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zoom RSS 箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政49『瀬名姫(=築山殿)と松平信康と亀姫

<<   作成日時 : 2017/03/16 07:09   >>

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・平成29年(2017)3月10日から、群馬県相馬が原自衛隊で、
日米共同訓練に米軍の垂直離着陸輸送機MV22『オスプレイ』
6機も参加予定とされていた。3月15日、『オスプレイ』3機
が新潟の関山から帰ってきたようである。自衛隊から3kmしか
離れていないので、低空飛行であった。でも写真は撮れなかった。
今日も体温が38、2度と高熱での「梅の剪定中」のことであった。
一般的に関口刑部少輔氏広の妻は『今川義元の妹』とされてき
たが、『井伊年譜』・『系図纂要』・『井家粗覧』の系図により、
『井伊直平の娘が今川義元の側室→今川義元の養妹(名義を妹)
→関口刑部少輔親永の室』とされる。関口親永と井伊直平の娘
が産んだ子が瀬名姫(=築山殿)である。瀬名姫&松平元康の2
人の間には嫡男:松平信康と長女の亀姫の2児が産まれている
が、桶狭間の戦いを機に、夫:徳川家康が織田信長と手を結ん
だ事から瀬名姫(築山殿)の人生は変わっていった。最悪・・。
画像

(★永禄3年時点では、天守閣はない。)


天文11年(1542)頃?
  瀬名姫は今川家の重臣:関口親永(ちかなが)の娘として
  生まれた。
 関口親永は瀬名義広という名前だった。
  瀬名氏俊の弟で今川一族の関口家の養子として家督を継ぐために
  姓名を改めた。
 ★「瀬名姫」という名前も、関口親永の元の姓が由来になって
  いると思われる。

天文17年(1548)頃? 竹千代(徳川家康) 6歳頃、松平広忠は
 織田信秀(織田信長の父)に対抗するため駿河国の今川義元に従属
 し、人質として駿府へ送られることとなった。



松平元信の今川義元の人質時代*************

今川館には、竹千代が駿府に来る前から乙女が出入りしていた。
吉良義昭(よしあき)の娘:椿姫、通称「お亀」と呼ばれていた。
関口親永(ちかなが)の娘:瀬名姫、通称「お鶴」と呼ばれていた。
その他、大勢も人質状態であった。

松平松平広忠・・三河岡崎:岡崎城主の嫡男:松平元信:
@石川数正

 松平元信(徳川家康)が今川義元の人質になっていた時代から
 近侍として仕えた。石川数正・・・傅役?近習の1人


A岡部正綱
 少年時代に人質であった岡部正綱、竹千代(三河のぼんやり:徳川家康)
 と仲良くなった。岡部家は竹千代を日常生活面で助力した。
 徳川家康に対して今川家の重臣の中では最も好意的な態度をとっていた

箕輪初心:生方▲遠江【高天神城】後編「本丸→三の丸」
&『歴史:今川→徳川→武田→徳川の城』
http://53922401.at.webry.info/201610/article_4.html

B 孕石元泰と孕石泰時
 竹千代の隣の家の「孕石家」に竹千代の鷹が舞い降り、度々、こっそり
  無断侵入した。孕石元泰にしばしば、叱られた。
  そのため、孕石家とは仲が最高に悪かった。
天正9年(1581) 3月22日、徳川家康の侵攻により高天神城
は陥落した。孕石元泰は捕らえられ、3月23日に切腹させられた。
  徳川家康に降伏した者で切腹を申しつけられたのは孕石元泰が一人
  であった。
  ★餓鬼の時の思い出がしこりになっていたのであろう。
天正10年(1582) 8月 天正壬午の乱
孕石備前守泰時は旧武田家家臣:山県昌景隊に所属していたが
  武田家滅亡後、徳川家に仕え、井伊直政付家老となった。
  ★父に切腹を命じたのに、子どもに罪はないてとこか? 
  井伊直政に仕えて1500石で旗奉行となった。
  彦根城築城にも功があった。
 

C太原雪斎
  臨済寺で学習し、知識を得た。
 ほかの人質子弟と同様であった。
 三河のぼんやり「竹千代(徳川家康)は結果としてプラスになった。
 臨済寺の開山の今川軍師:太原雪斎から歴史、軍略などを学んだのだ。
・天正10年(1582) 庵原一族:太原雪斎の甥:庵原朝昌は
徳川家康に仕え、後、井伊直政の付家老になった。
 




◆弘治元年(1555) 亀之丞は松源寺を離れ、井伊谷に戻り、
  15代(23代)井伊直盛の養子となり、井伊直親と名乗った。
  次郎法師の養子となった。「井伊直親」と名乗った。
(NHK大河ドラマの流れであると思われる。)
 井伊直親は家臣:奥山朝年の娘と結婚した。今川義元に復帰した。

◆弘治2年(1556)南渓禅師(龍潭寺2世)に相談し次郎法師
  を名乗った説もある。


*****************************
弘治3年(1557) お鶴=瀬名姫は今川義元の養女となった。
 今川義元の計らいで今川家の人質として駿府にいた三河岡崎城主の
松平元信(元康、徳川家康)と結婚した。
@ お鶴=瀬名姫は25歳

松平元信は16歳
今川氏真は21歳
 ★TVでは、と姉さん女房と設定している。
   結構、ひねた女が役割演技している。

A瀬名姫16歳?
 松平元信16歳?
(★女城主・井伊直虎 この一冊でよくわかる! 楠戸義昭著)




◆今川義元が婚礼に肩入れした理由

@関口親水+井伊直平の娘:お鶴=瀬名姫は今川氏真と結婚し、
今川当主の妻の座を狙っていた。ところが、今川氏真が北条
氏康娘を正室:早川殿を迎え、側室には庵原忠康の娘を貰った。
お鶴=瀬名姫は今川氏真を諦めたようである。
  お鶴=瀬名姫の婚期を逃し、25歳位になっていた。心配した
  のは無理もなかった。
 A逆に今川義元自身は我が子:今川氏真より松平元信の方が優れた
 いると思っていた節もある。今川氏真は5歳上だった。 
 太原雪斎が竹千代(家康)の教育係に就くとはちょっと無理がある
 と思うが。臨済寺で勉強したのは確かである。
 今川義元に教えたのと同じことを弟子が授けたと思われる。
 兵法・歴史・政治のすべてを教えたであろう。
太原雪斎かつて
「あの小冠者(松平元信)は優れている。鷹になる。・・・」

◆参考サイト
小説『徳川家康』第19回 より引用
http://blogs.yahoo.co.jp/artsdainohara/69847628.html
 「あの小冠者(松平元信)を、いつまで籠の鳥の質子(人質)と思
 うていると間違いまするぞ。今川家の廂(ひさし)に巣喰うて満足
  しておる燕雀ではござらぬ。大鵬(たいほう)の雛は、雛のうち
  から、大鵬になる心得をもて扱っておかぬと、飼い馴れぬもの
 でおざる・・・」
 ※TVでは、松平元信は鷹の代わりに雀を手名付けていた。
瀬名もびっくり・・・・
従って、今川氏真の側近にしたかった。従って、今川義元は養女に
 して、今川一門をして、扱った方が得策と考えた。
 これも推測の域を出ないが、今川義元は永禄3年(1600)に死ななけ
 れば、松平元康(徳川家康)の子を・自分の子か今川氏真の子とし
 て養子にする思惑もあったかもしれない。勝手に考えると面白い。
 しかし、松平元信は今や表面上は今川義元に絶対忠誠を誓う家臣を
 装っていた。いつ、独立するか既に期をうかがっていたかも
 しれない。
 
 正月15日 瀬名姫は松平元信(徳川家康)と結婚した。
  婚礼の儀の輿入れは、今川義元の養女であったから、貴族風の
  豪華のものであっただろう。



・永禄元年(1558) 今川義元は嫡男:氏真に家督を譲って隠居した。
家督を譲る

今川氏の発給文書
@駿河国では今川義元・今川氏真署名の文書となっている。
A遠江と三河は今川義元の発給文書となっている。
 今川義元は三河制圧と領地経営に力を注いでいた。

・永禄元年(1558)   
織田連合:水野信元 VS  今川勢の松平元康(徳川家康)
  石川数正は先鋒を務めて活躍した。

・永禄3年(1560) 桶狭間の戦い
今川義元が敗れると水野信元は松平元康と和睦した。

永禄2年(1559) 瀬名姫は長男の松平信康を出産する。

永禄3年(1560 瀬名姫は長女の亀姫を出産する。
後、亀姫は奥平信昌室・・・・

●永禄3年(1560) ▲桶狭間の戦い
   織田信長 VS 今川義元

5月10日(6月3日)・・今川義元は先方隊として、井伊直盛
       ・松平元康(徳川家康)を三河に派遣した。
5月12日(6月5日)
今川義元は大軍を率いて駿府を発った。
今川義元は那古野城(現名古屋城二の丸)を目指し駿・遠・三
 2万余の軍を率いて尾張国への侵攻を開始した。
 尾張を目指して東海道を西進した。 藤枝泊
5月13日(6月6日) 藤枝→掛川城泊
5月14日(6月7日) 掛川→引馬城泊
5月15日(6月8日) 引馬→吉田城(豊橋城)泊
5月16日(6月9日) 吉田→岡崎城
5月17日(6月10日) 岡崎→池鯉附城
今川軍は、尾張の沓掛城に入った。
 (★ウキペディアの説)
5月18日(6月11日) 夜
松平元康(徳川家康)が率いる三河勢を先行させ、大高城
に兵糧を届けさせた。
◆今川軍の前哨戦・・織田の丸根砦・鷲津砦への攻撃。





5月19日(6月12日)
織田方に身動きを封じられた大高城(現名古屋市緑区大高)を救
うべく、大高周辺の織田方諸砦を攻略するように松平元康(家康)
に命じた。
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03:00頃
○今川の丸根砦の攻撃
  大高城の鵜殿長照2000・松平元康1000で
  →丸根砦への攻撃開始。
  丸根砦の織田軍:佐久間盛重420+α=約500名は城外で
  白兵戦を展開。
  結果・・大将:佐久間盛重は討死。

 ○今川の鷲津城の攻撃
  JR大高駅東の裏山・・・大高城から700m程

  大高城の朝比奈泰朝・井伊直盛2000で鷲津砦攻撃。
  織田軍は篭城戦。
  結果・・飯尾定宗、織田秀敏が討死。
     飯尾尚清は敗走。
     一定の時間稼ぎには成功した。
 
 朝、今川義元は西へ兵を進め、織田氏の防衛線:丸根砦や
  鷲津砦を攻略し、桶狭間に本陣を敷いた。
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  今川義元は丸根砦、鷲津砦の攻略に気を良くした。
 今川軍は、大高城周辺の制圧を完了した。
 
今川義元は前哨戦に勝利した報せを受けて沓掛城で待機していた
  本隊を大高城に移動させようとした。

 今川義元が率いる本隊が沓掛城を出発し、大高城の方面に
  向かって西に進んだ。

 正午頃、中嶋砦の前衛に織田軍の佐々政次:千秋四郎ら30余りの
  部隊が単独で今川軍の前衛に攻撃を仕掛けた。
  今川義元は討ち破った。

*****************************
大石泰?説「桶狭間進軍の目的」
   @上洛説
   A尾張領を取る説・・・が主流であったが、
   B井伊家など国衆はいつでも裏切る可能性があった。
     今川家の威厳・・・輿は特別な乗り物は
     権力の象徴であった。
    25000の兵はデモンストレーションであった。
    長尾景虎の上洛は5000・・・・
    25000は「軍事パレード」・・・遠江・三河への
    アピールであった。織田への攻撃が真の目的
    ではなかった。全面対決は考えていなかった。
    信長の砦を落としてしまった。戦勝気分であった
    所に、偶然来てしまった。(大石説)


●織田信長の動向******************
※ 織田家内部では清洲城に篭城か白兵戦かで揉めた。

 
※織田信長の反応→桶狭間への出陣前
 @今川本軍の沓掛城の落城・・・反応なし。
 A今川軍の丸根砦・鷲津砦攻撃開始の報を受けた。
 ・・・幸若舞「敦盛」を舞った。
「人間五十年 下天の内を比ぶれば 夢幻のごとくなり 
 一度生をうけ 滅せぬもののあるべきか」。
昆布と勝ち栗を前に立ったまま、湯漬け
 (出陣前の米飯に熱めの湯をかけて食べた。)
 ★たまには、縁起を担いだ。都合のいい野郎だ。
 出陣。

04:00頃 
  @清洲城・・・出陣の身支度を整えた。
  織田信長は居城:清洲城より出発。
   小姓衆5騎のみだったという。(★清洲城博物館)
  ★織田軍の中の反逆者を恐れたからである。
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 (★清洲城の画像資料)
08:00頃 A熱田神社に到着。
     軍勢を集結。100人にはなっていた。
      熱田神宮に戦勝祈願を行った。
★次第に集結。この時点で、3000の軍勢説が強い。

  
09:00頃 熱田神宮発→鎌倉上街道を東進。
津島・・・服部小平太(※今川義元に一番槍)が合流
日光川
    勝幡城(※織田信長が生まれた場所)
    美和(現あま市)・・・蜂須賀小六・福島正則・
   豊臣秀次・溝口秀勝などが合流。
(★長屋良行説採用)

09:50頃 丹下砦(緑区鳴海町)
 
10:00頃・B善照寺砦(緑区鳴海町)
   織田信長軍は鳴海城対策の善照寺砦に入った。
   約2,000〜3,000人といわれる軍勢を整えた。
  (※善照寺砦で4,000人の軍勢を整えて出撃。
    ウキペディアの説・・・)

11:00~ 善照寺砦(緑区鳴海町)発
   織田信長は善照寺砦に佐久間信盛の軍の約500を置いた。
   織田信長は2000の兵で善照寺砦より出撃。
   鳴海から見て南東の桶狭間の方面に進軍した。
  (※中嶋砦まで進軍した説:資料もある)。

12:00頃
  中嶋砦の前衛の佐々政次・千秋四郎ら約300の軍は
   織田信長の出陣の報に意気上がり、単独で今川軍の前衛
   に攻撃をしかけた。
   結果・・佐々、千秋らが討死に。
 
桶狭間の戦い
  @通説・・・桶狭間古戦場伝説地=7ッ塚
     迂回説=従来の説。
善照寺砦→鎌倉街道→有松駅&競馬場前駅の
間→高徳院前
  A有力説・・桶狭間山
     迂回説に否定的な見解が主流である。
     善照寺砦→中島砦(鳴海駅近く)→左京山駅近く
→桶狭間山(高徳院の500m先の山である。)
   ※信長公記に桶狭間山が出てくるからである。     
B少数説・・高徳院境内説。
C少数説・・幕山=今川家家老:松井宗信の死んだ場所。

今川軍の本隊(今川家当主:今川氏真&実父:義元)は
  5,000〜6,000人ほどに過ぎなかった。
  大部分は戦闘に不慣れな寄せ集めの兵であった。

13:00前頃 左京山途中
  突如豪雨が降り、視界が悪くなった。
★どしゃ降りだったらしい。(★地元の三代さん)
織田軍は雨に乗じて兵を進めた。
 今川義元は桶狭間(おけはざま)山で休息中であった。



14:00 過ぎ、雨が止んだ。
桶狭間山・・・
織田信長軍は今川義元の本隊に接触、攻撃を開始した。
今川軍の総勢は2万人であった。
織田信長の親衛隊2000今川義元の旗本部隊に突入した。
今川義元を守る兵力は5000〜6000人であった。
大将同士が徒士立ちになって刀槍をふるう乱戦となった。
織田信長の攻撃を受け、松井宗信らと共に奮戦した。
松井宗信は討ち死にした。
今川義元は輿を捨て300騎の親衛隊に周りを囲まれながら騎馬で
退却しようとする。
織田信長の攻撃で兵を失った。
織田信長の馬廻に追いつかれた.
今川義元への一番槍は服部小平太であった。
織田家臣:服部小平太一忠を返り討ちにした。
画像

毛利良勝は負傷した服部一忠を助け、今川義元に組み伏せた。
この際、毛利は指を噛み千切られたといわれる。
毛利新介(良勝)が大将:今川義元を討ち取った。
今川義元は討ち取られてしまった
毛利良勝は首を取り名を上げた。
今川義元が桶狭間の戦いにて討ち死に。享年42。

●墓


※織田家家臣:毛利良勝に愛刀:左文字の太刀と首級を
奪われたのだ
今川義元は宗三左文字(そうざさもんじ)南北朝時代に作刀
された日本刀を持っていた。
織田信長が戦利品として刀を接収した。
織田信長はこの刀を短く磨り上げた。
茎表裏に「織田尾張守信長」「永禄三年五月十九日義元討捕
刻彼所持刀」と金象嵌銘を入れ、愛刀とした。
織田信長が本能寺の変で横死するまで信長の手元にあった

◆◆ 織田信長@尾張のうつけ者時代 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201206/article_1.html

◆◆ 織田信長A桶狭間前哨戦 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201206/article_2.html

箕輪初心★【織田信長B桶狭間〜清洲同盟】
http://53922401.at.webry.info/201206/article_3.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政45【第9話「桶狭間」&史実編】
&井伊直盛の墓
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201703/article_6.html


※今川義元の死
今川氏真が退却命令を出した。
その後、残存した今川兵によって、今川義元の遺体を駿府まで
連れ帰ろうと試みられたが、首の無い今川義元の遺体は想像以上
に腐敗の進行が早く、三河国宝飯郡(関口氏縁支配地)」に埋葬された。
今川義元の首は、鳴海城に留まり奮戦する今川義元の重臣:岡
部元信と織田信長との開城交渉により後に返還され、駿河に戻っ
た。
今川義元の戦死により、今川氏真が後を継いだ。
関口氏縁も討ち死にした。

・永禄3年(1560)  今川氏真が龍潭寺棟別諸役一切免除の朱印状
  を出した。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

永禄3年(1560) 5月19日の桶狭間の戦い
今川方の松平元康(=徳川家康)は大高城から出陣。
  大高城の鵜殿長照2000・松平元康1000で
  →丸根砦への攻撃開始。
  丸根砦の織田軍:佐久間盛重420+α=約500名は城外で
  白兵戦を展開。
  結果・・大将:佐久間盛重は討死。

 (伯父の)今川義元が討たれ、元康(元信から改名。家康)
 は岡崎に帰還 することとなった。

箕輪初心●愛知【岡崎城】=「徳川家康が生まれた城」
http://53922401.at.webry.info/201212/article_7.html


松平元康(家康)が西三河で自立=独立した。


 東三河でも戸田氏・西郷氏などが離反し、松平元康(家康)の傘
下へ転属していく。
三河の動揺が遠江に伝播した。

松平元康(家康)が独立すると、石川数正は今川氏真と交渉し、
今川氏真の人質として駿府に留め置かれていた徳川家康の家康の
正室:瀬名姫(築山殿)&嫡男:松平信康とを取り戻した。

・永禄4年(1561) 石ヶ瀬川の戦い
永禄元年(1558)〜永禄4年(1561)年)
織田信長 VS 今川義元

・永禄5年(1562)3月 清洲同盟
 石川数正は織田信長と交渉を行ない、清洲同盟成立に大きく貢献した。
瀬名姫の夫:松平元康(徳川家康)が、織田信長と同盟を結んだ。
瀬名姫&松平元康の2人の間には嫡男:松平信康と長女の亀姫の
2児が産まれているが、桶狭間の戦いを機に、夫:徳川家康が
織田信長と手を結んだ事から瀬名姫の人生は変わっていった。
画像

 
@瀬名姫の父:関口親永が今川氏真の怒りを買い切腹させられた。
瀬名の母も自害した。

 石川数正は、今川義元の妹の夫である上ノ郷城城主:
 鵜殿長照の2人の遺児:氏長・氏次(今川義元甥・今川氏真
 従兄弟)と瀬名姫(徳川家康の正室:築山殿)、竹千代(家康
 の嫡男:」信康)、亀姫(家康の長女、後奥平信昌の正室)ら
 の人質交換を交渉した。交渉は成立した。
 瀬名姫(築山殿)は子供たちと共に人質交換によって、駿府の
 今川館から徳川家康の根拠地:岡崎に移った。
徳川家康は家族を自分の下に戻す事に成功した。が〜〜〜〜〜。

大久保彦左衛門忠教「三河物語」
「其より、東三河へ御手を懸けさせ給いて、西之郡之城(上之郷城)
 を忍び取りに取らせ給いて、鵜殿長持を打ち取り、両人之子供
(鵜殿氏長、氏次)を生捕給う。
 然る間、竹千代様(徳川信康)をば,駿河に置きまいらせられて、
御敵にならせ給いければ、竹千代様を『今害死し奉れ』・『後害死
 奉れ』」「今日の」「明日の」とののしれども、関口刑部之輔殿
 (瀬名姫=築山殿の父)の御孫なれば、さながら害死し奉る事
 も無し。然らば、石川伯耆守(石川数正)申しけるは、『いとけ
 なき若君御一人戕害(生害=死ぬ・殺す)させ申さば、御供も申
 すもの無くして、人之見る目にもすごすごとして(しょぼしょぼ
 して)、おわしますべし。然らば、我らが参りて御最後之御供を
 申さん。」とて駿河へ下りけるを、貴賎上下感ぜぬ者もなし。
然る処に、「鵜殿長持子供に人質替えにせん」と申し越しければ、
上下万民喜び申すこと際限なくして、さらばと云いて、替えさせ給
う。其の時、石川伯耆守御供申して、岡崎へ入らせ給う。上下万民、
 続いて御迎えに出でにけるに、石川伯耆守は大髯(口ひげ)を
 くいそらして(ひげの先を反りあがらせて)、若君を頸馬に乗
 せ奉りて、念じ原へ打ち上げて通らせ給う事之見事さ、何たる
  物見にも是に過ぎたる事はあらじとて見物する。
 「氏真は、さてもさても阿呆の人かな。そもそも竹千代様を
  鵜殿に替えるという、方薬(いいかげんなやり方をすること
  =あほう・お馬鹿)かな。」と云いたり。
★石川数正が人質交換を成功させた事で、得意顔で岡崎に帰還し、
 今川氏真を阿呆=馬鹿呼ばわりしていることが書かれている。

A徳川家康の母親:於大の方との関係が悪かったため?
瀬名姫(築山殿)は徳川家康の岡崎に戻るが、岡崎城に入ること
は許されなかった。とされる。岡崎城外での生活を強いられた。
岡崎城の外れにある菅生川のほとりの惣持尼寺で、幽閉同然の
生活を強いられた。
築山御前(つきやまごぜん)・築山殿という呼称は、長く岡崎
城郊外の築山に幽閉されていたことによる。

●永禄6年(1563) 三河一向一揆
石川数正は浄土宗に改宗して徳川家康に尽くした。
 石川宗家の家督は叔父:石川家成が家康の命で継いだ。
 石川家成は徳川家康の従兄妹に当たる。
 石川数正は徳川家康が今川義元の人質時代に、近習していた
 こともあり、徳川家康家の家老に任じられた。
 酒井忠次・石川家成・石川数正が重用されるようになった。
 

●永禄7年(1567)5月  嫡男:松平信康9歳が織田信長の長女
  :徳姫と結婚した。共に9歳の形式の夫婦であった。
 2人は岡崎城で暮らすことになった。
 築山殿は依然として城外に住まわされたままであった。
 別居状態はさらに続いた。
6月 徳川家康は浜松城(浜松市中区)に移った。
 松平信康は岡崎城を譲られた。
 7月 松平信康は元服して、織田信長より偏諱の「信」の字を、
   父・家康から「康」の字をそれぞれ与えられて信康と
  名乗った。
石川数正が後見人となった。・永禄10年(1567年)、井伊次郎直虎
(これが次郎法師と同一人物なのかが最近問題となっている)
と関わりを持った関口越後守氏経。
【井伊次郎法師=次郎=直虎=男性説】
『関口氏経と新野左馬助は兄弟、井伊次郎は関口氏経の息子』とある。
新野氏や関口氏のつながりをしめす面白い文献である



●永禄10年(1570) 瀬名姫はようやく岡崎城への入城を許された(伝)。


・元亀元年(1570) 4月下旬 築山殿は岡崎城に移った。


岡崎城への入城を許可されたものの、徳川家康が居城を
  岡崎城から浜松城へ移した。
  嫡男:松平信康が岡崎城を守った。
   築山殿は後継ぎの松平信康とともに岡崎にとどまった。

・永禄12年(1569) 石川数正の叔父:家成が遠江の掛川城代
 に転出すると、石川数正は西三河の旗頭として、岡崎城代に
 なった。


元亀元年(1570) 松平信康が正式に岡崎城主となった。
箕輪初心●愛知【岡崎城】=「徳川家康が生まれた城」
http://53922401.at.webry.info/201212/article_7.html

・天正元年(1573) 松平信康が初陣を果たした。
信康は若い頃から勇猛果敢であった。

・天正3年(1575) ▲長篠の戦い
松平信康が功績を挙げた。

・天正4年(1576) 徳姫は登久姫を生産んだ。

・天正5年(1577) 徳姫は熊姫を産んだ。
  徳姫は松平信康の息子を産めないでいた。
 築山殿は、元武田家の家臣で後に徳川家の家臣となっていた
 浅原昌時の娘や日向時昌の娘など部屋子をしていた女性を、
 松平信康の側室に迎えさせた。

・天正5年(1577) 8月 ▲遠江横須賀の戦い
 松平信康は退却時の殿軍を務めた。
 武田軍に大井川を越させなかった(伝)。
 岡崎衆:酒井忠次・石川数正・松平家忠などを率いて徳川家康
 をよく補佐したという。
 
箕輪初心:生方▲遠江【高天神城】後編「本丸→三の丸」
&『歴史:今川→徳川→武田→徳川の城』
http://53922401.at.webry.info/201610/article_4.html

・天正6年(1578) 9月22日、徳川家康から三河国衆に対して、
 「岡崎に詰めることは今後は無用である。」
(★『家忠日記』)
 徳川家康は、松平信康を岡崎城から追放した。
 松平信康と岡崎衆の連絡を禁じた。
 松平家忠ら岡崎衆に松平信康に内通しないことを誓う起請文を出させ
 た。


●天正7年(1579)
徳姫が父:織田信長に、瀬名姫(築山殿)に関する「十二カ条の弾劾文」
 を送った。
 原因・・・徳姫にとって瀬名姫(築山殿)の性格が悪かった?
原因は、徳姫が父・信長に出した手紙「十二カ条の弾劾文」。
(★江戸時代の『三河物語』)
瀬名姫(築山殿)の性格・武田信玄との内通に関すること
・徳川家康と松平信康の親子間で対立している。
・築山殿が自分(徳姫)に関する讒言を松平信康にした
・瀬名姫が自分と夫:信康の仲を裂こうとしている。
・瀬名姫が女子しか産んでいない自分(徳姫)に乱暴する。
・瀬名姫が元武田家の家臣の娘を斡旋した。
・瀬名姫は贅沢三昧をしている
・瀬名姫は甲州の唐人医師・減敬と密会している
  (→築山殿と唐人医師:減敬(げんきょう)と密通していた

・瀬名姫は武田勝頼と通じ、織田と徳川を滅ぼそうとしている
  など、12ヶ条からなる訴状を織田信長に送った。
 
織田信長が徳川家康に瀬名姫・松平信康の処刑を命じたとされる。
徳川家康は瀬名姫(築山殿)を殺害する決意を固めた。
 

8月29日、徳川家康の家臣:野中重政が遠江国敷知郡小藪村
 (浜松市中区富塚)で瀬名姫(築山殿)殺害した。
 瀬名姫は40歳手前だったと推測される。

墓所・・・・西来院(浜松市中区広沢)
 法名は清池院殿潭月秋天大禅定法尼。
  築山御前霊廟・・・月窟廟
首塚・・・・岡崎市の祐傳寺
  天保年間の頃?、八柱神社に移された。

9月15日 徳川家康の命により嫡男:松平信康が二俣城で切腹
  した。
 

★『三河物語』は徳川家康の家臣:大久保彦左衛門が、徳川家と
大久保家の歴史をつづったものである。徳川家康にとって都合
の悪いことは系図同様に書かない。
「瀬名姫と信康様は、織田信長と娘:徳姫に殺されたようなもの
であり、殺された2人が悪くて、徳川家康様は悪くない。」とする
贔屓目で書いた2次史料である。あまり、歴史学者は信用していない。
私は素人であるから、すぐに信用しちゃうけど、・・・
だが、この通説には疑問点も多く出されている。築山殿の殺害と信康
の切腹は、家康・信康父子の対立が原因とする説が有力視されている
『家康、お前が決めよ。』(★『信長公記』とある。
「十二カ条の弾劾文」が存在したのか、徳姫と瀬名姫(築山殿)の
仲は本当に悪かったのか、・・・不明である。いずれにしても、大久
保は責任転嫁をしたのは確かなのであろう。徳川家康の神格化の必要
があったから、・・・
NHK大河ドラマ:「おんな城主直虎」は、どう出るか?・・・


*************************
長女の亀姫
・天正3年(1575)長篠の戦い
◆◆ 箕輪初心★奥平一族の歴史 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201211/article_23.html

箕輪初心●愛知【長篠城】=奥平信昌の先祖は群馬出身
http://53922401.at.webry.info/201211/article_24.html

◆◆ 箕輪初心◎長篠の戦い前編 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201211/article_25.html

◆◆ 箕輪初心●愛知【長篠城】 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201211/article_24.html


箕輪初心◎長篠の戦い後編:設楽原の激闘&上野国関係者
http://53922401.at.webry.info/201211/article_27.html


・天正4年(1576) 奥平信昌は戦功として、徳川家康からの
 褒美として、三河の新城城主となった。亀姫は奥平信昌へ嫁いだ。
 亀姫は奥平信昌に側室を置かせず、4人の男子(家昌・家治・
 忠政・忠明)と1女(大久保忠常室)を儲けた。
★奥平信昌は側室を置かなかった?置けなかった?

・慶長5年(1600) 関ヶ原の戦い
・慶長6年(1601) 奥平信昌が京都治安活動を高く評価され・美濃
 加納藩10万石の藩主に任じられ
 た。亀姫は3男・忠政と加納に移った。
 加納御前・加納の方と呼ばれるようになった。
 嫡男:奥平家昌は上野宮崎領(富岡市)下野宇都宮10万石を
 与えられた。
・慶長19年(1614)
1月 大久保忠隣が改易となった。
信昌・亀姫夫妻の一人娘が、大久保忠隣の嫡子・大久保忠常
  に嫁していたため、大久保氏と奥平氏の関係は緊密であった。
  だが、娘婿・忠常が早世した。
  大久保忠隣は不可解な改易となった。
  亀姫は、「本多正信と本多正純父子が大久保忠隣を陥れた。
  と思っていた。

 @9月 3男:奥平忠昌(忠政)が父母に先立って
   死去した。享年35。
 A10月宇都宮藩の嫡男:奥平家昌が死去した。享年38。
   嫡男・奥平家昌の遺児:奥平忠昌が7歳で宇都宮藩主とな
  った。

・慶長20年(1615) 
 B3月 夫:奥平信昌が死去した。
  
  亀姫は相次ぐ死去により、剃髪して盛徳院と号し、孫たちの
  後見役となった。

・元和5年(1619) 亀姫の孫の奥平忠昌は、12歳の時に下総古河藩
に転封となった。
奥平忠昌の替わりに宇都宮へ入封したのは本多正純である。
 亀姫は本多正純を快く思っていなかった。
 その理由は、大久保忠隣失脚事件である。

・元和8年(1622) 宇都宮つり天井事件
  徳川家康の側近として腕を振るった本多正純が失脚した。
  裏には亀姫の姿があったと言われている。
  奥平忠昌が宇都宮城に復帰した。

・寛永2年(1625) 加納で死去した。享年66。
 戒名は盛徳院殿香林慈雲大姉。
 墓所は光國寺(臨済宗妙心寺派)、新城の大善寺(浄土宗)

******************************

徳姫は2人の子供を残して織田の実家に戻り、2人の女の子は
徳川家康の手で育てられることになった。
2人の娘は小笠原秀政と本多忠政に嫁いでいる。



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