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zoom RSS 箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政63番外編『おんな曳馬城主:椿姫=お田鶴の方』

<<   作成日時 : 2017/04/10 08:52   >>

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おんな城主は「井伊直虎」以外以外のも曳馬城主:飯尾連龍の
妻:椿姫=お田鶴の方が載っている。父は鵜殿長持で、母は今
川氏親の娘である。亀姫→椿姫=お田鶴の方とも呼ばれている。
永禄8年(1565)、松平家康に味方した飯尾連龍は今川氏真に殺
された?切腹させれた。という。お田鶴の方は曳馬城(浜松城
の前身)城主:飯尾連龍の死後、第5代曳馬城城主になったと
いう。今川氏真が父:今川義元の従姉妹「お田鶴の方」を曳馬
城城主と認めたことになる。永禄11年(1568)井伊直虎・関口
氏経連署の徳政令で、井伊直虎は失脚した。同年の12月、徳
川家康の遠江侵攻・・・今川氏真の麾下:井伊谷3人衆も松平
家康の麾下になった。松平家康の曳馬城攻撃の時、お田鶴の方
は松平家康に降伏を勧められたが、拒否した。武装して18人?
の侍女と共に軍勢を率いて討って出た。お田鶴の方は徳川勢を
撃退したが、最終的には松平家康の策で討ち死にした(井伊家
傳記等)。NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」では、「お田
鶴の方」をどう取り上げるか?井伊直虎以上の女傑か、それと
も井伊直平の娘「佐名」のような悲劇のヒロインか?はたまた、
ナレーターでさらっと通りすがりの女性か?
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【1】曳間城(引馬城)・・・浜松城の前身
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【2】椿姫=お田鶴の方の生涯?
・天文4年(1535) 井伊直親・井伊直虎が生まれた。
小和田説では天文5年頃説

・天文19年(1550)? 亀姫(椿姫=お田鶴の方)が生まれた。
@父は鵜殿長持、母は今川氏親の娘である。
   母方の祖父は今川氏親、母方の祖母は「尼御台」:寿桂尼で
   ある。今川義元の妹である。
   三河国宝飯郡(現愛知県蒲郡市)の上ノ郷城で生まれた。
   徳川家康の正室:築山殿とは今川氏の同族で母同士が義理
   の姉妹にあたる。
   上ノ郷城主:鵜殿長持の娘が「飯尾豊前守致実室」と記され
   ている。
(★江戸中期に編纂された「鵜殿家史」の家系図)
   

 A父は小笠原鎮実もある。
(★ 『蛇塚由来記:落城秘怨史』)
 B兄弟姉妹
兄は鵜殿長照である
 徳川家康側室西郡局?(姉妹説・養女説。蓮葉院)
 松平伊忠室(姉妹)

・天文年間(????年) 駿河今川館で過ごしていた。
今川義元の従姉妹として生まれたお田鶴は何不自由なく育ったと
  思われがちと言いたいところであるが、今川義元により、鵜殿
  長持の娘として駿河に人質になっていたと考えるのが妥当であ
  ろう。
つまり、井伊直平の娘の子:築山殿や竹千代(松平元康)らと
駿河今川館で、人質として時々顔を合わせていたのであろう。
亀姫→椿姫=お田鶴の方は松平家康を子どもの頃から知っていた
と想像できる。

・弘治年間〜永禄?年間初期? 結婚した。
@飯尾連竜の妻:お田鶴の方
  (★『蛇塚由来記:落城秘怨史』
A井伊直平の後室
  (★『徳川伝記』)
 B飯尾豊前守後室または妻。


・永禄3年(1560) 5月19日 ▲桶狭間の戦い
今川方の松平元康(=徳川家康)は大高城から出陣。
  大高城の鵜殿長照2000・松平元康1000で
  →丸根砦への攻撃開始。
  丸根砦の織田軍:佐久間盛重420+α=約500名は城外で
  白兵戦を展開。
  結果・・大将:佐久間盛重は討死。

  今川義元が討ち死にした。
  井伊直盛が討ち死にした。
井伊直親が家督を相続した. 。

・永禄4年(1561)上の郷城の戦い
松平元康(徳川家康)が兄の鵜殿長照を討った。


※大久保彦左衛門忠教「三河物語」
「其より、東三河へ御手を懸けさせ給いて、西之郡之城(上之郷城)
 を忍び取りに取らせ給いて、鵜殿長持を打ち取り、両人之子供
(鵜殿氏長、氏次)を生捕給う。

 石川数正は2人の鵜殿の息子を人質にし、
築山殿・松平信康・亀姫と交換した。

・永禄5年(1562) 井伊直親が、小野政次の讒言にあい、
  今川氏真家臣:朝比奈泰朝に殺害された。
  井伊家は一族の老鎮:井伊直平が舵を取らざるを得なく
  なった。
桶狭間以降、今川氏真は相次ぐ離反に悩まされていた。
  遠州八城(杜)山城城主:天野左衛門尉が今川氏真に背き、武田
  信玄に従ったことを知った今川氏真が曳馬城の城主だった:井伊
  直平に天野左衛門尉の鎮圧を命じた。
(★『井伊家傳記』)
 井伊直平に天野氏討伐のため社山城への出陣命令が下った。


【1】井伊直平の出陣諸説********************
@永禄6年(1563) 井伊直平は出陣した。
  今川家臣:飯尾連龍の引馬城に入った。
   飯尾連龍の妻・お田鶴の方(椿姫)は、井伊直平の出陣前の接待
   にかこつけて、毒入り茶で毒殺した。
   お田鶴の方(椿姫)が天野氏の親戚であったからという。
井伊直平が出陣の支度をしていると、お田鶴の方、天野左衛門尉、
  直平の家老だった天野左衛門尉の縁者は連竜へ反逆を勧め、共に
  直平に反逆した。

A永禄6年(1563)9月18日、井伊直平が出陣の時に、お田鶴の方
  が直平に茶を勧めるも、その茶には毒が入っており、直平の先鋒
  隊が遠江国領の蔵中瀬村まで達した時、有玉旗屋の宿にて落馬し
  直平は死亡した。
    (★『井伊家伝記』)
  飯尾連竜が井伊直平に毒薬を進め、直平はその毒薬が原因で死亡
  したとも記されている。
(★『井伊家伝記』)
B川名の鎧橋で落馬して死んだ説、
C敵の急襲を受け討死した説。

D井伊直平の家臣全員が曳馬城へ引き返した所に、
  飯尾連竜は味方の家臣を従えて曳馬城の大手門の警護を固め籠城
  した。この時、井伊直平の家来も毒死された。
  生き残った者の多くは飯尾連竜達の味方になった。
  その後、飯尾連龍は今川氏から離反した。
******************************

・永禄7年(1564) ▲曳間城攻め
 中野直由と新野親矩と三浦正俊(息子の妻は新野の娘)は今川氏真
 の命で出陣した。
 井伊家臣の中野直由と今川家臣:新野左馬助が攻め込んだ。
 飯尾連龍らは天間橋で返り討ちにした。

今川氏真は飯尾連龍に対する疑念を拭い去ることができなかった。
 今川氏真は飯尾連龍を駿府に呼び寄せた。


【2】飯尾連龍の死亡諸説*******************
@永禄7年(1564)説
  飯尾連竜は岡崎に内通して今川に背いた。これによって今川氏真
  は大いに怒り、12月20日に連竜を駿州において自害させた。

A永禄8年(1565)12月20日説
 飯尾連龍が今川氏真が一宮に向かうも利あらずして退いた。今川氏真
 は駿府において逆心を糺明した。
 永禄8年(1565年)12月20日、今川氏真は飯尾連龍を切腹させ
 ようとした。飯尾連龍は己が屋に立て籠もり兵士を所々に出して
  大いに力戦、打手の大将の新野親矩をはじめとして多くの兵が
 戦死した。その後。飯尾連龍は自殺した。
   (★『武家事紀』)・(★『国別城郭』)

B永禄8年(1565)説 今川氏真が織田信長への弔い合戦をしかけ、井伊
  直平は氏真と共に出陣するも白須賀で陣を敷いていた直平の軍勢
  から南からの強風が原因で出火し白須賀のあちこちの集落が焼き
  払われた。その件で軍中では直平が井伊直親の殺害を氏真が命じ
  たことの件で怨んでいたので白須賀を焼いて軍の最後尾に被害を
  与えたのではないかという評価がなされたため、直平を糾明しよ
  うという意見が軍議のなかで出され、それに一同も同意。氏真も
  その意見に賛成した。
  直平は火事のことに関して不慮の事故だと説明するも氏真は過失
  の埋め合わせに連竜が家康に内通し、病と称して曳馬城に引き返
  してる間、新井白須賀邊の駅舎を放火したという疑いに今川氏真
  は大いに憤り、その真偽を問いただす為に三千人の兵を曳馬城へ
  差し向け、有無を言わずにいきなり攻撃するも、連竜は防戦し
  撃退した。氏真はますます怒り、大勢を付き添え囲み昼も夜も
  攻めたが城は落ちず、連竜は敵陣に対して矢文で起請文を出し、
  今川方の寄せ手はそれを受け取り引き返した。その後。氏真に罪
  を許された連竜は礼謝の為に駿府に来たが氏真に謀殺された。
   (★『改正三河後風土記』・ウィキペディア)

C永禄8年(1565)説
  飯尾連竜が織田信長と家康に内通していたことを知った氏真は曳馬
  城を攻め込むも落とせず、後に氏真の調略を以って和談するも、連竜
  は永禄8年(1565年)12月に駿府の二の丸の飯尾屋敷に押し詰められ
  謀殺された。
  (★『浜松御在城記』・ウィキペディア)

D永禄8年(1565)12月20日説
飯尾連龍が家康への内通を疑いを何者かに風説された.
 12月20日、氏真は連竜を駿府城内へ召し寄せ兵士100名に襲わせ
 た。連龍の兵も2、30名の兵で防戦したので、氏真の兵も多く戦死、
 この時お田鶴の方が無双の強力でしばしば出て奮戦した。
 これを『駿府の小路の戦い』といった。
(★ 『武徳編年集成』)


D永禄10年(1567)説 
  飯尾連龍が氏真の猜疑によって殺された。
(★『皇朝金鑑』・『風尚民俗篇』・ウィキペディア)

E永禄10年(1567)説
  飯尾連龍は今川氏真と戦い、討死にした。
 (★『修身事蹟:婦女必読』)

F永禄11年(1568)今川氏真は武田信玄の駿河侵攻に怯えていた。
  今川氏真は飯尾連龍に和睦を求め、駿府に招いた。
今川氏真の策略で、飯尾連龍は殺害された。

G永禄11年(1568)、飯尾連竜は曳馬城の城主となるが、後に氏真は
 松居郷八郎という別懇の武士を以って連竜に和談を申し入れ酒宴を
  催すも、連竜は辰之助と共に氏真によって駿府で切腹させられた。
  (★『井伊家伝記』)
★松居郷八郎=松井宗信である。
 ★井伊家傳記の曳間城主:井伊直平説の記述に信憑性を欠く。

 


【3】飯尾連龍死後の飯尾家の内紛***************
@ 飯尾連龍の死が原因で遠州引馬の家人は大いに騒動になり、これに
  よって連竜の家老の江間泰顕と弟の時成の流浪は目前になった。
  弟の時成は徳川氏に、泰顕は兄の一徳を頼り武田氏に内通しよう
  としたが、江間泰顕が時成を殺害、泰顕は時成の家来の小野田小
  次郎に殺害された。
(★『井伊家伝記』)

@永禄8年(1565年)12月に飯尾連龍が駿河で討たれた後、家老の
  江間時成、江間泰顕が城を守るも徳川派と武田派に分裂したため
  二人は争い共に討死した。
(★『遠江』)


A飯尾連竜の死後、家臣の江間時成、江間泰顕が曳馬城を守るも
 江間泰顕は秋山信友を頼り武田氏に、江間時成は徳川家康に内
 通しようとした。
 やがて江間泰顕が江間時成を殺害した。しかし、江間泰顕は
 江間時成の家来の小野田彦右衛門に殺害された。
(★ 『 浜松御在城記』)



●曳間城主:お田鶴の方(椿姫)

@お田鶴の方は曳馬城に立て籠もり飯尾別心無き事を駿府に訴えてい
 たが、連竜の家臣の江間時成、江間泰顕は猶岡崎に内通していた。
(★『国別城郭』)

Aお田鶴の方は夫が氏真によって謀殺された事に対して、けなげなる
 性質であったため憤り、堅く籠城を決意、城兵を指揮して、小国の
  武藤刑部丞を頼り武田氏に内通した。
(★『改正三河後風土記』)

B夫:連龍や家老:江間時成、江間泰顕の死後、お田鶴の方が曳馬城
  を守った。
  (★『井伊家傳記』)





●お田鶴の方(椿姫)の最後*****************
・永禄11年(1568)12月 徳川家康が使者を派遣して、曳間城を
  明け渡せば妻子だけでなく家人共々面倒を見ると言って、
 降伏を促した。
 お田鶴の方がどうしても応じなかった。
 徳川家康は曳間城を攻めた。
 諸説存在する。

@永禄8年(1565)12月20日説
 何者かが連龍は今川の裏切り者であるという風評をしきりに撒き散ら
 したので、氏真は連竜を駿府城内へ呼び、二の丸にある飯尾の館で
 遠州から来た連龍夫妻が一服していたところを氏真は兵士100名に
 襲わせた。
 この時お田鶴の方は手に滑り止めの粉白粉をつけ薙刀を奮って10
 名余りの今川方の侍を切り伏せたが、衆寡敵せず連竜と共に首を取
 られ、二の丸大手門に晒された。
(★『秘聞 柳生石舟斎』 八切止夫著)

★柳生石州斎の5男:柳生宗矩に松下家の娘:おりんが嫁に行って
 いる。
井伊直政の実母の再婚者:松下清景の弟:常慶である。
 NHK大河の「謎の山伏」の意味がわかんない?
松下清景の姉の妻は松下之綱である。
松下之綱の子
  長男:松下暁綱
  次男:松下重綱・・・妻は加藤嘉明の娘・・・嫡流
  3男:松下方綱・・・一時、山内康豊養子
  長女:おりん・・・・柳生宗矩正室
  次女:娘・・・・・・松下長重室
 3女:娘・・・・・・・中村正吉室
  4女:娘・・・・・・夏目吉信室
『松下加兵衛と豊臣秀吉―戦国・松下氏の系譜』 冨永公文著
飯尾連龍の寄騎であった頭陀寺城主:松下之綱の頭陀寺城で
  世話になった木下藤吉郎(豊臣秀吉)を伴って、曳馬城に
  訪れていた。
  

A永禄11年(1571)説
12月 お田鶴の方(椿姫)は徳川家康から城を明け渡すよう説得
  されたが、拒否した。
  家老:江間泰顕と時成が討たれても、次男:辰三郎を介抱してい
 たお田鶴の方は降参のする様子が見えなかったため、徳川家康は
 松下常慶、後藤太郎左衛門を使者として送り、
 「おとなしく城を明け渡せば給与の扶持米も合力米も渡し妻子共々
 面倒を見る上に領地も保障する。」
 と降伏を勧めた。
 お田鶴の方は次男:辰三郎を大切に思い。なかなか承引せず、城兵
 300人余りで城の守りを固め、そればかりか、過言な返事を申した
 ため、家康は城を攻めた。
 城兵は防ぎ厳しく鉄砲の打ち掛けあいになり、家康の兵は300人討
 死し、城兵も200余り討死するも、家康の軍は大軍だったため崩れ
 ず、家康の兵は二、三の丸を攻め入った時、お田鶴の方と次男:辰
  三郎と侍女18人左右に随え城外へ討って出て粉骨を尽くすも全員
 討死した。
  (★『井伊家伝記』)


B永禄11年(1571)説
  やがて飯尾が家臣・江間時成、江間泰顕両人の内意で家康が家臣:
 松下常慶、後藤太郎左衛門両人を使者として派遣して城を明け渡せ
 ば妻子だけでなく家人共々面倒を見ると言って諫めようしたが、
 お田鶴の方がどうしても応じなかったため、家康が曳馬城を乗っ取
 る為に酒井忠次と石川数正に攻め込ませるが、お田鶴の方が防戦の
 指揮をして城兵はしばしば突き出て激しく戦い、酒井・石川は大い
 に敗走、
 その翌日また、酒井・石川が激しく攻め立て、遂に外郭に乗り込ま
 れると、お田鶴の方が緋威の鎧と同じ毛の兜を着て、薙刀をふるって
 敵中に切って入り、また侍女7、8人も同じ装いで出て立ち、城兵
 5、60人と同じく勇戦し男女一人も残らず討死にした。
 (『改正三河後風土記』・『武家名目抄』・『古事類苑』
 『東海道五十三次:附・名数雑談』
侍女18人・・・★『概説静岡県史』)

C永禄11年(1568) お田鶴の方が曳馬城に籠もってたので、徳川家康
は松下常慶、後藤太郎左衛門を使者として送り、
「城を渡されよ、さらは扶持しまいらせ、家の子もすへてよきに
はからいなむ」と説得したが、お田鶴の方が応じなかったので、
 家康は曳馬城を攻め込んだ。
 やがて12月24日の夜、塩市口より切り出て戦ったが家康は数多の
 軍兵だったため、翌日二、三の丸を破った。
 しかし家康の兵は300人討死し、城兵も200余り討死、
 お田鶴の方は侍女18人引き連れ切って出るも一ヶ所で全員討死した
 と「板倉家の記」に記されている。
 しかし、これは時代の違う大河内兵庫助の合戦の事で、実際は
 お田鶴の方が今川氏の出身なので、二股左衛門の計らいで人質と
  して駿河に行ったのではないかとも記されている。
  (★『遠江国風土記伝』『卑馬拾遺』『浜松御在城記』)

D亡き夫に代わり曳馬城を守るも、後に家康が使者を送り
 「城を致さしめ其邑を全からしめんとす」
 と城を渡せば亡き夫の領地をそのまま渡すと説得した。
 しかしお田鶴の方は「妾(わらわ)婦女と雖(いえど)も己に武夫
 (もののふ)の家に生(はべ)るものなり、おめおめ城を開きて降参
 するは妾(わらわ)の志にあらず。」
  と申したため、家康は兵を使って城を攻めた。だが城兵は大い
 に戦い家康の兵は300人討死、城兵も200余り討死した。
  やがて外郭を破る時、お田鶴の方は鎧を着て髪を垂れ薙刀を
  ふるい侍女17人と共に左右に並び門を開けて突戦するも全員
  討死した。
 (★『皇朝金鑑』『風尚民俗篇』『修身事蹟 : 婦女必読』

 
E永禄11年(1568)12月24日 家康使者を使って
 「先さに吾に降り今又今川に属す故に攻むと云へとも城を致さは
  飯尾豊前守の後室を扶助すへし」
 城を渡せばお田鶴の方を扶助するといったが、お田鶴の方が承引
 しなかったため、12月25日に家康は城を攻めた。
 この時お田鶴の方は甲冑を着て300人余り従えていたが、お田鶴の
 方含む皆戦死、家康の兵も300人死傷した。
(★『尾参宝鑑』)

F永禄11年(1568)12月、徳川家康の遠江侵攻の時、お田鶴の方
は松平家康に降伏を勧められたが、拒否し、武装して18人の侍
女と共に軍勢を率いて討って出た。お田鶴の方は一度は徳川勢を
撃退したが、再び城外に出た時に家中の寝返りで城門を閉ざされ
て城に戻れず、自害した(伝)。

★徳川軍から猛攻を受けると、落城寸前にお田鶴の方(椿姫)は
 緋縅の鎧を身にまとい、侍女たちと共に城を枕に討ち死にした。

子供
義廣、辰三郎


【5】その後の椿姫=お田鶴の方***************
@引馬城を最後まで死守した女丈夫たちに感動した家康は、この地に
 彼女たちの亡骸を手厚く葬って祠を建て、その周囲に100本余り
 の椿を植えて供養した。
 椿姫という名はその死を哀れんだ築山殿が植えた100本余りの
 椿の花に由来している。

A美しく、優しく、男勝りな気性だったので城の侍も町民たちもよく
 言いつけ従った。
  (★『浜松の伝説 上』)

C椿が毎年美しく花咲くことから、いつしか「椿姫塚」と呼ばれ、
 後に観音像を祀って追善供養がされた。


D曳間城=引馬城は徳川家康が本拠とするため一部をひきこんで
 改修工事をし、「馬を引く」のは敗走を意味すると嫌って、
 「浜松城」と改称した。

E引馬城跡には、元城町東照宮が創建されており、徳川家康が
 浜松城築城まで暮らしたことから「出世の聖地」となった。

F永禄12年(1572)井伊直政の実母は松下清景と再婚した。
http://darksazaby.blog.so-net.ne.jp/2016-04-22

http://blog.goo.ne.jp/hakubanoinu/e/5bc900dbf8f9ec31fd58872f2251718f

★明日は「おんな城主 直虎」第14話かな?

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