城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行

アクセスカウンタ

zoom RSS 箕輪初心:生方▲湯灌・納棺の「六文銭?」&真田丸135真田の「六文銭」

<<   作成日時 : 2016/12/13 09:00   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

★今年は平成28年(2016)11月26日、12月11日の2回、湯灌
(ゆかん)→納棺に立ち会った。その際、2回とも頭陀袋に「六文銭」
を入れた。葬儀屋は「六道銭」ではなく、「六文銭」と言った。真田氏
は家紋は4種類の家紋があった。「結び雁金」・「州浜」・「割州浜」・六
文銭(六連銭・六紋連銭)であった。真田の「六文銭」の家紋として
の名前で、元々は仏教界で使う「六道銭」のことである。「六道銭」は
「三途の川の渡し賃」、つまり通行料とされている
。「三途の川」は仏
教において、死者が死後7日目に渡るとされている川である。死者を
葬る時に御遺体と一緒に埋めた。今は、斎場で燃やされるが、最近は紙
の「六文銭」になった。@「真田は何故、六文銭にしたのだろうか?」、
12月の「真田丸」では、A「六文銭の旗を真田丸に立てていたが本当
なのだろうか?」、Bこうが六文銭を渡しながら、「道中、どうかお気
をつけくださいませ。」と無事を祈った。本当なのだろうか?一文=約
50円としても300円かあ?これで救われるのかなあ?



【0】湯灌(ゆかん)→納棺+「六文銭」は何の意味あるの?
「湯灌」は安置しているご遺体の身体や髪を洗い清め、化粧を施し身支
 度を整える。身内・親族がお湯やアルコールで浄めることである。
 昔は湯は、今はアルコール消毒のようだ。
「旅立ちの身支度」は上帯、手甲脚絆、
 「納棺」は遺体を棺に納めることである。
 「六文銭は紙でできている」・・・「三途の川も金次第か?」
 ずだ袋に「六文銭」を入れる。
 白の帷子、手甲、脚絆、足袋、頭陀袋、天冠(額に当てる三角布)、
 頭陀袋(中に三途の川の渡し賃の六文銭)、草履、笠、杖などを身
 につける。
旅の姿で、お遍路さんの姿を思い出した。
 仏教では死を冥土への旅立ちと考えるようだ。
 日蓮宗のお坊さんの話では
 「仏教では」
 義理の弟「お東」さん=浄土真宗など、教義として旅立ちとしての死を
 認めてない場合はこれらの装束を着せないこともあるようである。
 でも、綺麗に着飾っていることは同じである。
 副葬品を納めたら棺の蓋を閉め、納棺は完了となる。

杖、草鞋などを棺に納めた。

1)1回目は11月26日に父の湯灌(ゆかん)→納棺であった
 葬儀屋さんが顔の髭を剃って、顔を拭いた。
入れ歯ないので、綿を入れていつもの顔に近づけた。
化粧した後でも、顔をふいた。
 金は一切いれられなかった・・・・
  ここの葬儀屋さんは「綿で天狗の姿のように着飾った。」
父は曹洞宗:「長純寺」長野業政の菩提寺だ。
 

2)2回目は12月11日は叔父の湯灌(ゆかん)→納棺であった。
 湯灌に立ち会った。
葬儀屋さんが顔の髭を剃って、顔を拭いた。
 次に故人が愛用していた品を棺に納めた。
 化粧した後でも、顔をふいた。
 +入れ歯ないので、ないまんま?の顔だった。
 嗜好品はたばこだが、ライターなどの爆発物や燃えにくいものは入れ
 られない。
 また、燃えるものでも水分を多く含んでいるものなどは火葬の妨げに
 なるので、入れられないそうだ。
 酒のない紙パックが収まった。
 金属を少なめにして、遺品を燃やす。金は1円玉のみ、・・・・
 「六文銭は紙でできている」・・・「三途の川も金次第か?」
 ずだ袋に「六文銭」を入れる。
 白の帷子、手甲、脚絆、足袋、頭陀袋、天冠(額に当てる三角布)、
 頭陀袋(中に三途の川の渡し賃の六文銭)、草履、笠、杖などを身
 につける。ここの葬儀屋さんは「綿で天狗の姿のように着飾った。」
 
 副葬品を納めたら棺の蓋を閉め、納棺は完了となる。

●安中市板鼻の寺
日蓮宗:実相寺   井出存亮住職・・・総代であった。
曹洞宗:南窓寺
真言宗豊山派:大乗院
時宗:聞名寺
天台宗:称名寺
曹洞宗:長伝寺

仏教では人は亡くなると四十九日の間に七日ごとの捌きを受け、
六道のいずれ・・・

●日蓮宗の住職の話「四十九日」
 死んでから「あの世」に帰るまでの準備期間です。
仏教では49日、キリスト教でも50日、・・・
 ★へえ、そうなんかい・
死んでもお世話になった人やいろいろな人に挨拶をする日にちは
 必要らしい。
 「初七日」死後7日目で「あの世の三途の川を渡る
  ・・・この世には戻れない。」
 三途の川は「この世」と「あの世」の間に流れる川のことである。
 「命を落とした者は、三途の川を渡ってあの世に行くものである。」
 と昔の人々に信じられていた。・・・仏教の影響で、・・・・

 死者は三途の川を渡って数日旅をする。・・・
 「2七日」 
 「3七日」
 「4七日」・・・・・親戚・一族関係者が一同に集まって、死者の方の
   人生の思い出を語り合い、良いところを閻魔様に伝える日。
結果として次にどこに行くかが決まるのですね。
(★日蓮宗の和尚様の話)
 「5七日:・・・35日であの世の閻魔様の門の入り口にたどり着く。
 「6七日」
 「7七日」・・・49日はこの世の境目の日。
(★日蓮宗の坊さんの話)
 
【1】「六道」の意味
無色界・色界・欲界の3つの世界を合わせて3界と言うそうである。
人間などの生物はこの3つの世界で生死を繰り返すというのが、仏教
が示す世界観である。
1)無色界
2)色界
3)欲界・・・六道:6つの世界(道)のことを表す。
@天(道)
  A人間(道)
B修羅(道)
C畜生(道)・・・悪行を重ねた者が行く
D餓鬼(道)・・・悪行を重ねた者が行く
E地獄(道)・・・悪行三昧を重ねた者が行く
 「六道銭」の六道とは、仏教において@〜Eを合わせてと言うそう
 である。
昔の人々は死後の最初の行き先であろう六道に対する意識が
 非常に強く、
 「死者に六道の数にあった銭を持たせれば清く成仏できる」
 という考え方に発展し、「六道銭」ができた。
ところが、仏教の解釈の違いで六道(地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、
 人間、天上)の衆生を救うため三途の川を渡る1回分の渡船料を
 意味するようになったようである。

【2】「三途」
  「三途」の意味は、悪行を重ねた者が行く餓鬼道
  ・畜生道。地獄道の3つの世界のことであった。
  三途の3道の意味が変化し、三途の川での3つの通り道に
   なった。

【3】「三途の川」
 仏教界では「 三途の川」は死者が死後7日目に渡るとされている川で
 ある。
@古墳時代 仏教伝来
「三途の川」を渡る方法は3つあった。生前の生き方によって、
 @善行を行った善人・・・橋で渡る。
 A軽い罪人・・・・・・・浅瀬を渡る。
 B悪行を重ねた重い罪人・・流れの速い深みを渡る。
A平安時代
「三途の川」を全員が渡る。

B鎌倉時代
閻魔大王・閻魔(えんま)様は仏教、ヒンドゥー教などでの地獄、
冥界の王として死者の生前の罪を裁く神である。
日本の仏教では十王の長「閻魔」は地蔵菩薩の化身とみなされる。
十王は死者の罪の重さで、地獄へ送ったり、六道への輪廻を司る。
十王それぞれの本地仏との対応関係が日本で考え出された。
人間を初め全ての衆生は、よほどの善人やよほどの悪人でない限り、
没後に中陰と呼ばれる存在となる。
初七日 -〜七七日(7×7=49日)及び百か日、一周忌、三回忌
には、十王の裁きを受けることとなる、という信仰に発展した。
十王とは、道教や仏教で、地獄において
亡者の審判を行う裁判官です。
この思想によれば、人間を初めとするすべての衆生は、
没して後、七日ごとにそれぞれ
@初七日:七日・・・・・・・秦広王→不動明王
A2七日:十四日・・・初江王→釈迦如来
C3七日:二十一日・・宋帝王→文殊菩薩
D4七日:二十八日・・・・・・五官王→普賢菩薩
E5七日:三十五日・・・・・・閻魔王→地蔵菩薩
E6七日:四十二日・・・・・・変成王→弥勒菩薩
F7七日:四十九日・・・・・・泰山王→薬師如来
 (★ウィキペディア)
 @〜Fの順番で1回ずつ審理される。各審理で問題がないと判断
 されたら次の審理はなく、抜けて転生していく。
 7回すべてやるわけではない。
一般には、49日の閻魔王が最終審判となり、死者の行方が決定さ
 れる。

C????
 「三途の川」を全員が舟で渡る。


【4】三途の川の渡し賃が「六道銭」なのか?「六文銭」なのか?
何故、三途の川の渡し賃に「六道」の考え方が用いられたのかに
 ついては六道と六地蔵に関係する。
仏教界の考え方として、あの世とこの世を行き来できる唯一の存在
として地蔵菩薩がいる。
 地蔵菩薩は、一体毎に六道の1つ1つそれぞれに繋がっている
 六地蔵は六道を守護する菩薩様である。
6つの地蔵菩薩を並べて配置している場所もある。「六地蔵」である。
 「かさこ地蔵」などのそうであるが、信濃・上野でも多く見られる

D戦国時代
  十王堂が多く立てられた。
  閻魔に対する信仰が再び強まった。
  武士は戦で人を殺すからである。


E江戸時代
 閻魔堂がで立てられるようになった。
 閻魔像や浄玻璃鏡、業秤などがおかれていた。



・江戸時代末期 
  奪衣婆堂が立てられるようになった。
  奪衣婆(だつえば)は、三途川(葬頭河)の渡し賃である
  六文銭を持たずにやってきた死亡者の衣服を剥ぎ取る老婆
  の鬼である。
  脱衣婆、葬頭河婆(そうづかば)、正塚婆(しょうづかばばあ)
  姥神(うばがみ)、優婆尊(うばそん)とも言う。
  奪衣婆が剥ぎ取った衣類は、懸衣翁という老爺によって衣領樹
  にかけられる。
  衣領樹に掛けた亡者の衣の重さにはその者の生前の業が現れ、
  その重さによって死後の処遇を決めるとされる。
   奪衣婆は閻魔大王の妻であるという説もある。

・昭和時代
「嘘ついたら、閻魔様に舌(べろ)ぬかれるぞ。・・・・」

【5】「六文銭」六連銭(ろくれんせん)、六紋連銭(ろくもんれんせん)
 仏教界の「地蔵信仰」から来ている【六道銭】:「三途の川の渡し賃
 =通行料」が死者を葬る時に遺体と一緒に埋めるものであった。


【6】真田幸隆(幸綱)が旗印として採用した真田家の家紋
「六文銭(六連銭・六紋連銭)」
真田家は家紋を六文銭にした由来は「三途の川」にあった。
六文銭紋は地蔵信仰による仏教色の強い家門であることになる。
 武将は戦場にあって、人を殺すことを仕事とした。
殺生は仏教では許されない。
 殺生を常とする武士は地獄に落ち、終わりのない責め苦にさいな
 まれる。しかし修行僧の形をかりた閻魔大王など、六道の衆生を
 救うとされる地蔵の慈悲は、武将達の非道をも救うとされた。
真田氏は家紋に六文銭を用いることで、戦いや駆け引きに
 死をもいとわない決意で望んでいることを示していた。
「いつ命を落としても大丈夫なように、六文銭を常に身につけておく。」
「武士として、いつ命を落としても悔いが残らない戦いをする。」
というように、変化させていった。
 


12月11日の「真田丸」
 ○江戸の真田屋敷
稲「どこにも死ぬなどと書かれておりません。」
稲は必死でとめようとする。
信之「あれは、敵の本陣に入り込み、大御所様の首をとるつもりだ。」
と、幸村の狙いについて話した。
稲がとうとう折れた。
稲「敵陣に向かうとなると、真田の家はお取り潰しになることも
  考えられます。家紋のついたものは、身につけぬようにして
  ください。」
とお願いした。
こうは、六文銭を渡しながら、
「道中、どうかお気をつけくださいませ。」
と無事を祈った。
★本当なのだろうか?
本来は「戦いに行って・・・。死んだら、三途の川で金出してね。」
真田魂の「六文銭」
六文銭の扱いが微妙に間違って入る気もしないではないが、・・・
『六文銭』が真田の強イメージ、格好いいイメージ強く結びついてい
るのでしょうかねえ。




【7】真田の家紋
1)六文銭紋(六連銭紋・六紋連銭紋)
 @海野弥太郎が使用説
  鎌倉時代 蒙古襲来
  真田氏の先祖の海野弥太郎が使用した・
  「蒙古襲来絵詞」に旗印の六文銭が描かれている。
A真田幸綱(幸隆)の金銭六枚説
  武田信玄から戦功で金銭六枚を賜ったので紋にした。
B真田昌幸の雁金から六文銭変更説
「死を覚悟して出陣・知略を尽くす」
相続したときから・・・
 C真田昌幸の真田幸繁の初陣説。
 真田幸村の「六文銭(六連銭)」が文献にみえるのは、
 真田昌幸の真田幸繁の初陣からである。



