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zoom RSS 箕輪初心:生方▲新潟【三根山藩邸跡】と「長岡藩に送った米百俵」

<<   作成日時 : 2017/04/01 06:55   >>

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平成29年(2017)3月26日、「角田山」の13000円の読売旅行の
ツアーに参加した。★往路 桜尾根入り口コース、復路は灯台尾根
コースである。帰りのお風呂は「福寿温泉:じょんのびの湯」であ
る。以前には「奥の細道」松尾芭蕉巡り・多宝山麓の天神山城・・
・宗長親王・新田義宗・脇屋義助の子どもも関わりがあり、直江兼続
の弟:小国の養子先の城で通ったが、その時は知らなかったので、
通り過ぎた。佐久間象山の門下生・・・小林虎三郎は、三根山藩か
ら見舞いの米百俵で「今こそ教育だ。」と考え、明治2年(1859)国漢
学校を開校開始した。かつて、ビデオで、「米百俵」中村加賀津男
主演を見た。「米百俵」は三根山藩から長岡藩に送られた米だった。
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(★you tube よりurlをコピー)


箕輪初心◆三国街道C:26堀の内〜30長岡〜31与板〜35寺泊
http://53922401.at.webry.info/201311/article_19.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201311/article_19.html

箕輪初心★松尾芭蕉29『奧の細道Q』【村上〜出雲崎】
http://53922401.at.webry.info/201208/article_13.html

「福寿温泉:じょんのびの湯」から歩いた。来るとき、場所確認し
たり、「角田山・多宝山登山地図300円」を見たりして、急いだ
のに、通り過ぎだ。福寿温泉側方の看板が出ていなかった。左ばっか
見ていたので、見落としたのだ。
旧巻町峰岡の国道460号線沿いの峰岡郵便局から新潟カントリー
倶楽部方向へ500m程のところに三根山藩址があるのだ。

▲三根山藩址
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●三根山藩址の「案内版」

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三根山藩は、長岡藩牧野家の創主・牧野忠成が、寛永11年(1634年)
に四男・牧野定成に六千石を与え分家として三根山藩を授かりました。
この当時はまだ大名ではなく、第11代・牧野忠泰の時、文久3年
(1863年)にようやく大名となったとの事です。
牧野忠泰は江戸で幕府の職務を携わっておりましたが、慶応3年
(1867年)の大政奉還以降国内騒乱の中で越後の情勢も不穏になり、
慶応4年=明治元年(1868年)に三根山に帰任しました。
 しかし、三根山藩は小藩であり、戊辰戦争において多額の軍費支出に
より藩財政が悪化しましたが、何とかその苦難を乗り越えました。
 この頃、本家長岡藩も幕末から明治維新にかけての相次ぐ動乱により、
城も町も焼かれ困窮に陥っていました。その本家の窮状に牧野忠泰は心
を痛め、明治3年(1870年)4月〜5月の初めに、君臣、領民一体とな
って、長岡藩を救うべく「米百俵」を送りました。この「米百俵」は、
決して富めるものからの施しではなく、自藩においても戦争による困難
の中で苦しみながら本家長岡藩への心情を託した義援米だったそうです。
なお、ここ峰岡の地名は、三根山から峰山になりましたが、丹後の峰山
と紛らわしいと言う事から明治3年に峰岡に変更されています。
(★正確には変更させられた。)
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【2】三根山藩・長岡藩の歴史
・寛永11年 (1634) 越後長岡藩初代:牧野忠成の4男:牧野定成が
  蒲原郡三根山に新墾田6,000石を分与し分家させたのに始まる。
  旗本寄合席として文久2年(1863)まで存続した。

 三根山藩は牧野定成は三根山6000石・与板(後に小諸移封)5000石
 =計実質11,000石の石高があった。
歴代領主
初代:定成(さだなり)
2代:忠清(ただきよ) 養子:牧野忠成の子
3代:忠貴(ただたか)
4代:忠列(ただつら) 養子:秋月種封の子
5代:忠知(ただとも)
6代:忠義(ただよし)
7代:忠救(ただひら)
8代:忠衛(ただもり) 養子:松平乗寛の子
9代:忠直(ただなお) 養子:奥平昌高の子
・文化 9年(1812) 9月 旗本で石高6000石
『牧野播磨守忠直』が定火消役に就任した。

・文化13年(1816) 麻布市兵衛町に居住していた。
   (★『編年江戸武鑑 文化武鑑』)

10代:忠興(ただおき) 養子:松平乗美の子

11代:忠泰(ただひろ) 養子:五島盛保の子

・文久2年(1863) 11代:忠泰(ただひろ)は新田分5,000石を新たに
  打ち出し、11,000石の三根山藩として立藩した。
 三根山藩は、大名となったが、参勤交代を行わない定府大名となった。
 藩庁は三根山陣屋に置かれた。
 また、藩校入徳館を開校した。
 (★ウィキペディアを編集)

・慶応4年(1868) 戊辰戦争
 
三根山藩は宗藩:長岡藩に近い立場を採った。
牧野伸顕の家老:河井継之助がガトリング砲を購入した。
 ▲北越戦争(戊辰戦争の一つ)
 長岡藩が敗れた。

・慶応4年(1868) 8月 長岡藩・三根山藩は新政府側に恭順し、
  新政府軍の庄内藩征伐に出兵した。
 長岡藩は、7万4000石から2万4000石に減封された。
 長岡藩は実収にして6割を失って財政が窮乏し、藩士たちはその日の
 食にも苦慮する状態であった。
 支藩三根山藩は長岡藩の窮乏を見かねて100俵の米が贈ることとな
 った。
三根山藩の米100俵が舟戸橋の脇の舟付場から積み出され、矢川〜
 西川〜信濃川を経由し、長岡に運ばれた。
三根山藩が100俵の義援米を送り届けたが、その義援米の扱いをめぐっ
て論争になった。
長岡藩士は、義援米が分配されると思っていた。
 長岡藩士たちは、「これで生活が少しでも楽になる。」と喜んだ。
しかし、長岡藩の大参事:小林虎三郎は
 「国が興るのも町が栄えるのも、ことごとく人にある。食えないから
 こそ学校を建て、人物を養成するのだ。」
 として贈られた米を藩士に分け与えず、義援米を売却した。
 学校設立の費用(学校設備の費用とも)とすることを決定する。
 長岡藩士たちはこの通達に驚き、反発して、小林虎三郎のもとへと押し
 かけ抗議した。
 小林虎三郎は、
「百俵の米も、食えばたちまちなくなるが、教育にあてれば明日の一万、
 百万俵となる」
と諭し、自らの政策を押しきった。
長岡藩が人材育成を優先したことになった。


★参考資料等
・長岡博物館
・博物館資料
・ビデオ「米百俵・・・」中村賀津夫主演


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
1)米百俵の貨幣価値
●寛永年間頃
 (1両=銀60匁=銭4貫(4000文)=4分「1分・1000文」
 =16朱「1朱・250文」・・・
 ★寛永通宝4文銭・天保銭の影響で・・・4の倍数である。
 
・享保15年(1731)頃「蕎麦・蕎麦切・・・8文〜10文」
・文政13年(1830)頃「「もり」「かけ」・・・16文〜20文」
          「天ぷら蕎麦」・・・・28文〜32文
          「並酒〜上酒1合・・・20文〜40文」
・現在、かけ蕎麦1杯300円・天ぷら蕎麦500円位か?
●文化・文政の頃   
 100年で、1,5倍の物価上昇・・・
 @1両を10万円説
 1文は20円弱である。 100000÷6000=約17円
 屋台の掛け蕎麦が16文だったので、272円ほどになる。
 A1両を20万円説
 1文は34文であるとすれば、544円
現在のかけそば544円と高い。
 A1両を30万円説
  1文が54円。
  かけ蕎麦一杯が800円。無理。そんな高い蕎麦は江戸庶民は食べない。
  江戸には四文屋という店があって何でも4文で売っていた。
  茶店のお茶も4文であった。
  結構、小銭をドラマでも置いてゆく。
  水戸黄門の時代の永楽通宝が4〜5枚である。
  つまり、1文が20円〜25円が妥当なのであろうか?
逆算すると1両15万円ってとこか?
2)旅籠代:三島宿
  平旅籠の宿泊代は50文〜1貫600文(銭7kg文)までであった。
 現在の旅館と同じである。
  一般の旅人の宿泊代は平均200文〜400文と言われている。
  現在の値段に換算すると4000円〜8000円になる。
  三島女郎衆は200文〜上級600文であった。ハリスのお供が
お世話になったとか?
1文=17円なら、3400円〜10200円となる。
 △1文=20円なら、4000円〜12000円となる。
 ○1文=25円なら、5000円〜15000円となる。
 1文=50円なら、10000円〜30000円となる。
 
 3)天保年間の安中宿の女郎屋の上納金
江戸幕府は1軒に3人の女郎を置くことを許可した。
倉賀野宿は約250人の飯盛女がいたという。
飯盛女の手元に入る給料は1回1500円〜3000円程度
 ということになる。
 こんな倉賀野の女郎衆が貯めた給金で、お金を出し合って、洪水
 で流された橋を建て直したという。

安中藩は女郎の収益に税金を掛けた。
1回の女郎代金は200文=4000円〜・・・妥当であろう。
 〜〜略〜〜〜〜〜〜〜〜〜
  1両は12〜15万円ほどとなる。
4)万延年間
万延小判は1両=約50000円の相場であった。
 金銀銭貨の交換相場は次第に1両=銀60匁=銭6000〜6400文
 になったようである。
●江戸時代の平均値で1文=16,5円と考えられている。
  米1升=100文=約1650円〜2000円
米1俵=40升=4000文=約66000円〜約80000円
1俵=3.5斗=35升とする説もある
 同心「中村主水」の30俵2人扶持位が多かった。
 30俵=64000円×30=約192万円・・・約200万円であろうか?
 奉行・与力は御家人で、蔵出し200石程度である。
 同心は米の現物支給である。
 2人扶持は1年間で2人で消費する分である。

そこで、「米百俵」=660万円〜高く見積もって800万円となる。

4)明治3年
 米1俵(60kg)の価格は、生産者米価は1.87円だったそうである。
 @1円の貨幣価値は、現在の貨幣価値では約2万円説なら、
米1俵(60kg)は、現在の貨幣価値では約37,400円〜ということになる。
 A1円の貨幣価値は10万円説ならは187,000円ということになる
 学者によって違う。
米百俵は約374万円〜1870万円に相当する価値だった。

5)現在
・私は親戚から米コシヒカリ1俵=15000円〜18000円で購入している。
 農協出しでも、14000円程度である。
現在、体育館1つで、最低5億円〜
市販価格は5kg1500円〜3300円位であろうか?
 5kgで3200円では最高級とされる新潟県魚沼産こしひかりが
 買える
 10kgで3000円〜6600円の米
 米1俵(60kg)は18000円〜39600円であろうか?
三根山藩の「米百俵」は
幕末の米価格は660万円位であった。
現在の農協価格で150万円という計算になろうか?
 米農家は辛いよ。苗は2反で約4万円・・・作ると赤字になる。
 米は買った方が安いので、村の人も作らなくなってきている。
 最も、近くの村々は「魚沼産コシヒカリ」で新潟に出荷している
 という噂もあるが、・・・全国の魚沼産コシヒカリは出回っているが、
 八海山の山からみると、六日町付近は狭い。十日町付近・津南を
 合わせてもたかがしれている。
 僕んちの梅生産も赤字である。
 


・明治元年(1968) 12月 三根山藩に転封命令が出た。
・明治2年(1969) 三根山犯之転封先が信濃国伊那と決定した。
  三根山藩の嘆願により差し止めとなった。

・明治3年(1870) 三根山藩名が丹後:峰山藩と紛らわしいため
  嶺岡藩(みねおかはん)と改めさせられた。
牧野忠泰は藩知事になった。

・明治4年(1871) 廃藩置県されて嶺岡県となった。
  廃藩置県時に士分格式60人・卒分格式124人がいた。
  新潟県に併合された。
  旧藩主:牧野忠康は子爵となった。

・明治3年(1870)
結局、長岡旧藩士たちは、小林虎三郎の気概に負けた。
  小林虎三郎は米百俵を元手に書籍や器具を購入した。
・長岡藩の「国漢学校」に洋学局と医学局が設置された。
 「国漢学校」は士族・庶民の入学も許可された。
 ※国漢学校は、現長岡市立阪之上小学校、新潟県立長岡高等学校
  の前身となった。


・昭和18年(1943) 『米百俵年 隠れたる先覚者小林虎三郎』
新潮社のち新潮文庫
山本有三の「米百俵」で後に戯曲化されて「米百俵」の美談として
 世に知られるようになった。

・平成5年(1993) 映画「米百俵:小林虎三郎の天命」
 出演: 中村嘉葎雄, 眞行寺君枝, 三原じゅん子, 長谷川明夫ほか
 監督: 島宏
★ビデオを見たよ。3回も・・・図書館で借りて。

・平成13年(2001) 小泉元首相も演説で「米百俵」を引用したことで、
再び全国的に知れ渡った。
政治改革に用いた「米百俵の精神」の「米百俵」であった。

・平成23年(2011) 映画『総合艦隊司令長官 山本五十六』
「米百俵」の故事が引用された。


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