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zoom RSS 箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政64▲徳政令の歴史&第14話「徳政令の行方」

<<   作成日時 : 2017/04/12 16:04   >>

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@起……井伊直虎が徳政令の約束を破った。瀬戸村の甚兵衛ら百姓
たちは、蜂前神社の禰宜(ねぎ)を通して、今川氏真に徳政令の発
布を直訴した。A承……井伊直虎の政策に家臣たちが異を唱える中、
小野政次は徳政令の発布を命じる今川の書状を読み上げる。B転…
…直虎は驚くべき策「龍たん寺に寄進」で徳政令をはねのけ、無効
にした。C結……甚兵衛たちはついに最終手段「逃散」作戦に出た。
≪真田丸≫では、あんなに創作が多かったのにもめもせず、≪直虎≫
では、なんでこんなにももめてるのだろうか?ホームドラマなのに、・・・
私は気になったのは、新野左馬助親矩の娘が今川義元の時代に、
@狩野一庵の妻→(出戻って、木俣守勝の妻)、A庵原助右衛門
(★たぶん朝昌)の妻、B三浦与衛門(★たぶん正俊の子:与三郎
元貞)の妻になっていたはずであろうが、本拠地ではない井伊谷の
領地に父が死んでもずうっと残っていたような雰囲気なので、本当
かなあと思っている。

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 (★『みんなの噂話』より引用)


【1】 徳政令の歴史 

・鎌倉時代 
「御恩と奉公」の制度があった。
「一所懸命」→「一緒懸命」
幕府の為に頑張ると土地が貰えた。
普通は乱を鎮めたり、敵を撃退したら恩賞として土地を貰えた
「元寇」・・・元寇はモンゴルの元で外敵の侵入だったため幕府は
  御家人に与える土地がなかった。
御家人たちは元寇に対する戦費の捻出から来る生活苦に貧窮して
  いた。
・永仁7年(1297)「永仁の徳政令」
  そこで、 執権・北条貞時は生活に困っていた御家人を救済する
  ために
  「御家人が質入れした土地を無償で返しなさい。」
  という法令を出した。
  「徳政令」は「借金帳消し制度」である。
   しかし、御家人の生活はよくならなかった。
   御家人はまた土地を質入れしようとするが、誰も
   金を貸してはくれない。
   金融業者=金を貸す側としては、徳政令を出されては、損を
   してしまうことになるからである。
  ・鎌倉幕府はこれ以後も貧窮に苦しむ御家人保護の名目で
   何度も徳政令を出した。

・南北朝時代
  後醍醐天皇が建武の徳政令を行っている。

・室町時代
   惣の発達により、徳政令を求める土一揆、徳政一揆などが
  頻発した。農民が幕府などの権力者に要求する「徳政令」
  であった。
・正長元年(1428)「正長の土一揆」
近江の馬借が起こした馬借一揆をきっかけに、近畿一円の農民
が徳政令を求めた土一揆が発生した。大和の守護職にあった興福
 寺は、大和国一国に限り徳政令を出した。
・嘉吉元年(1441) 「嘉吉の土一揆」
京や近江の農民が幕府に徳政令を求めた。幕府は山城国に徳政令
 を出した。室町幕府の権威が失墜した。

・戦国時代
戦国大名が領内を治める手段として、徳政令をだした。
・大永8年・享禄元年(1528) 武田信虎が徳政令を発布した。
  甲斐が災害に見舞われたことが理由であった。
・永禄2年(1559) 北条氏政が徳政令を出した。
  北条氏康が隠居し、北条氏政が家督を譲られた。
北条氏康も、相模が飢饉が発生した時に徳政令を発布した。
  代替わりの検地をし、北条家所領役帳の作成した。飢饉のため、
 徳政を行うために代替わりすることが北条氏の常套手段であった。
 「代初めの徳政」と呼ぶようになった。
・永禄3年(1560) 今川氏真も徳政令を出した。
  桶狭間の戦いで父:今川義元が討ち死にし、領内が混乱した。
  今川氏真は徳政令を発布し、領内における経済の回復を
  図った。


****************************** 
※「徳政令」を「出された理由・出した理由」を分類すると、
@戦乱による徳政令
A自然災害・飢饉による徳政令
B代初めの徳政令=代替わりの徳政令
である。
「徳政令」が出ると、金を借りていた人(百姓や中小国人領主・土豪)
 は、その時は助かるが、徳政令が出された以後は、「銭主」(せん
 しゅ)=地域にいる高利貸しが金を貸さなくなるので、生活は更に
 苦しくなる。




*******************************



【2】井伊谷の徳政令


◆弘治2年(1556)
@「弘治二年丙辰鯉田ふりは十四貫定成之日記
 壱貫七百十五文  弥八
 三百九十五文  七郎五郎
 七百七十二文   六郎兵衛尉
 ・・・(中略)
(井伊)直泰
           方久」
 年貢を納めなければならない16人の額を記載した。
(★『井伊一族井伊直泰の坪付』:蜂前神社文書
   「井伊直虎:小和田哲男著P117)

A「祝田鯉田年貢之事、近年源四郎有申様、廿貫文に相定候処に、
  年々水損就以外而、達而侘事仕候間、後年之事者定成十四貫
  二相定可・・・・
  ・・(中略)・・・
      (新野)左馬助殿    
(瀬戸)方久(王へんに久)禅門殿   直盛
 瀬戸方久・直虎の母の兄・新野左馬助は井伊直虎の父:直盛より
 祝田鯉田(現静岡県浜松市北区細江町)の「侘事」=年貢減免に
 ついての手紙をとともに受けている。
 「20貫文の年貢を水害のために侘事=年貢減免して欲しいとあ
  ったので、定成14貫文に定めたので、・・・・
新野左馬助親矩殿と瀬田方久殿 へ  井伊直盛より 」
「井伊直虎:小和田哲男著P117〜)

瀬戸方久は祝田鯉電の年貢徴収を請け負っていた代官であったと
 考えられる。既に、井伊直盛から地位を約束されていた
 と考えるのが妥当であろう。
★井伊直親と奥山朝利の娘:ひなに祝田に屋敷を設けさせた理由の
 一つであるかもしれない。。



◆永禄元年(1568) 瀬戸方久は気賀村に移った。
  呉石郷の御所平という所に住んだ(伝)。

・永禄3年(1560)桶狭間の戦い

・永禄7年(1565) ≪検地と年貢の納入の命令≫
祝田御年貢納所之事
八貫五百文 井料引物
此内
弐貫五百文 大明神修理田
合百廿貫文者
廿五貫文 こい田けんミ所(鯉田の検見所)
九百文 殿田御代官免(年貢免除分)
九百文 太藤寺(井伊直親の菩提寺)
十五貫文 小野源一郎殿
参貫文 小野但馬殿(政次)
廿五貫文 御一家中(井伊家御一門)
参貫文 祢宜免(年貢免除分)
永禄七年甲子七月六日


・永禄8年(1565) 井伊直虎がおんな領主になった。
 ★南渓禅師(龍潭寺2世)が次郎法師を名乗らせた。

永禄8年(1565) 「1回目の井伊谷徳政令?」 
 ★新領主誕生によるB型の「代初め徳政令」を出したかも
  しれない。
既に代替わりしていたと思われる。

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永禄8年(1565) 9月15日付≪龍潭寺南渓和尚宛て次郎法師置文≫
南渓宛寄進状
井伊直虎は南渓和尚に徳政免除の黒印状を与えた。