真田氏が用いた連銭紋は一文銭を三個ずつ横二列に並べた紋。
★本当は永楽通宝の宋銭・明銭だったのであろう。
 ○○○
 ○○○
 合計六個の銭は六道(地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天上)の
 衆生を救うため三途の川を渡る渡船料を意味する。
 真田氏は戦時に「六文銭」に用いた。
 真田氏&矢沢氏が「六文銭」を使っている。
真田幸綱(幸隆)の弟は矢沢頼綱(綱頼)であった。
矢沢三十郎頼康(真田丸では頼幸)は真田信綱や真田昌幸の
従兄弟である。
大坂の役では真田信之の代わりに出陣した子:信吉、信政
を補佐した。松代藩でも筆頭家老であった。1560石?
 最近では、真田詣でをする方達の間で、
 真田ゆかりの長国寺などでは「5円玉を
○○○
 ○○○
を並べるのが密かなブームになっている。

2)結び雁金紋
渡り鳥の雁=マガンのカリは鳴き声→雁が(の)音(雁金)から
発生している。雁の両羽を円形に捻じった紋を結び雁金紋という・
 雁紋の典型型である。
 真田氏は結び雁金紋は平時に用いた。
真田氏は次第に六文銭の使用が増えたため、「結び雁金」は
 使われなくなった。
 伊達家:片倉?真田?が松代藩主にあったとき、真田の「六文銭」
をしていた者はいたので声をかけたというエピソードが
 あるが、仙台真田家は六文銭ではないようだ。


3)州浜紋
真田家は 州浜紋も用いた。
州浜は河口の▲州の形から来ている。めでたい紋とされる。


4)割州浜(わりすはま)
 真田氏が使用した。


【8】真田幸村は大坂の陣で六文銭を使用しなかった?
武具を全て赤一色で統一する「赤備え」で決戦に望んだ。
   しかし、目立つところには真田の家紋は使わなかったと
  いう。
1)「六文銭」の赤旗
  真田丸には 真っ赤な六文銭の旗が林立してひるがえった。
  真っ赤な丘を見るように美しかったとイメージが広がる。
  そして、真田幸村は大坂夏の陣では死出の旅路の「六文銭」を
  押し立て、まっしぐらに徳川家康の本陣めがけて斬り込んで
  行った。徳川家康を窮地に追い込んだ。旗本たちが徳川家康を
  守りながらほうほうの呈で逃れた。と語られる。
  映画「真田十勇士」もそうであった。でも、鉄砲で逆襲された。

※真田幸村が大坂の陣の時に六文銭の旗を掲げて家康の本陣へ突
 入していったと思われているが、小説やテレビドラマなどの影響
  である。
 
  真田幸村は「大阪の陣」で六文銭を使用しなかった?
   できなかった!?
  真田幸村が徳川方の兄:真田信之(信幸)に対して気遣った。
  真田幸村が使った旗印は「総赤に金線」「赤一色の無地の旗指物
  (はたさしもの)」であったと言われている。
  冬の陣の和睦後、真田幸村は真田信吉・信政にあった。
 豊臣方の毛利勝永隊 VS 本多忠政・忠朝隊激(含真田信吉・信政)
  毛利勝永隊が敗れて退却した。
  真田幸村と真田信之の子が内通していると思われないように、
  「六文銭」を使わなかったと言われている。

【9】真田の「赤備え」
  武田氏の流れを汲む者であることを意識した。
真田丸でも、「堀田が真田安房守様は義に厚いお方であった。
 ・・・武田信玄公を裏切らなかった。」
 飯富虎昌→永禄10年(1570)弟(甥説):山県昌景が引継ぎ、
赤備えも継承した。
  小幡信貞、浅利信種の赤備えとして編成された。
  総勢1000騎であった。
 武田の赤備えが強かったため、「赤備え隊=精鋭最強部隊」
 というイメージが諸大名の間で恐れられた。
・天正10年(1582)武田氏滅亡の折り、井伊直政が赤備えの
  山県昌景配下:三科・広瀬・孕石・早川など75騎を配下と
  した。(★新編高崎市史)徳川精鋭部隊となった。
  真田幸村も赤備え(辰砂)採用した。


◆参考資料等
真田幸村 伝説になった英雄の実像・山村 竜也著 (PHP新書)
アマゾン32円

◆参考サイト
 出典:真田氏家紋(六文銭など)
rokumonsen.com/http://www.rokumonsen.com/source-of-future/sanada-db/s-kamon/



★明日は暇があったら・・・忙しくて・・・

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
箕輪初心:生方▲湯灌・納棺の「六文銭?」&真田丸135真田の「六文銭」 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる