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zoom RSS 箕輪初心:生方▲2017井伊直虎・直政13【許嫁:井伊直親&松源寺:文叔&松岡城:松岡貞利】

<<   作成日時 : 2017/01/15 07:00   >>

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・天文13年(1544) 12月 井伊直宗の弟直満・直義が小野和泉守
 の讒言により、今川義元のために井伊直平の子:直満(井伊直政
 祖父)・直義が今川氏に殺害された。亀之丞(井伊直親:井伊直政父)
 にも追ってがかかり、井伊直満の家老:今村藤七郎正実は渋川の
 東光院に逃れた。・天文14年(1545) 亀之丞は東光院住持:能
 仲の案内で信濃伊那郡市田村(現高森町)の松源寺へ逃れた。
 信濃伊那の松源寺は井伊直親の叔父:南渓禅師の師:文叔禅師
 のいた寺であった。文叔禅師は前の松岡城主:松岡貞正の弟で
 あった。 『井伊家伝記』では松岡城主:松岡貞利が亀之丞(井伊
 直親)を12年間、庇護したとあるが、『井伊家遠州渋川村古跡事』
 の天文14年(1545) 1月4日〜弘治元年(1555)2月に渋川郷の帰
 国することができた。つまり、信濃期間10年と1ヶ月のようでである。
 前の松岡城主:松岡貞正の弟文叔の弟:正英和尚が学問を教え、
今村藤七郎が養育し、松岡城主:松岡貞利が庇護したことになる。

・弘治元年(1555) 亀之丞は松源寺を離れ、井伊谷に戻り、
 15代(23代)井伊直盛の養子となり、井伊直親と名乗った。
  井伊直虎の許嫁:井伊直親は次郎法師の養子となった。やがて、
 次郎法師は「井伊直虎」と名乗った。
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(★井伊直親の現代版の肖像:松源寺所蔵)

箕輪初心:生方▲『松岡城&松源寺』松岡貞利・井伊直親:井伊直虎
・井伊直政
http://53922401.at.webry.info/201606/article_15.html

●文叔瑞郁(ぶんしゅくずいいく)・・・
・応仁元年(1467) 文叔が生まれた。
     岐阜金宝山瑞龍寺で修行→

延徳年中(1491 ~) 19代井伊直氏が文叔瑞郁を自浄院
  に招いた。
松尾城主は菩提寺竜門寺を開山した。

・永正10年(1512)  松岡頼貞弟:文叔が井伊谷の自浄院
 (龍潭寺)住職から、市田郷に戻り、松源寺を開山した。
 明甫正哲=松岡頼貞?・貞正?が松源寺を開基した。
 (★かつては市田の小字「寺」(高森町)にあった。
  ・・・住職奥様の話
  今は松岡城の5の郭にある
。)

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永正12年(1515) 妙心寺24世→
  20代:井伊直平が文叔禅師を自浄院に迎えた。

天文元年(1532)松源寺の弟子:黙宗瑞淵禅師が龍泰寺を
  建立した。(龍泰寺→龍潭寺)


天文4年(1535)12月2日 文叔が死去。享年69。
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  弟:正英は和尚をなった。
 
 松岡一族の牛牧の田中光長の子が養子となり、松岡貞長と
 なった。松岡貞長の子が松岡貞利である。

※松岡城本郭
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●『井伊氏系図』・『寛永諸家系図伝:井伊氏』
初代共保、2代共家、3代共直、4代惟直、5代盛直、6代良直、
7代弥直、8代泰直、9代行直、10代景直、11代忠直、12代氏直、
13代直平、14代直宗、15代直盛、16代直親、17直政。
(★『井伊氏系図』・『寛永諸家系図伝』)

●『彦根藩による井伊家系譜の編纂』野田浩子編纂
@共保(ともやす)→A共家(ともいえ)→B共直(ともなお)→
C惟直(これなお)→C道直(みちなお)→E盛直(もりなお)→
F良直(よしなお)→G彌直(みつなお)→H泰直(やすなお)→
I行直(ゆきなお)→J景直(かげなお)→K道政(みちまさ)→
L高顕(たかあき)→M時直(ときなお)→N顕直(あきなお)→
O諄直(あつなお)→P成直(なりなお)→Q忠直(ただなお)→
R直氏(なおうじ)→S直平(なおひら)→21直宗(なおむね)→
22直盛(なおもり)→23直親(なおちか)→直虎(なおとら)→
24直政(なおまさ)
→25直孝(なおたか)→26直澄(なおずみ)→
27直興(なおおき)→28直道(なおみち)→29直恒(なおつね)→
30直惟(なおのぶ)→31直定(なおさだ)→32直=iなおよし)→
33直幸(なおひで)→34直中(なおなか)→35直亮(なおあき)→
36直弼(なおすけ)→37直憲(なおのり)→38直忠(なおただ)→
39直愛(なおよし)→40直豪(なおひで)→41直岳(なおたけ)
(★「彦根藩による井伊家系譜の編纂」野田浩子編纂)
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・天文4年(1535) 井伊直親(井伊直政の父)が生まれた。
・天文5年(1536) 井伊直虎(井伊直政の養母)が生まれた。
母:新野親矩の妹
井伊宗家21代井伊直平→22代井伊直宗→23代井伊直盛→
姫が生まれた。
姫の許嫁は姫の父:井伊直盛の従兄弟:井伊直親と決まった。
・天文5年(1536) 今川義元が家督を継いだ。
井伊氏と今川氏で和議が結ばれた。
今川義元の西進が始まった。

・天文11年(1542)▲三河田原城攻撃 姫の祖父:井伊直平の子:
  14代(19代)井伊直宗が野伏により討死した。

・天正11年(1583) 松岡貞利は80騎の武将であった。
 約500人の家臣がいた。
(★『長野県高森町史』)


天文13年(1544) 12月 井伊直宗の弟直満・直義が小野和泉守
 の讒言により、今川義元のため生害(自害)された。
井伊直平の子:直満(井伊直政祖父)・直義が今川氏に殺害された。
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 亀之丞(井伊直親:井伊直政父)にも追ってがかかり、井伊直満の
 家老:今村藤七郎正実は亀之丞を叺(かます)に隠した。
 追っての逃れ、渋川の東光院に逃れた。

・天文14年(1545) 亀之丞は東光院住持能仲の案内で信濃伊那郡
  市田村(現高森町)の松源寺へ逃れた。
 信濃伊那の松源寺は井伊直親の叔父:南渓禅師の師:文叔禅師のいる寺
 であった。
今村藤七郎が10年間、養育した。
 松岡城主:松岡貞利が亀之丞(井伊直親)を12年間、庇護した
 と思っていたが、10〜11年間のようである。

 ・?年 姫は許嫁:井伊直親が殺害されたと思っていた。
 姫は祖父の弟:南渓禅師から「次郎(井伊家跡継ぎ長男名)法師」を名乗
 ることが許された。  
 (★享保15年(1730)『井伊家伝記』龍潭寺所蔵:2次史料)

・天文年間 井伊直盛が二宮神社を再建した。
 
天文23年(1554)小野和泉守が没した。
   龍泰寺(現龍潭寺)に埋葬された。

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龍谷山正泉寺が開創された。開山は慧湛和尚である。

・天文23年(1554) 武田晴信の伊那に侵攻
  松岡氏は抵抗することなく武田晴信の軍門に降った。
  松岡貞利は自身の所領を維持することができた。
  山県昌景の配下で松岡貞利は50騎(200人)ほどの軍役を
  課されていた。
(★『甲陽軍鑑』)



弘治元年(1555) 亀之丞は松源寺を離れ、井伊谷に戻り、
  15代(23代)井伊直盛の養子となり、井伊直親と名乗った。
  次郎法師の養子となった。「井伊直親」と名乗った。
(NHK大河ドラマの流れであると思われる。)
 井伊直親は家臣:奥山親朝の娘と結婚した。今川義元に復帰した。


・弘治2年(1556) 勝楽寺隆俊が大日如来を大日堂に祀った。

・弘治2年(1556)南渓禅師(龍潭寺2世)に相談し次郎法師
  を名乗った説もある。

・永禄3年(1560)  今川氏真が龍潭寺棟別諸役一切免除の朱印状
  を出した。

・永禄3年(1560) ▲桶狭間の戦い
   織田信長 VS 今川義元
 3月19日 (次郎法師父:)井伊直盛ら16人が今川側で戦死した。
 井伊直盛が桶狭間で討死のとき、「遺領は中野越後守に預ける」
  と遺言した。
 従って、井伊谷は中野中野越後守直由と(次郎法師)が預かった。
   (★『井伊家伝記』・『井伊直虎物語』浜松歴女隊編)
22代:井伊直盛の法名により龍泰寺を龍潭寺と改めた。
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★徳川家康・関口氏経は大高城にいた。
箕輪初心★【織田信長@尾張の大うつけ→尾張統一】
http://53922401.at.webry.info/201206/article_1.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201206/article_1.html

箕輪初心★『織田信長A桶狭間前哨戦=家康の信長攻撃』
http://53922401.at.webry.info/201206/article_2.html

箕輪初心★【織田信長B桶狭間〜清洲同盟】
http://53922401.at.webry.info/201206/article_3.html

 
・永禄4年(1561)2月19日 井伊直親の長男:井伊虎松
  (直政)が祝田生まれた。

・永禄5年(1562)12月14日 井伊直政の父:井伊直親は
 小野の讒言「井伊直親が松平元康(徳川家康)に内通している。」
  の申し開きのため、駿府に向かった。
  井伊直政の父:井伊直親ら19名は今川家臣:朝比奈泰朝に
  懸川(掛川)で殺された。

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 (★井伊直親の墓)

   井伊家分家:家老:新野左馬助親矩が虎松に命乞いをした。
  井伊家分家:新野左馬助親矩に保護され、養母:次郎法師に
  育てられた。
  ※井伊直政は2歳のため、次郎法師と名乗り井伊家を継いだ
  説もある。

・永禄6年(1563)▲ 天野左衛門尉:八城(社)山攻め
井伊直平が途中の有玉旗屋で急死した。享年75。
★唯一生き残っていた井伊家の男だった。長老が無理した。

・永禄7年(1564))▲曳馬城攻め 
 重臣:新野左馬助親矩と井伊一族で井伊谷城城代:中野越後守
 直由が討死した。
 
「新野左馬助、中野信濃守討死之後、次郎法師、地頭職御勤、
 祐椿尼公(直盛公内室也)、実母、御揃、直政公御養育申
 候得共、皆々女中斗故、但馬諸事取斗我儘斗致、何卒井伊谷
 押領可仕旨相巧申候」
(★『井伊家伝記』)
★意味・・・「新野左親矩と中野信濃守直由の討死の後、次郎
法師が地頭をお勤めになられ、祐椿尼(井伊直盛の妻)、井伊
直政の実母の3人が揃って直政公を養育したが、皆んな女性
であったので、小野但馬守道好が取り仕切って我が儘のし放
題であり、何とかして井伊谷領を巧みに横領しようと企んでいた
と言われています。」
@井伊宗家:次郎法師(井伊直虎)
A井伊家縁戚:新野親矩(今川重臣)の妹(娘説)で次郎法師の母
B井伊家庶流:奥山朝利の妹:虎松の実母

井伊宗家・新野家・奥山家の3人の女性が井伊虎松(直政)を守った。
つまり、3者の強力な連携があったので井伊虎松は生き延びた。
★南渓禅師(龍潭寺2世)がこの年に次郎法師を名乗らせたたのかも
しれない。

・永禄8年(1565) 龍潭寺2世:南渓禅師は次郎法師は還俗させ
 て、「女地頭」に立て、虎松の後見人とした。
  (★『遠江井伊氏物語』武藤全裕著)
 ★この時、「井伊直虎」と名を変えた説もある。
 
  井伊直虎は南渓和尚に徳政免除の黒印状を与えた。

・永禄11年(1568)
?月 井伊家筆頭家老:小野但馬守が井伊領を横領した。
龍潭寺2世:南渓瑞聞は 井伊虎松(井伊直政)を
 鳳来寺に移住させた。

 11月 井伊直虎は関口氏経と連署で徳政令を出した。
  ★今川氏真が介入してきたことを意味する。
「井伊直虎は今川氏家臣関口親永一族:関口氏経の息子
 (次郎法師の母方の従兄弟)を井伊次郎と名乗らせて
 当主とした説もある。
 『鉾前神社古文書』に唯一「井伊直虎の名がある。」
 井伊直盛嫡子「井伊直親養子」、妹に「女子」とあるだけである。
 (★『おんな城主井伊直虎と井伊家の歴史』井伊達夫著)
★関口親永の妻は今川義元の妹婿説・井伊直親の叔母説がある。
 
 関口親永の娘は徳川  家康の正室:築山殿の父である。
 関口氏一族は後、木俣守勝側近となった。

 12月 徳川家康の井伊谷侵攻。井伊谷3人衆(近藤・鈴木・菅沼)は
  徳川家康に臣従し、井伊谷城を先導した。
  家老:小野但馬は逃げた。
徳川家康は井伊谷城を攻略した。
井伊谷は3人衆の支配下に置かれた。
  井伊谷から曳間(引間)城攻めに案内した。

・永禄12年(1568)井伊直政実母は今川家臣:松下源太郎清景
 (浜松頭陀寺城)と再婚した。
●松下家の話
・天文6年(1537) 松下加兵衛之綱は兵法者で槍術の達人:松下源太
 左衛門長則の子として、三河国で生まれた。
・天文年間?
 松下源太左衞門長則は松下屋敷を構えた。
 ※松下長則は頭陀寺の寺侍であった可能性が強い。
  (★冨永公文氏)
川匂(かわわ)庄の領家は頭陀寺であった。

 引間城主(曳間城=浜松城の前身):飯尾氏を寄親とする寄子の土豪:
 松下長則の妹は松下連昌の妻であった。
●系図
@ 松下長則・・之綱(妻は松下清景の姉)・・重綱
娘@
娘A・・おりんは柳生宗矩の妻    
A松下連昌(妻は松下長則の姉)→松下源太郎清景(井伊直政の養父)

・天文20年(1551)頃〜約3年間
   無名の木下藤吉郎(豊臣秀吉)が松下加兵衛に仕えた。
  (★『太閤素生記』)
松下加兵衛之綱と木下藤吉郎(豊臣秀吉)は同年齢であった。
・天文23年(1554)
木下藤吉郎(豊臣秀吉)が織田信長の家臣になった。

・天文年間末期、松下加兵衛之綱は遠江国頭陀寺城主(現静岡県
 浜松市南区)として駿河国の今川義元に仕えた。
 
またこの頃、松下氏に木下藤吉郎(豊臣秀吉)が仕えていた。

・永禄3年(1560)5月19日 桶狭間の戦い。
   井伊直盛も今川義元の警固の任。
 突然の織田信長の兵に今川義元と井伊直盛は討ち死に。
        →今川軍は敗退。
 ※松下源太郎・松下嘉兵衛は逃亡。
今川義元の死後、遠江曳馬城(後浜松城)主:飯尾連竜が今川氏真
 を見限った。
   今川氏と反今川氏の豪族同士で抗争が起きた。

・永禄6年(1563) 今川方の軍に頭陀寺城が攻め落とされ炎上した。

*******************************

・元亀元年(1569) 徳川家康は本拠を岡崎城から引間城に移した。
岡崎城には長男:徳川信康を置いた。

・元亀2年(1571) 秋山信友の大島城大改修工事
  武田信玄は大島城を東海地方攻略、ならびに京へ上がるための
  拠点とする為、伊那郡代秋山信友に命じて大島城の大修築を行
  った。
  この時、下伊那19の郷民と2衆を城普請の人足として強制的に
  動員した事を記す武田氏の朱印状が残っている。
 ★この2衆は片切衆・飯島衆の可能性が高い。
松岡貞行が人夫を調達した。


箕輪初心:生方▲伊那【大島城】片桐氏系大島氏→秋山虎繁→武田信廉
http://53922401.at.webry.info/201606/article_14.html

・元亀3年(1572)▲三方ヶ原の戦い 
  武田家臣:山県昌景が井伊谷を攻撃した。
  井伊谷3人衆は開城した。
  徳川家康は大敗を喫した。
12月22日〜正月始めまで 武田軍25000が井伊谷に滞在した。

・天正元年(1573 ) 武田軍が井伊谷に侵攻し、神社・仏閣・民家
  を焼き払った。

・天正元年(1573 )4月12日 武田信玄が駒場で死んだ。 
井伊谷は再び徳川家康の支配下になった。

・天正2年(1574)▲高天神城の戦い 
  小笠原長忠が降伏。高天神城は武田軍の支配下。

井伊虎松(直政)は鳳来寺から井伊谷に戻った。
井伊虎松(直政)は:松下源太郎清景の養子となり、
「松下虎松」を名乗った。
★松下源太郎清景の従兄弟で、姉の夫:松下加兵衛之綱は徳川家康の
 家臣として引間城の東に屋敷を構えていた。徳川家康の重臣であった。


・天正3年(1575) 松下源太郎清景・(井伊直虎)に付き添われて
  井伊直政(15歳)は浜松に徳川家康に出仕した。
 井伊万千代の名で旧知行地の井伊谷を賜った。
 井伊直虎は井伊直政の出世を見守った。
(★『遠江井伊氏物語』武藤全裕著には井伊直虎は出ていない。)
 (★遠江井伊氏考察録●その7:武藤全裕著には井伊直虎が出ている。)

・天正10年(1582) 井伊直政は山県昌景家臣75名(新編高崎市史)
 ・土屋昌恒家臣70名などを配下とした。
 ★山県昌景の家臣:75名(兵総数は×4〜6)中、
  川出(妻は井伊直政の姉:春光院)・広瀬・三科・孕石・石原主膳
  は井伊直政の家老で、
   早川弥惣右衛門・辻・越石・石黒将監が侍大将となる。
  土屋昌恒の家臣70名も家臣であった。


 ★井伊直政軍の騎馬特攻隊・武田流軍法家隊・築城名人隊
 を傘下にした。

 
 ★井伊谷7人衆家:鈴木・菅沼・&奥山家も井伊直政の家老となる。

※天正10年(1582) 8月26日(9月12日)
養母:井伊直虎が死んだ。

・天正10年(1582)
2月 織田信忠軍の伊那攻め
  松岡頼貞は他の伊那地域の多くの豪族と同様、織田軍に投降した。
再び所領は安堵された。
2月15日 松岡城近くの市田で戦闘があった。
 山県昌景 VS 森長可
武田方10騎は討ち死にした。

3月11日 武田氏滅亡。

6月2日 本能寺の変

・天正10年(1582)10月29日 徳川家康と北条氏政が和議を結んだ。
 ★徳川家康の交渉役は井伊直政と木俣守勝であった。

・天正11年(1583)
2月 松岡貞利が家臣:今牧八郎右衛門に座光寺を与えた。

・天正12年(1584) 伊那の豪族は、豊臣氏に付くか、徳川氏に
  付くか、難しい状況に置かれていた。
 松岡貞利は、徳川家康に誓紙を入れて臣従を誓った。


・天正12年(1585) ▲小牧・長久手の戦い 徳川 VS 豊臣
  井伊直政は池田輝政らを撃退した。6万石になった。

・天正13年(1587) 8月 第1次上田合戦 真田 VS 徳川
 松岡貞利も出陣した。徳川家康の催促状がある。

 井伊直政は小諸城で待機した。
 
11月 石川数正の豊臣秀吉への寝返りで攻撃が中止となった。
******************************
箕輪初心:生方▲真田丸80【第1次上田合戦】加沢記・平山説
&第13話「決戦」
http://53922401.at.webry.info/201604/article_6.html
******************************

12月 松本城の小笠原貞慶は徳川方から豊臣方に寝返り、
   徳川家臣:保科正直いた高遠城を攻撃した。
    この時、松岡貞利は小笠原貞慶に加担しようとした。

 高遠城攻撃は失敗し、小笠原貞慶は松本城に引き上げていった。
 松岡貞利も居城に退却した。
 座光寺次郎右衛門為時は徳川氏に対する謀反の動きを徳川家康の
 伊那郡司として知久平城にいた菅沼定利に通告した。
  (★座光寺氏文書)
 菅沼定利・座光寺次郎右衛門為時は松岡貞利を捕らえ、
 駿府の井伊屋敷に送った。
 井伊直孝の屋敷で詮議を受けた。

・天正14年(1586)
5月 豊臣秀吉は妹:朝日姫を徳川家康の正室として嫁がせた。
9月、母:大政所を人質として徳川家康のもとに送り、配下として
 の上洛を
家康に促した。井伊直政は2人に親切にした。豊臣秀吉は、無事に送り
届けてくれたことに感謝し、腰に差していた名刀を与えた上、大坂城で
歓迎会を開いた。井伊直政を朝廷に奏請して、従5位に任じた。
豊臣秀吉から井伊直政に家臣の誘いもあった。

・天正16年(1588) 徳川家康を裏切って小笠原貞慶についた
 松岡貞利は改易となった。
(★『座光寺文書』)
 しかし、井伊直政は松岡貞利の磔をするのを止めた。
井伊直政は松岡貞利に350石を与えた。
  駿河安倍郡鷹峯に松岡貞利を住まわせた。

山県昌景の配下であった松岡貞利は旧武田武田家臣
 山県昌景・土屋昌恒の家臣等の顔見知りがワンサカいたので
 ある。
 山県昌景家臣から井伊家家老になった川出良則・三科・広瀬
 ・孕石・石原主膳・石黒将監・・・・
 侍大将の早川弥惣右衛門・越石・曲淵・辻など
 
・・天正18年(1590)
・3月17日 山中城攻めでは、徳川勢は西の丸から2の丸
・本丸攻めになった。
箕輪初心:生方●北条早雲&伊豆の城H「山中城」=緻密な山城
http://53922401.at.webry.info/201508/article_5.html

・3月18日 井伊直政は単独で足柄山城を攻略した。
箕輪初心▼相模&駿河【足柄城】:北条氏の武田氏対策の城
http://53922401.at.webry.info/201412/article_2.html

・6月22日 井伊直政と松平康親の部隊は小田原城の笹曲輪
へ攻め入った。
  井伊直政は笹郭攻めでの功績を評価された。
小田原城落城のきっかけを作った。
(★上杉謙信・武田信玄が入れなかった小田原城内に初めて攻め込んだ。)
****************************
箕輪初心▲神奈川【小田原城の歴史詳細】:大森氏→北条氏5代
http://53922401.at.webry.info/201411/article_26.html

箕輪初心●神奈川:小田原城=百名城
http://53922401.at.webry.info/201106/article_19.html

箕輪初心▲神奈川【小田原城3回目】写真集前編
http://53922401.at.webry.info/201411/article_24.html

箕輪初心▲神奈川【小田原城3回目】:写真集後編
http://53922401.at.webry.info/201411/article_25.html

箕輪初心▲神奈川平塚 紫雲寺【大森氏頼の居館跡=矢崎城】
http://53922401.at.webry.info/201411/article_22.html

箕輪初心★北条早雲の生涯=伊豆・相模国盗り物語
http://53922401.at.webry.info/201309/article_25.html

箕輪初心●群馬【名胡桃城A】=北条氏滅亡のきっかけの城
http://53922401.at.webry.info/201202/article_22.html

箕輪初心●岩櫃城探検隊第8弾【中山城2回目】
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201311/article_13.html
 ★名胡桃事件を手引きしたといわれる中山氏



・7月5日 小田原城開城
・7月11日 北条氏直は父:氏政・叔父:氏照を介錯した。
・7月13日 篠(笹)郭を攻略した立役者は、井伊直政の家臣
:長野業実(なりざね) であった。長野業実は@井伊直政から、
名刀「備前三郎国光」、A豊臣秀吉から最上栗毛馬「木下半助」
を頂戴した。(★出典不明・真偽不明)
(★系図纂要「長野氏」では長野業輝:伝蔵属井伊直政→業実)

豊臣秀吉から井伊直政は箕輪城支配を任された。
(★箕輪城シンポジウム:中井均先生)

・7月?日  北条氏直は和田信業・木部高成などを伴って高野山に
 行った。
・7月27日 倉賀野秀景は早川口で没した。死因は不明である。

・天正18年(1590)年の秋=旧暦の8月3日〜7日の間に箕輪城に
 入封した。
(★井伊軍志:井伊達夫著)
8月 井伊直政は箕輪城に入城した。
松岡貞利もびっくりしたであろう。今度はかつて一緒に大島城の普請した
 隣郷の飯島半右衛門が侍大将になったからである。飯島家は味噌造
りをしていたのである。

・慶長5年(1600) 関ヶ原合戦
井伊直政の赤備えは徳川家康の別働隊に配属されていた。
つまり、戦況を見て勝手に動いていい井伊?遊撃隊であった。
Freeに動いていい井伊集団なのである。井伊直政軍は
いつでも、後方にいた。
 (★甲陽軍艦・井伊家年譜)
石原主膳は初めから鉄砲足軽の最前線を任されたのではな
かった。何と井伊直政の右翼の旗奉行だったのだ。
関ヶ原の戦いでbSの名前が残る大物だったのだ。


第一前衛隊  □□□□隊長:木俣守勝□□□□   
第二前衛隊 □□□□隊長:鈴木重好□□□□
本隊     □旗:孕石 ■直政 □旗:石原
後方隊    □□           □□



●井伊直虎・直政シリーズ平成29年(2017)〜*************
箕輪初心・生方▲2016井伊直虎・井伊直政bP
『高崎学ソシアス講演会原稿』
http://53922401.at.webry.info/201701/article_1.html

箕輪初心:生方▲箕輪城238『長純寺・石上寺・東向八幡・字輪寺
&信玄家臣:塚越伴七調査』
http://53922401.at.webry.info/201701/article_2.html

箕輪初心:生方▲箕輪城239『長野業政・井伊直政』&長野堰3碑&
世界かんがい施設遺産『長野堰』
http://53922401.at.webry.info/201701/article_3.html

箕輪初心:生方▲2017井伊直虎・直政bR【井伊家初代:井伊共保】
http://53922401.at.webry.info/201701/article_9.html

箕輪初心:生方▲2017井伊直虎・直政bS【井伊氏系図8】&
『鎌倉時代の井伊氏 』
http://53922401.at.webry.info/201701/article_10.html

箕輪初心:生方▲2017井伊直虎・直政bT【南北朝時代の井伊氏と宗長親王】
http://53922401.at.webry.info/201701/article_11.html

箕輪初心:生方▲2017井伊直虎・直政bU『戦国時代の井伊氏』修正版
http://53922401.at.webry.info/201701/article_12.html

箕輪初心:生方▲2017井伊直虎・直政bV【第1話『井伊谷の少女』
&「井伊谷・彦根城」
http://53922401.at.webry.info/201701/article_13.html

箕輪初心:生方▲2017井伊直虎・直政bW【井伊谷の散策2回】と
『NHKのTV「井伊谷」』
http://53922401.at.webry.info/201701/article_14.html

箕輪初心:生方▲2017井伊直虎・直政bX【井伊谷城2回目】
http://53922401.at.webry.info/201701/article_15.html

箕輪初心:生方▲2017井伊直虎・直政10【井伊氏館跡・井伊直親の墓】
http://53922401.at.webry.info/201701/article_16.html

箕輪初心:生方▲2017井伊直虎・直政11【龍潭寺の『直虎の墓・
直政公の墓・位牌』】
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箕輪初心:生方▲2017井伊直虎・直政12【浜松の宿下吉庵で「梅酒:直虎」を飲んだ】http://53922401.at.webry.info/201701/article_18.html



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