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zoom RSS 箕輪初心:生方▲法神流B「法神流の歴史」角田源造・持田誠二等

<<   作成日時 : 2017/01/17 10:25   >>

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角田正衛ちゃん、詳しい資料をたくさんにありがとうございました。
旧赤城村の溝呂木の本陣家:角田正衛ちゃんの高祖父:角田源
造・祖父:角田永市も勢多法神流の高弟であった。
利根の
南郷の中澤貞祇・幕末の女剣士:中澤琴は利根法神流であった。
箕輪城主:長野業正の上泉伊勢守信綱に師事した高家客分:
「岸将監」あるいは「持田監物」の子孫:昭和の大剣豪「持田
誠二」は前橋法神流の流れである。※法神流は勢多法神流、
利根法神流、前橋法神流、江戸法神流の流れになるようである。

画像

(★角田正衛ちゃんの資料より)

箕輪初心:生方▲法神流@「浪士組6番隊→新徴組2番隊『女剣士:中沢琴』上野国片品穴原出身
http://53922401.at.webry.info/201701/article_20.html

箕輪初心:生方▲法神流A【幕末の女剣士:中澤琴の兄:中澤貞祗の生涯】
http://53922401.at.webry.info/201701/article_21.html

箕輪初心:生方▲法神流B「法神流の歴史」 角田源造・持田誠二等
http://53922401.at.webry.info/201701/article_22.html


【6】法神流の歴史
目録伝
 石坂保重→加賀の守護大名:富樫家12・14代:当主富樫政親
→富樫政好→富樫知菊→富樫政高→・・・・富樫政武
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(★富樫氏館内)

1)初代:富樫政武=楳本法神
楳本法神は「白正流」を称していたともいわれる。
楳本法神は法神流を教えながら、上野国の弟子の家で寝泊まり
 していた。
 晩年は上野国の勢多郡や利根郡で剣術・柔術を教えた。
最も長く旧赤城村深山にいた。
・文政13年(1830) 楳本法神が青山歌吉(雅楽之助)宅で死んだ。
 ※墓は旧黒保根村の医光寺

高弟の須田房吉(須田房之助為信=星野房吉)、森田与吉、石田寿吉
の3名は「法神流の三田三吉」と呼ばれた。さらに3人に黒保根村の
青山雅楽之助を加えて、法神流四天王ともいわれる。
@須田房吉(須田房之助源為信=星野房吉)は旧赤城村深山出身
A森田与吉(勝江玄隆・生田玄隆源武信)は旧北橘村箱田
B石田寿吉(町田寿吉)は旧北橘村村上南室
C青山雅楽之助は黒保根村上田沢
D柔術の桜井源太郎は利根郡東入・・・新徴組へ
E金子陣内は大場村
F永井貞義は追貝村・・・・群馬県議

●金子甚内
  堤宝山流柔術の大家。
楳本法神から印可を受けて利根法神流の師範となった。
 利根薗原村で起こった利根法神流の祖となった。
弟子は穴原の中澤孫右衛門→中澤貞祇・中澤琴→中澤栄太郎
→中澤忠右衛門と繋がる。
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中澤孫右衛門
 穴原出身。金子甚内から法神流を学び道場を開いた。
 子は中澤貞祗・・・養女:琴?。

中澤良之助貞祗
 父に法神流を学び、江戸の千葉周作、斎藤弥九郎の道場でも
 修行した。            
 浪士組募集に応募した。浪士組として近藤勇らと共に京都
 に上る。清河八郎に従い、新撰組には加わらず江戸に戻り、
 庄内藩あずかりの新徴組に入った。1番小頭・剣術世話心得
 となる。
 明治維新に際して庄内に転じ、西軍と交戦し、怪我をした。。
 その後、庄内の松が丘の開墾に従事した。
 明治7年に帰郷。
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 ●中澤琴・・・中澤貞祗の妹
(TVでは養女・・可能性としては須田房吉・星野房吉の子か?)
 薙刀、鎖鎌の名手。
 兄:中澤貞祗の浪士隊応募に従い、京都まで行ったと考えられ
 ている。
 新徴組では男装して活動し、毛利、島津屋敷襲撃した。
 庄内戦争にも参加した。
 32〜3歳で帰郷後は、試合して負けたら嫁になるとしたが、
 負けることなく独身で過ごしたという?
(TVでは吉村源五郎が許嫁、薩摩藩邸襲撃で死亡した。嘘かあ?)
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中澤栄太郎・・・貞祗の子。
 父:中澤貞祇・叔母:中澤琴から、剣・柔・棒・薙刀・鎖鎌を
 習った。
 ・東京の高田馬場で養武館道場を開設した。
・昭和3年(1928) 沼田で脳溢血のため急逝した。

中澤忠右衛門・・中澤栄太郎・中澤琴に法神流を学んだ。
  父:栄太郎出京後は、子持の飯塚儀内範士6段に学んだ。
 ・昭和32年(1957) 死亡した。
※ 利根法神流最後の剣士となった。


2)2代目:須田房吉(須田房之助源為信=星野房吉)
須田が二代目を継承した。

******************************
・天文3年(1534) 信濃国須坂城主:須田加賀守が旧赤城村に移り、
  金山宮の参道360余階の石段を寄進した。
以後、宮は須田氏の氏神として受け継がれ現在に至っている。
  (郷土史愛好家 須藤征吾文責)
須藤征吾氏の説には疑問がある。************
須田房吉(須田房之助源為信)=星野房吉とあるので、間違いなく
井上源氏であることは間違いはないであろう。

・戦国時代
 信濃須田郷(須坂市)の須田満信は勢力を拡大した
 信濃国の井上系須田氏は2流に分かれた。
 須田信頼と子:信正の系統は須田郷に住んだ。
 須田満国・子:満親&弟・満泰と満国の系統は大岩郷に住んだ。
 互いに対立するようになった。
・天文19年(1550) 須田郷:須坂城の須田信頼は真田幸隆の誘い
 に応じて武田晴信に降った。武田晴信の侵攻により、須田城系須田氏
 は武田側として大岩須田氏を攻めた。須田満親は長尾景虎を頼った。
 
***従って、信濃国須坂城主:須田加賀守という城主が群馬に来る
 には疑問がある。上野国に来るとすれば、大岩須田氏の一族であるが、
 また、時代が合わない気がするのですが、・・・・。
箕輪初心:生方▲須坂『信濃須田城』&須坂散策
http://53922401.at.webry.info/201604/article_27.html
*****************************

・文政3年(1820) 前橋に道場を開いた。
兄弟子:森田与吉と根井行雄は道場の師範代でであった。
  弟子は持田善作・・・持田誠二と続く。

・文政9年(1826) 江戸で道場を開いた。
・文政12年(1829) 利根郡で結婚した。
   星野房吉は追貝に道場を開いた。
   養子前:須田加賀之助→星野房吉となった。
・文政13年(1830) 平川不動尊(薗原)に流儀名を掲額した。
   星野房吉が奉額した。書は片品村戸倉:萩原賢和による。
・文政14年(183) 「園原騒動」・・・トラブル発生
  神道一心流中沢伊之助の恨みを買い、須田と森田が銃撃され
  須田房之助が死亡した。



3)3代目:森田与吉
森田与吉は須田房吉の妹すみと結婚した。房吉とは義理の兄弟になる。
・文政13年(1830)  森田が三代目を継承した。
  新田郡岩松の一家で、徳川郷の正田隼人正家の剣術指南役となった。
 正田家に仕えている時、主家から生田姓を頂いて、生田玄隆と名乗

 晩年は官職を辞して前橋で萱町の道場で教えた・
 恩師法神より伝授された秘薬「法神丹(丸)」を商売した。
 ※法神丹とは蜂蜜を主体とし、草根木皮を混合したもので、万病に卓効
 があった。「法神のかくれ丹」ともいわれた。

4) 4代目:根井弥七郎滋野行雄
・治承4年(1180) 8月17日 源頼朝は伊豆の修善寺で挙兵した。
新田義重は俺だって源氏の頭領と渋っていた。しかし、子どもの
里見義成?や山名義範は源頼朝についてしまった。
高崎の寺尾でグスグスしていると、9月7日に木曾義仲が父:
義賢のいた多胡(吉井)に配下探しにやってきた。 
多胡家包・富岡の瀬下四郎、藤岡の高山党、玉村の那波太郎弘澄
 伊勢崎の佐位七郎広助、境の木角六郎、榛東の桃井五郎が加わった。
(★平家物語)
木曾義仲が信濃で滋野一族に声をかけた。
現佐久市根々井の根井行親は木曾義仲を「木曽の御曹子!」と
敬って、長男:行長、次男:行直、3男(6男*)の楯親忠、4男の
  八嶋行忠を率いて随従し、東信の豪族らに挙兵の賛同を呼び
  かけた。兄弟の望月や小田切、同族:海野なども同調した。

  木曾義仲は信濃国小県郡丸子の依田城で挙兵した。
  従兄弟の依田為実は依田城・宗龍寺・宝蔵寺・・・     
 依田次郎は木曽義仲を依田城に迎えて旅のねぎらいやら
   接待でごったがえしたという。(★『吾妻鏡』)

※依田為実の子:依田次郎実信は木曾義仲と従兄弟同士だったのだ。
  ※初代:依田為実の母が源義賢(義仲の父)の娘だった。
※根井行親・・・佐久を支配。信濃武士を組織し、子:楯六郎親忠
   と共に最後まで従軍した。
※樋口兼遠・・・育ての親・・木曾義仲の擁立者。
※海野幸広・・・小県の海野郷の大豪族。望月・禰津・真田先祖
・元暦元年(1184) 宇治川の戦い
木曾義仲の命を受け、子:楯親忠や源義広らと共に300余騎で
 宇治の防衛に当たったが2万5千騎の源義経軍を防ぎきれず、
 宇治川を突破された。根井一族は敗死した。
 1月26日、木曾義仲や今井兼平、高梨忠直らと共に東洞院の
 北にある獄門の木に梟首された。
木曾義仲の墓(滋賀県大津の義仲寺)
根井行親の浜(現佐久市根々井の正法寺)

箕輪初心★木曾義仲:上野国多胡庄2ヶ月→信濃依田城で蜂起
http://53922401.at.webry.info/201310/article_3.html

箕輪初心★木曾義仲Cゆかりの地:埼玉→信濃→上野→信濃→北陸へ
http://53922401.at.webry.info/201406/article_17.html


・文化8年(1811) 旧北橘村箱田の諸田行広の長男として生まれた。
  滝の宮の神主遠江宜信(よしのぶ)に、国学、漢詩、俳句を
  学んだ。
  前橋小出の国学者:藍沢無満の門に入り、高弟になった。
  老農:船津伝次平もいた。 
 ・文政3年(1820) 須田房吉が前橋に道場を開いた。
 兄弟子:森田与吉は道場の師範代であった。・・・
・文政13年(1830)頃 木曽義仲四天王の一人:佐久の滋野氏系
  根井大弥太子孫として、根井弥七郎行雄を名乗った。

  根井行雄の道場の師範代にあった。
国学者・医者・漢学者であった。
尊皇攘夷論者でもあった。

  弟子は持田善作・・・持田誠二と続く。
 旧北橘村下箱田の根井道場を開いた。
  高弟は高橋忠吉であった。
 長野業正の客分「岸監物」あるいは、「持田監物」の
  子孫持田善作は根井道場に入門した。
持田善作の長男:持田愛作もまた法神流の剣客であった。
  持田善作の次男:持田盛二である。
・昭和4年(1929) 法神流出身の持田盛二が剣道の天覧試合で
 優勝した。近代剣道界でも有名となった。



5)5代目:須田平八
・天保元年(1830) 旧赤城村深山に生まれた。
 須田家は名主の家柄であった。
 須田平八は前橋藩の御用金の貸し付けなどもやっていた。
須田平八は剣道と書道を教授していた。
 
須田本久(旧宮城村樽)→津久井幸三郎(旧宮城村樽)
→永井甲四郎(旧赤城村三原田)
須田平八は既に1000人の門弟がいた。
  
●須田平八の高弟の1人に角田源造がいた。
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@角田源造は角田正衛ちゃんの高祖父であるそうである。
  須田平八は晩年は実家に戻っていた。
A深山での剣術の弟子は角田源造の子?孫?:角田永市であった。
  角田正衛ちゃんの祖父である。最後の剣道の弟子であった。
深山最後の法神流の剣士であった。
角田家は須田平八の家から3分だったという。
「錬士」6段であった。
★僕の弟も少林寺拳法「錬士」です。
角田家は溝呂木の本陣家であった。先祖は北条氏邦の命で、
中山城主:中山勘解由を討った角田3兄弟であった。
これにより、真田昌幸と北条氏邦・猪俣邦憲の対立がさらに
高まって、俗に言う「名胡桃事件」へと繋がる。
B深山での書道の弟子は角田正衛ちゃんの隣の須田寅正であった。
  角田永市と須田寅正が義兄弟であった。

・明治30年(1897) 法神流伝来碑が建立された。 
◆金井宮の「法神流伝来碑文」(原漢文)
従一位勲二等公爵近衛篤麿篆額
 物の後世に伝わるや必ず其の人を得て伝わる焉、其芸に於て其術に
於て人を得るに非ずんば、即ち伝わること能はず。難い矣哉其人を得
ることや 粤に原法神流剣術の伝わるや往昔音住なる者あり焉かつて
神仙に値うて其術を伝う音住これを以て是を石坂保重なる者に伝う 
保重富樫政親に伝う政親政持に伝う政持政好に伝う 政好知菊に伝う
知菊政高に伝う政高白生翁に伝う 各諱は政武氏は富樫白生其の通称
なり其先は鎮守府将軍藤原利仁後胤となす。子孫鎌倉氏に仕え数世の
後加賀候に仕う世々禄千石を喰みて政武に至る政武年甫めて十五天下
を歴遊し諸名家の門を叩いて其術を試みるに敵するものなし其余諸技
に通ず。是を以て名声を普く聞こゆ常に慷慨の志を懐いて王室の式微
を歎じ更に藤井右門と称し専ら英傑の士と交わり将に以て為すあらん
とし事未だ成らずして縛に付く然りと雖も其挙たるや至誠より出たる
を以て天之を憐れみ逃るる事を得たり即ち跡を奥羽に隠して楳本法神
と称し遂に此地に来って老を養う。
 傍ら医を好み治を乞う者あれば即ち薬を与うるに功を奏せざるな
し。其の為す所稍常と異なれリ故に神仙を以て称せらる。癸天保元年
庚寅に没す。其の生まれたる寛文三年葵卯を距る年を得る事百六十有
八なり。大徳は必ず其の寿を得ると蓋し亦翁の謂なるか明治二十四年
十二月十七日正四位を贈らる。須田房之助なる者あり姓は源諱は為信
弱冠にして深く武芸に志し翁に師事して其の蘊奥を極む名声都鄙に籍
甚たり門に入る者多し嫉妬の輩陽に謀って将に之を撃たんとす。力敵
せず終に銃殺に遭う時に天保二年辛印季春なり享年四十有二男なし 
勝江玄隆なる者為信の遮弟なり医を翁に学び剣を為信に習う故を以て
其名の後世に朽ちんことを恐れ同門の諸氏と相議し力を合わせ正に石
に勒して金山祠側に建てんとす。嗚呼其芸其術其の人を得て伝うるこ
とを得後世又其の人を得て之を伝えなば庶幾夫れ永く朽ちざるなり。
銘に曰く
 芸は功瑳に成り術は琢磨に熟す。武の道たるや自ら利し他を利す。
治に乱に古往今来文と併び称せらる。其徳偉なる哉後世に伝来する其
の人を得ずんば其術も亦廃す。鬼に通じ神に通じ翁の如き者あって芸
術を真に伝う 。
    二位勲一等伯爵東久世通禧併書
★引用サイト「法神流伝来碑」
http://sky.geocities.jp/amb_akagi/mytown/b-kengou/hibun1.htm
★角田正衛ちゃんの祖父は5代目:須田平八の高弟も寄付者であろう。


8)根井行雄→持田善作→持田誠二→野間清治→森寅雄と続く。
@根井行雄(別掲)
箕輪城主:長野業正の上泉伊勢守信綱に師事した高
家客分:「岸将監」あるいは「持田監物」の子孫:昭和の
大剣豪「持田誠二」も法神流である。
A持田善作
法神流剣法第4代継承者:根井行雄の高弟となった。
 群馬県勢多郡下川淵村の自宅に道場を設けて門人を指南した。
B持田誠二
持田誠二は、父の指南を受けた。
 持田盛二は17歳のとき上京し、神道無念流:中山博道の有信館、
  小野派一刀流:高野佐三郎の明信館等で短期修行した。
B野間清治
・大正14年(1925) 講談社初代社長:野間清治によって野間道場が
  建てられた。野間清治は群馬県山田郡新宿村の出身である。
・昭和4年(1929) 持田誠二は天覧試合で優勝した。
 講談社野間道場、警視庁、皇宮警察などの師範を務めた。
・昭和9年(1934) 天覧試合の東京予選決勝
野間恒 VS 森寅雄
野間清治の子: 野間恒が優勝した。
森寅雄の曽祖父は北辰一刀流:千葉周作道場:玄武館四天王の
  一人である森要蔵である。野間寅雄は群馬県桐生市にとして
  生まれた。母方の伯父:野間清治が8歳の森寅雄を引き取った。
  ※森寅雄がわざと負けて勝ちを譲ったのではないかとの疑惑が
  生まれた。
 野間恒が天覧試合で優勝した。「昭和の大剣士」と謳われた。
・昭和12年(1937) 森寅雄はアメリカでフェンシングに出会った。
・昭和13年(1938) 全米フェンシング選手権では準優勝した。
決勝戦は審判員の人種差別によって敗れたとされている。
  「タイガー・モリ」と呼ばれた。
・昭和37年(1962) 持田誠二の頌徳碑が前橋市(グリンドームの東の
 駐車場)に建立された。(群馬県知事・神田坤六撰文)。




【7】法神流伝来碑建立の過程
昭和初期 「法神流伝書」は角田正衛ちゃんパパ:角田峯一氏より
  須田平八の親戚?子孫に戻された。  

昭和22年(1547)9月15日 カスリン台風で「法神流伝来碑」
  が流出した。

・昭和54年(1979) 『上毛剣術史(上)』「法神流聞書」 諸田政治著

・昭和63年(1988) 『法神流聞書」』 諸田政治著 
  赤城村内外より法神流法神流伝来碑再現の気運高まった

・平成元年(1989) 流失した法神流伝来碑の再現に向けて、協議を
重ねた。
 「法神流」講演会を実施した。
旧赤城村職員や剣道有段者らによって「法神流」の再興の動き
  が始まった。
画像

・平成2年(1990) 3月 法神流伝来碑建立委員会を設立した。
  (役員24名)
  4月 趣意書を作成し、寄付集めを開始した。
  10月  当初目標の300万円集まる・
     12月 法神流伝来碑復元 新伝来碑発注
・平成3年(1991) 1月 記念品、芳名碑を発注した。
 5月19日 法神流伝来碑復元、新伝来碑建立、芳名碑建立の
  式典開催した。
画像
 
◆新法神流新伝来碑文 (原文のまま)
 剣聖上泉信綱戦国の末兵法新陰流を創始武名天下に香し、高弟に奥
山休賀斎なる者あり、徳川家康の剣師となる、晩年三河明神に隠棲
して神僧となり音寿(住)斎と号す、高弟に右坂保重なる者あり、そ
の奥旨を得て諸国を歴遊す、行きゆきて加賀国に至る、名族政親頻り
にその術を乞う、保重遂にその奥秘を政親に伝う、政親より五伝して
白生政武に至る、政武天稟の資あり若年にしてその剣技父師を凌駕す、
剣名四隣に高し、政武故あって姓名を楳本法神と変え諸国を歴遊する、
術を試みるに敵する者なし、世人今牛若という、長崎に至りて医術を
学ぶ、翁寛政初年の頃赤城山麓にその勇姿を現す、白髪痩躯その歩行
さながら翔ぶが如し、入神の剣技と槍法、救世の医療、村人赤城の神
仙として崇め敬慕す、その門に学ぶ者千余、法神流と称す、翁文政
十三年に没す、享年百六十八才と云う、門人中傑出せるは須田房之助
なり、諱、為信通称深山の房吉と称す、金山宮下に生る、躯幹長大に
して剛力無双なり、天賦の才あり刻苦遂に当流の蘊奥を極む、江戸に
道場を開く、その剣技江都に於て右に出ずる者なし、遺恨の輩あり、
難を逃れて故山に帰る、奥利根追貝の星野家に入り道場を開く、剣名
利根一円を圧す、隣村薗原に神道一心流の剣客某あり競合の上争点を
生ず、某の剣技房之助に遠く及ばず即ち欺騙して銃殺す、この時房之
助四十二才天保二年三月の事なり惜しいかな、房之助の義弟箱田の住
人森田与吉郎その跡を継ぐ、剣弟に町田寿吉なる者あり、世人法神流
の三吉と称せり、森田の高弟に根井行雄、須田平八あり森田門の竜虎
となす、平八また書技に秀で至妙の筆跡今にあり、根井の高弟に持田
善作なる者あり、次男持田盛二天稟の才にして幼童より法神流を学ぶ、
後に剣道範士となり昭和四年昭和天皇御即位記念天覧試合に優勝す、
これより法神流の盛名天下に鳴る、門人に野間恒なる者あり、昭和九
年天覧試合に優勝、また門人望月正房昭和十五年天覧試合に優勝せり、
斯かる事例は全国にその比を見る事なし、その栄光万世に燦たり、嗚
呼偉なるかな法神流の流れや、郷土の心の遺産これに優るものなし、
然れども、流れうつり行く星霜の中に、この偉大なる道業の忘失せん
事を恐る、ここに士人相寄り相集い相議し、浄財を募り吉日を卜とし
て法神流発祥の地金山宮の神域に文を石に刻み碑となすは是後人奮起
の資となさんが為なり。
   平成三年五月吉日
  諸田政治 撰文
  都丸芳雄 書

★引用サイト「法神流伝来碑」
http://sky.geocities.jp/amb_akagi/mytown/b-kengou/hibun1.htm
★角田正衛ちゃん宅も寄付者である。
奉賛会御芳名誌513名ものの浄財が寄せられた。


平成3年(1991)5月23日版 群馬よみうり新聞
赤城村深山(みやま)地区に江戸時代から伝わる剣術「法神流」
の伝来碑が、43年ぶりに同地区の神社・金山宮に再建された。
19日の除幕式では、地元住民ら約350人が完成を祝った。
 法神流の開祖は、江戸後期に同地区を訪れた剣の達人・楳本法
神(うめもと ほうしん)。弟子は当時、千人を超えたという。
明治中期、流派の伝来を記した石碑を金山宮に建立。昭和四年の
天皇即位記念天覧試合では、同流の持田盛二が優勝して法神流の
名が全国にとどろいた。
 しかし石碑は、昭和22年の大水害で流出。同五十四年、
前橋市の諸田政治さんが「法神流聞き書き」を出版したことで再
建話が持ち上がり、村内513人の寄付約6百万円で再建された。
 伝来碑は地元産のミカゲ石で縦2・5m。横1・8m。碑文は
旧石碑の拓本から再現し、さらに分かりやすい新伝来碑(縦0・9
m、横1・8m)を隣に建てた。除幕式で須田浅太郎・建立委員長
は「村民の協力と努力でようやく再建できた。この結束の強さが
赤城村の将来を支えるだろう」と感激していた。



【8】最近の法神流関係事項
・平成3年(1991) 『タイガー・モリと呼ばれた男―幻の剣士
   ・森寅雄の生涯』早瀬利之著)
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・平成13年(2001) 『謎の仙道剣』諸田政治著
霧の奥の修験の剣を発掘。江戸中期、上州赤城山麓に飄然と流れつい
た一人の老武芸者。医に通じ、農法に長け、小さな家ならひとっ飛び。
剣を取っては歯の立つものはなく、人々は天狗さまと呼んだ。試合を
しても相手を立て、決して血を流さず、敗れたものはこぞって教えを
乞うた。名は楳本法神。本姓は富樫氏。位牌から136歳まで生きたこ
とが明らかになる。弟子の深山の房吉は江戸第一の剣豪・男谷精一郎
をたじたじとさせたが、法神は剣難の相を危ぶむ。房吉は後に鉄砲で
撃ち殺された。

・平成20年(2008) 「兵法法神流流儀伝承会」が発足。

・平成25年(2013) 『天狗剣法』津本陽 著 (PHP文芸文庫)
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 (★アマゾンで100円+送料だった。)

・平成?年 3月  歴史や会の活動をまとめた冊子を作った。
★角田正衛ちゃんも寄稿した。

・現在、「兵法法神流流儀伝承会」では20〜70代の約20人が月1回、
  渋川市赤城町の剣道場で稽古している。
  金山宮(同市)や赤城神社(前橋市富士見町)で奉納演武をして
  いる。
  群馬県においては、法神流の門弟は今までに3000人といわれる。
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★明日は未定

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