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zoom RSS 箕輪初心:生方▲箕輪城232【山内上杉憲房・上杉憲寛・長野業政&扇ヶ谷上杉朝良】

<<   作成日時 : 2016/12/02 09:35   >>

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扇ヶ谷上杉朝良の室:白井長尾顕忠(山内上杉家家宰)の娘である→
上杉憲房の正室は扇ヶ谷上杉朝良の妹である。→長野業政の正室は扇
ヶ谷上杉朝良の娘である。
画像




===戦国時代=====================
・応仁元年(1467)〜文明9年(1477)応仁の乱
約10年間にわたって継続した。
 8代将軍:足利義政の継嗣争い等複数の要因によって発生した。
  管領の細川勝元 VS 侍所所司の山名持豊(山名宗全)
有力守護大名が争い、九州一部などを除く全国に拡大した。
応仁の乱を契機として、戦国時代へと移っていった。
  9代将軍:足利義材は管領細川政元によって追放され流浪の
  身となった。
下剋上の嵐の中で、幕府権力・守護大名は大きく衰退した。

===箕輪初心:生方「上杉憲寛」===========

箕輪初心●千葉【小弓城→城の台→有吉城】&小弓公方:足利義明
http://53922401.at.webry.info/201404/article_13.html



・????年 上杉憲寛は古河公方・足利高基の次男として生まれた。
  母は宇都宮成綱の娘:瑞雲院である。
長兄:足利晴氏
 本人:足利憲寛(後上杉憲寛→足利晴直)
 ほか
 養弟:上杉憲政


・永正4年(1507) 上杉顕定の養子:上杉憲房と上杉朝良の妹
  の婚姻が成立して山内・扇谷両家の同盟関係が復活した。

@扇ヶ谷上杉朝昌
 長男:永明軒東永(宇田川親定)
 次男:上杉朝寧・・・子:上杉朝興
 3男:上杉朝良
 娘・・・・上杉憲房室
A扇谷上杉朝良の室:長尾顕忠の娘である。
  娘・・・長野業正正室
  藤王丸(生母長尾氏)
  養子:上杉朝興
B山内上杉憲房の正室は扇ヶ谷上杉朝良の妹である。
  扇ヶ谷上杉朝昌の娘(上杉朝良の妹)は上杉憲房の死後
  は扇ヶ谷(甥)上杉朝興の依頼で武田信虎の側室となった。
  →上杉憲房後室と武田信虎の婚姻、
 後、上杉朝興の娘は武田勝千代:晴信(信玄)に嫁いだ。
  扇谷上杉氏と武田氏は姻戚関係となり、扇ヶ谷上杉家
  と甲斐武田家の同盟はより強固なものとなった。
 
C長野業正の正妻は扇谷上杉朝良の娘である。
 私は理由を考えた。★上杉憲房が自分の妻の兄:上杉
朝良の娘を長野業正に嫁がせることで、権勢を維持しようとした
からであると考えた。

箕輪初心:生方▲箕輪城180【長野業正の妻】&子ども
http://53922401.at.webry.info/201512/article_4.html

D上杉憲寛の正室:実弟小弓公方:足利義明の娘



・永正4年(1507) 古河公方足利成氏の次男:顕実が上杉顕定
  の養子:上杉顕実になった。
 上杉憲房は後継者から外されて庶流としての地位が確定した。
上野白井城に駐屯していたが、

・永正7年(1510)長森原の戦い(永正の乱の一部)
 上杉顕定と養子:上杉憲房は越後守護代:長尾為景を討つため
 出陣した。
山内上杉顕定が戦死した。
 上杉顕定配下の山内上杉憲房も撤退した。
上杉顕定の遺言により関東管領職は上杉顕実が継いだ。 

箕輪初心:生方▲【関東管領:上杉顕定の戦いの人生】
http://53922401.at.webry.info/201512/article_2.html
★戦国史150年
★東国の戦乱
★上杉顕定:森田真一著
★群馬県史
★『古河公方展 古河足利氏五代の興亡』 :古河歴史博物館図録
・関東の大乱・・・群馬県歴史博物館
・中世文書集・・・群馬県歴史博物館
★長尾景春と鉢形城:鉢形城博物館
★埼玉県の城砦1/2
 などなどたくさん。

◆参考サイト
・ウィキペディア




〜〜〜上杉顕定の関係〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心★上杉家10代:上杉顕房&11代:上杉顕定
http://53922401.at.webry.info/201405/article_28.html

箕輪初心○埼玉【五十子(いかっこ)の陣&五十子の戦い】
http://53922401.at.webry.info/201405/article_27.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201405/article_27.html

箕輪初心★太田道灌の生涯:長尾景春のライバル
http://53922401.at.webry.info/201312/article_1.html

箕輪初心●埼玉【雉ヶ岡城】=上杉顕定の城→北条氏の城
http://53922401.at.webry.info/201405/article_32.html

箕輪初心★長尾景春:関東下克上で従兄弟:太田道灌と交戦
http://53922401.at.webry.info/201311/article_31.html

箕輪初心★【連歌師:飯尾宗祇】&関東管領:上杉&長尾
http://53922401.at.webry.info/201404/article_24.html

箕輪初心★『宗長の生涯』:世捨て人の彷徨
http://53922401.at.webry.info/201404/article_25.html

箕輪初心●埼玉【雉ヶ岡城】=上杉顕定の城→北条氏の城
http://53922401.at.webry.info/201405/article_32.html

箕輪初心★上杉家10代:上杉顕房&11代:上杉顕定
http://53922401.at.webry.info/201405/article_28.html

箕輪初心▲神奈川「権現山城&青木城」:多米一族&神奈川宿
http://53922401.at.webry.info/201411/article_15.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201411/article_15.html

〜〜〜上杉顕定の死〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心★本間家の歴史;佐渡本間一族→酒田本間家
 日本一の地主へ
http://53922401.at.webry.info/201307/article_20.html
★長尾為景の協力者:佐渡本間家が上杉顕定を倒した。

箕輪初心◆2013群県博:新潟県「上杉氏」関興寺・瀧澤寺・
雲洞庵・坂戸城・管領塚
http://53922401.at.webry.info/201310/article_21.html
★上杉顕定の管領塚=戦死した場所
★関興寺の山門は箕輪城主:長野業正の第2家老:下田大膳
の子孫の家(高崎市箕郷支所&中央公民館・下田邸の門で
 であった。伊香保の道の駅から、いつしか、「味噌嘗めたか」
 の『関興寺の山門』になっていたのだ。


〜〜〜長尾景春の関係〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 
箕輪初心★長尾景春:関東下克上で従兄弟:太田道灌と交戦
http://53922401.at.webry.info/201311/article_31.html

箕輪初心★太田道灌の生涯:長尾景春のライバル
http://53922401.at.webry.info/201312/article_1.html

箕輪初心●埼玉【第53回寄居北條まつり後編:攻防戦】&
『鉢形城の歴史詳細』
http://53922401.at.webry.info/201405/article_15.html

箕輪初心○埼玉【第53回寄居北條まつり前編@準備〜パレード】
http://53922401.at.webry.info/201405/article_14.html

箕輪初心●埼玉:鉢形城4回目:外曲輪〜三の曲輪〜
二の曲輪〜本曲輪
http://53922401.at.webry.info/201311/article_30.html

箕輪初心●埼玉『鉢形城』&北条氏邦の箕輪城の大改修
http://53922401.at.webry.info/201305/article_16.html

箕輪初心●『鉢形城の歴史詳細』&47回寄居北條まつり2008
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201305/article_15.html

箕輪初心◆埼玉『第52回寄居北條まつり2013鉢形城』
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201305/article_14.html

箕輪初心●箕輪城115【赤備え】&北条三鱗会の井伊直政
手作り甲冑@」
http://53922401.at.webry.info/201311/article_29.html

箕輪初心▲埼玉熊谷妻沼【西城城】=成田氏→斉藤氏→長井氏
http://53922401.at.webry.info/201409/article_2.html

箕輪初心▲熊谷上須久八幡神社&善ヶ島【東城】:幻の城砦発見
http://53922401.at.webry.info/201409/article_3.html
★これは凄い発見である。深谷指定史跡にさえなっていない
 巨大な城である。

箕輪初心▲埼玉秩父【長尾城=瑞岩寺城】:長尾景春の城
http://53922401.at.webry.info/201410/article_2.html

箕輪初心▲埼玉秩父:「長尾景春の乱&逃走」
http://53922401.at.webry.info/201410/article_3.html

箕輪初心●群馬渋川【白井城】=上杉謙信の同族の城
http://53922401.at.webry.info/201204/article_14.html

箕輪初心●群馬:東吾妻【金原城】&【柏原城】&『荒巻一族』
http://53922401.at.webry.info/201202/article_14.html

箕輪初心▲秩父【熊倉城=日野城】:長尾景春の逃亡の城
→北条氏邦の支配
http://53922401.at.webry.info/201501/article_15.html

箕輪初心▲埼玉【長尾景春の乱&秩父の逃走ルート】復刻版
http://53922401.at.webry.info/201501/article_17.html

〜〜〜古河公方〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心★古河公方5代:足利成氏→政氏→高基→晴氏→義氏&氏姫
http://53922401.at.webry.info/201312/article_15.html

箕輪初心▲埼玉久喜【足利政氏館】:2代古河公方の隠遁館&甘棠院
http://53922401.at.webry.info/201501/article_19.html



・永正9年(1512) 8月頃 鎌倉は相模守護:扇谷上杉氏の支配下
  であったが、伊勢宗瑞=北条早雲の支配下に置かれた。

・永正15年(1518) 上杉朝良が死去。
・永正9年(1512) 永正の乱
 ※永正の乱
1)古河公方家の内訌
 第2代古河公方:足利政氏 VS 第3代公方足利高基
 父子による対立があった。

2)山内上杉家の内訌
 上杉憲房 VS 上杉顕実
  上杉憲房が勝利し、山内上杉家の家督を継いだ。
長野憲業も上杉憲房に味方した。

・????年 上杉憲房には当時は男子がいなかったので、
  上杉憲寛は上杉憲房の養嗣子となった。

・永正9年(1512) 6月 上杉憲房が長年寺禁制を出した。

10月 長野憲業の壁書・・・吾妻出陣祈願。
(★長年寺文書)

・永正10年(1513) 長野憲業が 榛名神社巌殿寺宛に
  大戸要害の落居を願文を出した。
(★長年寺文書)
★何故、長年寺か?
最初の長純寺は水草(箕郷町下芝)にあり、
水害で流されていた。


・永正11年(1514) 長野一族?榛名神社に制札をだした。

・永正12年(1515) 上杉顕実が死亡した。
  上杉憲房が関東管領職をも継いだ。

1)古河公方家の内訌
・永正13年(1516) ▲縄釣りの戦い
 @足利高基の義父:宇都宮成綱が足利政氏の支持派:佐竹義舜
 ・岩城由隆に勝利した。
 A足利政氏支持派の那須氏が宇都宮氏と同盟を結んだ。
 B足利高基支持派:小山政長が小山氏の主導権を握った。
 →父:足利政氏の敗北した。
  足利政氏は扇谷上杉朝良を頼って岩付城へ移った。


大永3年(1523) 上杉憲房56歳の実子:上杉憲政が生まれた。

4)北条氏綱の侵攻
・大永4年(1524) 北条氏綱の侵攻。
 @北条氏綱が江戸城を攻撃→占領。
 A北条氏綱が岩付城城を攻撃→占領。
 ※扇谷上杉氏は、江戸城と岩付城を続けて失った。
 →江戸湾=東京湾の西部沿岸一帯を完全に制圧した。
 江戸湾東部沿岸を小弓公方・真里谷氏・里見氏が
 支配していた。
 後北条氏の軍事力に対する危惧・警戒感が一気に高まった。
 
 小弓公方・真里谷氏は江戸湾の制海権を掌握しかねない
 という危惧感を持った。後北条氏との対立を決意した。
 
 ところが、足利義明の排除を図る古河公方&
  江戸湾の制海権の確立を図る後北条氏の利害が一致
 した。・・・足利高基&北条氏綱が盟約を結ぶきっかけ
 となっていった。


2)山内上杉家の内訌
・大永4年(1524)
惣社長尾家の長尾顕景と白井長尾家の長尾景誠が北条氏綱・長尾為景
と結んで関東管領上杉憲寛に叛旗を翻した。
長野方業が惣社長尾氏の重臣:徳雲斎を調略したことが知られている。
(★久保田順一先生講演会より)
箕輪初心:生方▲箕輪城180【長野業正の妻】&子ども
http://53922401.at.webry.info/201512/article_4.html

大永5年(1525) 上杉憲房が死去。
  上杉憲房の実子:上杉憲政は2歳と幼少だったことから、
 上杉憲寛は山内上杉氏の家督と関東管領職を継いだ。
山内上杉憲房に嫁いでいた上杉朝昌の娘(朝興妹)は扇ヶ谷上杉
 に戻った。
 (@後、上杉朝昌の娘は甥の上杉朝興の依頼で武田信虎の側室
  となった。→上杉憲房後室と武田信虎の婚姻→晴信が生まれた。
  A上杉朝興の娘と信虎の嫡子:武田勝千代:
  晴信に嫁いだ。中に入ったのが彦部家である。
  2つの扇谷上杉氏と武田氏は姻戚関係となり、
  扇ヶ谷上杉家と甲斐武田家の同盟はより強固なものとなった。
 

????年 上杉憲寛の正室:小弓公方:足利義明の娘を
 貰った。
上杉憲寛の子:上杉憲当は「榎木上杉氏」を名乗っていた。
(★おそらく安中原市の榎下城)

????年 長野業政の正室は扇ヶ谷上杉朝良の娘である。
兄弟姉妹
姉・・・・長尾景英正室
 長野業氏
 長野業正
 妹・・・・里見義堯正室
(★ウィキペディアの説)
 黒田基樹先生説・・・長野憲業の娘が里見義堯正室


・大永6年(1526)長野信業は長子:業氏に
   鷹留城を与えた。
(★群馬県史)
 ※長野憲業=信業同一人物説もある。(近藤義雄先生)

・大永7年(1527)
11月27日 箕輪の長野左衞門太夫方業、総社長尾顕景・
白井長尾景誠の排除を徳雲軒と謀る。
12月16日 箕輪の長野左衞門太夫方業、厩橋宮内大輔と
ともに総社城を攻めすすめる。  
(★上杉家文書:山田邦明2002)

・享禄元年(1528) 長尾景誠が家臣に殺された。
長野信濃守業正、これを聞き白井を攻略し、惣社長尾に景房
を招き、正統をを継承させる。
長尾景誠の母は長野信濃守業正の母と記されている
(★史跡箕輪城発掘調査報告第8集:一般には限定100部)

●▲■長野左衛門大夫方斎は箕輪城主とみられている。
@『日本城郭大系』では、箕輪城主の長野信業
『箕郷町誌』(箕郷町1975年)では長野信業=方斎
   (★近藤義雄先生)
A『群馬新百科事典』(上毛新聞社2008年)の「長野氏」
  (飯森康広著)
 では長野方業=長野業正(★正式名:業正である)
 同一人物説・・・花押も同じ。
B『群馬県史 通史編3』では。長野方業=方斎』
C戦国のコミュニケーション』(山田邦明著2010)
方斎ではなく、方業である。
D黒田基樹論文 方斎は方業の誤読とする。
  厩橋長野方業が箕輪長野氏に養子に行った説。
E厩橋宮内大夫も諸説ある。
◆◆ 箕輪初心●【箕輪城87:飯森康広氏の新説】 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201212/article_2.html

箕輪初心★箕輪城101「長野氏」の研究:近藤・山崎・飯森・久保田
http://53922401.at.webry.info/201310/article_6.html

1)古河公方家の内訌
・享徳年間(1553)〜文明年間 享徳の乱
上総国に甲斐武田氏の分家:真里谷武田氏がいた。
武田信満の次男:武田信長が古河公方2代目:足利成氏の
家臣となった。成氏の命で上総に攻め込み、関東管領:上
杉氏の所領を横領するなどして戦国大名化した。
真里谷氏第5代:真里谷信清(恕鑑)は関東制圧という野
望があった。しかし上総近隣には古河公方と親密な結城氏、
千葉氏の勢力が存在していた。そこで真里谷信清は「空然」
に目をつけた。
・永正年間初期・・真理谷信清は「空然」を還俗させて
「足利義明」と名乗らせた。
兄:足利高基が古河公方を確立すると、反抗し始めた。

2)山内上杉家の内訌
●享禄2年(1529)〜享禄4年(1531) 関東享禄の乱(黒田基樹説)

・享禄2年(1529)
1月24日 山内上杉家家臣:白井長尾景誠が長尾八郎に謀殺される
   (『続本朝通鑑』)

8月14日 上杉憲寛が上野国碓氷郡:安中城の安中氏討伐を開始
   した。同盟関係にあった扇ヶ谷上杉朝興からは制止されたが、
    これを無視した。
   (『続本朝通鑑』)

