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zoom RSS 箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政52番外編【母:最上の義姫と子:伊達政宗】

<<   作成日時 : 2017/03/21 05:19   >>

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最上義姫は出羽国の戦国大名最上義守の娘で、最上義光の2歳下の妹
である。伊達輝宗の正室でとなり、伊達政宗を産んだ。昭和62年
(1987)NHK大河ドラマ:『独眼竜政宗』に岩下志麻が役を演じていた
「陰険で凶暴な母の『鬼姫』イメージ」が払拭できない。母:義姫の梵天丸
(伊達政宗)に対する陰険さ・激しさや器量・度量を伊達政宗が鏡の如く性
格を受け継いだ気がしてならない。
@父:最上義守と兄:最上義光が家督
相続で争った時には、義姫が刀で脅して相続を決めた(伝)。A兄:最
上義光と子:伊達政宗が争った大崎合戦では、両陣の間に輿で乗りつ
け合戦を止めさせた(伝)。義姫は2度も戦場へ乗り込んだ。
画像

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◆母:最上義姫と子:伊達政宗
・天文17年(1548)・1547年説)〜 元和9年(1623)7月17日(8月13日)

※戦国時代   蘆名氏 VS 伊達氏 
 会津の向羽黒山城:蘆名盛高、盛氏
 出羽の米沢城&裏磐梯桧原の城:伊達晴宗。
 ※蘆名盛氏の妻=伊達晴宗の娘
 姻戚関係だが、対立していた。

●天文17年(1548)・1547年説)
義姫が出羽国山形城で最上義守の娘として生まれた。
最上義光の2歳下の妹である。

○永禄3年(1560) 最上義守は寒河江城主:寒河江兼広を攻め、
  勢力拡大に試みたが失敗した。
  最上義守は将軍:足利義輝に使者を送って、「義」の偏諱
 を賜り嫡男が「最上義光」となった。

○永禄4年(1561) 最上義守は返礼として、足利義輝に鷹を献上
 した。

○永禄6年(1563) 最上義守と最上義光が上洛し、足利義輝に謁
  見した。

●永禄7年(1564)頃?最上義守は娘:義姫16歳?を対立していた伊達
  輝宗に嫁がせた。


・永禄7年(1564)〜天正5年(1577) 
   16代:伊達晴宗が家督を17代:輝宗に譲って
    米沢城から杉目城に隠居入城した。
  ※信夫郡(現福島市)の中心は伊達晴宗の弟:伊達実元の
    居城:大森城であった。
 
◆◆ 箕輪初心●福島「大森城」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201305/article_11.html

◆◆ 箕輪初心●福島『大仏城→福島城』=伊達政宗の先祖の城 ◆
http://53922401.at.webry.info/201305/article_10.html


・永禄7年(1564) 伊達晴宗は檜原に進攻。
   穴沢俊恒は桧原峠で待ち構えた
   伊達晴宗は退却した。
   葦名盛氏は、穴沢俊恒に命じて、檜原の戸山城を築城。

・永禄8年(1565) 伊達輝宗も再び桧原に進攻した。
   戸山城を攻撃。
   穴沢氏が丸太などで防戦した。


【1】伊達政宗の誕生********************
■永禄10年(1567) 8月3日(9月5日)、伊達家16代当主:
伊達輝宗の子として、伊達政宗が米沢城で生まれる。 
   父・・・伊達輝宗
   ○母・・・義姫19歳。山形城主:最上義守の娘。最上義光の妹
   幼名は梵天丸。
 その後、小次郎、2人の娘(夭折)を産んだ。

●元亀元年(1570)頃、最上家の内紛
 父:最上義守と兄:最上義光の間で家督争いが生じた。
エピソード@
  父:最上義守と兄:最上義光が家督相続で争った
  時には、義姫が刀で脅して相続を決めた(伝)。

5月、重臣:氏家定直の仲裁で父子が和解した。
8月説? 最上義光が家督を相続した。
   最上義守は隠居・出家して「栄林」と号した。

◆◆ 箕輪初心◆山形旅行12回の概要 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201307/article_3.html

◆◆ 箕輪初心●山形【米沢城】&米沢の秘湯 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201307/article_4.html

◆箕輪初心●山形【米沢城】&上杉家廟所・林泉寺・照陽寺 ◆
http://53922401.at.webry.info/201307/article_5.html

■元亀2年(1571) 5歳。 伊達政宗が疱瘡にかかり、右目を失明した。
梵天丸と竺丸   
●母:義姫は醜くなった梵天丸を嫌った。
  梵天丸も人の前にでなくなった。(★NHK大河ドラマ)
●母:義姫は2年後に弟:竺丸を可愛がった。

★母ちゃんに嫌われ、愛情のない人生を歩み始めた。
 
■元亀3年(1572) 虎哉宗乙禅師に弟子入りする。


○天正2年(1574)1月、父:最上義守と子:最上義光の間が再び
  険悪になった。
 『天正最上の乱』
  伊達輝宗は伊達氏からの独立傾向を強めていた義光を抑えるべく、
  伊達輝宗が岳父:最上義守の救援の名目で最上領内に出兵した。
 最上義光と寒河江氏 VS 最上義守と伊達輝宗 
  最上義守と伊達輝宗に同調した天童頼貞・白鳥長久・蔵増頼真
  ・延沢満延らが義光派の寒河江氏を攻撃した。
  寒河江氏が降服し、最上義守側に付いた。
  義守派有利に和睦が進んだ。
  最上義光は敵対勢力を個別に撃破していった。
 9月10日 最上義光に有利な和議が成立して伊達輝宗も撤兵した。
 11月  白鳥長久の仲介で和議が結ばれた。
      最上義守は菩提寺龍門寺に隠居した。
箕輪初心:生方▲山形『左沢(あてらざわ)楯山城』
http://53922401.at.webry.info/201507/article_5.html
 ★詳細編はここをクリックする。

■天正5年(1577) 11歳。伊達政宗が元服した。
 伊達藤次郎政宗と名のる。

●母:義姫は伊達家を竺丸に嗣がせようと計った。
   父:伊達輝宗は家督争いをさけようとしたのだ。
  「政宗」は父:輝宗が伊達家中興の祖といわれる第9代当主:
   大膳大夫政宗(桑折西山城)にあやかって名づけた。
◆◆ 箕輪初心●福島『桑折西山城』 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201305/article_9.html

片倉小十郎(景綱)が伊達政宗に近習となった。

・天正6年(1578) 上山城主:上山満兼が夫:伊達輝宗と連合し、
  兄:最上義光を攻めた。
  最上義光は不利な状況に陥った。
●義姫は、駕籠で陣中を突っ切り、夫:伊達輝宗の元へ馳せ参じ、
  輝宗に抗議をし撤兵をさせた。

■天正7年(1579) 13歳 三春城主:田村清顕の娘:愛(めご)姫
        と結婚した。
◆◆ 箕輪初心●福島『三春の滝桜&三春城』 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201306/article_13.html


■天正9年(1581) 初陣で、相馬氏と戦った。
■天正6年(1581) 蘆名盛氏が死亡。→蘆名盛興は家督を継いだ。

■天正10年(1582) 相馬氏を掃討。
         伊具郡・信夫郡を奪還した。

■天正12年(1584) 18歳 伊達輝宗が隠居した。
   伊達政宗が伊達家17代の家督を継ぎ、当主となった。

  蘆名盛隆が柏木城を築城。
  戦国時代の東北最大の石垣の城。
★蘆名盛隆は群馬:太田金山城や武田信玄の築城法を学ばせていたのだ。
  
■天正13年(1585) 米沢の伊達政宗は会津の蘆名盛興に挑んだ。
★伊達政宗は「檜原の金山」を手中にしたかったのだ。
砂金が今でも取れるそうである。    
  →葦名盛氏の家臣:穴沢俊光の奇襲により
   伊達政宗は敗北。死者173名?
     
   伊達政宗は再び穴沢俊光を攻撃。
    →巌山城が落城。
   伊達政宗は穴沢俊光一族を皆殺しにした。
   ★結構、残忍な人格だ。 
   
   伊達政宗は小谷山城=檜原城を築城した。
    ・・後藤孫兵衛を城番にした。
   本丸、二の丸、袖郭で構成され、空堀や堀切がある。
   
   伊達政宗は檜原峠を越え、裏磐梯へ進攻。         
  →喜多方の関柴へも侵攻。
   
   伊達政宗は蘆名盛氏の防御のため、会津への攻撃は
   出来なかった。  
◆◆ 箕輪初心●福島「檜原の4城&歴史」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201307/article_2.html       

箕輪初心●福島『裏磐梯檜原4城』=伊達政宗の執念
http://53922401.at.webry.info/201307/article_2.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201307/article_2.html



・天正13年(1585)
4月  大内定綱が伊達政宗に背き蘆名側についた。。      
閏8月 大内定綱の支城:小手森城を攻撃。
   大内定綱の没落を間近で見た畠山義継は和議を申し出た。
    伊達輝宗の取りなしにより伊達政宗は5ヶ村のみを
    二本松領とした。

・天正14年(1586)
10月8日 父:伊達輝宗、畠山義継に拉致された。
   伊達輝宗は礼に来ていた畠山義継の見送りに出た所を
      拉致されたのだ。
   鷹狩りに出かけていた伊達政宗は、急きょ戻って畠山
      義継を追走した。
  伊達政宗は馬で畠山義継の後を追った。
   ★手を出せば、父:輝宗は殺されるのだ。
  伊達政宗は迷ったものの畠山義継を攻撃した。
   鉄砲を放って畠山義継と父:伊達輝宗もろとも一人残
    さず殺害した。  
 ※説@……伊達輝宗が二本松義継に殺された説 
※説A……伊達政宗は追いついたが既に輝宗死亡していた説
     畠山義継は伊達輝宗を刺殺、おのれも果てた。
 ※説B……伊達政宗による父殺しの陰謀説
     ・・・★伊達政宗は粗暴だった説
    
 ★二本松城攻撃では、父も一緒に殺してしまった。
    「高田原の悲劇」とは、後世の伊達政宗びいきの方が
   つけた名称であろう。

   その後、初七日法要を済ませた。

●母:義姫は未亡人となった。伊達輝宗を疎んじた伊達政宗が、謀殺
  したのではないかと疑い、伊達政宗に関して不信感を抱いたとさ
  れる。
  伊達政宗が各地に進撃する中、最上家とは遠縁にあたる塩松氏に
  攻め込んだり、最上家の本家:大崎氏に攻め込んだことがより一層
  不快感を抱かせた。
●母:義姫は、「父を殺せしは政宗ぞ。」
   とますます憎しみを持った。(TVでは・・)
兄:最上義光も伊達政宗に警戒を強め、庄内侵攻を開始し、伊達
  ・最上間の対立もより深刻化していった。
  母:義姫は伊達家中での立場を悪化させていった。
   

◆◆ 箕輪初心●福島『二本松城』=伊達政宗父の弔い合戦 ◆
http://53922401.at.webry.info/201305/article_8.html
 

11月17日 畠山氏の居城:二本松城を攻めるが失敗。
引き揚げる時、佐竹・藍名連合軍に襲われた。

   《人取橋の戦い》   
伊達政宗 VS 佐竹・蘆名・岩城・石川・結城・二階堂、
相馬連合軍
 →伊達政宗がかろうじて撃退した。

◆◆ 箕輪初心▲『安達太良山』&二本松城 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201306/article_14.html


・天正15年(1587)
   二本松城を攻め落とした。
◆◆ 福島:二本松城 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201305/article_8.html

◆◆ 箕輪初心▲『会津駒ヶ岳&檜枝岐温泉』 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201306/article_18.html

◆◆ 箕輪初心▲『磐梯山』&白布温泉&米沢 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201306/article_15.html

◆◆ 箕輪初心▲『西吾妻山』&白布温泉&銀山平温泉 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201306/article_16.html

◆◆ 箕輪初心▲『平ヶ岳』&銀山平温泉 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201306/article_17.html



■●天正16年(1588)
1月 大崎氏家中の内紛

2月 ▲大崎合戦
  伊達政宗は兵10,000奥州探題の末裔、大崎義隆を攻撃した
   黒川晴氏の離反と大崎方の頑強な抵抗に遭い敗北した。
   大敗した。
   伊達政宗が最上義光によって包囲され危機的な状況に陥った。 
  伯父・最上義光(TVでは原田義雄)が大崎側に立って参戦し
  たのだ。
  伊達領内に最上勢が攻めこんだ。
 ●母:義姫は両軍の間に輿で入った。
母、義姫の兄:最上義光が大崎氏に加勢したため、伊達政宗と最上
  義光は、伊達領と最上領の国境で対峙した。

  母:義姫は争いを止めさせようと、両軍の陣の真ん中に仮屋を建て
  て居座った。
  「両軍が戦うならば、まずは私を殺しなさい」
  とすごんでみせた。

   最上義光は諸大名の手前、和睦は屈辱であると感じたが、妹:義姫
  の頼みを断ることができなかった。
  80日程にらみ合いを続けた。
  休戦の後に両者は和睦している。
  
  最上義光は伊達・大崎間の調停に努めるが、伊達側は最上側に不信を
  抱きなかなかうまくいかなかった。最上義光が義姫に間を取り持つよ
  う哀願した書状が残されている。
 ★義姫が兄から信頼され、伊達家において発言権を持っていた。

 和議が成立し、軍を引いた。
 ●母:義姫が実家と婚家の対立という重大事を回避させたのは、義姫の
  決断と行動のたまものと言えるだろう。
  かくして、伊達政宗は窮地を脱した。   
  
一方、内乱に乗じて伊達領南部に蘆名氏・相馬氏が侵攻してきた。

6月  「郡山合戦」
   佐竹・蘆名軍と郡山で戦った。
伊達政宗は愛姫の実家:田村氏領の確保に成功した。

7月3日 佐沼城を攻略。
     大崎、葛西一揆を鎮圧する。
    交戦中の佐竹・蘆名・大崎・最上と和睦。

9月25日 飯坂氏(猫御前)との間に伊達秀宗が生まれた。


・天正17年(1589) 政宗23歳。
2月12日 最上義光から妹:義姫に充てた書状
 「義姫の活躍が豊臣秀吉や徳川家康にまで伝わっている。」
 「(豊臣秀吉の)惣無事令に違反して戦いを継続できない事情を
  説明し、伊達政宗に停戦の継続の執り成しを頼んでくれ。」
  を依頼した。

5月 伊達政宗は猪苗代城主:猪苗代盛国を味方に付けた。
     母成峠から猪苗代城へ入城した。
◆◆ 箕輪初心●【猪苗代城】&ふるさと歴史館 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201305/article_12.html


6月5日 磐梯山麓:摺上原(すりあげはら)の合戦。   
  伊達政宗23,000 VS 蘆名義広(佐竹からの養子)16,000  
  はじめは強い西風の影響で蘆名軍有利に進んだ。
  風向きが変わると伊達軍が猛反撃を開始した。
  蘆名軍をさんざんに打ち破った。
  蘆名義広は数十騎に守られて逃亡。 
  蘆名義広は黒川城を放棄して実家の須賀川:佐竹家に逃れた。
  →蘆名氏は滅亡。
  →伊達政宗の勝利。 

6月11日 会津黒川城に入る。

◆◆ 箕輪初心●福島『会津若松城1回目』 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201304/article_22.html

◆◆ 箕輪初心●福島『会津若松城2回目』 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201304/article_23.html

 
 伊達政宗はさらに兵を須賀川へ進めた。
  二階堂氏を滅ぼした。
  
 伊達政宗の傘下のとなった長沼一族も久川城の攻撃を開始。
◆◆ 箕輪初心●福島『久川城』 ◆◆ 
http://53922401.at.webry.info/201306/article_19.html
  
  それから常陸の佐竹氏を討つべく準備に掛った。
  豊臣秀吉の惣無事令を遵守して佐竹氏側から結城義親・石川昭光
  ・岩城常隆らが次々と伊達政宗に服属した。

12月 仙道制覇=奥州の覇王となる。
 ※伊達政宗は現山形県米沢を中心に現福島県の中通りと会津+南会津、
  宮城県の南部を領した。
 また、会津の白河氏といった南陸奥の諸豪族や宮城県や岩手県の一部
 を支配していた大崎氏・葛西氏も勢力下においた。


・天正18年(1590)
※豊臣秀吉が織田信長の統一事業を継承していた。
1月  豊臣秀吉より小田原参陣の命令が届く。
豊臣秀吉から上洛して恭順の意を示すよう促す
      催促状が既に幾度か届けられていた。
    しかし、伊達政宗はずうっと黙殺してきたのだ。
   ★伊達政宗は父:輝宗の時代から後北条氏と同盟関係にあった
ので、豊臣秀吉と戦うべきか小田原に参陣すべきか、直前
まで迷っていたのだ。

3月18日 小田原参陣について家臣たちと対応を協議する。
伊達政宗の腹心:片倉小十郎の決定に従い、小田原
     伺候とした。
●母:義姫や多くの家臣が、小田原に参陣しても、伊達政宗は切腹させ
 られ、伊達氏はお取り潰しになる可能性があると思っていた。
  母:義姫はお家を守るため、政宗を毒殺し、弟の小次郎を当主に
  据えようと考えた。

4月7日 伊達政宗.は出立の前夜、母の館に伺いをたてた。
●母:義姫=保春院は政宗に膳部をすすめた。
  伊達政宗は宴席に出された料理を食べた。
  伊達政宗は腹痛に襲われた。症状は軽かったが、・・・
  伊達政宗は「料理に毒が盛られていたに違いない」と考えた。
 伊達政宗は小次郎を呼びつけ詰問した。
 「母上が毒を盛った」と白状した。
  →小次郎は母をかばった。
   小次郎に罪はなかったが、母を斬るわけにはいかず、母の代わり
   に小次郎を成敗する。
   そこで、伊達政宗は弟:小次郎を殺害した。

 弟:小次郎を擁立した母:保春院に毒を盛られ、殺されかけたのだ。
   毒殺未遂であった。
  
 ● 嫌いな政宗毒殺に失敗し、溺愛した小次郎を亡くした母:
   義姫は実家:最上義光を頼って出奔した。
   山形城(山形市)に駆け込んだ。
    最上義光は義姫を受け入れ、面倒をみた。
  
   ★伊達政宗は母の冷たい仕打ちに泣いた。
  しかし、生みの母を斬るわけにいかなかった。
  母は弟:竺丸=小次郎がいる限り私を狙うのだと
  考えた。そこで。小次郎を殺そうかと思いついた。
      ・・・ 
※説@……毒殺未遂の根本史料は伝わっていない。
※説A……※通説・・・上記。
  伊達政宗は弟竺丸=小次郎を居間に呼んだ。
 「小次郎、私は明日、小田原へ出立するが
    お前がいると、母が心配である。
   私は幼いときから母の愛を知らずに育った。
   小次郎、死んでくれ。」
   といって死を迫った。小次郎は
  「はい、兄上。17歳まで生きてこられて満足です。」
   と泣きながら言った。政宗は
   「あの世で父にお会いしたらわびてくれ。」
  と言い、実弟:小次郎の首を刎ねた
  (★小説)
  
※説B……「毒殺未遂事件」は伊達政宗の書いた反政宗派一掃の
      ためのシナリオだったという説。

※説C……伊達政宗は毒を口にしたが、解毒剤のおかげで難を逃れた説。
   この件により母子の対立は頂点に達し、伊達政宗は弟・小次郎を
   斬殺したと伝わる。
※説D……伊達政宗は食事をする前に御膳番衆が企みを見抜き、伊達政
  宗はそのまま帰宅したとされている説。
   (★江戸時代の記録『治家記録』など)

 ★いずれにしても、父に続き、弟も殺してしまうとは非道と言わざる
  を得ない。やむを得なかったという考えもあろうが・・・。

5月初旬  五奉行筆頭:浅野長政から小田原参陣を催促された。

5月9日  伊達政宗は小田原参陣のため、会津を出発。
→米沢・小国・・・上杉景勝の所領:越後国・信濃国を
      経由して箱根に着いた。・・小田原に至った。
豊臣秀吉は政宗の遅参を責め対面を許さなかった。
      伊達政宗は豊臣秀吉が茶の名人:千利休を伴って
  
●母:義姫は伊達家に留まり母子は親しく文の遣り取りをしていた。    
 ※義姫は伊達家に留まっていた。
  伊達政宗と母:義姫は手紙のやりとりをしている。
  母:義姫が実家の山形城へ出奔したのは4年後である。

 豊臣秀吉の小田原攻撃中である。
 伊達政宗は石垣一夜城にきていることを聞いた。
      

6月5日  小田原着陣
  ※白装束で秀吉との謁見の場に出向いた。
★白装束でデモンストレーションをして臣下の礼を装った?
    伊達政宗は死を覚悟した(TVでは)
人気を博した。

6月9日伊達政宗は豊臣秀吉と会見。
  豊臣秀吉は伊達政宗の白装束に興味を示し、感嘆した(伝)。
  ※豊臣秀吉の派手好みの性格を知っての行いと考えられている。
 ★とっても、頭よかったのだ。

  伊達政宗は豊臣秀吉に服属した。

  前田利家らが遅参の詰問に来た時には、
  「千利休の茶の指導を受けたい。」
  と申し出た。
    
6月14日 小田原を出立した。    

7月5日 北条氏政・北条氏直親子は秀吉に降伏した。
     北条氏直は徳川家康の陣に向かい、
     己の切腹と引き換えに城兵を助けるよう申し出た。
     豊臣秀吉に氏直の降伏を伝えた。 
  
7月17日 豊臣秀吉は小田原から下野国に向かった。
7月26日 宇都宮城に入城、宇都宮仕置。
      関東、奥羽大名に対する仕置を行った。

7月28日 伊達政宗が宇都宮入りした。
   伊達政宗は奥羽に150万石近い大領国を築いていた。
     豊臣秀吉は旧蘆名領=会津領を没収した。
      会津郡、岩瀬郡、安積郡を没収した。
     @伊達政宗が小田原に遅参したこと
     A会津攻撃が惣無事令に違反していたこと
     などを理由に・・
     150万石から72万石の減封だが、伊達家の本領
     72万石を安堵したのだ。    

    会津黒川城には近江の蒲生氏郷が入ることになった
     42万石の領主である。

8月 蒲生氏郷が地理不案内のために伊達政宗が先導役を命じられた。
  伊達政宗は豊臣秀吉を案内した。秀吉は途中で宇都宮に戻った。
   会津:蒲生氏郷、浅野長政を筆頭とする奥州仕置巡察行軍を
   案内した。

8月9日 蒲生氏郷は会津黒川城(現会津若松城)に入った。
 
・その後、奥州仕置軍は平泉周辺までの諸城を制圧した。
  浅野長政の家臣が代官として検地などを行った。
  郡代、代官を残して奥州仕置軍は引き揚げた。

※豊臣秀吉の日本統一が達成された。
  
   
8月下旬   米沢に戻った。

10月26日 大崎・葛西一揆の鎮圧のため米沢から出陣。
11月14日 会津:蒲生氏郷と会見した。
11月28日 蒲生氏郷と和解・・・誓紙を交換する。
12月    関白:豊臣秀吉は関東&東北の諸大名・・・特に、
  関東の北条氏&東北の伊達氏に対して、惣無事令=私戦禁止令を
  発令した。
  しかし、伊達政宗は秀吉の命令を無視して戦争を続行した。
★この辺がしたたかである。


・天正19年(1591)
2月 伊達政宗は羽柴姓を許される。

    伊達政宗は蒲生氏郷とともに葛西大崎一揆を平定。
    伊達政宗自身が一揆を煽動していたことが露見する。
    蒲生氏郷が「政宗が書いた」一揆勢宛の書状を入手した
    からである。    
蒲生氏郷は伊達政宗に気を許さず黒川城から出そうと
    しなかった。
    蒲生氏郷は豊臣秀吉に「政宗に謀反の疑いあり」の書状
    を送った。
    伊達政宗は重臣2人を蒲生氏郷に差出したのに・・・
    
    ※伊達政宗と蒲生氏郷との不和が続いた。〜〜〜
伊達政宗は会津黒川城から米沢城に戻ることになった。
    
    伊達政宗は上洛し、一揆扇動の書状は偽物であると
    豊臣秀吉に弁明し許された。
★ま〜ず、上手なんだから〜〜〜。

・それからやっと、伊達政宗の所領が決定された。
9月 米沢城72万石から玉造郡岩手沢城=岩出山城に
    58万石に減封。岩出山城に移封・・・。  
    ※現在の岩手県の南部、宮城県全域、福島県の北部など
    20郡、58万石なのだ。

・文禄元年(1592)
1月5日 豊臣秀吉の朝鮮出兵のため、兵3000を率いて
     岩出山城を出発。
     豊臣秀吉から割り当てられた倍の兵3000人で上洛した。
    (★1500人という記録もある。)
街道では派手な軍装で人々の目を惹いた。
伊達軍は戦さ装束は非常に絢爛豪華なものであったらしく
    上洛の道中においても噂となった。
★全く、奇抜なんだから〜〜〜

閏1月27日 豊臣秀吉に清洲で謁見。
3月     清洲から肥前:名護屋城に向かった。
  京都の住民も伊達軍の出で立ちの見事さに歓声を上げた
       という。
  ★ど派手な装いを好んで着る人を「伊達者」と呼ぶようになった。

4月19日 肥前名護屋城に着陣。      
      肥前:名護屋城近くに陣屋を築城。

◆◆ 箕輪初心●佐賀『名護屋城』 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201112/article_15.html

・文禄2年(1593)
3月 朝鮮に向けて出航。文禄の役に従軍。
4月 朝鮮半島では、日本軍の南部沿岸の築城が行われた。
   晋州城攻撃等に参加。・・・落城。
9月 帰朝命令→釜山を出航。

6月16日 長女:五郎八姫が生まれる。

●母:義姫は朝鮮で従軍中の政宗へ、現金三両と和歌を送った。
「秋風の 立つ唐舟に 帆をあげて 君かえりこん 日のもとの空」
を添付した手紙を届けた。
伊達政宗はこの書状に感激した。
伊達政宗は母への進物を探し回り、ようやく朝鮮木綿を入手した。
「ひとたび拝み申したく念望にて候」
としたためた書状を送った。
(★ウィキペディア)

