城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行

アクセスカウンタ

zoom RSS 箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政51番外編『女城主:織田信長の叔母:おつやの方』

<<   作成日時 : 2017/03/19 06:26   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

戦国時代など逆境の時こそ、男も女も人の真価が出る。私は【おん
な城主・女戦国武将】として、美濃(岐阜県)岩村城主:『織田信
長の叔母:おつやの方』を以前にブログに掲載した。岩村城には2
回行っている。平成19年(2007)11月19日、平成24年(2012)
10月21日である。10年前には、女性でも凄い人がいることを
知った。
今回はリニューアル版である。永禄11年(1568)〜永禄
12年(1569)、井伊谷での約10日間の滞在中に『おつやの方の夫:
秋山虎繁(信友)も、龍たん寺に隠れていた『井伊直虎・祐椿尼』
と会ったかもしれない?山県昌景の方が接点が多い。武田氏
滅亡後、山県昌景家臣:三科・広瀬・孕石・(石原)などは、井伊
谷をさんざん荒らし放火したのに、井伊直政の家老となっている。

画像





◆◆ 箕輪初心●【岩村城1回目紅葉写真集】 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201210/article_21.html

◆◆ 箕輪初心●【岩村城2回目御殿〜二の丸】 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201210/article_23.html

箕輪初心●岐阜の城8−B『岩村城の女城主=信長の叔母なのだ。』
http://53922401.at.webry.info/201210/article_24.html

箕輪初心◆岐阜:重伝建『岩村城下町』&恵那観光
http://53922401.at.webry.info/201210/article_25.html



★岩村城には2回行った。
1)平成19年(2007)11月19日
岩村城の規模も石垣も凄い。
城下の酒屋で、日本酒『女城主』の一升瓶を2本買った。
岩村城→恵那峡?
夜、中津駅前のビジネスホテル(泊)でも飲んだ。
日本酒「女城主」も結構、旨かった。
翌日は、苗木城に朝一で行った。
中仙道宿場巡りをしながら、帰った。

2)平成24年(2012)10月21日
岩村城→明智城→長篠城→井伊谷城→岡崎城→西尾城
→吉良温泉(泊)
寺部城→形原城→魚センター→上之郷城(鵜殿氏)→豊川稲荷

画像

画像

画像






【1】 『織田信長の叔母:おつやの方』(生年不詳 〜1575)   


・天文13年(1544)年頃? 生年不詳
  織田信長の祖父:織田信定の娘として生まれた。
   (織田信長より10歳位、年下の叔母である。)
 「おつや」・「艶」・「お直」・「おふく」・「岩村殿」・「修理夫人」
 ・「岩村御前とも呼ばれているらしいが正確な事は不明である。
  絶世の美女であったという。
 
・永禄10年(1567) 織田信長が斎藤家を滅ぼし、美濃国を領有した。

  織田信長の叔母:おつやの方と遠山内匠助景任が結婚した。
 美濃岩村城(現岐阜県岩村町)の城主遠山内匠助景任に嫁いだ。

・元亀3年(1572)5月 夫:遠山景任が病没した。
  おつやの方は織田信長の5男:坊丸(後の織田勝長)を養嗣子
  とした。
  坊丸は未だ幼少のため、おつやの方が後見となり、主の座を引
  き継ぎ、事実上女城主として采配を振るった。
 
 10月、 武田信玄が西上作戦を開始した。
  武田信玄は各地に上洛する旨を喧伝していたが、実際の行動は
  山県昌景の別働隊3000(文献に拠っては5000)と秋山虎繁
(信友)の別働隊3000(文献に拠っては5000)を三河に向かわせ、
本隊12000も遠江に出陣した。
  徳川家康の領土を奪取することを主目的とした作戦であった。

 11月、武田信玄の家臣:秋山信友が東美濃に侵入し、岩村城に
  迫った。
 おつやの方は岩村城の守りを固めた。
 

 岩村城がなかなか陥落しそうもないので、秋山信友は一計を巡らした。
 密使を送った。
「@私=秋山信友と結婚すること、A城を明渡すこと、
 B御坊丸を養子として家督を譲ること、〜〜〜としてはど
 うだろうか?」
 女城主も「最後まで岩村城を守ることが出来ない。」と考え、
秋山信友との結婚を承諾した。家臣や領民を守るため、
政略結婚の道を選んだのだった。
しかし、秋山信友は、織田信長の叔母と結婚したことを、
主人の武田信玄に怪しまれると思い、B7歳の御坊丸を甲府
に人質として送った。
(★『岩村城資料館』での説)

  秋山信友が和議を申し入れるが、同時におつやの方に対し婚姻を
  求めたのである。
 おつやの方はこれに応じ開城した。
  おつやの方は武田信玄の動きに呼応し、武田軍に寝返ってしまった
  のである。
 
  11月14日、岩村城は武田方のものとなり、信玄は配下の下条
   信氏を送り込んだ。(★『当代記』では)

  おつやの方は武田の将・秋山信友の妻として岩村城主の妻の座に
  着いた。
 ▲上村合戦 
  おつやの方に対して、他の東美濃諸豪族は反発し、おつやの方と
  上村合戦と呼ばれる合戦が起こったとみられる。
 
 11月14日 武田信玄は苗木遠山氏に
   「岐阜の信長を牽制せよ。」と命じた。
★苗木城も迫力ある美濃ベスト4に入る城であろう。

 12月12日 武田信玄は遠藤加賀守に
   「岩村城へ兵を増援する。」と伝えている。

  武田信玄信は「おつやの方」・遠山氏は味方についたことに
  より、三河から東美濃へ入って信長を攻めることにした。
  (『三河物語』)

●おまけ**********************
山県昌景別働隊は井伊谷に侵攻した。
  
・元亀3年(1572)12月22日 ▲三方ヶ原の戦い 
  武田家臣:山県昌景が井伊谷を攻撃した。
  井伊谷3人衆は開城した。
  三方ヶ原の戦いで徳川家康は大敗を喫した。
12月22日〜正月始めまで 武田軍25000が井伊谷に滞在した。

****************************

・元亀4年(1573)3月6日、武田信玄は美濃に秋山虎繁を送り、
  岩村城城主とした。
  この時におつやの方と秋山との正式の婚姻が行われたとみられ
  ている。
  養嗣子:坊丸は人質として甲斐に送られた。
  坊丸は甲斐で武田信玄の養子となった。
  (武田氏滅亡の直前、織田方へ送り返された。織田勝長と名乗った。 )

・天正元年(1573 ) 武田軍が井伊谷に侵攻し、神社・仏閣・民家
  を焼き払った。

・天正元年(1573 )4月12日 武田信玄が駒場で死んだ。
  武田軍は撤退した。 
 井伊谷は再び徳川家康の支配下になった。

●織田信長の動向
織田信長は怒りまくったが、近畿攻略に追われていたので、
そのまま放任せざるをえなかった。しかし、織田信長は岩村
城の近くの可児などの城に兵を送り、密かに岩村城の奪還の
期を伺った。
 
・天正3年(1575)
3月、▲長篠の戦い
  織田信長・徳川家康 VS 武田勝頼
武田勝頼軍が敗戦した。
 武田が衰退の兆しが見えた。
 織田の勢力が優勢になった。
 

6月、▲(天正3年の)岩村城の戦い。

 織田信長は岩村城に嫡子:織田信忠を大将とする軍勢を送った。 
 織田信忠らが岩村城を包囲した。
 織田信忠の大軍は数日間激しく攻撃した。

 しかし、岩村城の秋山信友の兵もよく防戦した。
 織田軍は岩村城を取り巻き、間道を塞ぎ、抜け道を閉鎖し
  兵糧攻めを開始した。
  織田信忠は武田勢は大敗を帰したばかりで援軍を出すのは
  不可能と読んだのであろう。
  しかし、岩村城はなかなか落ちない。
 