9月22日 西氏と小幡氏が上杉憲政を擁立した。
   上杉憲寛に対して謀反を起こした。
 ・・・・山内上杉家の内紛が発生した。
  上杉憲寛による安中氏討伐の背景には、長野氏と安中氏の対立が  
  あったと考えられる。
  (★黒田基樹説)
  長野氏・高田氏が擁する上杉憲寛
     VS 安中城付近で交戦
  小幡氏・安中氏・藤田氏らが擁する上杉憲政

  上杉憲寛は長野方業を随行させながら、安中城から程田
  (高崎市保渡田)に後退した。
    (★『続本朝通鑑』) 


・享禄3年(1530)
1月 上杉朝興は兵を率いて居城:河越城より出陣した。
   小沢・瀬田谷(世田谷)の両城を攻め、南武蔵に進んだ。

5月 
(小幡)「左衛門尉」が上野国多胡郡仁叟寺(吉井町)に対して
 禁制を与えた。
 ▲甘楽郡高田城(富岡市旧妙義町)周辺で合戦があった。

5月21日 上杉憲寛が高田憲頼の注進により、被官:守山与五郎の
  戦勲に対して感状を発給した。

6月12日 ▲小沢原の戦(府中の南・・・多摩河原の小沢原)
  上杉朝興は武蔵国府中に出陣した。
北条氏綱は嫡男:氏康に出陣を命じた。
    北条氏康にとってはこの合戦が初陣だったという。
 上杉朝興 VS 北条氏康
北条氏康は乳母の子:清水吉政(静岡県下田)・中島隼人佐
  (麻生区万福寺)を引き連れ、上杉の陣を急襲したという。
 北条氏康は上杉勢を退け、初陣を飾った。
 北条方の圧勝に終わった。

9月 上杉朝興は太田資頼の攻撃で岩付城を奪回した。

10月25日 上杉憲寛が用土新三郎(業国)領の武蔵国男衾郡赤浜
  を被官:三富平六に与えた。

・享禄4年(1531)
9月 関東享禄の内乱終了
足利晴氏が古河公方、上杉憲政が関東管領の地位を確立した。

9月3日 上杉憲政が関東管領を継いだ。
   ・享禄4年(1531)
  
●結果

1)古河公方家では足利晴氏が公方の地位を確立し、足利高基
   は隠棲した。
2)結果、上杉憲寛は管領職を失った。
   上杉憲寛は上総国の宮原(市原市)に退去して、足利晴直と
   名を改めた。
 (★黒田基樹著)
  上杉憲寛は敗れて上総宮原(市原市)にて隠棲した。
上杉氏を追われた後は、「足利」に復姓した。
   同母兄の足利晴氏と同様に、将軍:足利義晴(古河公方
   :足利晴氏説)から偏諱の授与を受けて足利晴直(はるただ
    ・はるなお)と名乗った。
市川の宮原御所にいたことから宮原晴直と名乗ったとも
言われている。

3)敗れた上杉憲寛方の諸氏の処遇
  上杉憲寛方の諸氏は許された。
※箕輪長野方業=長野業政(飯森康弘説)
長野方業の後継者とみられる長野業正(★黒田基樹説)
 あるいは長野方業の娘を小幡憲重に嫁がせた。
その後、箕輪長野方業の養女になっていたとみられる沼田顕泰の娘を
安中重繁に嫁がせた。
さらに、安中重繁の娘を高田繁頼に嫁がせた。
これによって、和解が図られている。
(★黒田基樹説)


・天文元年(1532) 上杉朝興は藤王丸を殺害(享年15)し、実子:
  朝定を正式に後継者にした。


・天文2年(1533) 上杉朝興は武田信虎の嫡男勝千代(晴信)12
  歳の正室として娘を嫁がせた。



・天文5年(1536)彦部晴直は武田信虎の第12代:足利義晴の
取次をした。武田勝千代は15歳の時、「武田晴信」となった。
武田信虎は黒馬一頭・兼本銘の刀一腰を彦部晴直に送った。

・天文6年(1537)4月27日、上杉朝興は河越城で病死した。享年50。
  跡を上杉朝定が継いだ。


◆参考文献
・『戦国関東の覇権戦争』黒田基樹著 
・『戦国北条氏五代』黒田基樹著 
・『戦国期山内上杉氏の研究』黒田基樹 
・『西上州の中世』:黒田基樹著:安中市ふるさと学習館
・『上州の戦国史』など
◆参考サイト
ウィキペディア

箕輪初心:生方▲箕輪城189『古文書史料に基づく長野氏・箕輪城の関連年表』
http://53922401.at.webry.info/201606/article_24.html


 
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