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zoom RSS 箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政66番外編【前田利家の正室:まつ】

<<   作成日時 : 2017/04/16 23:18   >>

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前田利家の正室:まつ(芳春院)は肝の座った超美人としても有名で
あるが、直江兼続の家臣になった説もある傾き者:『花の慶次』:前田
慶次郎が「おまつ様」と慕っている。実像は不明。貧乏のドン底の浪
人中の新婚生活。赤ちゃんのおっぱいを飲ませながら、内職の縫い物
をしていたんだろうな。「前田まつ」は一般論のいう『良妻賢母』でいつも、
夫と子供たちと前田家のために生きた女性なのであろう。特に、自ら
徳川家康の人質になったのが凄い女性であった。平成14年(2002)NH
K大河ドラマ第41作『利家とまつ』で放送された。井伊直虎・井伊直政
と前田まつの接点は分からなかった。

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(★七尾市小丸山城の利家とまつ)



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 (★無料画像より)

◆前田利家とまつ
・永禄元年(1558) 前田利家は従妹:まつ(芳春院)を室に迎えた。
まつの母は前田利家の母の姉であった。
まつは12歳・前田利家は21歳であった。
同じ家で育っていた。
・永禄2年(1559)長女:幸が生まれた。
・永禄2年(1559) 織田信長の寵愛を受けた同朋衆の拾阿弥を斬殺し
  たまま出奔した。出仕停止処分に減罰され、浪人暮らしをする。
・永禄3年(1560) 前田利家は内書で織田信長軍にいたが、出仕停止
はとけなかった。
まつは浪人生活でも小言を言わなかった。

・永禄4年(1561)8月 木下藤吉郎は浅野長勝の養女で杉原定利の娘
  :おねと結婚した。
★多くの本で、TVで木下藤吉郎とおねの結婚の仲人は
 は前田犬千代(利家)とまつになっているが、
 年号に不都合がありはしないだろうか?
・永禄5年(1562) 前田利家の帰参が許された。
清洲に住んだ。
隣には木下藤吉郎が住んでいて仲良しであった。
・永禄12年(1569) 織田信長から突如、前田家の家督を継ぐように
  命じられた。
・天正2年(1574) 前田利家は柴田勝家の与力となり、越前一向一揆
  の鎮圧に従事した。府中2万3000石の大名になった。
・天正3年(1575)) 織田信長の指示により越前国府中城10万石の
領主となった。

・天正9年(1581) 前田利家は能登一国の国主となった。
   前田利家は七尾城に入城した。23万石の大名になった。
2男6女が生まれている。
   七尾城は要害ではあったが防御上は利点があったが、港から
   離れていて治世・経済上の難点があった。
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箕輪初心◆2013年GW:能登の城&ダイビング&志賀スキー他
http://53922401.at.webry.info/201305/article_1.html

・天正9年(1579) 瑞泉寺7代顕秀の時、織田信長揮下の佐々成政に
攻められて井波城(現瑞泉寺北隣)落城した。城下も焼亡した。
  笹成政は配下の前野勝長を配置して守らせた。
  井波城の大改修で、阿弥陀堂跡が本丸となり、祖師堂跡が二の丸、
  太鼓堂跡が三の丸になった(伝)。


・天正10年 (1582) 小丸山城を築城した。
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   前田利家は七尾港に近い所口村の小丸山に平山城を築くことを
   決定し七尾城から移り住んだ。
   河川と海が堀の役割を果たす水城でもあった。
   小丸山城は能登水軍の本部の役割も成していた。
   前田利家は29の寺院(山の寺寺院群)を建立し、能登半島
   方面からの敵襲の守りを補った。
 
6月2日 本能寺の変

・天正11年(1583)4月 ▲近江国伊香郡(現:滋賀県長浜市)の
  賤ヶ岳の戦い
   羽柴秀吉 VS 柴田勝家
前田利家はどちらも義理があり、どちらも味方しないことに決めた。
結局、前田利家は柴田勝家方に与して、敗走した。
まつは越前府中で羽柴秀吉に会って和議を講じて利家の危機を救った。
勝った羽柴秀吉は前田利家に旧領を安堵し、加賀2郡を与えた。
  前田利家は尾山城(金沢城)へ本拠を移した。
   兄:前田安勝が七尾城代として居住した。
3女:摩阿は羽柴秀吉の側室になった。
4女:豪は羽柴秀吉とねねの養女になった。

前田利家が能登を支配すると、実兄:前田利久に7000石が与えら
  れた。(後、前田利久は金沢城代)
  内、前田慶次郎は5000石であった。
  前田慶郎次は対佐々成政の最前線である阿尾城代となった。
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 ※前田利家と前田慶次郎の関係
 @滝川一益の弟:滝川益氏と妻は前田慶次(郎)利益を産んだ・
A前田慶次(郎)利益の母は前田利久の妻となった。
 B前田慶次(郎)利益は前田利久の養子になった。
前田慶次(郎)利益は前田利家の年上の義理の叔父になった。
C前田利久の弟:前田利春(利昌?)の4男が前田利家であった。

・天正12年(1584) ▲小牧・長久手の戦い
  3月頃? 豊臣秀吉方につく姿勢をみせていた。
  夏頃   徳川家康および織田信雄方についた。
 
 ▲末森城の戦い
  豊臣秀吉方に立った前田利家の末森城を攻撃した。
前田慶次郎は阿尾城から出撃した。

  越後国の上杉景勝もとも敵対していたため、苦戦が続いた。

井伊直政の活躍で徳川家康が有利になった。
  
  豊臣秀吉と織田信雄との間で和議が成立して、徳川家康が停戦
  した。
  佐々成政は厳冬のザラ峠(北アルプス立山山系)を越えて浜松
  へと踏破し、徳川家康に再挙を促した。
  しかし、徳川家康は佐々成政の説得を断った。
  織田信雄や滝川一益からも快い返事は得られなかった。

・天正13年(1585) 富山の役
4月 丹羽長秀が没し。丹羽家は国替えとなった。
   豊臣秀吉が越中に乗り出した。
 佐々成政は兵力を集中させる策を採ったため、前野勝長は
   井波城を出て富山城へ参集した。
  8月 前田利家が先導し、富山城を10万の大軍で包囲した。

  佐々成政が織田信雄の仲介により降伏した。
  佐々成政は豊臣秀吉の裁定により、一命は助けられた。
  越中東部の新川郡を除く全ての領土を没収され、妻子と共に大坂に移住
  させられ、以後御伽衆として豊臣秀吉に仕えた。

  前田利家の嫡子:前田利長が越中国の4郡のうち砺波・射水・婦負の
  3郡を加増された。
  前田利家は豊臣政権下における北陸道の惣職ともいうべき地位に上った。

・天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原城攻撃
@前田慶次郎は北国軍として、出撃した説
  前田利家と上杉景勝(含真田昌幸・信幸・幸繁)は進軍した。
松井田城→・・箕輪城・・・鉢形城・・・小田原城
※前田慶次郎も出撃した。
前田利家と前田慶次郎は奥州の仕置きに行った。
※前田慶次郎は不明・・・・

A直江兼続の家臣として、長谷堂城の戦いで戦死した説

・慶長3年(1598) 豊臣秀吉がなくなった。
徳川家康の台頭・・・
前田利家が仲裁役

・慶長4年(1599) 前田利家がなくなった。
   まつは出家し、芳春院と号する。
徳川家康は5大老の切り崩しにかかった。
ますず、前田利長を狙った。
「前田殿は大坂でわしの命を狙ったという噂を聞いたのだが、・・・」
(★火坂雅志著)
徳川家康は前田家を許す条件として、
@前田利家の隠居
A妾腹:前田利常の家督相続
Bまつを人質に出すこと
前田利長は激怒した。前田利長は交戦を主張した。
まつ「意地は捨てなさい。家を存続させることが大事です。
   ・・・母を案じて、家を潰すようでは本末転倒。
   当主なら、母を捨てなさい。」
 まつ59歳、利長39歳であった。
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(★無料画像より)

まつは前田利長を宥め、自ら人質となって江戸に下り、14年間
を江戸で過ごした。


・慶長5年(1600) 関ヶ原の戦い
   徳川家康派 VS  石田三成派
前田本家  VS  次男:前田利政
次男・前田利政の赦免を願い出た。
 角倉了以に匿われていた前田利政を訪ねた。
 孫の顔を見るためでもあった。
 幕府かた疑惑をかけられ、江戸に返された。
 養育していた前田利孝の大名取り立てを直訴した。
※まつは前田家のために奔走していたのである。
・慶長19年(1614)
▲大坂の陣
  前田利政が両陣営から誘いを受けたが中立を決めた。
  戦後、徳川家康は前田利政を10万石の大名取り立てる打診を
  したが、「自分は大野治長の指揮下に入りたくなかっただけで、
  関東方(徳川氏)への忠節を尽くす行動ではない。」と辞退した。
前田利政の赦免の約束は土壇場で反故になった。
まつは幕府の命により伊勢・京で保養することになった。
しかし、まつは金沢へは立ち寄りは認められなかった。
石動山寺に前田利長復帰を祈祷を依頼した。

  長男:前田利長が死去した。
  ようやく金沢へ帰国できた。
  まつは江戸幕藩体制における参勤交代・諸大名妻子の江戸居住制が
  確立の第一号であった。
代わりに、2代藩主:前田利常の生母:千代(文禄の役で次女と
 して、名護屋城に行かせたら、お手つきになっちゃった。)
江戸に住むことになった。

・元和元年(1615) 一国一城令に従い七尾城・小丸山城を廃城にした。
まつは京の「ねね」を訪ねた。


・元和3年(1617) まつが金沢城内で死んだ。享年71。
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●まつの産んだ子ども
永禄2年(1559) 長女・幸姫(前田長種室)
永禄5年(1562) 長男・利長(初代加賀藩主)
永禄6年(1563) 次女・蕭姫(中川光重室)
元亀3年(1573) 三女・摩阿姫(豊臣秀吉側室、後万里小路充房室)
天正2年(1574) 四女・豪姫(秀吉養女、宇喜多秀家室)
天正5年(1577) 五女・与免(浅野幸長婚約者、夭折)
天正6年(1578) 次男・利政
天正8年(1580) 六女・千世(細川忠隆室、のち村井長次室)
など2男9女を産んだ。戦国女性1人が産む子供の数が非常に多かった。


箕輪初心★松尾芭蕉33『奧の細道22』【金沢・小松】
   &My金沢城登城
http://53922401.at.webry.info/201208/article_17.html


箕輪初心◆青木ツアーA2014石川『九谷焼の博物館』&金沢城
http://53922401.at.webry.info/201404/article_23.html



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