  秋山信友(虎繁)は逆に「援軍来る。」と虚情報を流し、
  織田信忠を困惑させた。
  
 持久戦となって4ヶ月が過ぎた。

 10月、岩村城内の食糧が乏しくなってきた。
  武田勝頼は岩村城を救援するべく出陣した
  
 織田信長もなかなか岩村城が落ちないので、直接出陣し、
  陣頭指揮をとることにした。
 
  織田信長は謀り事で城を落とすこととした。
 和議を申し入れたのである。
 「叔母の城の城兵にて兵火にさらすのは忍びない。」
 織田信長はそう開城を持ちかけた。
  秋山信友・おつやの方は織田信長の和議に応じた。
  岩村城の籠城側:秋山らは武田勝頼の援軍は迫っていた
  のを知らなかったからである
  秋山信友は武田の援軍はなく、兵糧も乏しく飢えと寒さに
  城兵は苦しんでいたことを考慮した。
 武田勝頼は雪の阻まれ、神坂峠・恵那山越えに手間取っていたので
  ある。

 武田勝頼が到着する前・・・・ついに岩村城は開城した。

11月21日、秋山信友の岩村城は落とされた。
 織田信長は甥である自分を裏切り、さらに我が子までも人質に差し出
 したおつやの方を、 赦そうとは思っていなかった。
 織田信長は秋山虎繁(信友)・おつやらを赦免すると見せかけ、
  礼に来たところを捕らえた。
 
 織田信長は、秋山信友・修理夫人=織田信長叔母らを
  長良川近くで逆磔にすることにした。
 おつやの方は
 「敵方であった秋山信友は開城に際し約束を守ったのに、
 身内である信長は和議の約束を反故にするのか。」
 と嘆き、恨んだという。

逆磔の時、秋山夫人:おつやの方は泣き悲しみ、
「我れ、女の弱さのためにかくなりしも、叔母に非道をなすは、
 必ずや、因果の報いを受けん」
と絶叫しつつ果てたという(伝)。  

  織田信長の逆磔の理由は、長篠城の奥平信昌が徳川家康に寝返
 った際、武田勝頼が奥平の妻を磔にしたので、その報復だったと
 いう。
  (★『甲陽軍鑑』)
 おつやの方もまた信長に捕らえられて逆磔で処刑された。
 あるいは信長が裏切られた鬱憤を晴らすために自ら斬ったとも
  言われる
  (★『当代記』)
 織田信長は秋山信友以下の城将を皆殺しにした。
 (★だから、井伊直政の家臣には秋山虎繁の家臣はいない。)
 
 ★織田信長はしばしば、切れて逆上するらしい。
 「瞬間湯沸かし器」みたいらしい。
 一度の裏切りや敵対行為は大目にみることもあったが、おおむね
許さない。
 報復か逆上か……やはり、「逆上」であろう。
 
 おつやの方も気性の激しさも織田の血なのだろうか?

◆参考資料
岩村歴史資料館の冊子



既に、『真田信之の妻:稲(小松姫)』・『のぼうの城:甲斐姫』を
掲載している。そして、『立花ァ千代(ぎんちよ)』・『伊達政宗の
母:義姫』なども少し、掲載した。
7〜8年前から「井伊直政」を調べていて、『井伊直政養母
:井伊直虎』・『今川義元の母:寿桂尼』の存在を知った。
2〜3回、脇道編の掲載かな?

『伊達政宗の母:義姫』

『真田信之の妻:稲(小松姫)』
『のぼうの城:甲斐姫』
『立花ァ千代(ぎんちよ)』
『井伊直政養母:井伊直虎』
『今川義元の母:寿桂尼』







★明日は?

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政51番外編『女城主:織田信長の叔母:おつやの方』 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる