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zoom RSS 箕輪初心:生方▲富山24の2【前田慶次郎】阿尾城代4説→長谷堂城の戦い3説

<<   作成日時 : 2017/06/04 15:26   >>

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『前田慶次郎』・『水戸光圀』は傾き者で有名である。『前田慶次
郎』は漫画「花の慶次」(さいとうたかを)の影響でさらに、有
名人となった。説@…・天正10年 (1582) 前田利家は小丸山城
を築城し、七尾城から移った。阿尾城主:前田慶次郎とした説。
説B…天正11年 (1583)前田利家が七尾城に移った時、前田利久
ろ慶次郎を呼び寄せ、阿尾城主:前田慶次郎とした説。天正12年
(1584)▲末森城の戦いの参加・不参加に説が分かれる。

説B…天正13年(1583)4月、前田利家は阿尾城に進出し、阿尾
城を攻略し、前田慶次郎を城将に任命した説
。C説4…天正14年
(1586)、(氷見市史)『前田慶次郎』は阿尾城5000石城代なった説。
の4つがある。佐々成政に命じられた神保氏張勢が阿尾城奪還
に押し寄せたが、城将:前田慶次郎は神保勢を撃退したという。
陸奥の『長谷堂城の戦い』で直江兼続の配下として参加したこと
についても3説有る。
しかし、第一次史料がほとんどない
ので、実際のところは良く分かっていない。

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箕輪初心:生方▲富山24の1【越中阿尾城】2回目
http://53922401.at.webry.info/201706/article_3.html



前田利家と前田慶次郎の関係〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
@滝川一益の弟:滝川益氏と妻は前田慶次(郎)利益を産んだ。
A前田慶次(郎)利益の母は前田利久の妻となった。
B前田慶次(郎)利益は前田利久の養子になった。
 前田利久の姪と婚姻した。
前田慶次(郎)利益は前田利家の年上の義理の叔父になった。
C前田利久の弟:前田利春(利昌?)の4男が前田利家であった。

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 (★無料画像)
前田利家の兄:前田利久の養子で滝川益氏の子どもであることは
間違いないようである。本来ならば、前田家を継ぐのは前田慶次郎
利益であったはずなのではあるが、・・・。ところが織田信長は
前田利久が病弱であることを理由に前田利家に跡を継がせた。
前田利久、利益親子は居城:尾張荒子城を追い出されて浪人した。



・永禄12年(1569) 前田慶次郎は織田信長から突如、前田家の家督
  を継ぐように命じられた。

・天正2年(1574) 前田利家は柴田勝家の与力となり、越前一向一揆
  の鎮圧に従事した。越前府中2万3000石の大名になった。
  前田利家は織田信長・羽柴秀吉の下で国持大名に出世した。
  前田利久、利益親子は前田利家に仕えた。

・天正3年(1575)前田利家は織田信長の指示により越前国府中
   10万石の領主となった。
  (★越前府中城=現JR武生駅前〜武生市役所一帯が城跡)

・天正9年(1581) 前田利家は能登一国の国主となった。
 前田利家は七尾城に入城した。23万石の大名になった。
●七尾城
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 前田利家に2男6女が生まれている。
 七尾城は要害ではあったが防御上は利点があったが、港から
  離れていて治世・経済上の難点があった。

箕輪初心◆2013年GW:能登の城&ダイビング&志賀スキー他
http://53922401.at.webry.info/201305/article_1.html



●須田満親************************
・天正9年(1561)
 4月 越中松倉城主:河田長親が松倉城で病死した。
   須田満親は河田長親の死後、越中方面の総指揮官となった。
  (★須田満親→直江兼続に送った書状(+含む菅名綱輔の書状)
  宛名は「直江与六殿」。米沢市の上杉博物館所蔵)
富山城主神保長住・佐々成政が上洛中に新川郡小出城を攻め
   たことに対して、菅屋長頼が非難の書状を須田満親・上条
   宣順宛に出したものである。
 

 織田軍が加賀一向一揆を制圧し、越中に侵攻した。
   上杉方は今泉城(富山市)は放棄した。

    須田満親は松倉城で佐々成政との戦いに専念した。

 7月 越中砺波郡木船城主:吉江宗信が海路で撤退した。

 越中:魚津城には、中条景泰、竹俣慶綱、三本寺景長ら越中在番
 の越後の諸将が拠点としていた。
 上杉景勝は、松倉城に楠川将綱、吉益清定、山田長秀、廣井忠家、
 黒金景信、松倉・魚津両城の横目付に大石芳綱を派遣した。

 

・天正10年(1584)

3月 織田方の総大将:柴田勝家は、角川の西岸に着陣した。

上杉軍は、松倉・魚津両城の間に繋ぎの城を築いて連絡を取り合
 っていた。
4月 柴田軍は徐々に魚津城包囲をし始めた。
  
5月4日 上杉景勝は、魚津城救援のため、春日山城から越中に
向かった。
5月6日 織田軍は海津城二の丸を占拠した。

5月19日 上杉景勝は魚津城東側の天神山城に入り後詰の陣を
      張った。
 織田の部将:森長可が信濃から越後:春日山城近くに陣を敷いた。

上杉景勝は知らせを聞き、春日山への退却を決意した。
松倉城:須田満親は殿となった。須田満親は、
松倉城の撤退戦を指揮した。

5月26日 須田満親は柴田軍の包囲をかいくぐり、松倉城を撤退
 した。天神山城で上杉景勝と合流した。
 その夜、上杉景勝が越後に引き上げたのである。

『天地人』では、直江兼続が海津城に忍び込むストーリーだった。

 織田軍は大砲を用いて魚津城を攻めていた。

6月2日、本能寺の変・・・織田信長が死亡。

6月3日、魚津城は落城し、大将分の13名は討死した。


★前田利家・・・「織田信長も死んだことだし、そろそろ前田利久
  ・前田慶次郎利益を呼び寄せよう。
  領土が広くなったが、身内がいないのだ。と前田利家は
  考え始めた。

・天正10年 (1582) 前田利家は小丸山城を築城した。
 前田利家は七尾港に近い所口村の小丸山に平山城を築くことを
  決定し七尾城から移り住んだ。
●小丸山城  
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   河川と海が堀の役割を果たす水城でもあった。
   小丸山城は能登水軍の本部の役割も成していた。
   前田利家は29の寺院(山の寺寺院群)を建立し、能登半島
   方面からの敵襲の守りを補った。
★前田利家はおそらく、この時、前田利久・前田慶次郎利益を
自分の近くにおいて、佐々成政の牽制に当たらせたと個人的
 には考えている。
  
******************************


・天正11年(1583)4月 ▲近江国伊香郡(現:滋賀県長浜市)の
  賤ヶ岳の戦い
   羽柴秀吉 VS 柴田勝家
前田利家はどちらも義理があり、どちらも味方しないことに決めた。
結局、前田利家は柴田勝家方に与して、敗走した。
まつは越前府中で羽柴秀吉に会って和議を講じて利家の危機を救った。
勝った羽柴秀吉は前田利家に旧領を安堵し、加賀2郡を与えた。
  
 前田利家は尾山城(金沢城)へ本拠を移した。
   兄:前田安勝が七尾城代として居住した。
3女:摩阿は羽柴秀吉の側室になった。
4女:豪は羽柴秀吉とねねの養女になった。

※天正11年(1583) 前田利家は能登国七尾に入封した。
@前田利家に仕え、能登七尾に移り、7千石を与えられた。
 前田利家が不在の時には金沢城代を代任するなどした。
A兄の前田利久と前田慶次郎を呼び寄せ、利久に2000石、慶次に
 5000石を与えて、前田利久を金沢城代としている説もある。



・天正12年(1584) ▲小牧・長久手の戦い(3月〜11月)
 3月頃? 佐々成政は豊臣秀吉方につく姿勢をみせていた。
  夏頃  佐々成政は徳川家康および織田信雄方についた。
井伊直政の活躍で徳川家康が有利になった。
  
 豊臣秀吉と織田信雄との間で和議が成立して、徳川家康が停戦
 した。
 最終的には豊臣秀吉が勝利した。
 豊臣秀吉は徳川家康に組した武将を狙い始めた。

4月 前田利家は能登一国と加賀石川・河北が与えられた。
 佐々成政と豊臣秀吉・前田利家は織田信長の家臣であったが、
 佐々成政は有力家臣の出身であったので、豊臣秀吉を軽蔑して
 いた。
 豊臣秀吉は前田利家を佐々成政の見張りとして、加増した。
 前田利家は金沢城に入城した。


8月28日 佐々成政は羽柴秀吉方の前田利家の朝日山城(石川県
 金沢市加賀朝日町)を急襲した。
 前田氏家臣の村井長頼が退する。

9月9日 ▲末森城の戦い
 佐々成政は前田利家の加賀国と能登国の分断する作戦をたて、宝達山
 を越えて坪山砦に布陣した。
 総勢1万5000人で能登国末森城(石川県羽咋郡宝達志水町)を包囲
 した。
 前田利家の増援軍を警戒し、神保氏張を北川尻に置いて警戒にあたら
 せた。
9月10日 戦闘が始まった。
  城将:奥村永福・千秋範昌らの篭城軍は1500人であった。
  多勢の佐々軍が有利であった。
  前田方の城代:土肥次茂(土肥親真の弟)が討死し、落城寸前に
  追い込まれた。
★佐々成政の奇襲作戦は成功したが、詰めが甘かった。

  前田利家は金沢城にて急報を聞き、兵2500人を率いて出陣した。
  前田利家の金沢城から末森城までは約30km離れている。
  前田利家は地の利を生かして高松村(かほく市)の百姓:桜井三郎
  左衛門の案内により、佐々軍の手薄な海岸路に沿いながら北川尻を
  越えて今浜まで進軍した。

9月11日明け方、前田利家本隊は末森城に殺到する佐々軍の背後か
 ら攻撃し、打ち破った。
 結果…両軍ともに750人余りの死者が出たとされる。

前田慶次郎はこの2500人の中にいた説もある。
@漫画の「花の慶次」の第一巻ででてくる「末森城の戦い」がある
  が、前田慶次郎が奮戦する。
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 A小説「利家とまつ」NHK出版下巻P211〜224
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「末森に走った。・・・
 又兵衛・種村・可児才蔵・慶次郎等も自ら槍をもち、・・・」
 と慶次郎が参戦しているが、活躍は描かれていない。
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★もし、天正10年阿尾城説を採ると、神保氏張は守山城にいるので、
  阿尾城から森寺城・・・能登方面から前田利家に合流したことに
なる。前田慶次は阿尾城にいたので、連絡がこなにで末森城へ救
出にいったかは怪しいことになりはしないだろうか?
 ★もし、天正13年・天正14年阿尾城説を採れば、出陣した可能性
  が高いことになる。
  阿尾城の菊池右衛門入道武勝・十六郎父子は末森城を奪って、
  能登と加賀の連絡路を絶とうとした説が有力である。
  前田利家の援軍で末森城は攻略できなかった。

 


・天正13年(1584)
▲富山の役
4月 丹羽長秀が没した。
   柴田勝家の後を継いだ越前国主:丹羽家は国替えとなった。
   豊臣秀吉が越中に乗り出した。
   佐々成政は兵力を集中させる策を採ったため、前野勝長は
   井波城を出て富山城へ参集した。

6月、高岡の守山城主:神保氏張5000の兵によって井波城が
   攻められた。
   村井長頼の活躍により撃退している。

7月 前田利家は阿尾城主:菊池氏に講和条件を提示した。

前田利家は上杉景勝との同盟を模索した。挟み撃ちにする考え
であった。

●上杉景勝・直江兼続・須田満親の動き*********
 真田昌幸は徳川配下から上杉景勝に接近した。
取り次ぎは須田満親であった。

7月?日 次男:真田信繁(幸村)は海津城に行った。
須田満親は真田信繁(幸村)&矢沢頼幸を春日山城に
連れて行った。配下かもしれないが、・・・・
  真田昌幸は2人を人質に出して上杉景勝に従属した。

※7月15日 9ヶ条の起請文
@上杉に忠節を尽くせ
A敵が攻めてきたら援軍をよこせ
B噂や密告を信じないで、密接な関係でいようね。
C信濃国の知行は海津城将:須田満親が行う。
D小県(上田)、吾妻(岩櫃)、利根(沼田)・坂木の庄を安堵する。
E佐久甲州のどこか、長野一跡(★箕輪城)を与える。
F屋代秀正の一跡(荒砥城&屋代城)を与える。
G真田昌幸に禰津昌綱の処遇も一任した。
平山説・・・真田昌幸の配下にすること
H???
(★『真田4代』:丸島和洋著など)
夏、須田満親は羽柴秀吉との交渉役になった。
越後・越中の国境:勝山城(親不知トンネルの上)で上杉&羽柴
が会見する下準備をした。
上杉景勝+直江兼続⇔羽柴秀吉+石田三成
結果・・・同盟を結んだ。
徳川家康が怒って、第1次上田合戦になる。
(★『勝山城現地案内板』)
★@須田満親の長男:須田満胤(光義)は直江兼続の妹「きた」
娘婿となっていたため、須田家の家督は次男:長義が継いだ。
★A佐々成政の豊臣秀吉と上杉景勝の挟み撃ち作戦が成立した。

箕輪初心:生方▲真田丸88【須田満親&真田昌幸】
&『福島正則陣屋』上高井郡高山村散策3回
http://53922401.at.webry.info/201604/article_28.html


●前田利家の動向*********************
富山城の佐々成政攻めの準備
 @前田利家の家臣:岡嶋一吉・片山伊賀らが白鳥城に駐屯説。
 A羽柴秀吉の本陣伝承説説。
  羽柴秀吉の本陣が置かれたのは加越国境の倶利伽羅である。
 B白鳥城に陣を設けたのは先遣隊の大将:織田信雄説。 
 片山延高、岡嶋一吉が白鳥城を出て大峪城並びに越中国安田城を改修
 し、白鳥城の出城として、大がけ城・安田城を守備した。

8月 ▲富山の役

8月4日、織田信雄の隊が京都を出陣した。
8月6日 加賀国鳥越城(白山市国指定史跡)に布陣していた前田勢
     が佐々軍との交戦を開始する。
8月7日 羽柴秀吉は大軍を率いて京を出陣した。

 佐々成政は、羽柴秀吉の来襲に備えて、越中国内36の諸城塞から
 順次兵を引き揚げさせ、富山城に集中配備した。


8月19日、秀吉軍は加賀国津幡から越中に入った。
  秀吉軍は総攻撃を開始し、周辺の要所を放火して周り、富山城を
 包囲した。
 越後の上杉景勝もこれに呼応して兵を出し越中境まで進出した。

 佐々成政の同盟者(親戚):飛騨の姉小路頼綱は、金森長近率いる
 別働隊によって攻略され、佐々成政は孤立無援となった。

しかし、神通川の流れを水濠に引き込み、「浮城」の異名をもつ
富山城を攻めるのは困難であった。
秀吉は得意の水攻めで攻略するつもりでいたともいわれる。
 またこの時、暴風雨が野営中の秀吉軍を直撃し、大きな被害が
 出ている。
前田利家が先導し、富山城を10万の大軍で包囲した。
   
 佐々成政が織田信雄の仲介により降伏した。
佐々成政は豊臣秀吉の裁定により、一命は助けられた。
越中東部の新川郡を除く全ての領土を没収された。

前田利家の嫡子:前田利長が越中国の4郡のうち砺波・射水・婦負の
3郡を加増された。
前田利家は豊臣政権下における北陸道の惣職ともいうべき地位に
 上った。



11月8日、前田利家は佐々成政の勢力をそぐため、佐々成政の重臣:
 阿尾城主:菊池武勝に和睦交渉をひそかに持ちかけた。
 菊池武勝は、前田家家臣:富田景政との秘密交渉で前田氏に寝返る
 ことを決意した。丁寧な手紙であったという。


・天正13年(1584)
4月 丹羽長秀が没した。
   柴田勝家の後を継いだ越前国主:丹羽家は国替えとなった。
   豊臣秀吉が越中に乗り出した。
   佐々成政は兵力を集中させる策を採ったため、前野勝長は
   井波城を出て富山城へ参集した。

6月、高岡の守山城主:神保氏張5000の兵によって井波城が
   攻められた。
   村井長頼の活躍により撃退している。

7月 前田利家は阿尾城主:菊池氏に講和条件を提示した。

前田利家は上杉景勝との同盟を模索した。挟み撃ちにする考え
であった。
 
 
 白鳥城・富山城は佐々成政降伏後、前田利家の所領となった。
 前田利家は、まだ越中の東部を領していた佐々成政に備えるため
 城将を置き、慶長年間の初めまで続いた。
  守将岡嶋らは安田城に居城し、白鳥城は詰城とした。 
白鳥城は御服山(五福山、呉福山)城の詰め城であった。
 現存する縄張りはこの頃に完成したものとされている。
(★安田城博物館)
 白鳥城・富山城は佐々成政降伏後、前田利家の所領となった。
 前田利家は、まだ越中の東部を領していた佐々成政に備えるため
 城将を置き、慶長年間の初めまで続いた。
 片山延高が大峪(がけ)城主となった。

 守将:岡嶋らは安田城に居城し、白鳥城は詰城とした。 
白鳥城は御服山(五福山、呉福山)城の詰め城であった。
 現存する縄張りはこの頃に完成したものとされている。
(★安田城博物館)

●天正13年(1585) 前田軍が守山城攻め落とした。
 豊臣秀吉から賞賜されて、守山城は前田利長の居城となった。

●前田利長は、13年間、守山城を居城としていた。
 守山城は、加賀・越中・能登の加賀藩三領のほぼ中心部に位置
していた。小矢部川の流域の豊潤な穀倉地帯を統括するには絶好の
城であった。また、伏木・六渡寺・放生津の湊からの海上輸送・庄川
・小矢部川の河川輸送、北陸道の陸路をも掌握できる要所にあった。
後、富山城が火災にあい、守山城から真下に見下ろす関野原に「高岡
城」を高山右近に命じて築いたのは、高岡は馴染み深い地で、土豪や
有力商人たちと縁故も生まれていたという統治の諸条件が高岡に揃っ
ていたからであろう。


・天正14年(1584)
4月14日、前田利家は6000の兵を率いて阿尾城へ向かった。
 菊池父子は阿尾城の城門を開き、阿尾城から少し離れた所で五十騎
 程を従えて前田軍を出迎えた。

 前田利家の先陣に村井長頼、・・・・第五陣に慶次郎、後方に防衛役
 として利家自ら出馬して次々と阿尾城に入城した。

 佐々成政は守山城の神保氏張からの急使により菊池父子の裏切りを
 知った。
 佐々成政は烈火のごとく怒り、富山城から阿尾城へとかけつけた。
 しかし、時すでに遅し。・・・
佐々成政は守山城に待機した。
 阿尾城内には前田勢が入っていて軍容から攻めることはでき
 なかった。
 佐々成政は空しく富山城へ引きあげた。
 前田利家は戦うことなく、阿尾城を手に入れた。

 (★『氷見市史』・前田利家の小説等)



 前田利家が能登を支配すると、実兄:前田利久に7000石が与えら
 れた。(後、前田利久は金沢城代)
 前田利家は阿尾城代に前田慶次郎を任命した。
  前田利久7000石の内、前田慶次郎は5000石であった。
 前田慶郎次は対佐々成政の最前線である阿尾城代となった。

 片山延高、高畠定良ら兵千余騎を残し、金沢へ引き上げた。
 また、村井長頼は高窪城に一撃を加えて金沢へ戻った。

佐々成政は、阿尾城を取り戻すべく神保氏張に阿尾城攻撃を命じた。

6月24日 守山城主:神保氏張、氏則の父子は五千の兵を率いて氷
 見へ進撃した。
 阿尾城将:前田慶次郎、片山延高(大がけ城)、高畠定良、
 菊池武勝:安信父子らは二千の兵を率いて迎撃した。
 
 神保氏張5000  VS 前田慶次郎2000
 戦いは双方一進一退の大激戦となった。
 前田軍が総崩れになろうとした時、村井長頼が三百の兵を率いて
 加勢した。
 神保軍は村井長頼の勇名と焦りから村井勢に百余も討ち死にした。
 神保氏張は嫡男:神保氏則を失った。
 結果・・・阿尾城の戦いは前田軍が勝利した。


 ★前田慶次郎利益は実際に城にとどまったのは2〜3か月程度の
 ことと考えられる。すぐに金沢城に呼ばれたようである。



●天正15年(1587) 9月16日 前田利久が死去した。
  (1583年没説あり)
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【4】 阿尾城代の前田慶次(郎)利益のその後
・天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原城攻撃
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★北条氏邦は前田利家の食客として1000石で七尾に住んだ。
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@前田慶次郎は北国軍として、出撃した。
前田利家と上杉景勝(含真田昌幸・信幸・幸繁)は進軍した。
松井田城→・・箕輪城・・・鉢形城・・・小田原城
※前田慶次郎も出撃した。
前田利家と前田慶次郎は奥州の仕置きに行った。
※前田慶次郎は不明・・・・
 前田慶次郎利益は養父:前田利久が病没した後、前田家から単身
 出奔している。
 前田利家を水風呂に入れて、馬を盗んで出奔したエピソードも
 ある。その後は、京で芸能活動を始めているという。
 前田慶次(郎)利益は和漢の学・詩・能楽・連歌・書に長じて
 いたと伝えられている。
 上杉家に仕えるようになり直江兼続の与力となった。
@慶長5年(1600)直江兼続の家臣として、長谷堂城の戦いで戦死
した説 (もう一つの関ヶ原=長谷堂城の戦い:学研)


▲奥州の関ヶ原の戦い「長谷堂城の戦い」
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直江兼継 VS 最上義光(よしあき)
@直江敗戦・・・前田慶次郎&上泉泰種(上泉伊勢守
 信綱の孫)も討ち死にした説。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 
箕輪初心●山形【長谷堂城の戦い】直江兼続VS最上義光
 http://53922401.at.webry.info/201307/article_9.html  


A慶長5年(1600)東北の 関ヶ原の戦い=長谷堂城の戦い
 上杉家の封を削られ、浪々の身となった説
晩年は大和苅布に居し、「龍砕軒不便斎」と号した。
 慶長10年(1605)11月9日、大和苅布で死去した。
 享年73。・・・生涯を閉じたと言われている説もある。

B慶長5年(1600)関ヶ原の戦い=長谷堂城の戦いに出陣して撤退する
  と殿として最上軍の追撃を撃退して戦功を立てた説。
  直江兼続は、関ヶ原での敗報を聞いて自害しようとしたといわれて
  いるが、前田慶次郎利益に諌められて撤退を決断した説。
  上杉家は出羽米沢30万石に減転封されたが、前田慶次郎利益も
  米沢に入った。
 前田慶次郎利益は米沢で隠棲しながら、直江兼続とともに「史記」
  に注釈を入れたり、和歌や連歌を詠んだりなど悠々自適の生活を
  送ったと言われている。
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 ※直江兼続が所有「史記」は現在では国宝に指定されている。
 ・慶長17年(1612)6月4日に米沢の堂森で没した。





******************************

【1】小説1『前田利家と妻まつ』:中島道子著
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【2】小説2『利家とまつ』:竹下洋著
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【3】平成14年(2002)NHK大河ドラマ『利家とまつ〜加賀百万石物語〜』
 NHKで2002年1月6日から12月15日
 大河ドラマ第41作目。
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 (★無料画像)
★毎回見たよ〜ん。




【4】漫画『花の慶次 -雲のかなたに-』原哲夫:漫画。
  ※原作:歴史小説「一夢庵風流記」隆慶一郎作著。
 週刊ジャンプ「1990年13号〜1993年33号」
   漫画:18巻
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 (★無情画像)
★顔は「北斗の拳」のケンシロウ、『蒼天の拳』の主人公
である。


【5】平成27年(2015)NHK木曜時代劇『かぶき者 慶次』
 平成27年(2015)4月9日(木)〜6月18日(木)
総合テレビ 毎週木曜 午後8時〜8時43分 <連続11回>
画像

 (★無料画像〜
物語
時は、徳川家康が関ヶ原の合戦で勝利した頃。
上杉家は会津120万石から出羽米沢30万石に大減封されること
になった。組外衆の多くは将来に見切りをつけ、米沢を去って行
く。そんな中、前田慶次はこの地にとどまり続け、困難に立ち向
かう人々と生きる道を選ぶ。60歳を超える慶次は米沢の地の粗末
な庵に細々と暮らし、「潮時」を考えていた。
一方で息子の新九郎は、風流三昧で、酒好きのオヤジ、さっぱり
世に名高い猛将らしくない慶次に反発を覚える。だが、ここぞとい
う時で「かぶく」慶次。引退を考えながらも、上杉家を守るためな
ら命を投げ出すことも厭わない。次第に新九郎は本当に人間を知っ
ている者のみが持つ度量の大きさ、彼の生きざまに魅せられていく
……。
原作:『上杉かぶき衆』火坂雅志著 実業之日本社 2009 
(★NHKより引用)
★11回中、5回位は見た。




★明日は「森寺城」かな?

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