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zoom RSS 箕輪初心:生方▲真田丸134「戦国真田の岩櫃城跡探検隊第14弾」:古谷地区

<<   作成日時 : 2016/12/11 13:00   >>

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平成28年(2016)11月27日(日)に「戦国真田の岩櫃城跡探検隊
第14弾」があった。潜龍院跡での鷹匠の実演&解説の後、昼食。
午後、二本松泰子先生講演会「真田信之と鷹狩り」があり、
14:00 古谷地区の散策に出かけた。
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日にち:平成28年11月27日(日)
09:30集合場所:岩櫃山古谷登山口駐車場(古谷集会所)
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群馬県吾妻郡東吾妻町大字郷原912-4
参加対象:100名
     参加費:2,000円(昼食、傷害保険)
   服装:寒い季節のフィールドワークに耐えられる服装。

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  主催:地域おこしグループ・あざみの会(会長 山ア 公一)
  共催:東吾妻町観光協会
10:00 :潜龍院跡(群馬県吾妻郡東吾妻町大字郷原古谷地内)
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10:30 開会式
10:45 放鷹実技
解説:二本松康弘先生
12:00 昼食

箕輪初心:生方▲真田丸130【潜龍院跡で放鷹実験】&二本松先生【真田信之と鷹狩り】
http://53922401.at.webry.info/201612/article_12.html

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13:00 A 岩櫃山登山
B 郷原城跡・櫃の口・但馬屋敷
15:30 解散
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お申し込み・お問い合わせは・・・
東吾妻町観光協会(п@0279-70-2110)

変更
13:20 二本松泰子先生講演会「真田信之と鷹狩り」
14:00 古谷地区の散策

1)潜龍院跡
天正10年(1582) 真田昌幸は、織田・徳川連合軍に攻め立てられて
いた武田勝頼を岩櫃城に迎え入れようと、岩櫃山の南面に迎えるための
御殿(潜龍院跡)を築造した。
3月11日、武田勝頼は天目山の手前「景徳院」で自刃した。
 武田勝頼が吾妻に赴いていたならば、岩櫃城の歴史は変わって、
 大きな戦死者が出ていたであろう。

真田昌幸を「真田丸」では、「信玄公に義に厚かった。」と評価して
 いる。
 1月、真田昌幸は白井城代:上杉憲重に北条氏邦経由で、真田が北条に
  臣従する算段をしている。
 2月? 真田昌幸は八王子城にした北条家臣:垪和伯耆守康忠(後、
  箕輪城代)に娘の「帯解きの義」を依頼した。
   (★山梨、石原家文書)
 


1)密岩神社
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・祢津光儀さん解説
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・永禄6年(1563)、武田信玄は上州侵略のため、重臣:真田幸綱に
 岩櫃城攻略を命じた。岩櫃城主は斎藤基国(憲広)であった。
 堅城を利して奮戦したが、ついに落城してしまった。岩櫃城は
 真田氏の手中に落ちた。上杉輝虎の応援を頼んだ。嶽山城では
 池田佐渡守が裏切った。(真田からすると味方に付けた。)武
 田信玄は真田幸綱(幸隆)に吾妻郡の守護を命じた。天正2年
 (1574)真田幸綱(幸隆)が砥石城で世を去った。岩櫃城主には
 長子:真田信綱が入城したが、天正3年(1575) 長篠の戦いで
真田信綱、差名馬昌輝兄弟が戦死したため、真田家は3男、武藤
 喜兵衛尉が真田姓に複製し、真田昌幸が相続した。
死んだのは1本杉の袂
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根津あざみの会事務局長・密岩神社の案内板
「岩櫃城主:斎藤基国は真田幸隆に攻められ、奥方、若姫君と城から逃
 れるが離散。懐妊していた奥方は、岩櫃山中の洞穴で子を産んで育て
 た。夫基国を慕う奥方は子を里人に託し、夫を探す旅に出たが会うこ
 と叶わず、洞穴に戻って亡くなった。奥方を哀れに思った里人は、
 密岩権現として洞穴(奥宮)に祀った。
 近年、奥宮は落石のため参拝できなくなった(崩れた)ので、この
 地に里宮が建てられた。・・・とのこと。
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・忍の乱
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3)桜の銘木
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エドヒガンザクラの巨木で、高さ18m、幹周り7.4m、根本
   回りは10.9m。推定樹齢は300年以上・・・・。

4)海野幸光の建立した寺院跡
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・永禄6年(1563) 羽尾幸全(ゆきまさ)の弟:海野幸光・輝
 光兄弟は岩櫃城と岩下城主齋藤越前入道憲広に仕えていたが、
 真田幸綱(幸隆)の調略によって上杉方から武田方に転じた。
  その後、真田昌幸は海野長門守幸光を岩櫃城代となった。
 岩櫃城の殿城に住んだ。真田幸綱(羽尾幸全の娘が2号さん)
 は同族:吾妻郡の土豪を同心衆から遠ざけた。羽根尾城も取り上
 げられ、吾妻郡での海野一族の勢力拡大を防ぐのが目的だった。
・天正9年(1581)
海野長門守幸光・能登守輝幸兄弟は秘かに武田・真田氏に対して
 逆心を企てるが、鎌原幸重・湯本三太夫らによって察知された。
 11月上旬に、謀叛が発覚し、真田昌幸に報告された。
 の真田昌幸に報告された。真田昌幸は驚愕し、叔父:矢沢頼網(綱
 頼)に相談した。矢沢頼網(綱頼)は、「海野兄弟が北条氏と結べ
 ば由々しき事態を招くであろうし、真田氏を打倒しようと密謀に及
 んだからには早く誅罰すべきである。。海野輝幸の子:幸貞は自分
 の娘婿であり、孫も3人いて不憫だが仕方がない。・・・(後略。)」
 と呟いた。
 真田昌幸は武田勝頼に相談して「誅殺やむなし。」との回答を得る
 と、直ちに海野兄弟誅殺を実行に移した。
・・・略・・・・・・
(★「加沢記」脇屋真一訳)


5)東吾妻の「榛名神社」
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