城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行

アクセスカウンタ

zoom RSS 箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政30【松下清景】前編

<<   作成日時 : 2017/02/04 06:20   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

松下源太郎清景の父:連昌は頭陀城主:松下長則の姉を妻とした。
そして、松下源太郎清景の姉は松下長則の子:之綱の妻となった。
永禄12年(1568)龍潭寺に匿われた井伊直政の生母=実母:奥山
朝利の娘は松下源太郎清景(浜松頭陀寺城)と再婚した。松下清景
の養子:松下虎松が井伊万千代となったので、中野直之次男:一定
を養子に迎えた。


【1】松下稲荷の変遷
平成27年(2015)9月7日
高崎市委嘱箕郷歴史文化調査研究会
岡田会長・西原副会長・大塚委員・裄V委員・生方委員
生方課長代理・佐藤係長
06:00 箕郷
10:47浜松駅
・井伊谷の講師:浜松歴女探検隊の武藤さん・土幸さん・林さん
&冨永公文先生と合流
レンタカー

1)頭陀寺城の「松下稲荷」
画像

画像

画像

画像

冨永公文先生
「頭陀寺町第一公園のわずかに土塁の面影を残すところにある「松下
屋敷跡石碑」は、松下氏の屋敷神を祀る「松下稲荷」の本殿のあった
場所であった。かつては応神天皇と敦実親王を祀っていた所である。」


2)箕輪城の松下稲荷
画像

画像

画像

★頭陀寺城の「松下稲荷」は箕輪城の稲荷郭(松下)に勧請され、一段
高い場所に安置されている。
@「長野業政が敵=武田信玄に城が攻められた時、箕輪城の稲荷曲輪
に住んでいた狐が霧を立ち込めさせて箕輪城を守った。」という伝説。
※高崎市旧榛名町の鷹留城の稲荷神社=霧降神社が本家本元の可能性
があるのでは?(★箕輪城語り部の会:岡田会長)
2A「箕輪城が廃墟になって、我が物顔で稲荷曲輪に住み着いた狐は夜
な夜な城下町に出没した。」という創作に、昭和30年代まで行われ
ていた農家の跡取りが嫁を貰う「貰い御祝儀」=「新婦輿入れ行列」
の昔ながらの風習を岡本さんが復活・再現したものである。

稲荷曲輪は「箕輪城の稲荷郭」・・大塚實氏(元高崎市文化財調査員)
@箕輪城主2代目:長野憲業(業政父)の時代
城の鬼門の方角に京都伏見稲荷大社(末社80000)から勧請安置し、
守護神とした。稲荷郭の一部の稲荷山に稲荷神社を建立した。
★箕輪初心私見「長野氏の時代に稲荷郭があったか疑わしい。」
秋本太郎先生の発掘調査では、長野業政の時代の遺構が不明?
長野氏時代の城構造上、丸馬出はないであろう。
A箕輪城主3代目:長野業政の時代?
武田信玄との戦いのため、金古の桃山稲荷神社に移転
金古桃山稲荷神社(旧群馬町金古諏訪神社=金古小北100m)
 →分社、金古の稲荷神社(金古小西隣)、富岡額部・前橋青柳など

★箕輪初心私見「諏訪神社の合併・・・したというが、武田信玄との
戦いなら、長野業政の時代であろう。諏訪神社の時代なら、武田信
玄の時代であろう。」
B井伊直政の時代
江戸時代の広島藩の浅井家の古地図に、稲荷曲輪(松下)と表記。
井伊直政の養父:松下源太郎がいた。松下郭とも呼ばれている。
松下源三郎は駿河の浜松の頭陀寺城主の身内である。
   ・・・豊臣秀吉が3年世話になったことで有名。
松下源三郎は上野の箕輪城の家老として稲荷郭に在住。
松下源三郎の墓は上野の箕輪:龍門寺にある。親子3代の墓である。


箕輪初心:●箕輪城シリーズ@「きつねの嫁入り」
http://53922401.at.webry.info/201010/article_3.html

箕輪初心:箕輪城81「きつね伝説&稲荷曲輪」
http://53922401.at.webry.info/201209/article_29.html

箕輪初心:箕輪城82『第11回きつねの嫁入り前編』
http://53922401.at.webry.info/201209/article_30.html
箕輪初心:箕輪城83『第11回きつねの嫁入り後編』&箕輪城
http://53922401.at.webry.info/201210/article_1.html

◆◆ 箕輪初心【松下源太郎&稲荷曲輪】 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201102/article_24.html


3)頭陀寺の松下稲荷
画像

画像

画像

画像

画像

右が 冨永公文先生
「昭和30年頃、松下稲荷は頭陀寺の境内裏に移転した。」







【2】松下清景と頭陀寺城の歴史
1)松下氏の出自
・近江の宇多源氏佐々木氏・・六角氏・・・西條高長・・末裔?

●松下氏の本貫地
@三河国碧海郡松下郷(現愛知県豊田市枡塚東・西町)説
A遠江国松下(現静岡県菊川市西方字堀田小字松下)説

2)頭陀寺城の歴史
・天文年間?
 松下源太左衞門長則は松下屋敷を構えた。
 ※松下長則は頭陀寺の寺侍であった可能性が強い。
  (★冨永公文氏)
川匂(かわわ)庄の領家は頭陀寺であった。

 引間城主(曳間城=浜松城の前身):飯尾氏を寄親とする寄子の土豪:
 松下長則の妹は松下連昌の妻であった。

・天文6年(1537) 松下加兵衛之綱は兵法者で槍術の達人:松下源太
 左衛門長則の子として、三河国で生まれた。
 豊臣秀吉もこの年に生まれた。


●系図
画像

@ 松下長則・・之綱・・・・(妻は松下清景の姉か妹)
娘@
娘A
   
A 松下連昌(妻は松下長則の妹)→松下源太郎清景(井伊直政の養父)
         ★後日、紹介
・天文年間?
 松下源太左衞門長則は松下屋敷を構えた。
 ※松下長則は頭陀寺の寺侍であった可能性が強い。
  (★冨永公文氏)
川匂(かわわ)庄の領家は頭陀寺であった。

 引間城主(曳間城=浜松城の前身):飯尾氏を寄親とする寄子の土豪:
 松下長則の妹は松下連昌の妻であった。

・天文20年(1551)頃〜約3年間
   無名の木下藤吉郎(豊臣秀吉)が松下加兵衛に仕えた。
  (★『太閤素生記』)

・天文23年(1554)
木下藤吉郎(豊臣秀吉)が織田信長の家臣になった。

・天文4年(1535) 井伊直親(井伊直政の父)が生まれた。
・天文5年(1536) 井伊直虎(井伊直政の養母)が生まれた。
母:新野親矩の妹
(★天文5年頃説:小和田哲男著)
 
・天文13年(1544) 12月 井伊直宗の弟直満・直義が小野和泉守
 の讒言により、今川義元のため生害(自害)された。
井伊直平の子:直満(井伊直政祖父)・直義が今川氏に殺害された。
 亀之丞(井伊直親:井伊直政父)にも追ってがかかり、井伊直満の
 家老:今村藤七郎正実は亀之丞を叺(かます)に隠した。
 追っての逃れ、渋川の東光院に逃れた。

・天文14年(1545) 亀之丞は東光院住持能仲の案内で信濃伊那郡
  市田村(現高森町)の松源寺へ逃れた。
 信濃伊那の松源寺は井伊直親の叔父:南渓禅師の師:文叔禅師のいる寺
 であった。
今村藤七郎が10年間、養育した。
 井伊直満(直親の実父)の家老であった勝間田(今村)藤七郎正実が
信濃市田での井伊直親の世話を行っていた。
 松岡城主:松岡貞利が亀之丞(井伊直親)を10年間、庇護した。


分家筋の家臣たちの中には、井伊家が今川家の支配を受けるよう
 になると今川家に反発する者もいた。
 奥山朝利・新野左馬助・中野直由達であった。
 中野家と小野家の対立は激しかった。

◆天文23年(1554)井伊家筆頭家老:小野和泉守政直が没した。
   龍泰寺(現龍潭寺)に埋葬した。

龍谷山正泉寺が開創された。開山は慧湛和尚である。
 跡は子の小野但馬守政次(道好)が継いだ。
※TV鶴丸:小野但馬守政次も井伊家筆頭家老になっている。
※江戸時代の資料「寛政重修諸家譜」では小野道好となっている。
 当時の資料では但馬守とだけ書かれている。

 小野政直の死によって井伊直盛は信濃国に逃れていた井伊直親を呼び
 戻すこととした。
(★NHK大河5回目)
・弘治元年(1555) 今川義元の許しを得て井伊直親を改めて嗣子
 として迎え入れた。

・弘治元年(1555) 亀之丞は松源寺を離れ、井伊谷に戻り、
  15代(23代)井伊直盛の養子となり、井伊直親と名乗った。
  次郎法師の養子となった。「井伊直親」と名乗った。

●『井伊家遠州渋川村古跡事』 
「・天文二十三年((1554)寅年、小野和泉守病死。これにより
 直盛から信濃に使いをやろ、亀之丞は今村藤七郎同伴で、弘治
 元年二月に帰国することができた。その時、当寺(東光院)に
 滞在し、三月三日に寺を出て、井伊谷に到着した。しぐに、直盛
 の養子になることが決まり、井伊肥後守直親を名乗り、奥山因幡
 守朝利の娘(★本当は妹)と縁組みし、祝田(ほうだ)村に居住
 することになった。
★これだけを信じるわけにはいかない。
 武田晴信の伊那侵攻との関わりを考えるべきだと思っている。

●結論・・・
・『井伊家遠州渋川村古跡事』の天文14年(1545) 1月4日〜
 弘治元年(1555)2月に帰国することができた。
 前松岡城主:松岡貞正の実弟:文叔と松岡城主:松岡貞利が亀之丞
 (井伊直親)を12年間、庇護した。
(★『井伊家伝記』)
 と思っていたが、10年と1ヶ月のようでである。
@文叔の弟:正英和尚が松岡城主:松岡貞利が庇護した。
A今村藤七郎が10年間、養育した。
 

●井伊直親は家臣:奥山親朝の娘と結婚した。
(『寛政重修諸家譜』)
★『寛政重修諸家譜』は間違いで、奥山親朝の子:朝利の娘である・
 新野左馬助親矩の妹が井伊直盛の妻で、次郎法師の母である。

◆井伊直親と奥山朝利の娘の結婚理由
次郎法師が還俗し、井伊直親と結婚する方法もあったが、採れなかったのが
現状であった。今川氏の侵攻のほかに、武田氏の侵攻も視野に入れる必要が
あった。奥山一族は鎌倉時代の赤佐井伊氏の末裔であった。井伊家で一番の
力を持っていたので、井伊家主家筋のバックとして味方に引き入れようとし
た。
その後、井伊直親は今川義元に復帰した。
 復帰せざるをえなかったのであろう。

井伊直親の世話は今村籐七郎のほかに、最新情報を分かっている
 松下清景が担当した。

・永禄3年(1560) ▲桶狭間の戦い
   織田信長 VS 今川義元
★徳川家康・関口氏経は大高城にいた。
箕輪初心★【織田信長@尾張の大うつけ→尾張統一】
http://53922401.at.webry.info/201206/article_1.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201206/article_1.html

箕輪初心★『織田信長A桶狭間前哨戦=家康の信長攻撃』
http://53922401.at.webry.info/201206/article_2.html

箕輪初心★【織田信長B桶狭間〜清洲同盟】
http://53922401.at.webry.info/201206/article_3.html

結果・・・今川義元が亡くなった。
5月19日 (次郎法師父:)井伊直盛ら16人が今川側で戦死した。
@井伊直盛(享年55:井伊家////享年35:寛政)
A奥山彦一郎・奥山太郎次郎親秀・奥山彦五郎
 ★奥山孫
B上野惣右衛門・上野源右衛門・上野彦市郎、上野孫四郎
C小野玄蕃・小野源吾
・・・約200人が討ち死に・殉死した。
筆頭家老の兄:小野政次は井伊谷に残っていて無事であった。

井伊直盛が桶狭間で討死のとき、「遺領は中野越後守に預ける」
と遺言した。
◆井伊直盛が奥山孫市郎に告げた遺言
「今度不慮の切腹不及是非に候。其方介錯仕候て死骸を国へ持参仕、
南渓和尚、焼香被成る候様に可申候。扨又、井伊谷は、小野但馬
の心入、無心元候故、中野越後守を留守に頼置候。此以後猶以小野
但馬と肥後守主従の間、無心元候間、中野越後守に井伊谷を預け候て、
時節を以、肥後守、引間え移替申候様に直平公に委細可申」
 (★『井伊家傳記』)
(★『この一冊でよくわかる! 女城主・井伊直虎』:楠戸義昭著P143)
「今度、思いもかけず切腹しなければならなくなりましたが、これは
致し方ないことです。その方は、(私を)介錯(私が腹を切ったら、
私の首を刎ねて)ください。死骸(なきがら=遺体)を井伊谷へ運んで
ください。南渓和尚に焼香を申しあげ、(埋葬を)頼んでください。
さてまた、井伊谷は、小野但馬(道好=政次)の心入り(悪計)が
気がかり=心配ですので、中野越後(直由)を井伊谷城の留守居役
(井伊谷城城代兼井伊直親の後見人)として置くように伝えてください。
これ以後、なおもって、小野但馬(道好)と井伊肥後(直親)との主従
関係が心配でありそうな期間は、(★中野越後守直由に井伊谷城を預け
ている間に)、時節=頃合いを見計らって、井伊肥後(直親)を引馬城
へ移すよう、井伊直平公に詳しく伝える旨をお伝えくださるようお願い
申しあげます。」
★自分の意味訳なので、合っているか不安であるが、・・・
井伊直親は成人したといっても井伊谷に戻って5年しかたっていない。
 井伊谷の直親を助ける人脈も薄かった。
 中野直由に井伊直親の後ろ盾となってほしいとの思いがあった。

井伊直盛の遺言で、中野越後守直由は、井伊宗家が名乗る武家官位の
「信濃守」を用いて「中野信濃守直由」と名乗り、井伊領主となった
のである。そして、中野直由は井伊直親の後見人となり、井伊領主相
続に異を唱えた小野但馬守と戦うことになる。
中野氏に組した奥山氏宗家:奥山朝利が討たれる結果となった。

従って、井伊谷は中野中野越後守直由・(次郎法師)が預かった。
   (★『井伊家伝記』・『井伊直虎物語』浜松歴女隊編)
小野家でも小野政次(道好)の弟:朝直と小野源吾が討死している。
※@『この一冊でよくわかる! 女城主・井伊直虎』楠戸義昭
 では、小野但馬守政次の兄:小野朝直の妻が奥山朝利の
 娘としている。
 ATVでは、小野朝直の弟としている。

*永禄3年(1600)年 奥山朝利殺害説 
小野政次は井伊氏で勢力をもっていた奥山朝利を討ち、さらには
 今川氏真に「井伊家が謀反を起こそうとしている」と密告するなど、
 井伊家をじわりじわりと乗っ取ろうとしていた。
その後、和解したのか、
中野家は、最も新しい庶子家であるので、最も井伊家の血が濃く、
 発言権を持っていた。
 それまで庶子家の中では奥山氏が最も強大な勢力を持っていたが、
 奥山氏の主な人物は桶狭間の戦い・小野政次の惨殺等で死んで
 しまったので、小和田哲男先生のいう「井伊谷七人衆」には名を
 連ねていない。


●永禄3年(1560)5月19日 桶狭間の戦い。
  井伊直盛も今川義元の警固の任となった。
 突然の織田信長の兵に今川義元と井伊直盛は討ち死に。
        →今川軍は敗退。
 ※松下源太郎・松下加兵衛之綱は逃亡した。

松下長則は没落した。
●松下加兵衛之綱は徳川家康家臣:30貫文になった。
松下清景は弟:松下常慶の紹介で徳川家康に仕えた。

今川義元の死後、遠江曳馬城(後浜松城)主:飯尾連竜が今川氏真
 を見限った。
今川氏と反今川氏の豪族同士で抗争が起きた。

三河では徳川家康が戦国大名としての地歩を固めつつあった。
遠江では引間城主:飯尾連龍らの今川氏からの離反の動きが頻発
 した。

・永禄4年(1561)2月19日 井伊直親の長男:井伊虎松
  (直政)が祝田生まれた。
小和田哲男説では永禄5年頃説である。

・永禄4年(1561)
 今川氏真は三河の徳川家康の領地に攻め込んで争うようになった。
 徳川家康や武田信玄は力の弱くなった今川氏の調略を行っていた。
 今川氏真は今川領各地で起きる反乱を鎮めたり、武田や徳川に抵抗
 していた。

・永禄5年(1562)
 亀之丞(井伊直親)は「鹿狩」と称して徳川家康の三河領に出かけるこ
 とがあった。小野政次から見れば、井伊直親が徳川家康に内通して
 いると思っても不思議ではないが、・・・・。
 小野政次は駿府城に出かけて
 「直親は徳川・織田に通じている。今川に対して挙兵するつもり
  です。」
 と今川氏真に訴えたといわれている。
今川家は今川氏真が当主となってからは弱体化しており、家臣の謀反が
相次いでいたので密告を信じ、井伊直親を討とうとした。

 今川氏真は井伊谷を攻める準備を始めた。
 しかし、新野左馬助が今川氏真に対して弁明した。 
  今川家の家臣である新野親矩に止められたため
 今川氏真は思いとどまり、挙兵を取りやめた。
 しかし、井伊直親が寝返るのではないかという噂は消えなかった。
 

 新野左馬助は妹が井伊直盛に嫁いでいる。
 新野左馬助の妻は奥山朝利の妹・・・・
 新野左馬助の妻の姪は井伊直親に嫁いでいる。
  新野左馬助の娘は木俣守勝・庵原朝昌・三浦元貞に
 嫁ぐことになる。(★この3人も後、井伊家家老で箕輪城・
 高崎城に来ている。)
 
 新野左馬助は今川氏真は今川家臣であったが、井伊家に同情的な
 新野左馬之助よりも、今川家に忠実な小野但馬守政次の言葉を
 信じた。
小野但馬守政次の密告の真偽を問うために井伊直親を駿府へ呼び
 つけた。

・永禄5年(1562)12月14日 井伊直政の父:井伊直親は
 小野の讒言「井伊直親が松平元康(徳川家康)に内通している。」
  の申し開きのため、駿府に向かった。
  井伊直政の父:井伊直親ら19名は今川家臣:朝比奈泰朝に
  懸川(掛川)で殺された。
 
★井伊直親が今川家を見限って徳川家康と接触していた可能性が
 あるが、・・・・。
井伊直親の殺害は今川氏真は家臣:朝比奈泰朝に駿府へむかって
いる道中の井伊直親を討たせた可能性が高い。
しかし、今川氏真が井伊直親の弁明を待たずに討った理由は明らか
になっていない。
多数説では小野政次は井伊直親を裏切った訳はないかもしれないが、
結果的には、父:小野政直が井伊直満・直義におこなったのと同じこ
とをしたことになったとしているようであるが、・・・。
想像の域を出ない話であるが、もしかしたら小野政次が勢力を伸ば
そうとしていたさらに進言したのかもしれないと疑えば疑える。
今川氏真は父に比べ、家臣からの信頼が薄れているのは感じている。
それ故、疑心暗鬼になっていることでことであろう。小野政直・政次
も真田幸綱・昌幸のように知略家ならば、あり得る。今川氏真が小野
政次に踊らされたのかもしれない。

井伊家分家:家老:新野左馬助親矩が虎松の命乞いをした。
  井伊家分家:新野左馬助親矩に保護され、養母:次郎法師に
  育てられた。
  ※井伊直政は2歳のため、次郎法師と名乗り井伊家を継いだ
  説もある。

小野政次が井伊虎松の命を執拗につけ狙ったため、虎松は龍潭寺
から一時的に鳳来寺に身を移した。
@井伊家家老:松井家の庇護下にあった説もある。
A松下清景の親戚:鳳来寺松下氏が保護した説もある。

★井伊家乗っ取りを狙う「小野政次の野望」って感じである。
小野但馬守によって井伊直親が謀反を疑いをかけられ殺害された
 後は中野直之と新野左馬之助とともに井伊谷を治めていった。

12月下旬 小野但馬守政次の奥山朝利殺害説
 奥山朝利は井伊直親の母方の父でもあり、小野政次の弟小野玄蕃
 朝直の父でもある。
 奥山朝利は死亡した。(永禄3年説もある。) 

・永禄5年(1562) 清洲同盟
松平元康(徳川家康)は今川氏真を見限り織田氏と同盟を結んだ
 伯父:水野信元の仲介もあって、織田信長と同盟を結んだ。

・永禄6年(1562) 松平元康は今川義元からの偏諱である「元」の
  字を返上して元康から家康と名を改めた。

●永禄6年(1563) 遠州忩劇
 今川氏真 VS  飯尾連竜

・永禄6年(1563)▲ 天野左衛門尉:八城(社)山攻め
井伊直平が途中の有玉旗屋で急死した。享年75。
★唯一生き残っていた井伊家の男だった。長老が無理した。
 ★小野玄蕃の妻は奥山朝利の娘。つまり、井伊直親の妻の妹であった。
  妻同士が姉妹だったのである。
★小野の子孫は浜松市尾野に残った。

●永禄7年(1564) 今川氏真は引間城攻撃
  戦乱で「頭陀寺城」も戦火にあった。
  発見された建物が焼けた。
★発掘調査の時、炭跡を確認している。井戸跡からは大きな硯石や
 高級青磁の破片が発見された。
 ※松下氏は交易商人でもあった可能性がある。

・永禄7年(1564) 三河一向一揆
松平家康は一揆を鎮圧した。
 東三河の戸田氏や西郷氏といった土豪を抱き込みながら、軍勢を
 東進していった。


・永禄7年(1564))9月15日 ▲曳馬城攻め 
 今川氏真の命により、新野兄の親道・重臣:新野左馬助親矩と
 井伊一族で井伊谷城城代:中野越後守直由が出陣した。
井伊家では直系で戦を率いる男がいなくなり、中野直由と新野左
 馬助が井伊家の軍を率いて出陣したのだった。
 中野直由と新野左馬助は兵の数が少なかった。
 今川に援軍を求めると2000の兵が派遣されてきた。
 飯尾氏の守る引馬城を攻めた。
 最初は敵兵数百を討ち取ったという。
 しかし、引間城の東の天馬橋で中野直由と新野左馬助は 
 討ち死にしてしまった。
 ★中野直由・井伊家の血筋で本家を支える者が討ち死にした。
中野直由の子:直之が後を継いで、井伊家家老になった。

 
*「井伊家伝記」では家老飯尾豊前守夫妻から毒茶を盛られた
 とするが、飯尾氏は引馬城主で井伊直平の家老ではないので、
 信頼性に欠ける。

「新野左馬助、中野信濃守討死之後、次郎法師、地頭職御勤、
 祐椿尼公(直盛公内室也)、実母、御揃、直政公御養育申
 候得共、皆々女中斗故、但馬諸事取斗我儘斗致、何卒井伊谷
 押領可仕旨相巧申候」
(★『井伊家伝記』)
★意味・・・「新野左親矩と中野信濃守直由の討死の後、次郎
法師が地頭をお勤めになられ、祐椿尼(井伊直盛の妻)、井伊
直政の実母の3人が揃って直政公を養育したが、皆んな女性
であったので、小野但馬守道好が取り仕切って我が儘のし放
題であり、何とかして井伊谷領を巧みに横領しようと企んでいた
と言われています。」
@井伊宗家:次郎法師(井伊直虎)
A井伊家縁戚:新野親矩(今川重臣)の妹(娘説)で次郎法師の母
B井伊家庶流:奥山朝利の妹:虎松の実母

井伊宗家・新野家・奥山家の3人の女性が井伊虎松(直政)を守った。
つまり、3者の強力な連携があったので井伊虎松は生き延びた。
★南渓禅師(龍潭寺2世)がこの年に次郎法師を名乗らせたたのかも
しれない。

・永禄8年(1565) 龍潭寺2世:南渓禅師は次郎法師は還俗させ
 て、「女地頭」に立て、虎松の後見人とした。
  (★『遠江井伊氏物語』武藤全裕著)
 ★この時、「井伊直虎」と名を変えた説もある。
  小野政次は井伊直親が落とし入れて殺されていなければ、井伊
  直虎という女城主は誕生しなかった。

 井伊家や井伊一族には井伊家を率いる有力な男がいなくなってしま
 った。その結果、井伊直虎が井伊家を率いることになっていくので
 あった。


・永禄9年(1566) 松平家康は東三河・奥三河(三河国北部)を平定し、
 三河国を統一した。
 松平家康は、
 @西三河衆:旗頭石川家成(石川数正))
 C東三河衆:旗頭酒井忠次
 D旗本衆&旗本先手役
 の軍制改革を行った。

・永禄9年(1566) 松平家康は朝廷から従五位下三河守の叙任を
 受け、「徳川家康」に改姓した。
  ★源氏の新田系得川→徳川系図査証を公認させた。

・永禄11年(1568) 甲斐の武田信玄が今川氏真の駿河に侵攻した。
  今川氏真が小野正次(道好)は井伊虎松を殺害して井伊谷を掌
  握し、軍勢を率いて加勢するように命じられた。
・永禄11年(1568)11月9日 井伊直虎は関口氏経と連署で徳政令を出した。
 ★今川氏真の介入
 今川氏真は小野正次を使って井伊直虎を地頭職から解任させた。
 小野正次(道好)は井伊谷を井伊氏より横領した。
 井伊虎松や次郎法師、祐椿尼は井伊氏菩提寺の龍潭寺に避難した。
 12月 徳川家康は井伊谷に侵攻した。
  小野正次(道好)の横領に対し、近藤康用・鈴木重時・菅沼忠久の
  井伊谷三人衆を派遣し、井伊谷を奪還させた。
  小野正次(道好)は敗北して井伊谷から「龍ヶ淵」逃亡したが
   近藤康用に捕えられた。

・永禄12年(1569) 堀川城の攻撃
4月7日 小野正次(道好)は仕置きで、井伊谷「蟹淵」で
      処刑された。
 5月7日 小野正次(道好)の2人の男子も斬罪となった。
小野正次(道好)の弟:小野玄蕃の子:朝之が家督を継いだ。  

永禄12年(1568)龍潭寺に匿われた井伊直政
 の生母=実母:奥山朝利の娘は今川家臣:松下源太郎清景
 (浜松頭陀寺城)と再婚した。



★@松下清景の姉は松平元康(徳川家康)家老:松下之綱であった。
  井伊家が今川氏から独立した松平元康との関係を模索した。
と考えられる。松下清景の弟:松下常慶のコネもあった。
★A松下清景は虎松(井伊直政)井伊直政の養父となった。
画像

 (★浜松市作成系図)

●松下虎松の住んだ場所諸説
@松下虎松(井伊直政)は、実母:奥山朝利の娘・養父:松下清景と
共に頭陀寺の松下屋敷に住んでいたという説がある。
A松下虎松(井伊直政)は手習いを浄土寺で行っているので、浄土寺
 のある浜松城下の松下清景宅に住んでいた説もある。
おそらくは松下之綱の屋敷に近かったであろう。
松下清景は、徳川家康に仕えていたので、浜松城の近くであること
は確かであるが、住んだ場所は分かっていない。

画像



・元亀3年(1572)
10月 武田信玄が遠江へ侵攻した。
12月 ▲三方原の戦い
    徳川家康は大敗。

・天正2年(1574) 第一次 高天神城の戦い
 武田信玄 VS 徳川家康
 ※松下一族は 高天神城籠城した。後に降伏した。
織田氏家臣で長浜城主になっていた豊臣秀吉は松下之綱は家臣と
 して召し出された可能性がある。
(★『松下加兵衛と豊臣秀吉―戦国・松下氏の系譜』冨永公文著)
 ★冨永先生のサイン付
(★通説天正11年(1583)10月6日*出典『松下文書』)
画像

天正2年(1571)12月、松下清景は松下虎松(井伊直政)を養子に迎えた。
一連の徳川の家臣にさせる作戦の一つであろう。

・天正3年(1575) 2月15日 井伊直虎に付き添われて松下虎松
 (井伊直政15歳)は浜松の徳川家康に小姓として出仕した。
実際は井伊直政の実母→養父:松下清景→従兄弟で義兄:松下之綱
 (清景の姉の夫)→松平元康(徳川家康)のラインであったであろう。
松下虎松(井伊直政)と 小野玄蕃の息子:亥之助(小野朝之)が
 徳川家康に会った。
徳川家康から
 @松下虎松は復姓を許されて「井伊万千代」の名前を貰った。
 A小野朝之は「万福」の名前を貰った。
井伊直政と小野朝之は従兄弟であった。
 2人の母は奥山朝利の娘で、姉妹であった。

●松下清景は井伊家筆頭家老となった。
 松下清景は養子:松下虎松が井伊万千代(→井伊直政)と名乗って
 井伊家当主となったので、松下清景家に子がいなくなった。
 中野直之の次男:中野一定を養子に迎え、松下一定を名乗らせた。
 
井伊直政と小野朝之・松下一定はともに数々の戦に出た。


・天正3年(1575) 長篠の戦い
 松下加兵衛は豊臣秀吉の前備として兵100を預けられた。
 (★山内一豊公紀:冨永公文氏の天正2年松下之綱の秀吉臣従説が
   有力視されたことになる。)

・天正10年(1582) 6月12日 本能寺の変
  織田信長が死亡。


天正10年(1582) 8月26日(9月12日)養母:井伊直虎が死んだ。
(★『遠江井伊氏物語』:龍潭寺前住職:武藤全裕著)
墓は井伊谷龍潭寺である。


●▲■井伊直政シリーズのブログ一覧


★明日は松下清景・一定かな?

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政30【松下清景】前編 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる