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zoom RSS 箕輪初心:生方▲箕輪城217【厩橋長野氏】&前橋【橋林寺】&カレー【BABA前橋岩神町店】

<<   作成日時 : 2016/11/04 19:38   >>

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長野氏は、@鷹留城高崎市室田町)を本拠とした鷹留長野氏(室田
長野氏)、A箕輪城(高崎市箕郷町)を本拠にした箕輪長野氏・
厩橋城(前橋市の現群馬県庁)を本拠とした厩橋長野氏、大胡
城(前橋市大胡町)を本拠とした大胡長野氏がいる。今日は厩橋
長野氏と「橋林寺」について考える。★私は箕輪城築城1474年
以前説を採っている。箕郷の東向八幡神社・長野氏菩提寺:石
上寺の石撞が1474年で・・・住居より寺を先に立てる人間は
まずいないからである。文書がなくとも寺・石撞が語っている。
厩橋宮内大夫の一族は厩橋城を築き、総社の長尾氏と対抗した。
厩橋長野氏は、『前橋風土記』は初代:固山宗賢(長野左衛門尉)、
2代長野道安、3代長野道賢、4代長野賢忠としている。
『戦国期上野長野氏の動向』黒田基樹著は、初代:長野左衛門尉
為業、2代顕業(聖仲):厩橋を本拠地、3代長野賢忠としている。
そして、長野賢忠の弟:長野方業は箕輪長野憲業の養子になって、
生まれた子が長野業正だった。厩橋長野氏菩提寺【橋林寺】&
カレーショップ【BABA】前橋岩神町店をセットにしてみた。
画像



【1】 厩橋長野氏の歴史

・嘉吉元年(1441) 結城合戦
「長野周防守、同名宮内少輔相討頸、不知名字」
「田賀谷彦太郎頸、白井五郎頸、彼二、長野左馬介取之、
 諏訪但馬守分捕頸、不知名字」
(★『結城合戦記』)
  厩橋長野賢忠が宮内大輔を名乗っている。
長野周防守・同宮内少輔首級1つ、
長野左馬助首級2つを挙げる。
(★鎌倉持氏記)
※群馬県埋文の飯森康広氏「長野周防守・同宮内少輔
  は、厩橋系の創始者ではないか?」
★箕輪初心「宮内少輔系が厩橋系と認識していた。」

・文明3年(1471) 享徳の乱
    長野左衛門尉、上杉顕定の注進により、
    将軍(足利):義政から感状ををもらう。
    (★御内書符案)


・文明7年(1475) 厩橋城主:長尾左衛門景信が厩橋城の金井曲輪
  に建てた。現前橋市立図書館北。
(★『橋林寺由緒沿革』)

・文明9年(1477) 1月28日 橋林寺建てられた。
   沼田の迦葉山弥勒寺の玉岑慶珠(ぎょくしんけいじゅ)和尚
   が招かれて開山した。
   青松山本橋院・高竹院と呼ばれた。
 
   厩橋城は築城ともいわれる。

・文明9年(1477) 長尾景春の乱
  5月7日、武蔵針谷原の戦い
   山内・扇谷両上杉 VS 長尾景春+古河公方
   長野為兼が上州一揆旗頭として長尾景春方として討死した。

▲飯森康弘説・・・長野為兼は長野為業説「誤記」

 
・文明9年(1477) 長尾弾正忠景入道宗賢が石倉城を築いた。
  延徳元年に病死したという伝説がある。
 (★「上毛伝説雑記」)
 ▲黒田基樹説
  長野為業が石倉城を築城したが、利根川の変流に
 より厩橋城へ移ったとしている。
黒田基樹説ついて「青柳棟治氏=箕輪棟治氏」は、
  @長野左衛門尉為業は厩橋長野氏か。
  A石倉城は長野氏が築城したのか。
  B利根川の変流の原因は石倉城の改築によるのか。
  以上の3点を疑問視している。
 @については
  「左衛門尉」という官途名は、箕輪長野氏の主家が使用した
   事例が多い。
  長野左衛門督憲業→養子:箕輪長野左衛門大夫方業→箕輪長野
   左衛門尉業正→長野左衛門大夫氏業に比定される。
  したがって、長野為業を厩橋長野氏とするのは異例である
   としている。
   
  厩橋城主:長野弾正忠の 橋林寺への寄進状もあった。
   (★『前橋風土記』貞享元年(1684)に書かれた。)

  橋林寺(前橋市住吉町)は古文書を所有していたが、
  江戸時代の火災で焼失した。


・延徳元年(1489) 厩橋長野氏が厩橋城に入った。
長野為業が石倉城から厩橋城に入った説(黒田基樹説)

 初代城主:法名固山宗賢=長野左衛門尉方業説。
(★今井善一郎の研究1965)
 長野方業の没年は延徳元年となる。

 しかし、「長野方業」の今井氏の説では不都合が生じて
 しまう。2人いることにもなる。
 



・永正元年(1504) 立河原の戦い
長野孫六郎房兼が上杉顕定方で参加し戦死した。
 ※長野房兼・為兼は現存する18系譜・系図にはない。
  血縁関係は不詳である。
  また、「兼」の字を長野氏の通字である「業」の誤記・誤読
  として、長野房業・為業とする説もある。
  (為業・房業説:飯森康弘説など)
★私は6年前は「業」系統・「兼」系統の2系統と考えていたが
「業」の誤記と捉えたい。

  戦国時代、上野国は関東管領の山内上杉顕定の領国であり、
  守護代の長尾氏は白井長尾氏、総社長尾氏)の本拠地として
  いた。
  長野氏は上杉氏の下で上野国西部の豪族を取りまとめて「箕輪衆」
  を結成し、上杉顕定・長尾氏に仕えていた。
長野房兼・為兼の没後、長野氏の勢力は一時後退した。
  
  長野業尚・長野憲業は箕輪城を築城した、
  上杉氏と長尾氏が享徳の乱・長享の乱や長尾景春の乱などで衰退
  するのと対照的に勢力を拡大させた。

・永正3年(1507)長野賢忠が橋林寺に寺領寄進
 
@室田長年寺長野氏系図
   長野業尚の長男:長野憲業・次男長野方業とある。
A箕輪極楽院長野氏系図
長野業尚の長男:長野憲業・次男:長野信業
   3男:長野方業とある。
乙業・・・尚業・・・長男:憲業・・(養子:業氏)
            次男:信業・・業氏・・業通・・業康
       業固
            3男:方業・・業政・吉業
                       業盛・・・亀寿・・・
     直業・・・勝業
※信業の子が長男:業氏・次男:業政・3男:直業

@長野乙業・・・(伊勢より来て)長野郷下箕輪在住。来迎寺に埋葬
A長野尚業・・・鷹留城築城。長年寺開基。文亀3年2月20日卒。
B長野憲業・・・伊予守。鷹留城在住。
    永正9年箕輪城築城本城とす。同11年吾妻で討ち死に。
C長野信業・・・信濃守。弾正忠。憲業の後、箕輪城在城。
        長純寺開基
※近藤義雄先生「憲業=信業説」
※黒田基樹先生「信業は存在しない説」
D長野方業・・・出羽守。
E長野業氏・・・三河守。憲業の養子。鷹留城在城。天文7年卒。

(★2016講演会2回「久保田順一先生)

また、長野左馬介に続く諏訪氏については、
・文亀元年(1501) 箕輪長野尚業の次男:憲業の弟が、
  諏訪明尚を名乗った。
   (★『曇英禅師語録』)
★箕輪初心:生方の調べでは、
「松枝西城:松井田西城:現金剛寺にいた。」
▲黒田基樹説・・・・・
従って、長野憲業の養子は厩橋長野方業・・・
で、子どもが長野業正となる。


▲黒田基樹説**************
  「左衛門尉」という官途名に着目し、
  厩橋初代:固山宗賢=長野為業とした
   (黒田基樹2011)
  今井氏の長昌寺記録での
  「固山宗賢=左衛門尉方業」説は
  「為」の字を「方」と誤記したためと説明する。
  長野為兼(業):飯森・黒田説)は文明9年(1477)に
  針谷原合戦で討ち死にした人物である
   (★松陰私語)。
▲黒田基樹説
  長野為業と固山宗賢との没年の違いは、
  延徳元年が13回忌に当たるための誤伝と考えた。

 長野周防守と長野宮内少輔が厩橋長野氏系統である? 
厩橋宮内大夫は厩橋長野氏一族とみられるが諸説ある。

・大永7年(1527) 頃、長野方業は一族の厩橋宮内大輔とともに
  東西から長尾顕景の総社城を攻めた。

 
  長野左衛門尉方業は箕輪城主と判明したのである。
  (★山田邦明2002)。

 ※長野左衛門大夫方斎は箕輪城主とみられていた。
 @『日本城郭大系』では箕輪城主の長野信業
 A『群馬新百科事典』(上毛新聞社、2008年)の
  「長野氏」(飯森康広著)では長野方業 
 B 『箕郷町誌』(箕郷町1975年)では長野信業(方斎)
 C『群馬県史 通史編3』では長野方業(方斎)
 D『戦国のコミュニケーション』(山田邦明著)  
   方斎は方業の誤読とする。
E黒田論文は
長野方斎は「方業」の誤読である。
 (★「徳雲軒性福条書写」:上杉家文書)
 
 ※大永7年の厩橋宮内大夫は誰か?
 @『日本城郭大系』は長野方業(方斎、賢忠)。
 A『箕郷町誌』:近藤義雄共著では長野方業
   『前橋市史』は天文10年(1541)にみえる賢忠
   『群馬県史』は宮内大夫を方業(方斎)の子かとした
     上で厩橋2代の道安。
  『箕輪城と長野氏』は道賢かと指摘する。
  黒田論文は長野賢忠で箕輪長野氏を継いだ長野方業の実兄
   (★ウィキペディア)
   厩橋東隣の大胡郷へ厩橋長野氏は進出し、大胡氏に代わって
   大胡を支配した。大胡氏を一族化した。
    ただし大胡の長野氏の名前は不明である。
(★『新編高崎市史』:梁瀬大輔先生・久保田順一先生など)

@久保田順一氏説=群馬県史&個人の著書など  
「長野長野左衛門尉為兼は長野為業である。」

A峰岸純夫氏の説・・「兼」→「業」への下克上説

B箕輪初心の説・・2年前に、分家説を公表
長野の「業」系=本流&長野の「為」系=分流説
★長野為兼は長尾方なので、分流だと考える。
 長野業尚は1477年広馬場の戦いで、長尾勢と
  対戦しているからである。

C群馬県埋文の飯森康広氏の説
 「長野左衛門尉は浜川の長野為業であろう。」
 榛名町の鷹留城の長野尚業(★業尚)の息子で
 浜川に在住したのであろう。
  (★飯森康広氏の箕輪城資料より)
★まさなり=なりまさ・・名前が逆になっている。これは、
 鷹留城主:長野尚業=長野業尚と同じようなものだと思った。
 飯森氏「いずれにせよ、いままで、長野方業(まさなり)は、
 厩橋城主で長野業政の叔父と考えられていたが、・・・・

●長野方業と長野業政
1)長野方業の存在を示す史料

★箕輪初心:生方の長野氏の系譜まとめ************
箕輪初心:生方▲箕輪城170【黒田基樹説を加味した長野氏の系譜】
http://53922401.at.webry.info/201510/article_2.html

■徳雲軒の文書2説
大永4年(1524)説&大永27年(1527) 説
・大永7年(大永4年)の箕輪にいる『長野方業』
『戦国のコミュニケーション』:山田邦明著(2002)で初めて
  紹介された『徳雲軒性福条書写:上杉文書』

▲久保田順一先生の以前の説明
A,大永4年(1524)「徳雲軒性福状」(上杉文書)・・・
※久保田先生・・・山田邦明(2002)が発見された文書
密書で10cm×15cm位の大きさ
総社城の徳雲軒=家老クラスが長野方業にあてた密書

「其夜可被仰付事」
「一、彼のくるわへ引入れ申時、らんはうの事、」
※久保田先生・・総社城の曲輪に引き入れ申す時、
乱暴はしないでくれ。

「一、其身討捕申時、おのおのたしなみの事、」
※久保田先生・・総社城の誰かの身を討捕し申す時、
各自、たしなみ=武器をきをつけてくれ。
つまり、夜なので、長い槍などは使えない。
「一、・・・・」
「一、・・・」
「一、まやはし殿御人数いそき東口へ火手あへさせ御申事、」
「一、西南之火手動、こなたのと同前ニさせられへき事、
さやうに御座なくしてはこなたのくるわへとりかけ
申へし、如件首尾あひ申候者、八まん大菩さつも御
照覧候へ、いたしそんたし申へし候、此外、行之様体之事者、
口上に申候、以上
 十二月二日(大永4年1224か?と久保田先生)
徳雲軒性福
箕輪へ参



B、「徳雲軒性福宛長野方業書状」(★群馬県史)
「御覚悟之旨玄ニ条々承候間、左衛門、四郎進退並其口所帯之儀、
 兎にも角にも任可申候段、以誓詞申候き、然而八木駿河入道所
 へ被載誓詞承候、先以落付申候、乍去於此上も、直二方業方へ
 以御誓詞承候者、邪以添?可存候、八幡大菩薩・春日大明神・
 石上布留大明神御照覧、誰にも不可令口 外候、至干其元者、
 可御心易候、御返事到来候上、即時二御陣へ罷出、御返事可申
 調候、  恐々敬白 」
 11月17日
           左衞門大夫方業(花押)
 徳雲軒 」

▲久保田順一先生*********************
長野左衛門大夫方業が惣社長尾氏の重臣:徳雲斎を調略した。
長野左衛門大夫方業が箕輪城主として文書を発給している。
   (★徳昌軒の文書)
 ところが、内応が発覚した徳雲斎は長尾顕景に殺害された。
 長野宮内大輔(賢忠か?)とともに惣社長尾家を攻め、追い詰め
 られた長尾顕景が既に上杉憲寛と和睦をしていた長尾為景の仲介
 で降伏した。
 ★なお、長尾景誠の妻は業正の姉とされているので、長野方業と
 長野業正が父子かもしれない。


▲飯森康広先生説*********************                  
@浜川・・・長野為兼=為業   
          ↓
A室田・・・   業尚=尚業→憲業・・・・・業氏?
                    ↓
B箕輪                方業=業政?→氏業

C厩橋:長野周防守?・宮内少輔→賢忠→・・・・・道賢

 飯森先生は長野為業は通説のとおり浜川(高崎市)を拠点と
 していたと考えている。
★しかし、箕輪初心:生方は箕輪城築城1474年以前説を採って
 いる。箕郷の東向八幡神社・長野氏菩提寺:石上寺の石撞が
 1474年であるから、住居より寺を先に立てる人間はまずいな
 いからである。文書がなくとも墓・石撞が語っている。


▲飯森康広説「長野方業=長野業政」
   ・・・あるいは業政の父である。」
  長野左衛門大夫方業=長野左衛門尉業正

飯森康広氏は「長野方業=長野業政であると思われます。」
と、言われた。
★まさなり=なりまさ・・名前が逆になっている。これは、
鷹留城主:長野尚業=長野業尚と同じようなものだと思った。
飯森氏「いずれにせよ、いままで、長野方業(まさなり)は、
厩橋城主で長野業政の叔父と考えられていましたが、
米沢の上杉家文書では、
@大永7年(1527)11月27日・・
 箕輪の長野左衞門太夫方業、総社長尾顕景・白井長尾景誠
 の排除を徳雲軒と謀る。
A大永7年(1527)12月16日・・ 
 箕輪の長野左衞門太夫方業、厩橋宮内大輔とともに総社城
 を攻めすすめる。  
B天文4年(1535)4月・・・飯森康広先生
 □(長野方業) 榛名神社に制札を出す。(榛名神社文書)
長野左衞門太夫方業は箕輪城に在城したことが、上記の
2文書から判明しました。」と飯森先生がおっしゃった。
つまり、長野方業=長野業政である。
★群馬県埋蔵文化財:飯森康広氏の考えである。


▲黒田基樹説
  箕輪長野憲業→養子・箕輪長野方業→子が長野業正 長野方業は厩橋長野氏から箕輪長野氏へ入った養子
   と考えている。
・享禄2年(1529)〜享禄4年(1531) 関東享禄の乱(黒田基樹説)


●享禄2年(1529)
●「正月二十四日 長尾八郎忌同族長尾景誠(かげのぶ)振権
   窺令矢野氏害之」
(★『続本朝通鑑』:久保田順一)
 1月24日 山内上杉家家臣:白井長尾景誠が長尾八郎に謀殺される
   (『続本朝通鑑』:黒田基樹)
● 「八月十四日 上杉憲寛、攻上州安中城、上杉朝興止之、
  憲寛不聴、而発兵。」
  (★『続本朝通鑑』:久保田順一)
 8月14日 上杉憲寛が上野国碓氷郡:安中城の安中氏討伐を開始
   した。同盟関係にあった扇ヶ谷上杉朝興からは制止されたが、
    これを無視した。
   (★『続本朝通鑑』黒田基樹)

● 「九月二十二日 上杉憲寛部下西氏・小幡氏等叛、立故管領憲房
  子憲政、時称竜若、継山内家、而破憲寛安中陣、憲寛移上州
  程田(★旧群馬町保渡田)陣、長野一族従之 」
(★『続本朝通鑑』:久保田順一)
9月22日 西氏と小幡氏が上杉憲政を擁立した。
   上杉憲寛に対して謀反を起こした。
 ・・・・山内上杉家の内紛が発生した。
  上杉憲寛による安中氏討伐の背景には、長野氏と安中氏の対立が  
  あったと考えられる。
(★『続本朝通鑑』黒田基樹)
  
  長野氏・高田氏が擁する上杉憲寛
      VS   安中城付近で交戦
  小幡氏・安中氏・藤田氏らが擁する上杉憲政

  上杉憲寛は長野方業を随行させながら、安中城から程田
  (高崎市保渡田)に後退した。
    (★『続本朝通鑑』) 

・享禄3年(1530) 5月 
「左衛門尉」(小幡)が上野国多胡郡仁叟寺(吉井町)に対して
 禁制を与えた。
  甘楽郡高田城(富岡市旧妙義町)周辺で合戦があった。
5月21日 上杉憲寛が高田憲頼の注進により、被官:守山与五郎の
  戦勲に対して感状を発給した。
10月25日 上杉憲寛が用土新三郎(業国)領の武蔵国男衾郡赤浜
  を被官:三富平六に与えた。

・享禄4年(1531)
9月3日 上杉憲政が関東管領を継ぎ、憲寛は上総国の宮原
(市原市)に退去して、晴直と名を改めた。
 (★黒田基樹著)

◆結果
1)古河公方家では足利晴氏が公方の地位を確立し、高基は隠棲。
2)山内上杉家では上杉憲政が家督を継ぎ、憲寛は敗れて上総宮原
  (市原市)にて隠棲。
結果:足利晴氏が古河公方、上杉憲政が関東管領の地位を確立した。
(★黒田基樹)

※箕輪長野方業が敗れている。
上杉憲寛方の諸氏は許された。

長野方業の後継者とみられる長野業正(★黒田基樹)
あるいは長野方業の娘を小幡憲重に嫁がせた。
その後、箕輪長野方業の養女になっていたとみられる沼田顕泰の娘を
安中重繁に嫁がせた。
さらに、安中重繁の娘を高田繁頼に嫁がせた。
これによって、和解が図られている。
◆参考文献
・『戦国関東の覇権戦争』黒田基樹著 
・『戦国北条氏五代』黒田基樹著 
・『戦国期山内上杉氏の研究』黒田基樹 
・『西上州の中世』:黒田基樹著:安中市ふるさと学習館
◆参考サイト
ウィキペディア

・享禄3年(1530)吾妻の戦い
  長野憲業 VS 大戸氏?
   長野憲業がで戦死
  (★みさとの歴史・箕郷町誌)  

●享禄4年(1531) 上杉憲政が関東管領となった。
「享禄四年(1531) 九月三日の条 
 山ノ内上杉憲政、憲広ニ代テ管領職ト成ル、憲広、晴直ト
 改ラル、宮原ノ祖ナリ」
(★『喜連川判鑑』:久保田順一)


●参戦武将・・・久保田順一著
@憲寛方・・・箕輪長野氏・白井長尾氏・惣社長尾氏
高田伊豆守・守山与五郎(★長野県の森山氏?)
三富平六・寺尾左京亮
沼田顕泰
A憲政方・・・安中氏・小幡顕高・用土新左衛門・西氏・
B中立・・・・扇谷上杉氏
C沼田氏・・・沼田顕泰は憲寛側、外の沼田一族は憲政側
D斎藤氏・・・内訌を利用して、吾妻を掌握した。

◆参戦武将・・・黒田基樹著
@勝者・・・
第4代古河公方:足利晴氏(下野宇都宮城)
第2代公方足利政氏、
足利基頼(高基の弟)
宇都宮興綱(下野宇都宮城)&芳賀次郎高綱?

山内上杉氏 :上杉憲政
安中氏:宮内少輔?(上野安中城)
小幡氏:小幡顕高?(上野国峰城)
藤田業繁
用土業国(武蔵国:用土城)
成田親泰(武蔵国:忍城)
里見義豊(安房国:)
上杉朝興(武蔵国:川越城)
小弓公方:足利義明

敗者側
第3代古河公方:足利高基(古河城)
小山小四郎(小山政長の嫡子)(下野小山城)
山内上杉氏 :上杉憲寛(古河公方家からの養子:高基の次男)
長野氏:長野方業?(上野箕輪城)
高田憲顕(上野高田城)
三富平六(子孫は赤城村)
(★黒田基樹氏)


●????年 長野業正は上杉憲政への帰参が叶った。

・天文3年(1534)石倉城築城時に低地帯を台地の東に流れて
いた利根川の本流の氾濫により流路を変え石倉城の水路
に流れ込み、本丸・二ノ丸などを崩壊させてしまった。
当時の城主長野賢忠(長野方業、法号・固山宗賢)が
残った三の丸を拠り所に再築した城が、後に厩橋城と
 呼ばれるようになったという(伝)。
     (★ウキペディア)

※関八州古戦録「石倉砦の争奪」では、
蒼海城の長尾忠房が用水路:久留間川を利根川から
引き、9年かかって石倉城を建設した。完成は長尾景道
の時であった。しかし、洪水で本丸・二ノ丸が崩壊。
三の丸を利用し、長尾景道の孫:長尾景忠=賢忠が
厩橋城を造り直した。


★しかし、ウキペディアの説では、石倉城が300mも
あり、現在の利根川の両岸の高さが同じ位ということから
考え、県庁が三の丸という説は無理があると思われる。
 従って、あるとすれば、久留間川=現利根川を挟んで2つの
 石倉砦のような砦が存在したことになる。約300mも
 離れているので、あり得る考えになるとは思う。




・天文10年(1541) 厩橋城主長野賢忠は、深谷上杉憲賢・那波宗俊
・成田親泰・佐野昌綱とともに金山城主横瀬泰繁を攻めて敗退
した。
長野業正は信濃から逃げて来ていた真田幸綱の領土を復活さ
せるべく、上杉憲政の命令で佐久に侵攻した。諏訪頼重に
和議を結んだが、上野の非常事態で、帰ってきたしまった。
 @長野賢忠は横瀬氏攻撃後ほどなく没した説(黒田説)。
長野い道安―道賢―彦九郎(彦太郎・藤九郎はともに
   彦九郎の誤記・誤伝とする)と継承された。
(黒田基樹説)

・永禄3年(1560) 長尾景虎の第1次関東出兵
  長野賢忠の子・彦太郎は馬で景虎を驚かせて
   陣中で誅殺されたという。
   A長野賢忠もすぐ没した説。
   長野彦太郎の伯父は大胡を領していたが共に殺された。

・永禄4年(1561) 『関東幕注文』
  「厩橋衆」として長野藤九郎・彦七郎がみえる。
▲黒田基樹説
 「厩橋衆」所属の国人が他より少なすぎるため、上杉謙信の上野
  進攻時に厩橋長野氏が後北条方につき上杉の攻撃を受けて降伏
  し、衆が解体された。
  その後、厩橋長野氏・大胡長野氏は上杉憲虎(上杉謙信)に
  より厩橋城を没収され没落した。



大江氏族北条高広が厩橋城に入城した。
北条高広は秀郷流大江氏族那波宗?に娘を嫁がせた。


 

・天正18年(1590) 平岩親吉は厩橋城主となった。
 3万3000石。

・慶長5年(1600)関ケ原の役

・慶長6年(1601) 酒井重忠が戦功により厩橋城主となった。
  3万3000石。

・慶安3年(1650) 2月 橋林寺が勢多郡岩神村に移った。
  江戸幕府からは知行20石を与えられていた。  

???? 多数の絵画や仏像があったが、戦災や火災でほとんど
  焼けて失われた。

・昭和7年(1932) 一階を位牌堂、地階を納骨堂として建築した。
設計者:中村鎮は中村式コンクリートブロックを考案した。
旧本堂は型枠コンクリートブロック工法で造られた。
  L字形、T字形の薄板状のコンクリートブロックの断片を
  組み、要所に鉄筋を入れてコンクリートを打つ工法であった。


・昭和20年(1945) 木造の本堂が焼失した。
   正面に木造の向拝をつけて本堂にした。





【2】 前橋 
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【3】カレーショップ【BABA】前橋岩神町店
インドは2回行っているので、インド風でもいいか?
と思って入った。
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料理はインド人2人が作っているらしい。
1人はニューデリー出身だって・・・日本に6年。
≪インド料理:カレー≫
≪マレーシア料理:ナシゴレン≫
≪タイ料理:パッタイ≫」
 などエスニック料理メニューがある。
≪トルコ風?ベリーダンス≫もあるらしい?
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カレー2種・ナン・サラダ・マンゴーフルーツ
のランチセットは850円消費税
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・TVはインド映像
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辛さは「普通」を選択・・・
結構、インド味だった。ナンは特大で旨かった。


★明日は裄V「エスビック:創新館」&吉田松陰の刀かな?

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