・文禄3年(1594) 伊達政宗の養育係:片倉喜多が蟄居を申付けられ
 た。

11月4日 母:義姫が岩出山城から出奔して山形に戻った。
(★『虎哉宗乙から京都の伊達政宗の大叔父への書簡』)
  ※出奔の理由や経緯は不明せある。

・文禄4年(1595)
7月 関白秀次事件・・・
   関白:豊臣秀次が豊臣秀吉から謀反の疑いをかけられた
   豊臣秀次は謀反の疑いで高野山に蟄居・・・切腹。
   伊達政宗の母方の従姉妹で秀次の側室となった最上義光の
   娘:駒姫は豊臣秀次の妻子らとともに処刑された。
    
   伊達政宗は豊臣秀次謀反の関与を豊臣秀吉に疑われた。
伊達政宗や最上義光が詰問された。
 
★最終的には無関係であるとされ、難を逃れた。

8月24日 豊臣秀吉から赦免された。
      伏見に屋敷を与えられた。
      従四位下右近衛権少将に任ぜられる。
しかし、豊臣秀吉に早くから服属している大名とは
      違い、五大老には選ばれなかった。

・文禄5年(1596) 伊達政宗と浅野長政が絶交した。
     
・慶長3年(1598) 豊臣秀吉が没した。
  豊臣秀吉の遺品「縞(しのぎ)藤四郎の脇差」を受け取った。
豊臣秀吉の死後、伊達政宗と五大老・徳川家康は豊臣秀吉の
  遺言を破り、手を結んだ。

・慶長4年(1599)
1月20日 今井宗薫の仲介により
      長女:五郎八姫と徳川家康6男:松平忠輝が婚約する。

12月8日 正室:愛との間に虎菊丸(忠宗)が生まれた。


・慶長5年(1600) 関ヶ原の戦い
   東軍に味方した。
  伏見城にいた徳川家康は会津の上杉景勝を討伐を敢行した。、

7月25日 伊達政宗は上杉景勝の足を止めるため、
      登坂勝乃が守る白石城を奪還した。

8月 徳川家康より「100万石の御墨付」が届く。
徳川家康は伊達政宗に対して岩出山転封時に没収されていた
  上杉景勝領となっていた旧領6郡49万石の領土の自力回復を
  許す旨を書いた書状(「百万石のお墨付き」仙台市博物館蔵)
  を送ったのだった。
  ※伊達政宗の作戦であった。
@南部利直領への侵攻許可を得る。
A上杉景勝との戦に勝ったら、領土を安堵してもらう。
   そのため、南部氏が西軍に通じていると、侵攻理由を徳川家康
   に訴えたのだった。まあ、要領がいいこと。

9月 関ヶ原の戦い
※徳川家康が畿内を離れた隙をついて、五奉行:石田三成らが
  毛利輝元を総大将として徳川家康に対して挙兵したため、
  小山まで北上していた家康は西へ向かった。

◆◎◆ 長谷堂城の戦い ◆◎◆
 上杉景勝の直江兼続軍 VS 最上義光+伊達政宗の援軍

◆ 箕輪初心●山形【長谷堂城】&直江兼続VS最上義光 ◆
http://53922401.at.webry.info/201307/article_9.html

◆◆ 箕輪初心●山形【上山城】&武家屋敷 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201307/article_6.html

▲箕輪初心▲百名山bQ【蔵王4回】&サクランボ大将錦&佐藤錦 ▲
http://53922401.at.webry.info/201307/article_7.html

◆ 箕輪初心●【山形城】&山形博物館&最上義光歴史館 ◆
http://53922401.at.webry.info/201307/article_8.html

▲《長谷堂城の戦い=慶長出羽合戦》
9月15日 叔父:最上義光から伊達政宗に援軍要請がきた。
●母:義姫も伊達政宗に援軍を急かす書状を送っている。
  片倉景綱は伊達政宗に、最上軍と直江軍が疲弊するのを傍観して
  待つよう進言した。
  伊達政宗は母の安否を否を気遣い、援軍を派遣した。  
  伊達政宗は叔父:伊達(留守)政景率いる3,000の兵を派遣した。
ただし、伊達勢は戦況を静観し積極的に動かなかった。

9月25日 茂庭綱元が上杉領の刈田郡湯原城を攻略した。
 ●戦後、義姫は伊達政宗と援軍の留守政景に対して感謝の書状を
  送った。

※関ヶ原の戦い・・・徳川方の勝利に終わった。
関係ないけど、前田慶次郎と上泉泰綱(上泉信綱の孫)が討ち死に
 した。
 直江兼続は最上義光に敗れて米沢に逃げ帰った。

伊達政宗は兵を率いて伊達・信夫郡奪還のため国見峠を越え
南進した。

10月6日 福島城主:本庄繁長を攻撃。
      福島城包囲戦は失敗した。


・この後、翌年春頃まで幾度か福島城攻略のために出兵した。
  結局は取り戻せなかった

  伊達政宗が南部領:和賀忠親による一揆を煽動し、
  白石宗直らに命じて南部領に4,000の兵を侵攻させた。
  →岩崎一揆の件がばれて、伊達政宗は60万石となった


・慶長6年(1601)
   居城をどこに移すか悩んだ。5ヶ所の候補地があった。
石巻城もその一つであった。
   仙台城に移すことに決定。


・慶長7年(1602) 37歳
1月11日 仙台城=青葉城の築城普請を始める。
  仙台城&仙台城下町の建設を始めた。
    仙台城は山城で天然の要害地形であった。
    仙台の城下町は新しく開発しなければ、ならなかった。
     のべ人数:100万人を動員した。
 
5月 仙台城が完成した。
   伊達政宗を藩祖とする仙台藩62万石が誕生した。
   1位・・加賀:前田氏、
   2位・・薩摩:島津氏
3位・・仙台:伊達氏 家臣を48ヶ所に配置した。
   岩出山城の回りの民を仙台に移した。

徳川幕府からは松平の名字を与えられ「松平陸奥守」を称した。


・慶長16年(1611)

4月 嫡男:虎菊丸(忠宗)と家康の孫娘:振姫の婚約が成立。
   
この頃、伊達政宗は海外に眼を向け始めた。
  ソテロと仙台城にて会見した。
    →キリスト教の布教を許可。

・慶長18年(1613)
4月25日 娘婿の松平忠輝の付家老:大久保長安が死亡。
      ・・・謀叛事件が発覚する。
      ・・・里見一族の倉吉に・・
  伊達政宗は仙台藩とエスパーニャとの通商を企図していた。
   
  伊達政宗は徳川家康の承認を得た。


  仙台領内において、エスパーニャ国王:フェリペ3世の使節
  セバスティアン・ビスカイノの協力によって、ガレオン船
  「サン・フアン・バウティスタ号」を建造した。
  船を仙台領:雄勝浜で造らせたのだ。
  ・・・五百t級のものといわれている。

9月15日 慶長遣欧使節の派遣
    ルイス・ソテロを外交使節に任命。
    支倉常長ら一行180余人を遣欧使節としてローマに
    派遣するのだ。
    ヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)
     →エスパーニャ(スペイン)
     →ローマへ・・・教皇にあう。

 伊達政宗の命で支倉常長が月ノ浦港を出航。
    支倉常長が
     メキシコ→ヨーロッパ・・・

◆◆ 箕輪初心★支倉常長:遣欧使節団 ◆◆      
http://53922401.at.webry.info/201108/article_14.html

・慶長19年(1614)
  最上義光が没した。
 ●母:義姫は兄の死後、最上家中がすっかり様変わりしたと嘆
  いていたという。

10月20日 大坂討伐命令を受け先手を命じられ江戸を出発。
    大坂冬の陣に参戦。大和口方面軍として布陣。
    真田幸村の守る真田丸の南西に長男:伊達秀宗と着陣した。
    大坂城真田丸を攻撃。
   ・・・大した戦闘もないまま和睦。
    
    和議成立後、伊達政宗軍は外堀埋め立て工事にあたった。
    
・慶長20年・元和元年(1615)
 大坂夏の陣に参戦する。
4月、大坂夏の陣に従軍。

5月6日 道明寺の戦い
     伊達政宗は騎馬鉄砲隊を率いて、後藤又兵衛基次、
     薄田隼人の軍と激突・・
     後藤又兵衛を討ちとった。
※伊達家:片倉重長の攻撃を受けて負傷し自刃した(伝)。
  さらに大和方面軍は誉田村に兵を進めた。
   伊達隊は真田信繁(幸村)の反撃を受け、後退した。
    真田幸村軍と激突した。
    真田軍にゲリラ戦法で攪乱された。
  やがて被害が大きくなったため兵を引いた。
    伊達政宗は損害を恐れて深追いをしなかった。
    先鋒大将:水野勝成は伊達政宗に真田隊への再攻撃を
    要請するが、伊達政宗は弾薬の不足や兵の負傷などを
    理由に拒否した。
     
真田信繁=幸村は悠々と大坂城に引き返した。
    「関東勢百万と候えど、漢たるは一人も無きに見えにし候」
   (「関東武者は100万あっても、男と呼べる者は誰一人として
    居ない」)と嘲笑した(伝)。

5月7日 大坂城落城。→豊臣家滅亡。
     伊達軍は傍観に徹したため、戦功は大してない。
   ★落城を予感していたのであろう。

閏6月19日 正四位下参議に任じられる。
10月14日 片倉景綱が死去。
12月28日 戦後の論功行賞で2代将軍:徳川秀忠より長男
   =庶長子:伊達秀宗が
    伊予:宇和島に伊予宇和郡に領地を賜った。
伊達秀宗が伊予・宇和島10万石の初代藩主になった。
◆◆ 箕輪初心★愛媛【宇和島城】 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201101/article_22.html
 

・元和2年(1616)
2月22日 伊達政宗は駿府城の徳川家康を見舞った。
7月6日 娘婿長女夫:松平忠輝改易。
  五郎八姫実家に戻る。

 徳川家康が没した。
       
伊達政宗は領国の開発に力を入れた。
@運河を整備。北上川水系の流域の水田開発・石巻港の建設など。
A文化の向上・・・上方文化導入。技師・大工らの招聘。
  大崎八幡宮・瑞巌寺・塩竃神社・陸奥国分寺薬師堂など。


・元和6年(1620)
支倉常長が仙台に戻る。
  日本はキリシタン禁制となり、7年の航海も水の泡に終わった
  のである。
  ・・・鎖国政策に失望し、2年後には死亡した。
★支倉常長が太平洋横断をしたことは事実である。

