特需・ベトナム特需で経済復興した。
 例えば、ブルトーザーを造っていた企業の部品はアメリカに
 輸出され、組み立てられて、戦車になる。)

 しかし、イラクは戦争によって内政は対外債務や財政悪化、物不足や
 インフレなど国内は深刻な経済状況にあった。
イラクは600億ドルもの膨大な戦時債務を抱えることとなった。
 また、戦災によって経済の回復も遅れていた。

 イラクが外貨を獲得する手段は石油輸出しかなかった。当時の原油価
 格は1バーレル15〜16ドルの安値を推移し、イラク経済は行き詰っ
 ていた。

 サッダーム・フセインは財政立て直しのため、政治の民主化を模索
 した。

弟の会社に石油コンビナートの建設依頼もその一貫であった。
 
 一方で、サッダーム・フセインのイラク政権が核兵器起爆装置を製
 造しているのではないかという疑惑が起こった。
 イギリスが長距離砲弾用と思われる多薬室砲をイラクが輸入
 しようとしていたのを差し押さえたのである。
 
 欧米のメディアはサッダーム政権の「イラク軍備拡大」と
 「化学兵器使用によるクルド人殺害の残忍性」と批判した。
 イラクと欧州との関係が悪化していった。

 イラクとアメリカとの関係は非常に良好であった。アメリカは、
 1988年から89年までの間にイラク原油の輸入を急速に増やした。
 アメリカは年間11億ドルを越える対イラク輸出を行っていた。
 農産物・工業製品(武器製造関係も含まれる。)
 アメリカはイラクの最大の貿易パートナーとなっていたので、
 さほど、強い批判はしなかった。

・平成元年(1989) イラクの軍備はさらに増強されていった。
 兵力は180万人に膨れ上がり、戦闘機の数も700機に上った。
 サッダーム・フセインは、「軍事大国化こそ勝利の道である。」
 という信念を持っていた。
 ★北朝鮮の金正恩とそっくりかもしれない。
 

・平成2年(1990)
私の弟に会社のはサッダーム・フセインの要請でイラクにコンビ
 ナートを造っていた。
 サッダーム・フセインは、イラン・イラク戦後復興のために石油
 価格の上昇による石油収入の増大を狙っていた。

1月、サッダーム・フセインは石油価格引き上げを呼びかけた。
 サウジアラビアや敵国イランも呼びかけに応じた。
 しかし、クウェートはイラクの呼びかけに答えず、石油の低価格
 増産路線を続け、逆に価格破壊をもたらした。

イラクはクウェートを非難したが、クウェートは応じなかった。

イラクが戦時債務を返済できないことから、アメリカは余剰農作物
の輸出を制限し始めた。イラクはすぐに困窮した。また、アメリカ
が工業部品などの輸出も拒み始めたことで、石油採掘や輸送系統に
ついても劣化が始まり、イラクはフセインは追い詰められた。


7月10日 サウジアラビアのジッダで開かれたサウジアラビア、
クウェート、イラク、カタール、アラブ首長国連邦の産油5カ国に
よる石油相会議において、原油価格引き上げを決議した。
サッダーム・フセイン大統領はOPECに対し、原油価格を1バレル
25ドルまで引き上げるよう要請していた。
しかし、OPECは聞き入れなかった。

一方、サウジアラビアとクウェート、アラブ首長国連邦がOPEC
の割当量を超えた石油の増産を行っていた。サウジアラビアは表向き
はOPECの指示に従っていたが、国有油田とは別にサウード家の
私有物として石油を採掘し、海外に売りさばいていた。
クウェートとアラブ首長国連邦はOPECを完全に無視して大量に採
掘し、原油価格は値崩れを起こした。
石油価格は大きく下がり、石油輸出に依存していたイラク経済に打撃
を与えていた。

7月17日、フセイン大統領はイラク革命記念日での演説において
「一部のアラブ諸国が、世界の原油価格を下落させることにより、
イラクを毒の短剣で背後から突き刺そうとしている。彼らが言葉で
警告しても分からないのならば、なんらかの効果的手段を取る」
と間接的にクウェートとアラブ首長国連邦を非難した。

7月18日 イラクは「クウェートとアラブ首長国連邦がOPEC
の生産協定を破り、生産枠を越えて石油を生産したことによって、
アラブ全体で5000億ドルもの損失を被ったと主張した。そして
特にクウェートに限れば、イラクが890億ドルの損害を被った。
クウェートがイラク南部のルマイラ油田から盗掘を1980年代
から続いており、イラクは24億ドルも損をしている。しかも、
クウェートが、国境付近のイラク領内に軍事基地を建設している。」
と非難・糾弾した。
※ルマイラ油田は地下でイラク・クウェートの油田が繋がっている
と考えられていて、領有権を巡って対立してきた歴史があった。 

クウェートのジャービル首長は、「単なる金目当ての脅し」と判断
し、イラクの主張を否定し、軍を動員した。

7月19日〜、イラクも軍をクウェート国境のバスラ南下させて、
 軍事圧力を強め、クウェートとの直接交渉に臨んだ。

7月20日 サウジアラビア/UAEが仲裁に乗り出した。

7月21日 エジプトのホスニー・ムバラク大統領が、フセイン
 大統領と電話で会談した。

7月22日 イラク国営通信は、「クウェートは湾岸への外国勢力
 侵入に手を貸している」と発表した。
 国営紙も「クウェートはまだイラクの油田盗掘を止めていない。」
 とクウェートを非難した。

7月24日 イラクはクウェート国境に3万人の兵力を集結させた。
    エジプトのホスニー・ムバラク大統領が会議を提案した。
提案がクウェートに有利であった。
フセイン大統領はイラクに不利であると主張した。

7月25日 フセイン4カ国会議を拒否しクウェートとの直接交渉を
    求めた。

7月26日、クウェートは石油輸出国機構の会議で、石油価格を
 1バレル21ドルまで引き上げるとの決定に同意した。
 イラクはさらに軍事行動を拡大した。

7月30日 イラクは10万規模の部隊がバスラ州の国境に集結させた。


8月2日、イラク共和国防衛隊がクウェートに侵攻した。
当初は「クウェート革命勢力によって首長制が打倒され、暫定政府
が樹立された」として、「クウェート暫定政府による要請でイラク
がクウェートに駐留する」と発表していた。

※イラクがクウェートに侵攻した理由
@石油生産を巡る政治的対立
A歴代のイラク政権がオスマン帝国時代の行政区分でクウェートが
 バスラ州の一部であったことを根拠に領有権を主張していたこと
Bクウェート領であるワルバ・ブービヤーン両島がイラクのペルシ
 ア湾に通じる狭い航路をふさいでいたので、島を封鎖し石油輸出
 ルートを確保しようとした。
C個人的なクウェートへの恨みを持っていた。
と一般的には言われている。


8月2日 イラクによるクウェート侵攻をきっかけに、湾岸戦争が
 始まった。
画像
 

8月5日 海部俊樹総理は、イラクへの経済制裁を決定した。


『クウェートからの日本人人質』
 8月23日 イラクはクウェートにいた日本人などを事実上の人質として
 イラクヘ連行した。完璧な人質である。
 9月2日、クウェートかたの人質が連行された。
 マンスルホテルに監禁された。
 女子や子どもは帰国が許された。
 男性は141人が各地に分散された。 
 男性は国外移動禁止処分になった。
 同じ日本人でも、クウェートからの人質は牢獄であったそう
 である。





 『イラク在留邦人』
弟の会社は パイプラインがペルシャ湾までバスラ州の300m
 の所まで繋がっていた。
 弟は何度かサッダーム・フセインの弟の石油省大臣と懇親会を
 持ったという。


・8月23日 イラクにいた私の弟など会社は日本人21名+外国
 人3名がバグダッドに移った。
 ほかの企業や商社のメンバーたちもバクダッドのホテルに移動
 するよう勧告され、拘留されることになった。
 (★会社名は分かっているが、書かないことにする。)
 イラクに貢献しているので、完全な人質ではなかった。
弟たちは戦争が起こるのを危惧していたという。

 結果、イラクに貢献していた人質は200人以上となった。
バクダッド市内の外出はフリーであった。
 
 弟は会社のアドミニストレーション(現地世話役)だったので、
 @料理人の確保・A逃走経路・B日本との電話連絡に奔走した。
 
 @料理人の確保…会社の人の分の食料とイラク人コックを確保した。
 A逃走経路…連合軍の攻撃の際のヨルダンのアンマンから脱出経路
車と運転手の確保ができたそうである。
 B日本との電話連絡…会社の同僚を優先させたため、3か月で2回
しか、我が家への連絡はなかった。
●弟は8月23日〜12月12日頃まで、バクダッドのホテルに拘留され
 ていた。
 イラク国内にいた在留日本人は暇をもてあまし、会社対抗の
 ソフトボールをしていた。


その間、日本政府・イラク政府間での人質解放交渉は難航していた。
  
 


 
9月?日〜 イラクで、拘束されていた

1)『Friday』の取材
9月?日
  弟の会社 VS 商社:M 
  ソフトボール対抗戦をしていた。
  弟の会社は10 vs 21で負けた。
 弟へのインタビュー
 「今食べたい物は?」
 「鰻・寿司です。」
 が掲載されている。
  
2)アントニオ猪木の交渉1回目
・9月28日
 弟は空港に迎えに行った。
 アントニオ猪木は長男ウダイ・フセインスポーツ省大臣に
 あって、人質返還交渉をした。
 41人が日本に返された。


3)佐藤文生議員
・10月?日  
 
 49人の病気・老人が帰された。

4)アントニオ猪木の交渉2回
・10月22日


5)中曽根康弘
・11月3日中曽根康弘元首相が中東特使に任じられた。

11月末 中曽根康弘元首相がイラク大統領
  サッダーム・フセインと会談した。
 日本人の人質全員解放を成功させた。

小池百合子氏(アナウンサー)が中曽根ミッションの
  通訳兼キャスターとしてバグダッドに来た。
   関西学院大学社会学部中退→カイロ大学文学部社会学科を
   首席で卒業→アラビア語通訳→テレビ東京「ワールドビジネ
   スサテライト」初代メインキャスター
  テレビ東京のワールドビジネスサテライトを担当していた。
  湾岸戦争での慰問にきて、カイロ大学で学んだ得意のアラビア語
  を活かした取材で注目を浴びた。一気に知名度が上がった。
弟は小池百合子氏。


   でも、弟たちは連合軍に対する人質扱いであるため、帰国は
許されなかった。

  (※翌年の1992年は、小池百合子氏はキャスターを辞めて立候補
 した。
 湾岸戦争で国際社会の協力が求められる中、社会党等が国会
 で「牛歩戦術」を使ったり、バブルが崩壊して一般国民が
 生活不安に陥っているのに、旧来の自民党の権力争いが
 行われていたりと。・・・
 このままでは日本はどうなるのだろうかと不安を抱き、
 「私がやらねば」という気持ちで立候補しました。
 当選する保証はもちろんなく、まさに「崖から飛び降りた」
 ような感覚でした。」と語ったという。
 自民党議員になった。
 
11月末 日本人・欧米人の人質も解放されているので、日本外交の
  働きかけが奏功したというよりも、イラクとしては武力行使の可能性
 が高まる中、国際世論に影響を与える方策として人質を解放した
  可能性が高い。



Aアントニオ猪木議員がバクダッドに来た。 
  スポーツ平和党のアントニオ猪木議員が
  「12月1日にイラクで『平和の祭典』を行う。」
 と発表した。
 外務省は難色を示した。
 人質家族36人が加わった。
不測の事態が発生した際の問題等、行動には賛否両論あった。
 アントニオ猪木は個人で費用を負担してトルコ航空機をチャー
 ターした。

・12月2日 関係者や人質被害者41家族46人と共にトルコ経由でバグダード
 へ入った。

『スポーツと平和の祭典』
・12月3日 サッカー
 新日本プロレスのメンバーでの戦い
  イラク人の35000人の観客があった。
・12月4日
「太鼓・柔道・空手・プロレスなどを興行した。」
 ★弟たちはリング作りを手伝った。
 マサ斉藤 VS 長州力 
 河内家菊水丸は日本の伝統音楽の部門を担当し、現地の
 イラク人や日本人の前で河内音頭を披露した。
 




アントニオ猪木は実際に人質返還の交渉をした
イベントの開催後に、在留日本人と全人質が解放された。
アントニオ猪木が熱意で日本人人質36人、在留邦人5人が
無事解放された。
これを契機としてイラク政府は全人質を解放に踏み切った。

・イラク日本人会副会:長野崎氏は動いた。
 

12月6日 フセイン大統領が全員の解放を発表した。
 

12月12日? ●弟たちはイラクからパリ経由で日本に帰国した。 
12月15日 成田着 
 私は迎えにいった。

 ・イラク日本人会副会:長野崎氏は最後までイラクにいた。



イラクの爆脱国際連合が多国籍軍(連合軍)の派遣を決定した。

・平成3年(1991)1月17日にイラクをミサイル攻撃・空爆が始まった。
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湾岸戦争で日本は連合軍に130億円の支援をした。
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クウェートからサダム・フセインのイラク軍隊を追い払うこと
 に貢献した。と解釈してよいと思う。
 しかし、欧米の石油価格を上げないように仕組んだ
 ことが先進国のエゴとも言えるかもしれない。400年も
 間、発展途上国の遺産・鉱山・後に石油などを搾取して
 来ている歴史があるのだ。としかく、弟が帰ってきてよか
 った。・・・・



弟の会社はイラクからは月ごとに金を支払って貰うようにして
 いたので、湾岸戦争での不利益は3億円で済んだとのことである。
 その後、弟はイラン・インドネシア・ベネズエラなどにも、石油
 輸出コンビナートの建設の交渉に当たった。



・平成18年(2006)
12月26日 イラク高等法廷・控訴審でサッダーム・フセインの
  30日以内の死刑が確定した。
12月28日イラク政府のムワッファク・アッ=ルバーイー国家安全
  保障担当顧問はサッダーム・フセイのン死刑が一両日中にも執
  行されると語った。
12月30日 サッダーム・フセインはアメリカ軍からイラク側に
  身柄を引き渡され、午前6時5分頃、絞首による死刑執行が行
  われ、死亡した。
(★ウィキペディア)


・平成23年(2011 )
 小池百合子議員はクウェート独立 50 周年と湾岸戦争でのイラ ク
からの解放 20 周年記念の年に当たり、日本とクウェート 間の祝賀
行事が多く計画されていたので、出席する予定であった。
3 月 11 日  東日本大震災
 日本での祝賀行事は取りやめとなった。
4月1日 アルオタイビ駐日クウェート大使が小池百合子事務所を訪れ、
  「日本の為に何ができるか?」と尋ねた。
 小池百合子議員は「石油の一滴を」と答えた。
 結果、クウェート国から日本へ500万バーレル(400億円相当)の
 原油が無償提供された。




弟は一部上場の会社の部長・・・給料が下がったと嘆いている。



平成29年(2017)8月9日
 北朝鮮の金正恩は「グアムに4発の核弾頭ミサイル『火星12』
 を飛ばす。」ことにした。と報道した。


★次は???

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