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zoom RSS 真田丸131【第47話「反撃」】&「常高院の和議交渉&真田丸取り壊しの過程

<<   作成日時 : 2016/11/29 13:23   >>

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@大阪城の天守閣に打ち込まれた砲弾により、侍女たちは数名
命を失った。茶々は幸村の反対を押し切り、家康との和睦に傾く。
A和睦交渉には幸村は本多正信や織田有楽斎の籠絡を受けぬよう、
初を交渉役として立てることを提案する。B家康の側室:阿茶局は
寛大な態度であるが、真田丸砦の取り壊し、外堀を埋めることを
提案する。きりは大きな不安を感じる。大蔵卿局は、阿茶局の提
案を飲んでしまう。大坂城の外堀を埋め、真田丸を破却すること
が決定してしま。C結局、、幸村は大阪城は本丸を丸裸にされて
しまう。もはや戦うことはできないと激しい衝撃を受ける。幸村
は春らを逃がそうとする。又兵衛や勝永らの豊臣家への怒りが頂
点に達する。又兵衛「策を考えろ。俺はお前に従うことにした。」
と言う。さらに、そこに秀頼が現れ、命運を幸村に任せる。
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【1】常高院:お初の和議交渉〜真田丸・惣構の取り壊し
●【お初(常高院)の年表】
・永禄6年(1563) 京極高次は佐々木京極家の嫡男として生まれた。
  ★京極高次は、浅井長政の小谷城:京極丸で生まれた?   
 ※幼少時・・京極家は家臣:浅井家に北近江を奪われていた。
・永禄13年(1570) 近江国:小谷城(現・滋賀県長浜市)生まれ。
         父:浅井長政 母:お市
・天正元年(1573) 父:浅井長政は伯父の信長と交戦。
    →小谷城は父・長政と祖父・久政の自害により落城。
    →母・三姉妹は藤掛永勝に救出。→織田家の下で保護。
    京極高次は信長の人質になった。
     →京極高次は、秀吉配下の部将として活躍開始。   
・天正10年 (1582)
  6月2日  本能寺の変 織田信長が家臣:明智光秀に討たれた。 
 6月27日 清洲会議・・市は織田家の家臣:柴田勝家と再婚。
       三姉妹はお市と共に越前国北ノ庄城へ移る。
・天正11年(1583) 柴田勝家は羽柴秀吉と対立。
   賤ヶ岳の戦いで勝家は秀吉に敗れ、
   北ノ庄城で柴田勝家とお市は共に自害。
   →三姉妹は落城前に救出→羽柴秀吉の庇護。
・天正15年 (1587) 秀吉の斡旋で、
浅井家の主人筋:京極高次:(大溝城)と結婚。
 ○京極高次との間に子はなかった。
  @妹:江の娘で2代将軍徳川秀忠の4女:初姫(興安院)を養女
  A氏家行広の娘:古奈(母は高次妹)を養女
  B嫡男:忠高(側室の子で、母は山田氏)
  C高政(母は小倉氏)
  →血縁・家臣らの子女の養育した。
・慶長 5年(1600) 秀吉の死。
   京極高次は近江滋賀郡大津城六万石の城主。
   五奉行:石田三成  VS  五大老筆頭:徳川家康
  石田三成が挙兵すると京極高次は三成側につくと思わせ、
徳川家康側についた、
 ○関ヶ原の戦い・・大津城に籠城し東軍に加担(大津篭城戦)。
  西軍:立花宗茂ら1万5千の兵を相手に、本戦決戦前夜
  9月14日に開城するまでの一週間、大坂方の大軍を釘付けに
  した。この功績で、
  →京極高次は若狭:小浜8万5,000石をゲット。
・慶長6年(1601)小浜城の築城に着手。
・慶長14年(1609) 夫:高次が死亡。
  →お初は剃髪・出家し、「常高院」と号した。
  
→甥:豊臣秀頼&姉の茶々〔淀殿〕 VS徳川家康(妹・江の舅)
  
→常高院は豊臣方の使者として仲介に奔走。

※【大河ドラマ「お江」】では、
  常高院:お初は、姉:淀殿&秀頼母子を救わんと、
  徳川家に嫁いだ妹:お江の義父:家康の命で大坂城へ乗り込ん
  で和議の交渉に当たった。
しかし、努力もむなしく戦火は上がった。

●慶長19年 (1614) 大坂冬の陣・・
12月4日  真田丸の戦い

12月15日 側室:阿茶局は徳川家康の本陣に入った。
 →徳川家康の側室:阿茶局とともに和議を推進した。
 (★『真田幸村がよく分かる本』)
12月16日 大坂城への大砲での攻撃
★徳川家康は徹底抗戦の立場を取っていた淀殿の部屋を狙った。
 大砲は爆発するものではなかったが、建物の破壊はできる
 