(★『浜松市の龍潭寺所蔵』)
   ★多くの学者は今川氏真が井伊領に徳政令をしくことを察知し、
  南渓和尚に徳政免除の黒印状を与えたとしている。
  しかし、井伊直虎は「井伊谷徳政令」を出し、曾祖父の子:
  南渓のいる龍たん寺だけ、徳政令免除の命令を出したと
  勝手に考えている。文書がないが、・・・・
  龍たん寺が豊かで借金をしていないことを意味している。
   または、井伊家家臣に金・土地を貸しているのもしれないし、
  商売をして、収入をえていたのかもしれない。何れにしても守
  った。素人は井伊直虎が徳政令をだしちゃったのかもしれない
  と勝手に想像できるのだ。
  出しては見たものに、井伊家に経済破綻が起こった。ので
  徳政令を出すのを拒否したと考えられないだろうか?




・永禄9年(1566)
 「井伊谷徳政令」の過程
  小野政次(道好)は井伊家当主となった井伊直虎と対立した。
 小野政次(道好)は井伊直虎が井伊谷城の女城主となってからも、
 小野政次の企みは続いた。

 井伊谷の男は桶狭間の戦い200に近い者が討ち死にした。
 さらに、杜山城攻め・曳馬城攻めで、多くの男だ戦死した。
 農家の若い男の働き手を失った。
 井伊谷では、井伊家への年貢と高利貸しへの借金の二重の
 苦しみで、逃散も出始めていた。
 瀬戸村でも、祝田村でも高利貸しの瀬戸方久に金を返せなく
 て困っていた。
 祝田村の百姓が、「高利貸しの瀬戸方久にお金を返せなくて困って
 いる」と、祝田禰宜(蜂前神社の宮司)に訴えた。
 祝田禰宜が小野政次に相談した。
 

 小野政次は、今度は商人:祝田禰宜と手を組んで?利用して?
  農民たちを煽って、今川氏真に対して徳政令を求める訴えを起
  こさせるように仕向けた。

 小野但馬守政次は井伊家を飛び越え、駿府今川館で寿桂尼・今川
 氏真に徳政令の発布を願い出た。

・永禄9年(1566) 小野但馬守が井伊直虎の失脚を目論み、今川氏真
  の力を利用して、井伊直虎の領地に徳政令を出させようとした。
  今川氏真が祝田や瀬戸などに徳政令(住人の借金の帳消し・棒
  引き)を発布を命令した。
※小和田哲男氏は祝田村のみで、今川氏真の徳政令は
  残っていない。
(★『井伊直虎』小和田哲男著P165)
 
 今川氏真による「井伊谷徳政令」の命令は、今川氏の井伊谷
 乗っ取り作戦である。

  徳政令を公布しなければ農民たちが一揆をおこす。
 徳政令を公布すれば、井伊家の財政は破綻する。
@の「戦乱型徳政令」とA「飢饉型徳政令」であろう。

 井伊直虎は徳政令を実施しなかった。

小和田哲男説では凍結されたのが「直虎本にんではなく、
井伊一族井伊主水佑ではないか・・・
根拠は永禄11年9月14日の≪瀬戸文書「戦国遺文」≫
である。」


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 ★井伊直虎ピンチ・・・最大の難局であった。
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井伊直虎は今川家から徳政令を出すよう命じられた際、
商人が破綻して今後資金を調達できなくなる可能性があると考えた。
しかし、徳政令を出さなかった場合に農民たちが一揆を起こす可能性
も考えられた。
今川家は一揆の混乱に乗じて井伊の領地を奪おうと考えていた。
こうした状況の中、井伊直虎は徳政令の見送りを決定した。
商人を保護し井伊家の経済的安定を優先する決断を出した。
今川家には「少し待って欲しい」と話し、商人との間での徳政令
の免除を行う措置を進めた。今川家は当時徳政令の見送りに対し怒っていたが、直虎は徳政令を1年半引き伸ばした。
駒澤大学の久保田昌希先生は
「徳政令をめぐり直虎は慎重に行動し見事に乗り切り平和を呼び
戻す努力をした。」
と説明した。
 (★『NHKTV歴史ヒストリア』)

