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zoom RSS 箕輪初心:生方▲真田丸137:『第50話最終回「疾風」』&「豊臣有力家臣の結末」未完成

<<   作成日時 : 2016/12/31 15:35   >>

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★平成28年(2016)12月18日、NHK・大河ドラマ『真田丸』は第
50回の放送が最終回であった。『山梨県史』中世編や『武田氏家
臣団人名辞典』を執筆した丸島和洋氏・平山優氏や後北条氏の上野支
配の様子を執筆した第一人者:黒田基樹氏 を時代考証にした。3名
のスーパー50代の時代考証を元に三谷幸喜氏が想像を駆使して、ホ
ームドラマを描いた。そこで、私「箕輪初心:生方」:3氏の説と脚
本家:三谷幸喜氏の比較を中心にブログを書いてきた。とても楽しま
せて貰った。「豊臣有力家臣の結末」は時間がなくて、調べきれなか
った。
画像

◆ナレーター 
「(大坂夏の陣の道明寺の戦い、八尾・若江の戦いが終わり、)後藤
 又兵衛、(木村重成ら)は討ち死する。形勢は圧倒的な不利とい
 う状態の中、いよいよ豊臣と徳川の最終決戦が火ぶたを切る。」
 ★大城夏の陣・最後の闘いが始まる。

●山寺
真田信之と本多正信が相部屋になった。
本多がいびきをかいている。

●大坂城
「坊主が屏風に絵を描いた。」などと真田兵が騒いでいる。
・・・・・
「負けると思っているだな。」
・・・
「真田様のためなら、命なんか欲しくねえ。」
 「私は命が欲しい。明日、決して死なん。必ず此処に戻ってくる。
  命を惜しめ。そして必ず、勝て。・・・」

●大坂城の庫裏
 「もっと早く気づくべきだった。」と問い詰める。
 「娘が太閤に手込めにされた。・・以来ずっとここにいる。・・・」
 真田幸繁は刀を抜いた。
 大角は自害しようとする。・・・★実は死んでいなかった。

●大坂城での軍議
真田幸村たちは大坂城内で最後の軍議を開いた。

●大坂城の淀殿の部屋
茶々「負ける夢ばかり見る。」

茶々が・・・怖がる。
 幸繁「家康の首を取って参ります。」
 ・・・
 茶々「死ぬつもりなのですね。」
  茶々が泣く。
・・・・・・
幸繁「・・万に一つ家康を打ち損じた時・・大坂城から・・・
    千姫様を和睦の使者として秀忠の元にい遣わしください。」
死を悟ったかの如き茶々に対して、
 幸村「望みを捨てなかった者のみにに道は開けるのです。」
 と諭した。

●大坂城の真田部屋
幸村は鎧をつけながら、
幸村「・・・この世にいた証しを何か残せたのか?」
・・・
 高梨内記「・・・時の流れでござる。日の本一の兵と・・・」
・・・遠くで蝉が鳴いている、      
内記「如何に生きたかでござる。」

◆ナレーター
「(慶長20年(1615) )5月7日早朝。豊臣方が・・・」


●大坂城
治長は・・・
茶々ときりは「かるた」をしている。
・・・・
茶々「・・・2人は(源次郎ときり)はどのような間柄?」
きり「・・・腐れ縁で、一言では申せません。」

●家康の陣
家康は秀頼の出馬で豊臣恩顧の大名の士気が下がるのを懸念していた。 
本多正信の子:本多正純が真田信繁の調略を進言した。

●幸村の陣
幸村・勝永・治長が秀頼の出馬を待っていた。
治長が秀頼を呼ぼうとした。
真田軍・毛利軍で家康の本陣の中に突入すれば、勝てると思った。
直後、銃声がした。
徳川軍と対峙する幸村と毛利勝永・・・
勝永「早すぎる。」
幸村「・・・も早、待てぬ。・・・」

◆ナレーター
「松平忠直軍が毛利軍に鉄砲を撃ちかけ、戦いが始まってしまった。・・」


●大坂城
秀頼「打ってでる。」
大角「・・・幸村にやられた。」
大蔵卿は幸村が寝返って噂を信じてしまった。
大蔵卿が必死で止めた。

▲天王寺の戦い
毛利の部隊も応戦した。準備の整ってないまま戦いが始まってしまっ
た。それでも勝永隊は本多隊を破竹の勢いで、・・・

●真田の陣
真田信吉
真田隊を怒涛の勢いで

◆ナレーター
「徳川軍・・小笠原・榊原・諏訪・酒井を突き崩す。
毛利は徳川軍を撃破し、家康本陣に向かっていった。
一進一退だった戦局は毛利勝永の奮戦によって豊臣家に流れが傾いていった。
幸村も最後の突撃を仕掛けなければならなかった。
「寝返りの疑いを晴らさなければならない。」
「大助、城に戻って、出馬をお願いせよ。」
「私も父上と出陣しとうございます。」
幸村は、大介を大坂城に戻した。
いよいよ幸村自ら、コ川の陣へめがけて突撃をかけた。
真田幸村は対峙する松平忠直軍が真田隊を抜けて大坂城を目指すのを
利用して、逆に徳川家康の本陣へと突撃をかけた。

途中、真田信政が幸村の前に立ちはだかった。

三十郎も槍を向けるが、一蹴した。
「小物に構うな。」
堀田が三十郎をなだめる。
「源次郎様〜〜〜〜。」

◆ナレーター
「徳川勢が大混乱になった。幸村は家康の本陣めがけて突き進んだ。」
「目指すが家康の首、ただ一つ。・・」
戦場の幸村は、千載一遇の好機を逃すまいと狙いを徳川軍の大将:
徳川家康の首だけを狙って徳川本陣へと単騎突入する。
「真田が向かっております。こちらへお逃げ下さい。」

毛利勝永と真田幸村の奮戦が家康を追い詰める

徳川家と豊臣家が激突した最終決戦、
幸村の家臣:堀田徳川本陣の徳川家康の椅子を槍で上になげた。
そして馬旗印を引き倒した
た。
◆ナレーター
「徳川家の馬印が倒れたのは、三方ヶ原の合戦以来であった。」
★武田信玄によって馬印が倒された。馬印は、42年後、武田家臣であった
真田幸村によって再び倒された。」

●逃げた家康。
「死なせてくれ。は〜は〜」
徳川本陣に突撃した幸村の策によって、徳川家康は「死ぬ。」
と言って自刃しようとした。
(★1回目は三方ヶ原の戦いではうんこ漏らし伝説が生まれた程だった。
 それ以来、42年 振りの大敗の様相だった。自害を覚悟したと言
 われたほどに追い詰められた。)

◆ナレーター
「戦いは豊臣の圧勝・・・かと思われた。」

●大野治長軍
「秀頼公に出馬を促してくる。」
「この千生り瓢箪はどうしますか?」
「もちろん持って帰る。」

◆ナレーター
「この小さな出来事が歴史を変えた。」

●豊臣軍の各陣
「馬印が帰って行く。」
◆ナレーター
「・・・千生り瓢箪が帰って行くのを見て豊臣軍は動揺した。・・・
  悪いことは続く。」

●大坂城
大坂城から火の手が上がった。
大角「燃えろ、燃えろ・・・」
佐助「裏切ったのは大角です。」


◆ナレーター
「戦国時代、最後の武将は戦さの流れが変わる時を知っていた。・・・
  この機を決してのがさない。」

●家康の陣
「陣を立て直せ。」

●真田幸村の奮戦
徳川軍の混乱が収まってくると、形勢は逆転した。
堀田作兵衛が討ち死にした。
家康の首に一歩届かなかった幸村が率いる真田隊は壊滅状態となった。

●大坂城
秀頼「これより、討って出る。」
茶々は止める。
「生きろと言っておるのです。」

●大坂城
きりが千姫を連れ出す。
高梨内記は殿であった。
大助に「早く、行かれよ。秀頼様の元に・・・」
高梨内記が討ち死にした。位牌を持って。・・・
畑で堀田作兵衛が討ち死にした。
「すえ、お梅・・」

●家康本陣近く
きりと千姫は源次郎を見た。
「源次郎様。」
幸村は一騎で家康を目がけて突っ込む。
「また、真田か。」
幸村は馬上筒で討った。・・・
「手を出すな。」
「殺したいならば、殺せ。・・・徳川の世は既に盤石。・・・
 戦いでしか、己の生きた証しを残す時代は終わった。」
「百も承知・・・父にため、・・先に死んでいった愛する者達のために」
幸村は馬上筒で撃つ前に、手を撃たれた。
秀忠が応援に来たのだ。

「遅い。」
「佐助、」
佐助が煙幕を張った。

伊達「見事な戦いよ。」
上杉「武士を生まれたからには、あのように・・・」
源次郎、さらばじゃ、・・・」

●幸村は佐助と戦線を離脱した。
(毛利勝永は、敗残兵をまとめて殿(しんがり)を務め、兵を大阪城へ退
却させた。)


●ある寺
大角は生きていた。


●神社
幸村と佐助が神社で休んでいた。
敵に発見された。
幸村が小柄のような武器を持って忍者のように首を指した。
「これまでの要だな?」
幸村は佐助に自分の太刀を渡す。
自刃するつもりだ。
「長い間、よう仕えてくれた。いくつになった。」
「52でございます。」
幸村は小刀を左脇に挟んだ。


●大坂城
燃える。

●家康の陣
千姫は・・・
きりは・・・

●真田は・・
●毛利は・・・

●玉縄(神奈川県藤沢)
本多正信・真田信之は畑を見た。
「領民に慕われているようですね。」
「戦と同じでござる。」
「国作りの基本を教わり申した。」
早馬が来た。
手紙を読んだ。
六文銭を手に取った。
「参るぞ。」

★幸村は、戦場を離脱して安居神社(安井神社:現大阪府天王寺区逢阪)
で休息していたところを、松平忠直隊の鉄砲隊:西尾宗次を交戦となっ
たが、戦う気力も体力もなくなった幸村は、「手柄にいたせ。」と首を
差し出し西尾宗次に討ち取られたと言われているそうである。享年49。


◆ナレーター
「これより7年後、真田信之は松代藩・・・」

●ゆかりの地
@安井神社

A上田市「長谷寺」の真田幸村の供養塔
画像

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******************************


●▲■大坂城にいた武将達***************

【2】豊臣軍の譜代の中心人物
大野治長、大野治房、大野治胤、木村重成、渡辺糺、竹田永翁、
木村宗明、郡宗保、山口弘定、細川頼範、山名堯政、赤座直規、
槇島重利、生駒正純、毛利重能、内藤長秋、織田昌澄、真木島昭光、
赤星親武、薄田兼相

1)大野治長
淀殿の乳母・大蔵卿局の子として豊臣秀吉に馬廻衆として
  取り立てられ、秀吉の死後は秀頼の側近として仕えた。
大野治長(修理亮) 諸侯1万5千石、総奉行  
 片桐且元が方広寺鐘銘事件の弁明のために使者として派遣
 された。
 大野治長は徳川家康に内通しているとの疑いで、大坂を追放
 した。
 豊臣家の主導的な立場になった。
 大野治長は徳川との和平を望んでいたといわれている。
 @冬の陣では消極策=籠城策を主張した。
  実弟:大野治房や真田幸村ら主戦派と対立した。
●竹田兵庫:旗本 大野治長付・・・戦死
●竹田大助:竹田兵庫の子 大野治長付・・・戦死
A大坂夏の陣では将軍:徳川秀忠の娘で豊臣秀頼の正室:千姫
 の使者とし、自分の切腹を条件に豊臣秀頼母子の助命を願うが
  かなわなかった、
  5月8日、豊臣秀頼とともに大坂城の山里曲輪で自刃。
 ●大野治長の子:大野信濃守治徳 5月8日自刃
  ●米村権右衛門 大野家家老(600石)
  B安芸浅野家士

2)大野治房
@大坂冬の陣では主戦派の中心人物の一人であった。
  七将軍として、出陣した。
  大和郡山城の戦い・・
  樫井の戦い・・・浅野軍の攻略に失敗した。
 A大坂夏の陣後、豊臣秀頼の遺児:国松を擁して大坂城から脱出
  しようとしたが、徳川方に捕らわれて斬首された。



3)大野治胤
@大坂冬の陣では兵5000を率いた。豊臣水軍を率いて船倉を守
   備するが、野田・福島の戦いで徳川水軍に大敗した。
  A大坂夏の陣では、徳川方の兵站:堺を焼き討ちした。
   大坂城時に徳川方に捕らえられた。堺の衆が京都所司代:
   板倉勝重に訴えた。
   6月?日 大野治胤は堺衆に火あぶりにされた。

4)木村重成
木村重成:豊臣秀頼の乳母の子。豊臣秀頼と乳兄弟
幼少から秀頼の小姓として仕えた。
元服後も豊臣家の重臣として重要会議などに出席した。
木村重成の妻は大蔵卿の姪・・つまり、大野治長の従兄弟。
木村長門守重成3,000石・・・・
 大野治長に片桐且元が徳川家康との内通を疑われた時は、
 仲介に入った。
 その後、木村重成は片桐且元を「改易」にして追放した。
大野治長・渡辺糺らと共に開戦を主張し、片桐且元を大坂城から
追い出すのに一役買った。
@冬の陣では七将軍として後藤又兵衛(基次)と共に奮戦した。
冬の陣の和議の際には、正使として徳川家康の許に赴いた
※木村重成の立ち振舞があまりに堂々としたため、家康を始め
とする徳川諸将は感嘆したという逸話が残っている。
A大坂夏の陣では豊臣軍の主力として長宗我部盛親とともに
 八尾・若江(東大阪市南部)方面に出陣した。
▲八尾・若江の戦い
 八尾方面には長宗我部盛親、
 若江方面には木村重成・・・
 木村重成は藤堂高虎、井伊直孝の両軍と対峙した。
 木村重成は藤堂軍の右翼を破った。
  木村重成隊は玉串川西側堤防上に鉄砲隊を配置し、湿地を
  西進する井伊軍を襲撃しようとした。

5月6日 午前7時頃、 
▲若江の戦い
  玉串川東の堤防上から鉄砲隊による一斉射撃を行った。
  井伊直孝の鉄砲隊が木村隊を圧倒した。
鉄砲奉行は宇津木泰繁であった。
  玉串川は井伊隊に占拠され木村隊は撤退した。
  井伊直孝は先鋒を第2家老:庵原朝昌・川手良列
  (川出良則+井伊直政の姉の子)とした。

  川手良列は撤退する木村隊が突撃を行ったが、敵中に孤立し
  討ち死にをした。
  
  しかし、川手隊先鋒の突撃で木村隊は陣を整える間も無く
  庵原朝昌ら後続の井伊隊の追撃を受けることになった。

 木村重成は兵を収拾し、昼食を取らせると井伊軍の来襲を待
 ち構えた。
 木村重成軍は井伊直孝軍との両軍入り乱れての激戦となった。
 木村重成も槍をもって奮戦した激戦の末に戦死した。
   
  井伊家家臣に討たれた。
  安藤重勝(長野氏の箕輪城侍代の安藤家子孫)に討たれた説
  井伊家第2家老:庵原(いはら)朝昌に討たれたが、庵原朝昌
  が功を安藤重勝に譲った説。
 ※首実検が行われた際にはその頭髪には香が炊き込めてあったと
  いう逸話もある。


 井伊隊の戦闘に傍観していた榊原康勝、丹羽長重らが木村宗明を
 攻撃した。木村宗明は大坂城へ撤退した。

  木村隊の山口弘定、内藤長秋も討ち死にした。
  若江方面での木村隊は壊滅した。

  木村家( 木村重成・木村秀望・飯島三郎右衛門・ 宇野右衛門介
     高松久重・ 山口弘定 )
★井伊直政の子:井伊直孝は彦根の「宗安寺」に木村重成の墓
 (首塚)を造って、供養した?誉れとした?


5)渡辺内蔵助糺・・・母が淀殿付5000石 攝津渡辺党
@冬の陣・・・・真田幸村の寄騎 槍術達人で活躍した。
  A夏の陣・・・・・5月7日自刃

6)竹田永翁・・・・物頭500石
天正12年(1584) 豊臣秀吉に仕えた。
豊臣秀吉の祐筆。・・・物頭になった。
@冬の陣・・・・毛利勝永の寄騎
  A夏の陣・・・・・5月8日自刃
慶長20年(1615年)、大坂の陣に参戦し、嫡男の和吉高友と共
   に大坂城大広間千畳敷で自害した
  (一説に佐久間勝之に討たれたとする史料もある。)

7)木村宗明・・・木村重成の叔父:
@冬の陣・・・・
  B夏の陣・・・・木村重成隊に所属。
    5月6日 大坂城に帰還した。
5月8日 自刃

8)郡宗保 旗奉行3000石
@冬の陣・・・・ 大坂の陣では旗奉行
  12月 木村重成と郡宗保は豊臣方代表として徳川秀忠の陣
に和議の交渉を行った。
  A夏の陣・・・・・天王寺・岡山の戦い
   敗北し自害しようとしたが、旗を敵方に取られるのを嫌
   い、大坂城に引き返した。
   5月7日、自刃。

9)山口左馬助弘定 小姓頭(3,000石)、
木村重成の妹が妻。
@冬の陣・・・・毛利勝永の寄騎
  A夏の陣・・・・・5月6日、戦死

10)細川讃岐守頼範  小姓頭(5,000石)
  室町幕府管領細川昭元の子 同上
@冬の陣・・・・
  A夏の陣・・・・・5月8日自刃
  B助命が許され、常陸秋田家士

11)山名堯政
鎌倉時代、上野国の山名伊豆守(伊豆の守護)義範の子孫
山名宗全の子孫・・・山名祐豊:誠豊の養子、実父は致豊。

  天正8年(1580) 山名祐豊は羽柴秀吉率いる織田軍に出石の
  有子山城(出石城)奥で包囲される中、死去した。
  山名祐豊の次男:山名堯熙は出石城落城後は羽柴秀吉の登用され、
  豊臣秀吉・秀頼の2代に仕えた。
  山名堯熙(氏政)と山名堯政は豊臣家に仕えた。
@冬の陣・・・山名堯政
  A夏の陣・・・5月7日 山名堯政は父に先立ち戦死した。
B山名堯熙(氏政) は徳川家康に登用を請うも許されなかった。
   山名堯政の子」山名平三郎恒豊は徳川家旗本287石となった。
 ※豊臣秀頼の家臣には旧室町時代の名族の山名堯政・細川京兆家
 の細川頼範(細川昭元嫡男)や河内守護家の畠山政信らもいた。


12)赤座内膳正  軍奉行(3,000石)
  @冬の陣・・・・ 大野治長麾下。
  A夏の陣・・・・・5月8日自刃
  B助命が許された。


13)槇島玄蕃允重利 1,500石
@冬の陣・・・・・
  A夏の陣・・・・・5月7日、戦死

14)生駒宮内少輔正純 讃岐高松17万3千石生駒家一門
   @冬の陣・・・・・
  A夏の陣・・・・・


15)毛利重能(勘兵衛) 算術  
@冬の陣・・・・・
  A夏の陣・・・・・
B戦後、京で算術師となった。

16)内藤長秋 3,000石
@冬の陣・・・・・
  A夏の陣・・・・・木村寄騎 5月6日戦死

17)津田(織田)主水昌澄
織田信長の弟:織田信勝(信行)の子:津田信澄。
   津田信澄(信行)の長男:津田(織田)昌澄
   大溝城主の時代に生まれた。
藤堂家家臣→豊臣秀吉・秀頼家臣。
  @冬の陣・・・藤堂高虎の部隊などと戦った。
   豊臣秀頼から褒賞を受けた。
A夏の陣・・・・・天満口にて徳川方と交戦 後衛
B徳川家旗本・・・2,000)
●織田昌澄の子津田勘七郎    5月7日戦死
 ●織田昌澄の弟:津田左衛門元信    

18)真木島昭光
@冬の陣・・・・・
  A夏の陣・・・・・




19)赤星親武
@冬の陣・・・・・
  A夏の陣・・・・・

20)薄田隼人正兼相 5,000石、
   刀術達人
@冬の陣・・・・・
  A夏の陣・・・・・後藤の寄騎 5月6日 戦死



織田家:織田長益(有楽斎)・ 織田信重
  織田長益(有楽斎):織田信長の弟
千利休に茶道を学び、利休十哲の1人。
 京都建仁寺の正伝院に茶室如庵を造った。
 犬山鉄山ホテル内に移築(国宝)

箕輪初心●愛知【犬山城&城下町&有楽苑】  
http://53922401.at.webry.info/201206/article_6.html
 
◆◆ 箕輪初心★千利休 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201106/article_27.html
 
箕輪初心:生方▲真田丸30【真田昌幸と滝川一益との腐れ縁:友情】
http://53922401.at.webry.info/201602/article_2.html
津田秀政は滝川一益の娘婿だった。

 大坂冬の陣では大野治長らとともに穏健派として豊臣家を支える
  中心的な役割を担った。
 「消極派=和平派」と対立した。
 @冬の陣
 12月21日 大野治長と共に和睦を締結させた。
  徳川家康に人質を出した。
  大坂夏の陣直前
 「誰も自分の下知を聞かず、もはや城内にいても無意味である。」
  と豊臣家の大坂城から退去。
A夏の陣・・・参加せず。
 ●織田頼長 :織田長益(有楽斎)の次男
 @冬の陣では、嫡男の頼長は強硬派で父と対立した。
  父と二の丸玉造口などを守備した。
  1万人あまりの部隊を指揮したという。
  12月、部隊内の喧嘩騒ぎにより、徳川方の藤堂高虎隊が
   織田隊方面から攻撃を開始して谷町口の戦いが起った。
   織田頼長は病気と称して一切の指揮をしなかった。
   藤堂高虎と織田頼長とが示し合わせた上での謀略とも
   言われている。
  夏の陣直前に大坂城を退去
A夏の陣・・・参加せず。






【4】名門と呼ばれている家系の子孫
@大谷吉治(大学)・・・大谷吉継の嫡男

A仙石秀範・・・仙石秀久の嫡男・・・・弟は徳川側
仙石定盛

B浅井井頼+( 浅井長房・浅井政高 )
 伝:浅井長政の3男=淀殿の弟

C石川康勝・・・石川数正の2男

D十河存英+十河存英・・・阿波の十河存保の子

E氏家行広(荻野道喜)・・・西軍:大垣城主で改易
F増田盛次・・・増田長盛の子、(冬の陣は幕府方)
G塙直之・・・・元加藤嘉明の家臣
H福島正守+福島正鎮・・・福島正則の弟・・・・・兄は徳川側
 
I細川興秋・・・細川忠興の2男・・・・兄は徳川側
 (★『真田幸村よくわかる本』:押鐘太陽著)
大坂城の豊臣軍には、関ヶ原の西軍の敗将と金銭で雇われた膨大な
浪人が集まっていたのだ。


●▲■豊臣軍武将一覧******************
http://tikugo.com/osaka/busho-main.html


▲豊臣秀頼


あ行**************************
●青木久矩
・慶長4年(1599) 豊臣秀頼から越前金剛院城主2万石に
  加増された。
・慶長5年(1600) 関ヶ原の戦い
西軍につき、北国口を守るが、戦うことなく終戦。
改易されて失領し、加賀前田家に預けられていた。
@
A

▲赤井弥七郎・・・赤井豊後守の一門  
 B伊勢の津:藤堂家家臣500石
C同族子孫には「浪花のロッキー 」元・プロボクサーの赤井
  英和がいる。

▲赤星内膳親武・・・・・譜代
肥後菊池系赤星一族。加藤清正の加藤16将の1人。
 加藤清正の紹介で豊臣秀頼の直参となった。
 B夏の陣において天王寺口で戦死した。5月?日戦死

●赤松祐高・・・播磨赤松家子孫。妹は足利義昭の側室
 ・慶長5年(1600) 関ヶ原の戦い
石田三成の西軍に与するが、徳川方の東軍に寝返る。
兄赤松政広の切腹後に流浪した。
 B夏の陣後、播磨国に逃れて播磨網干大覚寺に篭ったが、
  池田利隆の兵に囲まれたため、衆兵を救おうと切腹した。

▲赤座直規+赤座弥七郎・・・・譜代3000石
豊臣秀吉・秀頼に仕えて尾張愛知郡藤島村領有。
 B夏の陣で豊臣秀頼と共に自害した。5月8日自刃

●浅井井頼+( 浅井長房・浅井政高 )
 伝:浅井長政の3男=淀殿の弟
大和郡山城:増田長盛の家臣となって3000石。
 ・慶長5年(1600)関ヶ原の戦い
西軍の生駒親正の隊に属した。
増田長盛が改易されると生駒親正の子:一正に仕えた。
 夏の陣で討死したとされる。
*真田十勇士の根津甚八のモデル
浅井政高・・・浅井長政の従兄弟   5月7日戦死

▲蘆田作内
  宇喜多秀家の家臣であったが、浪人になった。
 @
A宇喜多旧臣の明石全登隊に属して戦った?。
 B不明

▲蘆塚忠右衛門
慶長5年(1600)関ヶ原の戦い
小西行長家臣として、森宗意軒と共に行長の遺志を伝える役目
 を命じられた。
 小西氏改易後は天草でキリシタン大名・有馬晴信の家臣と
 なって島原に移住した。
 有馬晴信の死後、浪人となった。
 @冬の陣
B夏の陣
 C寛永14年(1637) 島原の乱
軍師として原城に入城した。落城時に戦死した。

○雨森三右衛門(伝右衛門)

▲粟屋助太夫・・・越前国吉城主:粟屋勝久の孫  
  B伊勢の津:藤堂家士

▲穴沢盛秀(右近) 長刀達人  
  A冬の陣で戦死

▲荒木勘十郎
・豊臣秀吉家臣・・・丹波で200石
 @片桐且元が大坂から退去する時、見送ったのを咎められ切腹
 させられた。

●石川康勝・・・石川数正の2男
天正13年(1585) 父:石川数正が徳川家康から出奔し、
  豊臣秀吉の下へ逃亡した。
 ・慶長5年(1600) 関ヶ原の戦い
兄と共に東軍に与して所領を安堵された。
・慶長18年(1613) 兄の領地隠匿に連座したとして改易された
(大久保長安と縁戚関係にあった)。
・慶長19年(1614)大坂冬の陣における真田丸の戦いの最中に
配下が火薬を誤爆させ、石川康勝も負傷した。
 東軍が内応の合図と勘違いした一件が有名である。
 ・慶長20年(1615)大坂夏の陣
  天王寺・岡山の戦い
  天王寺口の将として出陣、真田信繁隊と
  運命を共にして乱戦の中で戦死した。

●飯田家貞
@冬の陣・・・今福の戦い
  大坂城北東、大和川の北岸に今福村、南岸に鴫野村がある。
  今福村に3ヶ所の堀切と4重の柵を設置した。
  矢野正倫300および飯田家貞300 で守備した。
  徳川家康は今福村に付け城を築くため、今福・鴫野の両柵の奪取
  を佐竹義宣に命じた。  
  11月26日夜明け、佐竹義宣指揮下の兵1500が侵攻した。
   佐竹麾下の渋江政光、戸村義国の攻撃で矢野と飯田は討死した。

○伊木遠雄+伊木尚重(庄次郎)

▲生駒正純・・・・譜代。讃岐生駒一族・・・・外は徳川方。
生駒吉乃は織田信長の側室→正室であった。
嫡男:織田信忠を生んだ。
 

▲伊藤武蔵守・・・豊臣秀吉の鉄砲大将:伊藤長弘の子  
@
  A夏の陣  5月8日自刃

○稲木教量

▲井上頼次+弟:井上時利
長井姓→齋藤姓→長井姓→井上姓
@鴫野の戦い
  鉄砲隊長として2000の兵を率いて、鴫野の柵に徳川軍の備え
として置かれるが、徳川軍の鴫野の柵崩壊によって討死した。

▲今木源右衛門正祥・・譜代:近習
 B夏の陣 京極備前と共に逃亡・・・加賀:前田家士      

▲岩佐左近・・・・譜代 2000石   


●氏家行広(荻野道喜)・・・西軍:桑名城主で改易
下野:宇都宮庶流・・・小山で徳川から離れ、中立した。
伊勢桑名2万2000石・・改易
  徳川家康は氏家行広の器量を惜しんで仕官を呼びかけたが
  応じなかったという。
 @冬の陣・・・荻野道喜と変名を用い大坂城に入城した。
  豊臣氏に与して活躍した。
 A夏の陣・・・大坂城落城。5月8日 自刃。
  
▲薄田兼相+弟:薄田文右衛門・・・・譜代 
 A夏の陣・・・道明寺の戦い
   5月6日、河内国志紀郡道明寺村付近において後藤基次と
    水野勝成が交戦した。後藤基次は前夜のうちに単騎で
    小松山の地形を確認した水野に小松山に後藤を誘い
   こまれ撃波された。水野勝成は一番槍をあげた。
    水野勝成3800にさらに誉田村で渡辺糺と交戦した。
    渡辺糺は深手を負わせた。薄田兼相は水野勝成の家臣:
    河村重長に討ち取られた。
  薄田文右衛門は幼少のため戦闘には参加しなかった 。
    落城後紀伊に逃れた。後に浅野家に召抱えられた。
   「沢」と改姓させられ。浅野家の安芸広島移封に従い
   500石を与えられた。

○江原高次

●小笠原権之丞
徳川家康の隠し子説→キリスト教徒
 @
B夏の陣・・・兄:結城秀康の長男:松平忠直の配下に討ち
  取られた。

小川次郎兵衛

▲ 岡田丹後   譜代:舟大将1000石 


●岡部則綱(大学)・・・・・・今川→武田・・・岡部子孫
今川氏家臣:朝比奈信直→武田勝頼(武田水軍)
 高天神城の戦い・・・
  ・・・さまざまな大名に仕えた。
 @冬の陣・・・大坂城に入城し、大野治長の組下に属する。
 A夏の陣・・・樫井の戦い
   塙直之・淡輪重政らと共に浅野長晟軍と戦った。
   岡部則綱は自害を毛利勝永に制止された。
B落ち延びて、「愧世庵」と名乗って隠遁した。


○小倉行春(作左衛門)

○小山隆重


●大谷吉治(大学)・・・大谷吉継の嫡男

▲大野治長+大野治房+大野治胤・・・豊臣秀頼の乳母系

▲織田昌澄・・・・・譜代



か行**************************
○金森掃部・・・・・父:兄弟は徳川方

○金春重勝

○川崎和泉

●紀州一揆勢
( 光明寺の僧・五味新九郎:竹原新四郎・津久・津守与兵衛・
中・ 西村惣右衛門・福本三介・堀内大学・湊惣左衛
 山口安弘(喜内)・山室彦左衛門 )

▲河田基親 譜代:旗本・・・上杉景勝家臣:河田長親の弟
 上杉景勝家臣として真田幸繁同様、豊臣秀吉の人質となった。  
@冬の陣
 A夏の陣
 B加賀前田利勝の家臣に

○岸勘解由 足軽大将1000石
 

▲黒川但馬守貞胤 物頭500石

○喜多長能

○北川宣勝

○木下秀規

▲木村清久


▲木村主計頭宗明・・・・譜代・物頭1000石
 木村重成の叔父・・・木村番頭

●木村重成・・・・譜代
 木村家(木村重成・木村秀望・飯島三郎右衛門・ 宇野右衛門介
     高松久重・ 山口弘定 )

○喜多村政信

○木下秀規

○京極備中

○黒川貞胤

▲郡宗保・・・・譜代


さ行*****************************
▲佐々長秋・・・・譜代:佐々成政の弟  
B 夏の陣、戦死

○佐藤方政

○柴田五左衛門

○持明院基久・・・公家
 B天王寺・岡山の戦いで戦死

○持明院基征・・・公家
 B天王寺・岡山の戦いで戦死

○白樫主馬助

○新宮行朝(堀内氏弘)・・・大井一族系堀内子孫:武田遺臣

○鈴木正祥

●仙石秀範+仙石定盛・・・・・・・兄は徳川方


た行***************************
○高田吉次(又兵衛)

○高橋三右衛門

○高橋弥三郎

○高松久重

▲竹田永翁・・・・譜代

○武田兵庫

○玉置小平太

▲淡輪(たんのわ)重政 兄:淡輪重利が浅野家家臣
  妹の小督局(お菊の母)は豊臣秀次の側室であったが、
  豊臣秀次は豊臣秀吉に切腹、小督局は三条河原で処刑された。
  淡輪家も連座して所領が没収された。
  小西行長に仕えたが、関ヶ原の後に小西家も改易されて浪人。
 @冬の陣・・・大野治長の組下・・・紀州攻めに加わった
 A夏の陣・・・樫井の戦い
   浅野長晟軍と戦って討死した。


●千々石(輪)五郎左衛門
加藤清正家臣:加藤五郎左衛門の子。
B島原の乱の一揆勢の軍師であるらしい。


●長宗我部盛親
 長宗我部家( 長宗我部盛親・長宗我部康豊・長宗我部盛恒
  ・長宗我部盛高・長宗我部盛信・長宗我部盛定
  ・五百蔵左馬進・奥宮伝兵衛・片岡民部・上山十兵衛
  ・久万俊朝・佐竹親直・佐竹忠次郎(柴田外記)・ 立石正賀
  ・立石長次郎・豊永藤五郎・中島重房・中内三安・中内三置・
  ・中内藤兵衛・能勢宗兵衛・戸波親清●丸橋盛澄(忠弥)
  ・明神信勝・ 横山友隆・吉田政重・ 吉田康俊 など)

▲津川親行 譜代:馬印奉行2,000石  
  B夏の陣 5月7日戦死

○寺町惣左衛門

○十市忠之

○戸田為重

○友松盛保
@大坂夏の陣  捕えられ山内家に預けられた。

●十河存英+十河存英・・・阿波の十河存保の子


な行****************************
▲内藤長秋・・・・譜代

○内藤元盛+内藤忠豊
@大坂冬の陣 毛利輝元と毛利秀元の密命を受け、「佐野道可」と
  変え、軍資金と兵糧を持参し大坂城に入城した。
 A夏の陣 内藤元盛も毛利氏一門であることが露見し逃亡中に京都
  で捕縛された。

○名島忠純  黒田官兵衛に名島城を乗っ取られた。


●七手組( 青木一重・伊東長次:伊東長昌・杉善右衛門
    ・ 仙石定盛・中島氏種・野々村吉安・速水守久
    ・堀田正高・ 真野助宗・真野頼包 )
★別掲

×南条元忠
  B冬の陣で徳川に内通して切腹した。

●南部左門+南部信景(北十左衛門)
@南部信景・・
   白根金山を発見し、金山奉行となって盛岡藩の財政に
   貢献した。従兄弟で主君:南部利直とは仲が悪かった。
   藩主:南部利直から謹慎を命じられた。
   トラブルが原因で出奔した。
  北家養子:南部信景は南部家の大量の金を持ち逃げして
   大坂城に走った。
  一説には逃亡した南部左門を追いかけて大坂城に入ったと
   いう説もある。
 冬の陣・・・「南部十左衛門信景」と名乗り、派手な甲冑を
  身に付けて活躍した。「南部の光り武者」と称された。
 A 夏の陣後、伊勢で捕らえられて南部家に引き渡され、盛岡で
  南部利直の自らの手により処刑された。

○西川方盛

○丹羽長正+丹羽正安

▲野々村幸成+野々村豊前+野々村吉安・・譜代2000石、
B5月7日 戦死

は行***************************
▲幡野光照・・・譜代:金山掛奉行9000石
  B冬の陣で戦死

○埴原八蔵

○箸尾高春

○早川長政

○服部正栄

●塙直之(団右衛門)・・・元加藤嘉明の家臣

▲原田帯刀  
 浪人・・・・・・

○樋口雅兼

○平井保延+平井保能

○平子正貞

○平塚左馬助

●福島正守+福島正鎮・・・福島正則の弟・・兄は徳川側

▲藤掛永勝+藤掛土佐守定方・・・譜代
 B真田幸村の寄騎    5月7日戦死

▲伏屋飛騨守貞元 譜代:奉行人  
 B真田幸村の寄騎    5月7日戦死

▲古田重忠(玄霜) 古田織部一族古田重則の子  
 A冬の陣で戦死
▲古田重行 譜代:小姓 古田織部の子、
  二条城放火を企図?
 B後藤又兵衛寄騎・・・6月24日自害。


○布施左京亮

○藤野半弥

○船津九朗右衛門

▲別所治範・・・別所長治の一族別所重棟の子  
B5月7日戦死

●細川興秋+ 細川頼範+長岡興季
細川興秋・・細川忠興の2男・・・・兄は徳川側
 細川頼範・・・・譜代

▲堀対馬守   譜代1,000石  
B5月8日 自刃


▲堀内氏久(前掲:新宮)


ま行****************************
▲蒔田政行+ 蒔田政勝・・・譜代:5,000石  
  B冬の陣で戦死


▲槇島重利 ・・・・譜代

▲真木島昭光・・・・譜代

●増田長盛+増田盛次+高樋主水・・・増田長盛の子、
 ※増田盛次(冬の陣は幕府方)

○真野有春

●御宿政友・・・徳川家康がマークしていた重要人物

○三浦義世

○三田村又右衛門

○宮島兼与

◆宮本玄信(武蔵)・・・水野勝成軍にいた。

▲三好下野守政康・・・三好3人衆の一人  
 B夏の陣 5月7日 戦死

水原吉一(石見守) 大坂町奉行   ×自殺5/14

牟礼朝泰(孫兵衛) 700石 木村付 ×戦死5/6

森島長以 旗本   ×自殺5/8

村上高国

●村山等安・・・・
 @長崎奉行キリシタン・・A明石全登に舟をチャーター

●毛利勝永+毛利勝家

▲毛利重能・・・・譜代

▲森宗意軒
小西行長の家臣だった。
 文禄・慶長の役時に、小西行長の荷物を運ぶ船宰領(船頭
  となって朝鮮へと渡航した。
  途中で難破し南蛮船に助けられ、オランダで6〜7年間を
  過ごした。
  その後、中国で「入廟老」に火術、火攻めの方法などを
  伝授された。
  日本へ戻ってきた時には小西行長は刑死しており、小西氏
  の改易で浪人した。高野山に身を潜めた。
  @冬の陣・・・真田信繁の軍について戦った。
  A夏の陣・・・肥後国天草島へ落ちのび「森宗意軒」
  と改名して島原に住んだ。
  B・・・島原の乱で戦死。



や行**************************
○安井成安(道頓)

▲矢野正倫
@冬の陣・・・今福の戦い
  大坂城北東、大和川の北岸に今福村、南岸に鴫野村がある。
  今福村に3ヶ所の堀切と4重の柵を設置した。
  矢野正倫300および飯田家貞300 で守備した。
  徳川家康は今福村に付け城を築くため、今福・鴫野の両柵の奪取
  を佐竹義宣に命じた。  
  11月26日夜明け、佐竹義宣指揮下の兵1500が侵攻した。
   佐竹麾下の渋江政光、戸村義国の攻撃で矢野と飯田は討死した。

○山川賢信

○山口茂左衛門

▲山口弘定・・・・譜代

▲山名堯政・・・・譜代。・・・@山名宗全の子孫

▲山中紀伊守幸俊 山中長俊の養子
  @山中長俊が関が原後所領没収
  B安芸浅野家家臣

 
○結城朝勝

○湯浅正寿

○湯河太郎五郎

○湯橋吉信

○米田是季

▲吉田康俊・・・長宗我部隊の部隊長
B松平忠明の家臣になった。

○吉田好是(玄蕃頭)

わ行************************
○和久是信+和久是安
▲渡辺糺+渡辺守・・・・譜代

○渡辺正好


★松代城でも書くかあ。

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箕輪初心:生方▲真田丸137:『第50話最終回「疾風」』&「豊臣有力家臣の結末」未完成 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
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