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zoom RSS 箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政58番外編『鶴崎城を死守した女武闘派女城主:妙林尼』

<<   作成日時 : 2017/03/28 05:55   >>

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@天正14年(1586)12月12日〜、妙林尼は島津の大軍の攻撃を受けた
大友宗麟配下の鶴崎城を死守した。
妙林尼は島津3将と和議を結び、
鶴崎城を明け渡しをしたが、豊臣秀吉の援軍の到着までの時間稼ぎ
であった。一旦、鶴崎城を明け渡し、時を見計らって、鶴崎城を奪
い返そうという壮大な作戦であった。妙林尼は戦う勇ましい女城主
から、怪しい色香で薩摩隼人を騙す女狐に変身した。A天正15年
(1586)3月8日、女城主:吉岡妙林尼は薩摩本隊と合流しようと
する島津3将を討った。
しかし、本当は島津3将の一人に惚れち
ゃった美しい未亡人であったかもしれない。密かに菩提を弔った
かもね。岡城から長筋温泉(泊)→大分市北部→別府に行っちゃ
ったので、鶴崎城(現鶴崎小学校・鶴崎高校)と臼杵城には行って
いないのだ。
画像
 


・永禄4年(1561)頃 吉岡鑑興が大友義鎮の側近として申次職
  を務めた。

・天正元年(1573)? 吉岡長増が死んだ。
吉岡長増の子:鑑興(あきおき)(1525〜1578)が継いだ。
 
・天正4年(1576)
吉岡鑑興は大友義統の加判衆を務めた。

・天正5年(1577)、吉岡鑑興は日向の土持氏が島津氏に使者を送った
件について、薩摩に赴いた使者を豊後に参上させるよう要求した。
 土持氏は島津氏と結んで伊東氏(先祖は伊豆の伊東氏)を攻撃した。
伊東義祐 は大友宗麟を頼り豊後に逃れた。

・天正6年(1578)
 2月 大友宗麟 は伊東義祐の願いを聞き入れ日向国に侵攻した。
    大友宗麟は伊東一族を道案内として日向に3万余の大軍を派遣
  した。先鋒は佐伯惟教と志賀親教がつとめた。
 4月 土持氏の松尾城を落城させた。土持氏は滅亡した。
 
  6月 島津義久は日向に兵を進めた。
   島津忠長、島津征久、島津家久ら 石ノ城を攻撃した。
   (第1次石ノ城攻防戦) 
   大友氏の備えは堅く島津勢は退いた。
  9月 島津征久、島津忠長、伊集院忠棟らは石ノ城を攻撃した
   (第2次石ノ城攻防戦)

 10月 大友宗麟は、島津打倒を果たそうと企図して5万余の
  大軍を率いて豊後を発した。
 吉岡鑑興も従軍した。
  大友の大軍は高城を包囲し猛攻を続けた。
  守将の島津家久、山田有信が死守した。
 11月
 ▲ 日向の高城川原の合戦
   吉岡鑑興が討ち死にした。
吉岡鑑興の妻は出家して「妙林尼」と称した。

 11月12日 ▲耳川の戦い
  大友宗麟 VS 島津義久
  大友宗麟が大敗した。
大友勢が日向より撤退したため、島津義久は日向国を完全
   に掌握した
  
  九州最大勢力:豊後(大分県)の大友宗麟(義鎮)が、
  没落し始めた。
  
  肥前(佐賀県)の龍造寺隆信が勢力を伸ばしてきた。

・天正12年(1584) ▲沖田畷の戦い
龍造寺隆信 VS 島津義久
   龍造寺隆信が討死した。

  島津の敵は大友のみとなった。
  島津義久は、九州全土を平定しようと豊後に向けて
  進撃を開始した。

  大友宗麟は自力で島津を倒せないと判断した。
  大友宗麟は、長宗我部元親を破り四国を平定して意気あがる
  羽柴秀吉に援助を求めた。

  羽柴秀吉にとっては、日本統一を目論むのには好都合であった。
  まさに、「渡りに船」・「棚からほたもち」だった。
  羽柴秀吉は快く援助要請を受けた。


・天正13年(1585)10月、羽柴秀吉じゃ大友と島津の間に入って
  和睦の提案をした。
  羽柴秀吉の条件は・・・
 「薩摩・大隅(鹿児島)・日向(宮崎)の全てと肥後(熊本)
 ・豊前(福岡県東部)の半分を島津の領地とし、残りは、大友を
  含む秀吉配下の大名のものとする」

  島津義久は、和睦案を拒否し、再び豊後への進攻を開始した。

・天正14年(1586)
島津軍は二軍に分かれた。
  
 @西周り軍は肥後を北上して筑後に入り、筑紫広門が守る勝尾城を攻めた。
 筑前の秋月種実の案内で大宰府に侵攻した、

 
7月27日 ▲岩屋城の戦い
島津忠長率いる島津軍 VS 大友軍の高橋紹運
  筑前岩屋城で、全員討死した。
763名が玉砕した。
  宝満城を開城させ、高橋紹運の妻や次男:統増夫婦を捕らえ
   薩摩に連行した。
  その後、立花城まで侵攻した。

7月末 ▲立花山城の戦い
   立花ァ千代と高橋紹運の子:立花宗茂が島津軍を翻弄した。
箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政53番外編
『スーパー女城主:立花ァ千代』
http://53922401.at.webry.info/201703/article_17.html
豊臣軍の先鋒:毛利軍が立花救援に向かった報せを聞くと
  薩摩に撤退してしまった。

  九州制覇を目指す島津家久は大友が統治する豊後侵攻を開始した。

  羽柴秀吉は九州の平定に本腰を入れることになった

9月18日 羽柴秀吉は高松城主・仙石秀久を先鋒の軍監
  として豊後・府内に着陣させた。

11月25日 ▲戸次川の戦い
  四国勢の足並みが揃わなかった。
 
  島津は戸次川の戦いで勝利し、豊後各地を制圧していった。
島津は大友の支城を次々と落とす作戦であった。

   
・天正14年(1586)
  島津軍は二軍に分かれた。
  A東周り軍は日向→豊後に侵攻して来ようとしていた。
 11月 「まもなく島津の軍が攻めて来る。」という情報が入った。
  
大友宗麟が本城・臼杵城に配下の武将を招集し、本拠地を死守する
  作戦に出た。
  大友義統の身辺を守るため、府内に集まったのは吉弘統幸、宗像
  鎮継、大津留鎮益、田北統辰らが率いる4~5000の兵だったとい
われる。
つまり、支城は留守・・・支城は、見捨てられたことになる。
  臼杵城の支城の一つが鶴崎城である。
  鶴崎城主:吉岡紀増(のります・統増)は主君:大友宗麟の命令
  に応じて、臼杵城へと出張中?籠城準備であった。
  鶴崎城主の吉岡鎮興の子:統増(甚橘)の母:妙林尼が守る
  ことになった。

  吉岡統増が鶴崎城兵を連れて行ってしまっている。
  鶴崎城内及び周辺には老人の家臣や農民、女や子供しか残って
  いなかった。
   
   母:吉岡妙林尼(妙麟尼)・・・
1)吉岡妙林尼の戦い@
    鶴崎城の運命は風前の灯火となった。
  岩屋城のように徹底的に戦って散るか、立花山城のように女城主
  :立花ぎん千代のように戦うか、開城し明け渡して降伏するか
  ・・・

妙林尼は女城主として籠城を決意した。
妙林尼は老家臣・女・子供・百姓(農民)を鶴崎城に集めた。
妙林尼・・・おそらく、鎧に上に羽織を着用し、薙刀を手に
  し、鉢巻をキリリと締め、徹底籠城の構えを見せたのであろう。
  @百姓(農民)に鶴崎城の回りに張りめぐらされた堀をさらに深く
  掘りなおした。
  A百姓に農家の戸板や畳を材料に鶴崎城の周りに砦を築いた。
  B堀と堀の間に柵を張りめぐらした。
  C柵の周囲には落とし穴を多数掘らせた。
  平地地に見えるようにカモフラージュしたのであろう。
  D鶴崎城内の柵には鉄炮をありったけ並べた。そして、百姓(農民)
   に鉄炮の使い方を教えた。
   鶴崎城を守る者は、大いに士気が高まった。

準備万端、島津軍を待つ。・・・・・
  
11月下旬 島津家久は大友宗麟の臼杵城(丹生島城)へ向けて進軍した。
  島津家久は野村文綱・白浜重政・伊集院久宣らに総勢3000の
  兵を持たせ、鶴崎城を攻略するよう命令した。
  約3000の島津の大軍が鶴崎城を囲んだ。

野村文綱、白浜重政 、伊集院久宣は島津の精鋭たちである。
  数々の城をを攻略し、激戦をこなして来たので、鶴崎城は、
  小城で、張りめぐらされた柵でたいした城ではないとなめて
  かかった。
 
