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zoom RSS 箕輪初心:生方▲奄美大島A【赤木名城(あかきなじょう)】&「赤木名代官屋敷」

<<   作成日時 : 2017/07/21 09:14   >>

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鹿児島県奄美市笠利町赤木名にある城跡である。奄美大島の笠利湾
赤木名港の奥に赤木名集落を見下ろす標高約100mの丘陵:神山に
ある山城である。赤木名中学校の裏山といった方が良いかもしれない。
12Cに築かれ、17Cまで使用が確認されているそうである。現在、国の
史跡に指定されている。ひかるダイバーズの山下さんの家は「赤木名
代官屋敷」の近くであった。登山口を教えてくださった。現地では「赤木
名城(はっきなグスク)」というらしい。「赤木名代官屋敷」も行って見た。
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●奄美大島の笠利町の名所案内板
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赤木名城の建てられた神山は聖山とされており、城跡の周辺には
 秋葉神社・観音寺跡(移転)・菅原神社・厳島神社といった建築物
 が見られる。代官所もある。
赤木名城跡へ行くには、赤木名中学校と郵便局の間にある「国史
 跡・赤木名城跡」と書かれた小さな青い案内板のある道を進む
 とよいが、・・・ひかるダイバーズの山下龍智氏に聞いた通り、
 校庭を突っ切ることにした。地元の方にも聞いた。
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●赤木名中学校
野球部・テニス部・相撲部・吹奏楽部が活動をしていた。
 野球部の練習をされている教頭先生に校庭を横切る許可をいただいた。
 生徒はよく挨拶してくれる。
●中学校裏山にある城跡である。
 一見、普通の山にしか見えないが、城跡は国の史跡に指定されるほど
 貴重な城跡である。
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●校舎裏
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●井戸
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毎年10月に開催される招魂祭相撲では秋葉神社側の湧水で力水を汲む
 のが伝統である。
ここが水の手曲輪であろう。とすれば、平時の館は
 中学校というとになる。

●秋葉神社
 奥には「秋葉神社」の鳥居が見える。
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●鳥居をくぐり神社の階段をのぼりきると、左側に城跡へ続く山道
 への入口がある。
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 山道は歩きやすいよう整備されているわけではなかった。
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●石碑
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●秋葉神社の奥にある広場「赤木名城跡総合案内板」
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南北350m、東西800m、面積37000uと奄美群島では大型の城になる。
曲輪、土塁、堀切、竪堀など本土的な構造が確認されている。
山道は複数あるものの大手口は現在まで確認されていない。
かつてはノロの祭を行う場所であったとの伝承もある。
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赤木名城は、奄美では最大規模の山城跡だが、いつ誰が造ったもの
なのか、ハッキリとわかっていない。
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総合案内板には赤木名城跡の概要が書かれている。

「史跡名勝天然記念物
琉球列島の奄美地域を代表する中世並行期の城郭。城跡は奄美大島の
北部西岸にある笠利湾を望む集落背後の丘陵上、標高約100mの通
称「神山」に立地する。城跡は北から南に張り出す丘陵尾根上に立地
し、南北約300mあり、奄美地域においては屈指の規模をもつ。
城郭の縄張り、構造は琉球とはことなり、九州などの山城と類似する。
城域は標高100mの最高点を中心とし、曲輪、土塁、石積み、堀切、
竪堀などの遺構がみられる。南側には相対的に広い曲輪が展開し、そ
の西側斜面には8段に及ぶ帯曲輪が連続する。これらの曲輪や竪堀の
配置から西側の笠利湾方面に対する防御を意識している。発掘調査で
は柱穴や土坑などの遺構と、11世紀から18世紀にかけての陶磁器
が出土したが、城跡が広大に拡張したのは、15世紀から17世紀初
めころと考えられる。中世並行期の奄美地域の歴史は、かならずしも
明らかではないが、15世紀には琉球と鬼界島は抗争があり、15世
紀末に日本勢力が大島への介入を続けており、奄美は琉球・日本双方
の勢力との関係をもちつつ展開していた。奄美北端に位置して深く入
り込む笠利湾は、交通上、軍事上の要衝であったと考えられ、こうし
た状況のなかで城郭が築かれたものと推定される。琉球では14世紀
ころから石垣造りの独特の城郭が発展するが、奄美大島ではその系統
のものは見られず、赤木名城跡は日本からの影響が看取される。
 このように赤木名城跡はこの時期の琉球と日本・奄美との政治・軍
事・経済的な関係を考えるうえできわめて重要な遺跡である。

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平成18年に始まった発掘調査の結果では、12〜17世紀を中心に、当時
の権力者(按司や琉球、薩摩など)の影響をうけ、政治や軍事の拠点と
して形成・再利用を繰り返されてきた遺跡とみられている。
日本と奄美の歴史を語るうえで、大きな謎を秘めた遺跡である。
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●入り口・・・足を踏み入れるのに勇気が必要である。
 なんとか、城跡の本曲輪まで行きたいが、山の守り神「毒蛇:ハブ」
 が出没するかもしれない。ハブが気になって・・・・
 長袖・長ズボン・登山靴・帽子をそれなりの防備をしている。
2m程の棒を拾って、叩きながら進むことにした。
 山道へは進まず、赤木名城跡へ行くのを諦めようかと迷った。

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赤木名城は天然の山や丘の地形を利用して造られた。
あまりにも自然の中に溶け込んでいて、恐すぎる。
草むらを棒で叩きながら、ゆっくり進んだ。
「ハブちゃん、ハブちゃん、出ないでね。」
と言いながら・・・・
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●石垣
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史跡内での木材利用のための間伐がされず、整備がされていない。
荒れつつある史跡の管理・保護ができていない状態である。
城跡は定期的に伐採され管理はされていると言っていたが、夏の雑草の
勢いは凄かった。
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夏はハブも活動的な時期である。山道へ入るなら伐採整備後の寒い冬場
がおすすめだろう。
★恐いので、写真もぶれている。
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山道の脇に一本のロープがあり、行き先を教えてくれる。
急高配のところはハブが出てくるのか注意深く棒で確認した。
狭い山道のすぐ横は急斜面なところもある。
5分も山道を歩くと息が切れた。


●少しなだらかになった。
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★恐い?・・・

●南の郭虎口と堀
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標高100m程の山頂部にある城跡までは、15分程であった。


●「南の曲輪(くるわ)」
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 赤木名城跡の平場に辿り着いた。
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●案内板
 発掘当時の写真と状況が解説されていた。
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堀切は一番奥の最高所「主郭部分」へ辿り着くまでに3度現れる。
深さ1.5〜2m程の「内堀」の窪みは山の斜面の下方に伸びていて
「竪掘」とよばれる遺構になっているようである。
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●案内板にある「堀切」と呼ばれる遺跡を目指そうかなと思ったが、
 草むらが凄い。

 赤木名城跡が山城である。
「山城」は防御に有利な天然の要害として険しい山に築かれる。
 城主は普段、生活のしやすい麓に住んでいた。
 赤木名城は赤木名中学校あたりは平時の館になるであろう。
 水もあるし、・・・・
 敵が来襲し、戦になると、赤木名城に立て籠って敵を待ち構えた。
堀切は攻めてきた敵の移動を制限する。竪掘は迎え撃ちやすい場所
 へ移動し、挟み撃ちにするねらいがあった。敵は、待ち構えていた
 城兵に狙い撃ちされ撃退される。
赤木名城も防御を念頭においた、巧みな縄張りになっているのであろう。
後、7つの曲輪があるのか?

 勇気ある撤退をしよう。毒蛇:ハブに咬まれた場合の対処は・・・
 咬まれた部分の血を吸い出し、外にはき出す。ナイフを持ってきてい
 ない。
咬まれた付近をナイフで切って、吸い出すのがいいだろうが、・・・

棒で草を払った。
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勇気ある撤退を選んだ。

▼下山
走って降りることにした。

●部活が終わって・・・・
 教頭にお礼を言った。




【2】代官屋敷
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・代官屋敷から赤木名城を望む。
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夕日が美しかった。悠久の時は過ぎていく。
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遠い昔、赤木名城を築いた謎の城主は真っ赤に染まる夕日を見ていたの
だろうか。
代官は代官屋敷で暮らし、赤木名の土地を守り、赤木名の町を残した。
奄美大島を愛おしく想った武将たちがいたのであろう。



【3】赤木名城の歴史 ≪ウィキペディアより引用≫

出土物と歴史的資料から以下の三つの段階に分けられる。

1)11世紀後半〜12世紀前半(本土の平安時代〜鎌倉時代。)
地下からこの時期の土坑が発見されているがどのような施設があった
かは不明である。
日宋貿易が盛んな時期であり、南西諸島でも硫黄貿易・夜光貝貿易など
経済活動が活発化した。土坑からもカムィヤキ・滑石・石鍋など当時の
物品が発掘されている。
 なお、地下からは帰属年代不明の土坑・ピットも発掘されている。
こちらの土坑には多数の鉄滓と焦土面が認められ、鍛治の技術が導入され
ていたことが伺える。

2)14世紀後半〜15世紀(本土での南北朝時代〜室町時代。)
沖縄本島を中心として琉球国家が急速に形成された時期であり、また、
倭寇の活動が盛んだった時期でもある。これを受け、南西諸島で多くの
山城・グスクが形成され始める。
 赤木名に山城が築かれたのもこの頃と考えられている。
当時の物品である中国製の青磁などが出土している。
 15世紀中盤〜17世紀初頭からは琉球の統治下に置かれた。背後の
大笠利に笠利間切の蔵本が設置されており、海上交通と軍事において
重要な拠点となっていた。

3)17世紀後半〜18世紀前半
1609年、島津軍が琉球侵攻の際に笠利湾を訪れ、これ以降赤木名を拠点
に薩摩藩の統治下に置かれる。赤木名城の城跡も整備され現在の形にな
った。縄張りは九州本土の城郭に見られる形式であり、尾根を三つの連
続する堀切で南北に2分した「一城別郭」の構造を持っている。
 北の部分は神山の最高点を中心として南北22m×東西13mの平場をな
す曲輪があり、主郭のあった場所と考えられている。これの周囲に土塁
と石積みが存在する。
 南の部分は大きな曲輪を取り囲むように7つの帯曲輪が斜面に作られ、
斜面下方には多くの堅堀が存在する。堅堀によって外敵の移動を制限し、
帯曲輪下方に誘導して射撃するという設計だったとの考察がある。帯曲
輪の一部はかつて耕作地として利用されており、非常時の食料となるソ
テツが栽培されていた。当時の出土品として肥前の陶磁器などがある。
秋葉神社・観音寺はこの時期に建立され、また菅原神社も幕末には存
在していたことが確認されており、聖地としての性格を考えるにあたっ
て重要な時期である。
 (★ウィキペディアより編集)

【3】赤木名城の特徴・学術的価値

中国大陸からの影響で城壁の発達している琉球のグスクと比較すると、
石材がほぼ加工されていないので、防衛機能がやや低いという特徴が
見られる。
 かつては奄美大島の城は沖縄におけるグスク研究の周辺事例という
扱いだったが、本土の薩摩の特徴が認められる城跡が赤木名城・伊津
部勝グスク(名瀬)などで確認されており、九州から沖縄県にかけて
の歴史を考察するにあたり重要なものとなった。特に赤木名城は規模
が大きく特徴が顕著である。総面積12万421uもある赤木名城跡
は奄美地域を代表する中世並行期の城郭である。石垣の発達した琉球の
グスクとは異なり、日本風?薩摩風の山城に近いことが注目されている。

・平成21年(2009)2月12日、国の史跡に指定された。

3月31日付で奄美市教育委員会は「史跡赤木名城跡保存管理計画
書」を発行した。国指定の文化財を受けた史跡の保存、活用方針を示
した。文化財の特徴や歴史的価値が把握できるよう「付編」を収録し
たことも特徴である。
 幕末の薩摩藩の流人:白尾伝衛門が作成した「赤木名絵図」解読は
赤木名の地名変遷を史料から読み解いたものもある。
 (★「史跡赤木名城跡保存管理計画書」Hpより)




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