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zoom RSS 箕輪初心:生方▲群馬『彦部家の歴史:飛鳥時代〜戦国時代』

<<   作成日時 : 2016/12/01 11:52   >>

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彦部氏は天武天皇の第一皇子高市親王の後裔高階氏を本姓とする。
高階氏の嫡流は高氏を名乗り、南北朝時代、足利尊氏の執事とし
て活躍した高師泰・師直兄弟を輩出した。彦部氏は高氏の庶流で
あるが、高氏とともに足利氏の重臣として仕えた。現当主は40代
彦部篤夫氏である。当主大学院同窓生:裄V佳雄先生にいただ
いた「彦部家系図」を使用させていただきました。
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箕輪初心:生方▲城873「彦部家住宅」国重要文化財
http://53922401.at.webry.info/201611/article_24.html





11/23(水)文化フォーラム1 
中世彦部氏の武士像(13:00〜16:30)
・基調講演:
@「武士勢力の変換」山本隆志先生(筑波大学名誉教授)
A「南北朝〜室町期の彦部氏」亀田俊和先生(京都大非常勤講師)
・話題提供講演
B「平安末期〜鎌倉期の足利氏」須藤聡先生(太田東高校教諭)
C「戦国時代の武士と地域とネットワーク」青木裕美先生(県立文書館)
・パネルディスカッション
 司会は梁瀬大輔氏・・・パネラー4人


【1】飛鳥時代
彦部家の祖は家伝の「高階朝臣家譜」によると、天武天皇の第一子:
高市親王となっている。
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●初代:高市親王
・645年 天智天皇の大化の改新
・天武天皇元年(672) 6月24日〜7月23日、壬申の乱
  高市親王は戦功を立てた。
・673年 飛鳥浄御原宮で天武天皇が即位した。
・持統朝には天皇に継ぐ地位 の太政大臣にまで上った。
・696年 初代:高市親王が死んだ。  
「万葉集」での遠祖の歌
「皇(おおきみ)は 神にしませば 水鳥の
   すだく水沼を 皇都(みやこ)となしつ 」
●2代:長屋王
・天平元年(729)聖武天皇の皇后:藤原不比等の娘:光明子
 長屋王の変
  天智天皇の子:2代長屋王は、藤原氏の奸計(かんけい)に
  あって?業の自害した。

●3代:桑田王
●4代:礒部王
●5代:岩見王

 

【2】奈良時代
●6代:峯緒
・承和11年(844) 大宝律令に従って7代目で臣籍降下
  「高階姓」となった。「高階真人」となった。
  最高位であった。

【3】平安時代
●7代:高階令範 ・・・渤海国使
●8代:高階茂範 ・・・渤海国使
●9代:高階師尚
  「伊勢物語」にも記された在原業平と斎宮恬子との不義の第2子
  で高階茂範の養子になった。
   高階一族の孫娘:定子が一条天皇の中宮に入って「枕草子」
  の世界にもかかわってくる。

●10代:高階良臣
●11代:高階敏忠
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・正暦2年(991)朝臣姓に格下げになった。
●12代:高階業遠
●13代:高階成佐
平安時代後期、時は武士の時代に移った。

●14代:高階惟章 (1053〜1107)
・応徳3年(1086) 高階家第14代河内守惟章は下野国那須
 大領職の武士として下野に下向した。
 佐久山館(栃木県太田原市)に下向し、統治した。
 ※高階氏が東国と関係をもったはじめである。
 2女を設けた。

●15代:高階惟頼(1089〜1140) 
 :高階惟章の娘:長女が奥州討伐(後3年の役)帰国途中の
  源義家が胤を宿した。
・寛治4年(1090) 源義家との間に惟頼が生まれた。
  「尊卑分脈」義家4男。  
 男子のなかった高階惟章は源八幡太郎義家と娘との間に生ま
 れた源惟頼を養子として家を譲った。
 源惟頼が高階姓を継いだ。
 高階氏には清和源氏嫡流の血脈が入り、清和源氏と関係を深める
 きっかけとなった。
 