  妙林尼の「落とし穴作戦」は柵近くを突進して来てくれることが
  狙いであった。

12月12日 島津の軍勢は、白滝山に陣から鶴崎城に総攻撃を開始
  した。
  案の定、一度の攻撃で一気に開城させようと、島津の大軍は柵を
 壊しながら突進してくる。
  しかし、柵を壊した先は落とし穴があった。
  大軍であればあるほど、次から次へと人馬は将棋倒しのように
  落とし穴へドサどさっと落ちてしまう。

  落とし穴から這い出ると、鉄炮の餌食になった。
  鶴崎勢は至近距離からの攻撃なので、素人の百姓兵でも命中させる
  ができた。
  島津軍は安易に攻撃して、多くの死傷者を出した。

  妙林尼が準備した落とし穴や鳴子の罠と鉄砲を巧みに使用した策
  に次々と嵌り、大苦戦した。
  
  島津軍は、人の前に牛馬を走らせ、穴の所在を確認しながら、
  じんわりと攻撃する作戦に切り替えた。
  しかし、今度は、穴には落ちないものの、動きが遅いために
  鉄炮で狙われ、鶴崎軍の餌食となってしまった。
島津側は死傷者が増えるばかりであった。

  結局、妙林尼率いる吉岡軍は計16度に及ぶ島津軍の攻撃を退けた。
  なおも籠城を続けた。
  とはいうものの。鶴崎城は兵糧も弾薬も多く蓄えているわけでは
  ない。籠城戦も時間の問題であった。
未だ、豊臣秀吉の大軍が、近くに来ているという知らせもない。
  このままでは、兵糧がつき。飢え死にしてしまう。
鉄炮の玉薬も減ってきている。

  島津軍は早く島津本隊に合流しなければならなかった。
島津側は力攻めで城を落とすことは難しいと考えて始めていた。
  
  妙林尼は和睦を提案した。
  島津軍は本軍への合流が出来ず、和睦した。
  島津側は「すんなりと城を明け渡してさえくれるなら、命を奪わない。」
  と和睦に応じた。

  女城主:妙林尼のもと善戦した鶴崎城は落城した。
  妙林尼らは鶴崎城を後にした。
  その後に、島津勢が入城を果たした。

   妙林尼の時間稼ぎ・・・秀吉軍の到着を待っていたのである。
 

・天正15年(1587)
野村文綱、白浜重政、伊集院久宣は、妙林尼には城下の一角に
 屋敷を与えて幽閉した。

 妙林尼は屋敷で囚人とは思えない生活をした。
妙林尼の開城に薩摩の3将が大いに喜び、両軍の交流もはじまった。
妙林尼は3将を屋敷に呼んで、美しく着飾った侍女たちに相手をさ
 せて、飲めや唄え、酒肴に踊りなども披露して薩摩勢をもてなした。
 大宴会で飲んでは、酔いにまかせて、らんちき騒ぎ?
妙林尼も城に出向き、合戦時の女夜叉から女盛り未亡人の魅力を
 漂わせ妖艶に振舞った。
妙林尼が30過ぎ〜40ってとこか?・・・

 

・天正15年(1587)
徐々に両者はうち解けていった。
 生死をかけた激しい戦いが嘘のように、酒を交わしなが
 ら・・・・
 屈強な薩摩隼人に心の隙ができた。


3月、豊臣秀吉が20万の大軍を率いて島津討伐
  へ向かった。
 「いよいよ、秀吉の援軍が駆けつけ、島津勢への攻撃をしかけるで
 あろう。」
鶴崎城にも知らせが届いた。
 
島津家久は島津軍に撤退命令が出した。
島津本隊からの知らせで、
「新しい作戦、新しい編制を整えるため、一旦、本隊に合流せよ。」
との命令であった。 

薩摩3将は、撤退準備にかかった。


2) 妙林尼の戦いA
※「妙林尼が本当にすごかったのはここからです。占領軍である島津方
 の3人の大将に『行き場所がない』といって城外の屋敷に住み続けるこ
 とに成功すると、三将を酒宴で接待するなどして彼らの気が緩むよう
 に仕向けます。実はそれが妙林尼の謀略でした。」
 (★小和田哲男)

3月7日
@野村備中守文綱が妙林尼の屋敷を訪れた。
 「我々は明朝薩摩へ帰郷いたす。妙林殿は如何なされますか。」
と問うた。妙林尼は
「私は自ら大友家に背き、皆様と厚く交わりました。私は罪を犯しま
 した。此処には残れません。私も家中の者も残らず何処なりとも
お連れください」。
秘かに妙林尼の色香に迷っていた野村文綱は大いに悦んだ。

A妙林尼は、伊集院らに言った。
「ここまで、あなたたちと親しくなってしまいました。わたくしは、
もう、吉岡には戻れませぬ。ぜひとも、ご一緒に、島津の陣までお
連れください。」
伊集院・白浜たちは大喜びした。
「馬を用意しろ」「いや、輿だ」と、大騒ぎした。

3月8日 妙林尼は屋敷に3将を招いた。
妙林尼は艶やかに装い、唄に踊りに、そして酌をして廻った。
野村文綱は沈酔した。
妙林尼は帰り際に、野村に寄り添って出た。
妙林尼は見送り際、
「皆様は一足早くお発ち下さい。私どもは後始末の終わりしだい
追いつきます。」
妙林尼の3人の大将は何の疑いも持たなかった。
 
妙林尼は宴たけなわの最中に密かに家臣へ
綿密な策を与えていた。
@家臣5〜60余騎を大野川と乙津川の間に潜めさせた。
A寺司浜の松林に鉄炮隊を待機させた。

3月8日 早朝
▲寺司浜の戦い・乙津川の戦い
 島津軍は「後からすぐに合流する」と安心していた。
島津軍は予想以上に酒を飲まされ、千鳥足になった。
 島津軍が、乙津(おとづ)川に差し掛かった時、潜んでいた吉岡軍が
 一斉に襲撃した。島津軍に奇襲攻撃を仕掛けたのだ。
 島津軍は、退路断たれ、乙津川沿いに寺司浜(鶴崎城の西約1km)
 に移動した。この一帯は松林が広がっていた。
 妙林尼は松林に鉄炮隊を伏せていた。島津勢に鉄砲が放たれる。
 多くが倒れた。残った者は乙津川の深みにはまって、溺れ死んだ者も
 いた。討たれる者が相次いだ。
 島津の3人の大将は軍を立て直し奮戦した。
 島津軍の伊集院と白浜は討ち取られてしまった。
 野村は、深手を負いつつも何とか高浜まで逃げたが、
 傷が許で死んだ。
 島津軍は、大混乱になった。
 何とか助かった者は薩摩を目指して逃走した。
 島津軍は薩摩に帰るはずが、とんでもない結末になってしまった。
 
  
3月9日 妙林尼は島津重臣を大勢を討ち取った。
  妙林尼は討ち取った島津の首「63首」を臼杵城の大友
  宗麟に送った。
 ★大友宗麟は、「見事な忠節!」と大絶賛したのであろう。
  息子も母を尊敬したであろう。 

後に、豊臣秀吉が、「ぜひとも、その勇猛な妙林尼に恩賞を与えたい。」
と面会を望んだ。が、妙林尼は豊臣秀吉には会わなかったという。

もしかしたら、妙林尼は「島津の野村の妻になってもいい。」
と思いつつも、鶴崎城を取り返すことを優先にしたのかもしれない。



◆参考資料
「戦国を生きた姫君たち」火坂雅志著
「戦国を生きた女101人」歴史読本編集
「戦国の城と59人の姫たち」濱口和久著

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政49『瀬名姫(=築山殿)と松平信康と亀姫
http://53922401.at.webry.info/201703/article_13.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政50【女戦国大名:今川義元実母:寿桂尼】
http://53922401.at.webry.info/201703/article_14.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政51『おんな城主:織田信長の
叔母:おつやの方』
http://53922401.at.webry.info/201703/article_15.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政52番外編【母:最上の義姫と
子:伊達政宗】
http://53922401.at.webry.info/201703/article_16.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政53番外編
『スーパー女城主:立花ァ千代』
http://53922401.at.webry.info/201703/article_17.html


箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政54【史実編と
第11話「さらば愛しき人よ」】
http://53922401.at.webry.info/201703/article_18.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政55番外編【由良家を存続させた
戦国スーパー御婆様:妙印尼】
http://53922401.at.webry.info/201703/article_20.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政56番外編【由良妙印尼の外孫
:成田甲斐姫」】
http://53922401.at.webry.info/201703/article_21.html

箕輪初心▲井伊直虎・直政57番外編【伊達政宗の叔母:二階堂
大乗院】 
http://53922401.at.webry.info/201703/article_22.html

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