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zoom RSS 箕輪初心:生方▲箕輪城244/井伊直虎・直政79『井の国会』@箕輪城

<<   作成日時 : 2017/06/18 13:50   >>

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井の国会:石原正美先生は「井伊谷・浜松では超有名である。
「古墳の歴史・井伊氏の歴史」に精通しておられるからである。
前方後方墳が尾張・井伊谷から群馬に伝来したのだ。
@平成27年(2017) 9月7日・8日? 石原正美先生には、高崎
 市委嘱「高崎市箕郷歴史文化調査研究会」の井伊谷訪問でお
 世話になった。
A平成28年(2017) 4月12日「井の国会団長」として箕輪城
 に来られたので、私は箕輪城のガイドをさせていただいた。
B平成29年(2017) 6月14日、15日の井伊谷の「井の国会
(石原正美会長)」の箕輪・安中・高崎に30名の方が来られた。
今回は、1日目の懇親会にも参加することになった。石原正美団
長の息子さん「石原利弘」氏にもお会いした。高崎市箕郷町では
箕輪城→箕輪龍門寺→エスビック:裄V『創新館』を見学された。
◆また、近藤康用→近藤秀用の子孫:近藤さんにもお会いした。
★私は「井の国会」の旅行の先々で岡田会長・西原さんとご一緒
させていただいた。
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【1】箕輪城…井伊直政が8年強城主であった。
●現在の箕輪城は井伊直政の遺構である。
 ●井伊直政の郭馬出の西虎口門(秋本太郎氏命名)を復元した。
 ●井伊直政の本丸西虎口高麗門と木橋を復元予定である。
・井の国会Tシャツ・・・★欲しい。
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・司会…生方信夫氏
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・「箕郷支所:生方忠義課長の挨拶」
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・「箕輪城語り部の会会長:岡田先生の箕輪城概略」

・現地説明会
 A班:清水副会長班、B班:生方副会長班、C班:西原班
 西原班につき、西原氏の解説を聞いたり、石原先生と話をしたり
 、ほかの方の質問に応対したりした。
私が石原先生に補足説明した内容
@二の丸…元裄V家の土地だった。と話した。
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 (★井伊直虎・浜松市の旗は石原先生が浜松市を
  代表とし、浜松市から許可をいただいて、箕郷の
  代表として、西原さん経由で、送られ、高崎市の
  許可を得て展示された物である
。)
 ★石原先生親子3人の旗の前で記念撮影。
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B本丸堀…関東で一番大きいです。幅広い所で40m。
  横矢かがりの本丸から、矢・鉄砲を射かける構造
  になっています。
C本丸郭馬出…「曲尺(かね)馬出」ともいいいます。
  北条時代の遺構がと考えられます。
D本丸南虎口…北条流の三段の石垣です。
  武者走りになっていました。
・本丸石碑…
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E本丸…井伊直政公の御殿がありました。
  天守閣はありません。
  ほかの方に「もし、二条城…越前朝倉氏館・八戸城御殿
   の本をお持ちでしたら、そのイメージでよいかと思います。
  高崎城にも本丸に「御殿」あり、水がわき出てしますので、
  二の丸に御殿を移しました。彦根城も天守閣のできる以前は
  本丸に御殿がありました。その後、現在の彦根城博物館の
  所に移りました。

F本丸西虎口門…西原さんが「井伊直政公の遺構を
  復元する予定です。」と復元予想写真をみせた。
  、…私がだれかに…秋本太郎先生の説明によると  
  発掘調査で高麗門であったと説明された。
  

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▼戻って
G大堀切… 「北条流の畝堀です。卵パックの
  一列を想像してください。…深さ4mもあり、
  落ちたら上がれません。大きな落とし穴です。」
  とどなたかに説明した。

H郭馬出…「北条の遺構に井伊直政公が手を加えた
   ようです。」 


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「これ、秋本先生は書いたものです。」


I西虎口…「井伊直政公の遺構を復元しました。
  秋本太郎先生の説明によると、
  発掘調査で真ん中は土が固まっていました。
  秋本先生は馬と人が通った部分であろうと考えました。
  右も土は外へと固まっていました。ここは人が通った
  と考えています。
  左は半分まで、土が固まっていたので、2階の狭間に
  いく階段があったのだろうと秋本先生が考えました。
  高崎市長の意向で、急ピッチで秋本先生が文科省に
  復元の申請を書きました。
  そこに礎石が見えていますが、本物は約1m下に埋まって
  います。…」
 
石原先生は「秋本君は元気ですか?」
 「凄いですよ。名実ともに秋本先生が箕輪城bPですね。」

J木俣…
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 西原さん「近藤義雄先生の説では「木俣」は木の股の意味で
   あった。」・・・・
  石原先生「木俣守勝の屋敷だ。と5〜6年前に
  来た時、思いました。」
西原さん「私なんか、高崎市教委の若狭さんに、木俣は木の股じゃ
 なくて、木俣守勝だよ。と怒鳴り込んじゃいましたよ。・・・
 井伊軍志を見せて、納得してもらいました。」
  私はどなたかに、「新野左馬助の娘が狩野一庵に嫁ぎ、できた子を
   連れて、木俣守勝と再婚した。で、木俣守勝が第一家老に
   ありましたが、木俣守勝の跡は連れ子を養子にした木俣守安
   が継ぎました。」
*****************************
箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政49『瀬名姫(=築山殿)と松平信康と亀姫
http://53922401.at.webry.info/201703/article_13.html 
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201703/article_13.html

 「ちなみにNHK大河に出ている『高瀬姫』は今川家臣:孕石(はらみ
  いし)に嫁ぎました。徳川家康の今川人質時代、孕石家は松平家の
  隣にありました。家康の鷹が隣の孕石家に降りるので、こっそり
  取りにいって、よく怒られたそうです。   
  天正9年(1581) 3月22日、徳川家康の侵攻により高天神城
は陥落した。孕石元泰は捕らえられ、3月23日に切腹させられた。
  徳川家康に降伏した者で切腹を申しつけられたのは孕石元泰が一人
  であった。
  ★餓鬼の時の思い出がしこりになっていたのであろう。
天正10年(1582) 8月 天正壬午の乱
孕石備前守泰時は旧武田家家臣:山県昌景隊に所属していたが
  武田家滅亡後、徳川家に仕え、井伊直政付家老となった。
  ★父に切腹を命じたのに、子どもに罪はないてとこか? 
  井伊直政に仕えて1500石で旗奉行となった。
  彦根城築城にも功があった。

※ちなみに、井伊直政の姉:高瀬姫は、川手主水の正室となった。
箕輪城・高崎城で留守居役を務めた。
関ヶ原の戦いでは井伊直政の居城:高崎城で. 徳川秀忠20000の
面倒を3日間みた。川手主水は彦根藩の家老となっている。 




【2】箕輪の龍門寺…井伊直政が建てさせた寺「橘」
●「井伊直政の木造」所有しているが、今回は見なかった。
● 「松下清景の墓」・「松下一定(中野直之の次男)の墓」がある。
  ★現住職の喜美侯部氏の祖父は私の中学時代の先生であった。
   直接がは教わっていない。祖母様は父の同僚であった。


【3】箕郷の「創新館」の見学
 ●裄V家…武田初代:武田信義の長男系一条家・・・
3代目:一条信長の分家:裄V家
(武田信玄の9男:武田信龍は一条家に養子に入った。
 諸家には裄V吉保・・・・)
@近藤康用→近藤秀用の宗家子孫:近藤さんが箕輪城・箕輪龍門寺
 ・創造館にお見えになられた。石原先生に紹介された。
 NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」の「近藤康用(やすもち)」
 がご先祖である。
A「藤姓近藤家は近江に所領→伊豆:蛭が小島?で、源頼朝に仕え、
 治承4年(1180)8月17日の源頼朝の平家打倒の討ち入りに
 参加しました。」と説明した。
B箕輪城には2年しかいなかった。井伊直政とトラブったのかも
 しれない。近藤氏
C現高崎市箕郷町富岡の高橋邸が屋敷であったらしい。
 (★現在地の高橋さん曰く・・・記録がある?)
★僕んち父方は長野氏家臣・母方は生島足島神社に起請文のある武田
家臣なので、百姓になっていた我が先祖は世が世なら、近藤家当主
と直接、話などできないかもしれない格差があったのだろうな。と
思いながら話した。
D出奔してから、長い間許されなかった。
E井伊谷に近藤陣屋を建てた。(井伊谷の里城の3の郭)
F近藤康用→近藤秀用の宗家子孫:近藤さんは現在、井伊谷のボラ
 ンティアガイドをされている。



【4】安中の武家屋敷
井伊直継(直勝)が基礎を築く

【5】安中の大泉寺
井伊直政の正妻の墓?
井伊直勝の妻の墓


【●】安中ふるさと学習館
 ★西原号で、佐野学芸員に支払いを先にすることになったので
   4人で学習館に行った。

  ★近藤康用の娘は中川忠重の妻になっているので、
    中川家には井伊家に繋がる文書がたくさん残って
    いる。富原道晴先生が中川家文書をたくさん所持して
    いて、友達の小和田哲男先生に貸したそうである。
    その史料が安中にたくさん展示されている。 



    
*ちなみに富原先生は陸軍省絵図を戎光祥社から9800
    で発刊された。もちろん購入した。


【7】新島襄の父の家
※新島襄の生涯を展示


【●】梁瀬二子塚古墳
 ★磯部温泉「恵みの湯」に予約支払い関係をするので、
  西原号で出かけた。

石原正美先生「浜松で1番古いといわれる引佐町の北岡大塚古墳、
 2番目に古い赤門上古墳がある。」
 ★若狭徹先生(元高崎市文化財保護課課長→実は前方後方墳は、
  高崎将軍塚古墳に井伊谷・尾張から築造法が伝わった。
  西原さんが木俣の件で口論となった先生である。


【9】磯部温泉「恵みの湯」
●懇親会
「歴史学者:西原巌氏」・「箕輪城語り部の会会長:岡田豊治先生」
  「大学院生:私」で参加した。
@石原正美会長は『昭和12年(1937)気賀は「けがちょう」から「きがち
ょう」に改称した。昭和13年(1938)国鉄二俣西線の気賀駅として開業し
た。でも、それまでは気賀は「けが」と呼んでいたので、怪我する駅で
は縁起が悪かったのか?直虎でも「けが」の方が????。』
A井伊達夫先生の話



●温泉
B井伊谷の隣:井伊直虎を匿った渋川村の「東光院」の住職の末裔の
 方にもお会いした。天文13年(1544)、12月29日〜1月3日、
井伊直虎の許嫁=井伊直政の父を「東光院」で預かった。井伊直親は、
 今村籐七郎・東光院「能仲」と一緒に信濃:高森の「松源寺」に、
逃げた。文書史料は現在、安中ふるさと学習館に7月19日まで
 展示されている。

・天文13年(1544) 12月23日 井伊直平の子:井伊直宗の弟
の井伊直満(井伊直政祖父)・井伊直義直が小野和泉守の讒言によ
り、今川義元に殺害された。亀之丞(井伊直親:井伊直政父)にも
追ってがかかり、井伊直満の家老:今村藤七郎正実は渋川郷の
東光院に逃れた。天文14年(1545)1月3日 亀之丞は東光院住
持:能仲の案内で信濃伊那郡市田村(現高森町)の松源寺へ逃れ
た。信濃伊那の松源寺は井伊直親の叔父:南渓禅師の師:文叔禅師
の開山した寺であった。文叔禅師は前の松岡城主:松岡貞正の弟で
あった。文叔禅師の弟:正英和尚が学問を教え、文叔禅師の甥:
松岡城主:松岡貞利が庇護した。今村藤七郎が養育した。亀之丞
(井伊直親)は10年1ヶ月井伊谷を離れて育った。その間、亀之丞
は島田村の代官:塩沢氏の女との間に一男一女?を授かった。
弘治元年(1555) 2月井伊谷に戻り、23代井伊直盛の養子と
なり、井伊直親と名乗った。井伊直虎の許嫁:井伊直親は次郎
法師の養子となった。やがて、次郎法師は「井伊直虎」と名乗った。
主に、「井伊直虎」小和田哲男著・「松岡氏と松岡城」をベースに
まとめた。
******************************
箕輪初心:生方▲2017井伊直虎・直政15【井伊直親の逃走〜2人の
子ども〜井伊谷帰国】資料編
http://53922401.at.webry.info/201701/article_26.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201701/article_26.html

★石原先生・井の国会の皆さん・岡田会長・西原さん、・・・
 ありがとうございました。裏で裄V先生、お気遣いありがとう
 ございました。










★明日は、箕輪龍門寺かな?

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