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個人的には、井伊家代官であった瀬戸方久は井伊直虎に徳政令を
  実施しないように働きかけた。
  井伊直盛の時代には井伊家の経済的バックボーンが瀬戸方久
  ということになっていたと考えられる。(弘治2年の文書)
 金貸し業=高利貸し:瀬戸方久は、借金を帳消しにされてはたまった
 ものではない。
 井伊家も徳政令を実施すれば、領地の経済が破綻することは目に見
 えていた。
 債務者と債権者のような関係ではなく、組むことで利益やメリット
 をもった関係ということになる。
 井伊直虎と瀬戸方久の利害が一致したので、協力して乗り切ろうとし
 た。


永禄9年(1566) 井伊次郎法師(直虎)が渋川村の福満寺に梵鐘を
 建立した。瀬戸方久は鋳造の資金を寄附した。
瀬戸方久は鋳造の資金を担い、「四郎右衛門」の名で願主として
 名を連ねている。
(★『女城主・井伊直虎』楠戸義昭著(PHP研究所)P189)
井伊直虎は瀬戸方久を味方に付け、経済的支援を依頼したことが
うかがえる。

◆小野但馬守が井伊直虎の財源である瀬戸方久を失墜させようとした。
 井伊直虎がのらりくらりかわし、徳政令を実施しなかった。

 小野但馬守政次(道好)は今川氏真の出した命令を実行しない
 ことに対して
「次郎法師が徳政令を実行しない。」
 と今川氏真に訴えた。

井伊直虎は今川氏真から徳政令を出しように指示された。
〜〜〜でも、のらりくらりと2年引き延ばした。


「井伊谷徳政」に関する文書に名前の出てくる人物として、
 ・家老 小野但馬守(徳政推進派)
 ・井伊主水佑 (徳政停止派・・・★井伊一族)

井伊主水佑により、今川が出した徳政令の執行が停止されていたが、
百姓らが今川方に訴え、今川家臣:関口氏経が徳政実施に向けて働
きかけた。と考える方が妥当性がある。


永禄11年(1568)6月30日付、≪匂坂直興書状≫蜂前神社文書
「二郎殿のまへをなにかとおほしめし候やうに候間、小但へ申候而、
 次郎殿御存分しかとききととけ候て、早々被仰付候而尤之由、
 次郎殿より関越へ被仰候様ニ、小但へ可被申候」
※≪意味≫・・・関口氏経が「二郎(次郎)殿の方を心配してなんとかし
 てほしい。」と思っておられるようなので、(宛先の祝田禰宜から)
 小但(小野但馬守政次)へ申してあげて、次郎殿が(徳政令の)
 実施の考えをしかと聞き届けてくださり、「早々に徳政を仰せ付け
 てくださるのが最もいい由(考え・方法)である」と次郎殿から関越
 (関口越前氏経)へ仰せられるように、小但(小野但馬守政次)へ
 申し出てください。


※家老小野但馬守政次は当主次郎法師に対して、徳政実施と政策判断
 するよう説得し、今川方に伝える立場にあったことがわかる。
次郎法師が、自分で判断したのか、重臣の言うことを受け入れる状況
であったのかは不明であるが、次郎法師は小野但馬守の意見を受け入
れる状況・受け入れなければならない状況であったと思われる。

永禄11年(1568)8 月3日付 匂坂直興書状(蜂前神社文書)
「井次」「次郎殿」

永禄11年(1568)8月4日付 井次宛関口氏経書状
「井次」

★「井次」=井伊次郎は関口氏経の息子説もある

永禄11年(1568)9月14日付、≪瀬戸方久宛の今川氏真の安堵状≫
於いて井伊谷所々買徳地之事
一 上キ田只尾半名  一
一 
  ・・・(中略)・・・・・  
「去丙寅年、惣谷徳政之義雖有訴訟、方久買得分者、次郎法師
年寄誓句并主水佑一筆明鏡之上者、年来買得之名職同永地、
任証文永不可有相違、・・・・(後略)
    永禄11年戊申年九月十四日
            上総介(今川氏真花押)
      瀬戸方久」

≪意味≫ 永禄9年(1566)、井伊谷徳政令の儀、(徳政令)
を求める訴訟があったが、瀬戸方久が土地を買い取ったことは、
次郎法師と年寄(井伊家家老衆)の誓った句(誓詞)、並びに、
主水佑の一筆で明らかであるので、買い取ったそれらの土地に
ついは永く(治める)職(しき=役職)を保証する。」
※井伊領の土地を瀬戸方久が買い取っていたことが分かる。
 (★『井伊直虎』小和田哲男著P165)

◆瀬戸方久の絶好調期間は2年間である。
瀬戸方久は、2年間の間に今川氏真に取り入り、刑部城・堀川城の
 軍資調達を請け負う代わりに、田畑や屋敷を徳政令の対象外とする
 安堵状を得ていた。
 堀川城主となっている。


●井伊直虎は、2年間の徳政令凍結を今川家への背信とされた。

・永禄11年(1568) 井伊直虎が徳政令は2年後に実行されること
 となった。
 
今川氏真は、家老:関口氏経(せきぐちうじつね)を井伊谷に派遣した。
そして、「徳政令」を実施するという文書に署名をさせた。
11月9日付≪祝田禰宜と百姓宛次郎直虎と関口氏経の連署文書≫
画像


 (★『蜂前(はちさき)神社文書』)
(★『井伊直虎』小和田哲男著P168)
(★『女城主・井伊直虎』楠戸義昭著(PHP研究所)P200)

次郎直虎と関口氏経の連署署名され、花押が書かれている。
花押は実印に当たるもので、当時は男城主しか使用できなかったと
いわれている。「おんな城主 直虎」の花押が書かれた文書は、全国
でも珍しく、貴重な文書である。



井伊直虎は井伊谷の領主(地頭)の座を剥奪された。

大きな混乱は起こらなかったが、今川家は井伊谷を直轄地とした。
井伊直虎は龍たん寺で過ごすことになった。 

通説:井伊直盛の娘=次郎法師=井伊直虎である。
「蜂前神社の文書」から、「次郎直虎がいた。」となる。
女城主「次郎直虎」として花押と用いたことになっている。
『歴史ヒストリア』では、浜松市博物館:久野正博学芸員が井伊直虎の
花押を紹介した。
「直虎が花押を使ったのは男性であると意識させようとしていたためで、
対外的には、井伊直虎が女性であることはあまり知られていなかった
はずである。当時は戦乱の時代なので女性の領主だとばれた場合には
攻められる可能性もあった。」と説明した。
井伊達夫先生の考えでは、小和田説は完全に『井伊家伝記』に頼り
きっている。『井伊家伝記』は典型的な二次史料であり、「直虎」と
いう文字は全く登場しない。井伊直虎=井伊直盛の娘は証明ができ
ない状況にある。
蜂前神社の文書には「次郎直虎」と花押がある。女性である直盛の
娘が書いたと解釈するのには小和田氏は根拠・検証が一切ないと
している。







【3】第14話「徳政令の行方」

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◆ナレーター
「・・・有る策を・・・瀬戸方久を家臣とする。」

・瀬戸村・祝田村
◆ナレーター
「  直之・六左衛門は反対した。」


◆ナレーター
「・・・瀬戸村・祝田の百姓は井伊を飛び越え、・・・・」


●井伊館
方久は、唖然とする直虎に、落ち着いた様子で話し始めた。
方久「まずは整理してみましょう。徳政令が出れば、瀬戸村と祝田村
   の民はどうなりますか
直虎「それはそれは喜ぶであろう。喜んで、今川に忠義を尽くすか
   もしれない」
   井伊谷は今川の支配になるかもしれぬ?・・・
方久「そうなれば、その両村は誰が治めることになります?」
直虎は、はっとした。・・・小野だ、政次だ!

方久「要するにこれは、民の訴えに見せかけた、小野様の乗っ取りなの
   ではないでしょうか?」



〜〜〜ミュージック〜〜〜〜〜〜〜〜
方久の読み通りであった。

●井伊館
直之と六左衛門はしの達に状況を話す。
「・・・瀬戸方久を家臣とし、祝田村と瀬戸村を領地とすると言った。」

◆ナレーター
「瀬戸村は新野の娘の領土・・・祝田は虎松としのの領土・・」

しの「何故、・・・・」
小野「・・・方久の機嫌をとったのでしょう。
    私に後見にさせていただければ、祝田がお返ししますが、・・」

●小野館
書状を持って、・・・
「上総守・・」=今川氏真である。
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◆ナレーター
「数日後、・・・手紙を持って・・・」
「寿桂尼様があの女が簡単に引き下がるかと心配していた。」


・三河一揆の話になる。
「味方に刃を向けれるのはまっこと、恐ろしいことですな。」

※政次は、2つの村の領主である新野家の娘と、虎松の母:しの
にまで、手を回していた。しのからは、虎松の後見を自分に任せて
くれれば、村を返上しても構わないという旨の念書を受け取り、
今川からは徳政令を井伊に命ずると朱印までつかれた書状を預か
っていたのである。
更には中野直之、奥山六左衛門までもが抱き込まれていた。



●龍たん寺
南渓は酒を飲んでいる。
直虎・方久がくる。
「今川の仮名目録の・・・」
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ほう天「・・・」

◆ナレーター
「・・仮名目録にある策を見いだしたのじゃ。・・・」

★33箇条の中の第6条?
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●井伊館
評定の場であった。
直之「瀬戸村と祝田村を返し、方久を家臣から除名すること!
   そうしなければ、我々は直虎様を井伊家当主と認めぬ。
   これは奥山・新野・中野の総意です。」
と直之は息を荒げた。

直虎「・・認めぬといっても、・・・誰が虎松後見をするという
    のじゃ」
直之「・・但馬殿にやってもらう。」
直虎「そなたら、本気か?」
直之「本気だ!但馬は領地を復元し、百姓たちの不満も沈めてみせると
   言っている。虎松様と新野様の土地を取り上げるしかないお方と、
   但馬殿とどちらが・・・頼りになるかかははっきりしているであ
   ろう!」
六左衛門・・

政次がやって来た。
「通せ。」
「これは皆さん、お揃いで、・・・」
「・・徳政騒ぎが終わった暁には、・・・」
「我の知らぬところで、・・・」
「・・・蜂さき神社の禰宜が徳政令を出してくださるよう今川様に
  お願いしました。・・・・このような下知がきました。お改めを・・」
政次が書状を渡した。
◆手紙
直虎が読む。
「今川としては、借金に苦しんでいる民を助けるため、井伊から
 徳政令を出すようにと・・・
直虎は今川からの書状を受け取り、緊張した面持ちで目を通す。
「つきましては直虎様から速やかに御発布をお願いします。」
と淡々と言った。

直虎は、困惑した様子を見せながら、方久と南渓と3人で熟考をした
策の猿芝居を始めた。

「徳政令を発布・・・発布したいのはやまやまじゃが、実は・・・
 方久は?」

方久「どこから来たかもわからないようなわたくしのよう
   な若輩者がいきなり私の土地になるのは風当たりがつよいので、
   実は瀬戸・祝田の地を龍潭寺に寄進してしまったのです。・」
直之・六左衛門「はあっ?」

直虎はぴくっとした政次の表情を見て取た。
直虎は、袂から今川家の『仮名目録』を取り出した。

直虎「これによると、確か、寺の領地に関しては『守護不入』と
  あったはず・・・ああ、これだこれだ。」
今川仮名目録を引き合いにだす。
不入と書かれているため、さすがの今川家も手出しはできない。

政次は直虎を睨みつけるようにして、ゆっくりと口を開いた。

小野「今川のお沙汰をはねつけるというのですか?」
「はねつける訳ではない。・・・発布ができかねぬ状況に
 なってしまったということじゃ。」
政次「・・・なるほど。では、駿府へはその旨を、返事としてお伝
 えしましょう。」


小野が去った。
直之は腑に落ちない。直虎と方久の顔をちらちらと見ていた。
「なぜ、はねつける?瀬戸と祝田を返してくれると言ったではないか?」
といきり立つ。
「瀬戸と祝田は小野の土地になる。今まで政次がどのようなことを
 してきたか?」

直之「なぜですか。今川からの徳政を受ければ、百姓は収まる。
   そうすれば、そこにいる商人も、井伊に返済を求めることは
   できなくなるでしょうに」
直虎「あの条件を受ければ、結局、瀬戸も祝田も但馬の土地になって
   しまう。方久に土地を預けることこそが、これからの井伊のため
   なのだ」

直之「・・・小野になるか、方久のものになるか同じではないか」
「井伊のためじゃ。・・・井伊には金も人もおらぬ。
 裸一貫から成り上がったような新しい力が必要なのじぁ。」
直之「その者と、男女の関係にでもなられたのですか?」
直虎はなんともくだらないげす之勘ぐりと、あまりの侮辱に、
返す言葉・・・声も出なかった。

「とにかく、瀬戸と祝田を返してくださらなければ、我々は但馬を
 後見にする。・・・よくお考えください。」
直之どかどかと足音を立てながら出ていく。
六左衛門はしずしずと出ていった。
直之と六左衛門は出て行ってしまった。

●小野屋敷
「これを蜂さき神社の禰宜に・・」
と手紙を家臣に渡す。

●蜂さき神社
禰宜は百姓に「・・・領主と方久は一計を・・・
        そなた達は方久に売られたのじゃ。」
※百姓たちは祝田の神社の禰宜に相談し、その禰宜を通じて、
 今川家に徳政令を直訴することにした。

●方久の家
 百姓が家を壊した。

●井伊館
2人が酒を飲んでいる。

回想「新しいやりかたが・・・」


祐椿尼「そなた寝ておらぬのでは?」
直虎・・・「」
・・・・
「母上の化粧料分を与えたいと思いますが、・・」

そして、とんでもない事件が起きた。

「・・・旦那様が連れ去られてしまいました。」
方久が連れ去られ、百姓から脅迫状が届いたのである。
●手紙
「・・・を出さぬと方久の命がない。・・・」

カタカナ交じりの間違いだらけの文章を直虎はどうにかして
読み上げた。

『今川の徳政令を受け入れることを書にしたため、神社に届出よ。
さもなくば、方久の命はない』

「・・・裏で糸を・・・おのれ・・・」
これも政次だ。
政次が百姓との親交が厚い禰宜を使って百姓等を操り、
やらせたことであると悟った。


●瀬戸村
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田植えをしていない・・・大きくなった苗が・・・
村がいない。・・・

◆ナレーター
「村人と話をしようと・・・」
直虎はひとりで駆けずり回った。
「甚兵衛・・・。」
村には人影すら見られなかった。
村人は農作業を放棄し、領主へ抗議する「逃散」であること
はすぐにわかった。

直虎は身も心もぼろぼろになった。
直虎は神社へと向かった。
境内に入ると、目の前には台が置かれ、紙と筆、硯、墨、水までが
用意されていた。

直虎「なんともまぁ、手回しのよろしいことで・・・」
直虎は唇をかみしめながら、墨をすり、筆を手にした。

『徳政を発布する』と書き、著名した。
が、直虎に怒りが込み上げて来た。
手は怒りに震えていた。

と、その時、一匹の綺麗になっている泥亀が現れたかと思うと、
書状の上でぴたりと止まり動かなくなった。
直虎「こら、どけ、どかぬか亀。・・・亀・・・」

直虎は微動だにしない亀の姿が、直親と重なった。
直虎「これは、違うか。亀・・・やはり、違うか・・・」

直虎は思わず笑った。
直虎「そうか。われも違うと思う」
直虎は書状を抜き取り、勢いよく2つに引き裂いた。

しかし、これでは、解決したことにならない。
と途方に暮れた。
直虎の目に、鮮やかな稲の緑が飛び込んできた。
田植えに適した苗に成長しているのだ。

●蜂さき神社
「・・・苗が大きくなっているだろうな。・・・
 明日には田植えをしないと、・・・」
 と心配する百姓もいた。

●井伊谷
直虎は百姓たちが田植えを気にしているはずだ。直虎は賭けに出た。
翌日、・・・
直虎は傑山と昊天、寺の小坊主たちを率いて瀬戸村へと向かった。
井伊屋敷の下男・下女も・・・

●瀬戸村
暗くなり始めていた。
「これ以上苗が育ってしまうと、田植えがうまくいかず、収穫に影響
 が出るのじゃ。」

直虎「昊天さん、向こうからやりましょう!」
昊天「次郎、分かった。」

田植えをしていると、人の気配がした。

百姓が直虎たちを見ながら立っていた。

直虎は甚兵衛に声をかけた。

直虎「お主らの稲が育たなかったら、我々も困るからな。断りもせず
   申し訳なかったが、勝手に田植えをさせてもらった。」

甚兵衛「直虎様は借金のかたに方久に瀬戸を売ったんだ。そんな話に、
   わしらがだまされるとでもお思いか!」
と怒りの口調で言った。

直虎「確かに、私は瀬戸村と祝田村を方久の土地とした。だがそれは、
   井伊の借金をなくすためなどではない。方久は年貢を受け取る
   代わりに、百姓たちの返済を猶予する。・・・」
直虎は説明した。
甚兵衛「そんなことしても、借金はなくなりはしないだろう!」

百姓たち「徳政のほうがいい。」
直虎「目先のことばかりにとらわれるな!方久は欲の深い男だ。だから、
   方久に村を任せれば、皆が豊かになり、・・・・気付けば借りが
   返せるような仕組みを作ると言ってくれたのだ。」

甚兵衛「でも・・・でも・・・、禰宜様は・・・」
直虎「われと禰宜と、どちらを信じる!」

直虎は百姓一人ひとりに語り掛けるように続けた。

直虎「まず、村を豊かにする、それは方久を潤し、やがては、井伊全体を
   豊かな国へと導いてくれる。われは皆と協力して、そんなふうに
   強い井伊を作っていきたいと思っている。」

百姓が一人が田に足を入れた。すると、また一人、また一人と・・・
いつしかみんなで横一列になり田植えをしていた。

直虎は賭けに勝ったのだ。
直虎は田植えの様子を見つめていた。
六左衛門も直之も来ていた
六左衛門も泥だらけになって田植えを手伝った。
直虎はうれしくなった。

翌日、直虎は百姓たちと話をする機会を設けた。
若い百姓が「あの・・・、字を教えてもらいたい。文書を書く時も
     さあ、皆で散々苦労してさあ」

直虎は間違いだらけの脅迫文を思い出し、くすりと笑った。
「南渓和尚に頼んでみる。」
と言った。

●井伊館
しのは全く態度を変えようとしなかった。
しの「祝田を返していただけない限り、絶対に直虎様を虎松の後見
   とは認めません!」

●蜂前神社
禰宜は小野に「・・百姓の心を手に入れましたな? 
       この手のことはやっかいです。」
小野の新たな陰謀も始まった。

直虎は徳政令発布の命令をはねのけられた今川家の反応も気になる
ところであった。


★明日は???

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