・康和4年(1102)高階惟頼は奥州菊多郡に検断職を命ぜられ、
  磐城(いわき:勿来市)に赴任した。
(★高階系図)
  以後、陸奥に住した高階惟長は足利義兼に仕えた。

●16代:高階惟真
 高階惟重は奥州合戦、承久の乱に活躍した。
@高階惟重の流れが高階氏の嫡流で、のちに高氏を称した。
A高階惟重の弟:高階惟光の流れが彦部氏となった。
 
高階惟真は上野国の秀郷流足利俊綱に殺された。
 
●17代:大高(高階)惟範
  高階惟頼の孫:惟範は幼少であったため、那須家で育てられた。

●18代:大高(高階)惟長→窪田惟長
源頼朝から志夫郡が与えれた。大高館に住んだ。

●19代:大高惟光
●20代:窪田惟貞

============================
●21代:彦部家初代:彦部光朝 (1216〜77)
 窪田光朝は奥州斯波郡彦部郷に移った。
   領有して土地名をもって「彦部姓」を名乗った。
  彦部光朝は斯波氏に仕えた。
高階惟重の孫光朝が菊多郡彦部郷(紫波郡彦部郷説あり、
 に住して彦部を名字としたのである。

●22代:彦部家第2代:彦部光継(1247〜1316)
  嫡男:彦部光継は 鎌倉幕府の招きに応じて一族を
 彦部に残して出府した。
 彦部光継は、鎌倉幕府の招きに応じ幕府昵近(じっきん)衆
 となり、以後、彦部氏は鎌倉に住した。
・鎌倉時代末期には、彦部氏&同族「高氏」は足利高氏の被官と
  なった。
 彦部光貞は足利高氏の「高」を貰って、光高になった。

・元弘元年(1331) 元弘の乱
  後醍醐天皇を中心とした勢力による鎌倉幕府討幕運動が起こった。
  元弘の乱に際して、・光高・秀貞は足利高氏(尊氏)
  に従って上洛した。
   足利尊氏の幕命に従い西上するのに彦部:光継の嫡男:光高
   も同行し上京した。 
  以後、南北朝の争乱に際して足利尊氏に従って活躍した。
 死後、鎌倉五山の一つ浄妙寺に葬られた。
●23代:彦部家第3代:彦部秀貞

●24代:彦部家第4代:彦部光高(1289〜1336)
・南北朝時代
 足利尊氏が九州で再起した
・延元元年(1336) ▲湊川の戦い
  足利尊氏は九州から東上して楠木正成、新田義貞軍を湊川
 で打ち破った。
 彦部光高は足利尊氏軍の一員として湊川で討死した。


●25代:彦部家第5代彦部光春(1317〜55)
・正慶2年(1332)  彦部光春は室町幕府成立と共に重用され、
以降代々将軍の直臣として仕えることとなった。
六波羅討伐に16歳で参加した。

・観応元年(1351)観応の擾乱
 足利直義(「ただよし」)に出陣要請を受けた。
  ▲竹之下の戦い
先陣として7人を討った。
足利直義から感状を受けた。
・文和4年(1355) 38歳で死去。
 
 
※彦部光春の弟:彦部秀通系は足利尊氏に仕えた。
子の彦部直春は初代鎌倉公方:足利基氏に仕え、上野国
  勢多郡内の地頭職になった。
  彦部秀通→直春→通春→通定→師信→宗信→信親→師光→秀昌
  彦部師光は広沢の加賀屋敷に住んだ。

●25代:彦部家第6代彦部松法師丸
3歳で家督を継ぎ、三河国額田郷内の地頭職になった。
・貞治5年(1367) 14歳で死亡。

●26代:彦部家第7代:彦部忠春(1354〜1435) 
・永和4年(1378) 彦部忠春(光春)の打渡状が伝えられた。
 第3代将軍:足利義満に仕えた。
・元中9年/明徳3年(1392) 南北朝統一を成し遂げた。
・応永4年(1397)  彦部忠春は金閣寺造営の作事奉行を勤めた。
  従5位の下、伊豆守になった。
・応永7年(1400)  足利義満が出家して受戒すると、彦部忠春も
落髪受戒した。
 足利義満と共に京都北山第に閑居した(伝)。
・永享6年(1435)彦部忠春は81才の生涯を終えた。
  死後、鹿苑寺塔頭龍華院が建てられ開基となった。


●27代:彦部家第8代:彦部教春
彦部教春は足利義教から「教」の字を賜った。
・永享12年(1440) 結城の合戦
・嘉吉元年(1441) 赤松満祐は足利義教を自邸で殺害した。
彦部教春も一緒に殺害された。
・嘉吉3年(1443) 嘉吉の乱
  南朝の遺臣や日野一族が御所に乱入し南朝皇族の通蔵主・金蔵主
兄弟をかついで神璽・宝剣を一時奪還する禁闕の変が起きた。
  宝剣はすぐに幕府の手で取り戻されたが、神璽は後南朝に持ち去
  られたままになる。

●28代:彦部家第9代:彦部賢直 
文安・永享の番帳
  三河国額田郷内の地頭職・・・番帳が残っている。

●29代:彦部家第10代:彦部国直
  近衛関白政家&足利義政の娘・・・ 
 彦部国直の妻は近衛関白政家の娘であった。
  近衛政家の室は足利家第8代義政の姫であって
  ※彦部家は近衛関白家並びに足利将軍家と結びつくことになる。
  (★彦部家系図) 
  彦部国直の後妻は近衛政家の女である。
  彦部晴直・彦部輝信の兄弟をもうけた。
   長享・明応番帳など彦部国直が三河との関係を持っていた。
しかし、幕府権力の衰退とともに三河との関係は次第に断絶
  していったようである。
 (★岡崎市史・・・武家家伝Hpより)

===戦国時代=====================
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・応仁元年(1467)〜文明9年(1477)応仁の乱
約10年間にわたって継続した。
 8代将軍:足利義政の継嗣争い等複数の要因によって発生した。
  管領の細川勝元 VS 侍所所司の山名持豊(山名宗全)
有力守護大名が争い、九州一部などを除く全国に拡大した。
応仁の乱を契機として、戦国時代へと移っていった。
  9代将軍:足利義材は管領細川政元によって追放され流浪の
  身となった。
下剋上の嵐の中で、幕府権力・守護大名は大きく衰退した。
    

●29代:彦部家第11代:彦部晴直(1507〜65)
 彦部晴直の母は近衛関白政家の娘である。足利義政の外孫である。
足利家第10代義稙・第11代義澄・第12代義晴・第13代義輝
 の4代の将軍に仕えた。
 ・彦部稙直から彦部晴直になった。
 
・天文5年(1536)彦部晴直は武田信虎の第12代:足利義晴の
取次をした。武田勝千代は15歳の時、「武田晴信」となった。
武田信虎は黒馬一頭・兼本銘の刀一腰を彦部晴直に送った。

・天文15年(1546)足利義輝が元服。
  彦部晴直は、朝廷の使い番をした。
  従五位下となった。
やがて従四位下、雅樂守になった。

・天文17年(1546)?「仁田山紬文書」(彦部家文書)
「仁田山紬を10疋調達してほしい。」
足利義輝のお妾から彦部晴直宛の文書
*彦部篤夫氏説・・・彦部家傍系の彦部加賀守師光は
 桐生広沢郷竹ヶ岡の加賀屋敷にいたからであろう。

・天文19年(1550)足利義晴が死去。
  第13代:足利義輝となった。
彦部晴直は、将軍義輝の申次衆として晴直朝廷・寺社の
  使い番をした。
彦部晴直は関東に下向し、北条氏康・里見義尭から
馬・太刀・小袖などを送られた。

  番衆に彦部輝信がみえる。
   彦部氏が将軍側近として行動していた。

  足利義輝は細川氏、三好氏らの下剋上により近江国朽木に流浪
  することが長かった。

●30代:彦部家第12代:彦部輝信
彦部晴直の長男:彦部輝信
彦部晴直の2男:彦部信勝

・永禄2年(1559) 長尾景虎(上杉謙信)は近衛前嗣に謁見した。

・永禄3年(1560)
8月 長野景虎が上杉憲政を奉じて関東に出陣しうた

9月 近衛前嗣が越後の長尾景虎のもとに下向した。
 彦部晴直の子:信勝が同道した。
 近衛前嗣も同陣し、彦部信勝も前嗣に従った。

彦部信勝は桐生広沢郷竹ヶ岡の加賀屋敷を頼った。
  奉者を務めた。
*彦部信勝の妻は桐生彦部加賀守師光の娘である

 近衛前嗣親子・彦部信勝は桐生城に入った。
近衛前嗣親子の桐生城の滞在期間は不明である。
彦部信勝は金山城主:由良成繁から桐生千疋を貰って、
在住し、由良の家臣になった。
由良成繁は太田〜桐生〜大胡一帯を支配していた。
★上杉政虎に任されたといってよいであろう


・永禄5年(1562) 関東下向した近衛前嗣は桐生城に入った。
 のち、古河城・宇都宮城を回ってから京へと帰って行った。
彦部信勝は関東に残る道を選んだ。
 以後、彦部氏は桐生広沢に土着した。

*彦部篤夫氏説「彦部信勝桐生滞在理由」
 @近衛前嗣・父:彦部晴直から関東の情勢を探るように命じら
  れたのであろう。
 A近衛前嗣は古河城・宇都宮城に行っている。・・・
古河公方足利高基の次男→関東管領になった上杉憲寛は
5年程で上杉憲政に家督を譲った。上杉憲寛の子:上杉
憲当は「榎木上杉氏」(★おそらく安中の榎下城)を名乗
っていた。その名跡を彦部信勝に譲るというものであった。
彦部信勝は「榎下猿次郎」(「上杉信勝」)を名乗ったことも
ある。
(★彦部家文書)

  足利義輝は三好長慶と和睦した。
  追い出されていた足利義輝は京に帰った。

・永禄7年(1564)三好長慶が病死した。

・永禄8年(1565) 三好の乱
  松永久秀・三好三人衆によって足利義輝が暗殺されてしまった。
  彦部晴直・輝信は奮戦したが彦部雅楽頭晴直、兄:彦部輝信が
  戦死した。ここに、彦部氏の嫡流は断絶となった。しかし、
桐生広沢にいた彦部雅楽頭晴直の2男:彦部信勝が跡を継いだ。
  以後彦部家は広沢の地で継がれていく。

・天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原城攻撃
 由良氏は桐生・太田から牛久に移動した。
 彦部信勝は由良氏の家臣ではなかったので、所領は安堵された。


・慶長5年(1600) 関ヶ原の合戦
彦部屋敷から竹竿380本を、旗絹とともに献納、それによって
 桐生領54ヶ村は賦役御免になったという。


彦部氏はやっと流浪の歴史に幕を閉じ「桐生広沢」に定住したので
ある。


★明日は?

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コメント(3件)

内 容 ニックネーム/日時
お世話になります
>>
古河公方足利高基の次男→関東管領になった上杉憲寛は5年程で上杉憲政に家督を譲った。上杉憲寛の子:上杉憲当(憲政)は「榎木上杉氏」(★おそらく安中の榎下城)を名乗
っていた。その名跡を彦部信勝に譲るというものであった。
彦部信勝は「榎下猿次郎」(「上杉信勝」)を名乗ったこともある。 (★彦部家文書)
>>
これは関東享禄の内乱に関する新情報ですね!なるほど安中氏の下に憲政はあったのですね。
棟治
2016/12/01 22:29
上杉憲房の養子:上杉憲寛の子が上杉憲当。上杉憲房の56歳の時の実子は上杉憲政です。上杉憲当は榎下上杉氏ということになるので、関東享禄の内乱の時、安中原市の榎下にいたことになるでしょう。安中氏と敵対しかのかもしれません。
棟治様
2016/12/02 11:20
ややこしいですね
憲政も憲当(のりまさ)を名乗った時期がありますんで非常に勘違いしやすいですね。てことは、憲寛の実子:憲当と安中氏は所領が接していたので、何らかの争いに発展した。これに呼応して父親の憲寛が、長野氏と共に出陣したって筋書きかもしれないですね。 ではまた
棟治
2016/12/02 18:08

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