・元和8年(1622) 最上氏がお家騒動→徳川幕府から改易の沙汰。
 母:義姫は行き場を失い、伊達政宗を頼った。
●伊達政宗は義姫を仙台城(仙台市)に呼び寄せた。
●母:義姫はすでに75歳、伊達政宗も56歳になっていた。
※晩年は、2人が交わした和歌の内容や伊達政宗の発言から
  母:義姫・伊達政宗母子は完全に和解していたとみられる。

●伊達政宗は母:義姫が少しでも過ごしやすいようにと、城の南東に
 屋敷を造り住まわせた。 「お東の方」と呼ばれた。


・元和9年(1623)
●母:義姫は目と脚が悪くなっていたようである。
 しかし、母:義姫は江戸にいる伊達政宗の正室:愛姫に手製の下げ袋
 を贈り感激させている。
●7月17日、 母・義姫は伊達政宗に見守られながら仙台城にて死去。
   享年76。

・元和9年(1623) 徳川家光が3代将軍になった。

・寛永3年(1626) 
5月20日 徳川秀忠秀忠、家光の供奉をして上洛した。
8月19日 従三位権中納言に任じられた。


・寛永5年(1628)
11月 若林の屋敷(保春院近く)に隠居した。


・寛永9年(1632) 徳川秀忠が没した。

・寛永11年(1634) 徳川家光の供奉をして上洛。
 伊達政宗は食事不振など体調不良を訴え始めた。

・寛永12年(1635) 徳川家光が参勤交代制を発布。
  伊達政宗は「命に背く者あれば、政宗めに討伐を仰せ付け
  くだされ」と申し出た(伝)。

・寛永12年(1635) 伊達政宗は母:義姫の十三回忌にあたり菩提を
  弔うため、若林城の近くに臨済宗少林山保春院を建立した。


・寛永13年(1636)
4月18日 ●母:義姫を弔う保春院の落慶式を挙行した。
   伊達政宗は「死後はここに埋葬せよ」と言った。
   (宝暦2年:1757に火事で焼けてしまったが、伊達政宗が
    自ら作った母の位牌が残り、再建された保春院に安置され
    ている。
   ★行ったことがあるが写真がない。

4月20日 伊達政宗は参勤交代のため病をおして江戸に
      向かった。
   ★すでにこのとき、死を覚悟していたらしい。

4月28日 江戸入りした。
      絶食状態が続いた。

5月21日、将軍:徳川家光の見舞いを受けた。
辞世の句・・・
  「曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照してぞ行く」

5月24日 江戸桜田伊達上屋敷にて死去(70歳)。
   死因はガン性の腹膜炎とも食道ガンともいわれている。
   「伊達男」は臨終の際には、妻子にも死に顔を見せなかった
   という。・・・★まあ、頑固だこと。

5月26日 伊達忠宗の家督相続が許された。
      
6月4日  遺体は仙台へ戻った。
      遺骸は仙台経ヶ峰=瑞鳳殿・・・に埋葬された。
      殉死者は家臣15名・陪臣5名。
★黄泉の国では母の愛は如何に?
 


※昭和51年 霊廟瑞鳳殿が再建された。
   伊達政宗の遺体が発掘され、鑑定が行われた。
   結果・・・身長や骨格が明らかになった。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

◆箕輪初心:山形の城
箕輪初心:生方▲山形『左沢(あてらざわ)楯山城』
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◆◆ 箕輪初心◆山形旅行12回の概要 ◆◆
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◆◆ 箕輪初心●山形【米沢城】&米沢の秘湯 ◆◆
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◆箕輪初心●山形【米沢城】&上杉家廟所・林泉寺・照陽寺 ◆
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◆◆ 箕輪初心●山形【天童城】&芭蕉立石寺&セミの話 ◆◆
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◆ 箕輪初心●山形【延沢城】&松尾芭蕉の尾花沢・佐々木監督 ◆
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◆ 箕輪初心●山形【新庄城】&松尾芭蕉最上川&My川下り一覧 ◆
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◆◆ 箕輪初心●山形【鶴岡城】&藤沢周平&高山樗牛 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201307/article_15.html

◆◆ 箕輪初心●山形【大山城】&加茂ダイビング&水族館 ◆◆
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箕輪初心●山形『松山城=松嶺城』&山形の海水浴場
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こんにちは、伊達男とは縁遠い宗治です
腕を磨こうかと日夜励んでおりまして
また一首
 『逆月は 池のかはつと 鳴きくらへ
        花のしょうふか 山里の庵』
かじかは夏の季語で、3〜8月頃の繁殖期に鳴くようだ
朝の空に白い半月がみえたら下弦の月なのだそうです。
てことは、人も春だというのに、夜ふかしをして、
かはづと花を争い、鳴きくらぶる宗春、いとかなし
※そうだ、きちんと名乗ろう!わたくし
岡石守(いそのかみ)藤原宗春(むねはる)と申します。
良い名だ・・・名前負けして変えるかもしれん。
かわずにおれば、それ幸いなり。
   ではまた
宗治
2017/03/21 13:27
棟治様ではなくなったのですね。「岡石守藤原宗春様」ですか。いけますね。歌は、古語でいう、いとあわれです。=大変趣=哀愁があります。続けてください。
宗治様
2017/03/24 06:48

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