 1発は大坂城天守・・・・
多くの砲弾が打ち込まれ、大阪城内では、
 多くの女達が命を落とした。
@2名死亡説
A8名死亡説
 淀殿は和睦に転じた。
※淀殿は2度の落城でトラウマになっていた。
@天正元年(1573)父:浅井長政の小谷城落城
茶々は7歳
お江は
お初は
 A天正11年(1583) 賤ヶ岳の戦い
   勝家は秀吉に敗れた。
   北ノ庄城で柴田勝家とお市は共に自害。
   →三姉妹は落城前に救出→羽柴秀吉の庇護。
  茶々は17歳
  お江は
  お初は

   和睦・・・手紙ではダメだった。

12月18日 和睦交渉@
京極高次妻:常高院:お初 VS  家康側室:阿茶局
    
◆徳川方の京極忠高(お初の息子)の陣にて
 
 1、御女将様には何の咎はない
 2、秀頼様は大坂城に住んでよい。
 3、牢人達の罪を問わない

12月19日 和睦交渉A
 4、惣構と二の丸と三の丸を破却すること
 5、(淀殿の代わりに)織田有楽斎と大野治長が人質をだす

★家康は老齢を考えて和睦した。

12月20日 講和が成立した。
 
 徳川家康が大坂城の陣を撤去した。
豊臣秀頼の大坂城退去がなくなった。
織田有楽斎が大野治長は人質を出した。

12月21日 徳川家康が松平忠明らを普請奉行に命じた。
 豊臣方の使者が秀忠の元に赴き、和議遵守を誓書を交換した。

12月22日 家康の使者が大坂城に入った。
  双方が起請文を受け取った。
5ヶ条・・・

真田幸村と後藤又兵衛は反対した。

12月23日 大坂城惣構の取り壊しが始まった。
 徳川との約束にない「真田丸の堀を埋め、真田丸を壊した。」
 三の丸堀・二の丸堀も埋めた。


12月24日 
  三の丸堀・二の丸堀も埋めた。

12月25日
 徳川との約束にない「二の丸・三の丸の櫓を壊した。」
大野治長が抗議した。
徳川家康「手間取っているようなので、手伝った。」

★徳川家康は破却を送らせるだろうと推測していた。
分担は決められていなかった。


・慶長20年(1615)
1月3日 徳川家康は駿府に帰った。

 1月19日 大坂城の惣構&二の丸&三の丸の堀の
埋め立て終了。
大坂城は本丸を残すだけになった。裸城になった。
 大坂城は機能を失った。



・慶長20年(1615)

  大坂夏の陣・・・豊臣家が滅亡。
   豊臣秀頼の娘:奈阿姫(後の天秀尼)の助命を家康に嘆願?。
   妹:お江(=崇源院)と会っていたそうである。
   幼い時から苦楽を共にした姉や甥:秀頼を失った。
   お初が、姉・淀殿に最後の別れを告げて大坂城を去ったのは
   4月7日。翌8日、大坂城は落城した。
・寛永7年(1607)嫡男:忠高(実母は於崎)の小浜に常高寺建立。
  ※正室は徳川家第2代将軍秀忠・お江の方の四女:お初)
・寛永10年(1633) 京極忠高の江戸屋敷(現港区虎ノ門)で死去。
  遺骸は中山道・木曽路経由で小浜城に運ばれた。
   常高寺で葬儀が行われ、城主:忠高に参加した。

■常高寺・後瀬山城・・・★行かなくて、残念。 
 常高寺は若狭(福井県小浜市)後瀬山城の麓にある。
 後瀬山城は京極高次が徳川家康より若狭一国を拝領した時、
 初めに入った城である。常高院:お初は「もし、将来国替えが
 あっても常高寺だけは若狭に、留めおいて下さい」と遺遺したそうだ。
 京極家が出雲、播磨、讃岐:丸亀へと国替えになっても、庇護を受けた。
 (参考文献・・・現地案内板・ウキペディア・城シリーズ他)

箕輪初心●福井【小浜城】京極高次&お初=江の姉
http://53922401.at.webry.info/201104/article_22.html


【2】真田丸とは
1)特徴
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@ 「丸馬出」と「三日月堀」からの着想した。
武田流の築城術である。
A近代要塞の先駆け
 「丸馬出」と「三日月堀」が異常に大きい。
  大砲・鉄砲をを想定している。 
真田昌幸譲りの戦術・・・


2)平山優氏・黒田基樹氏紹介のTV・・・1月17日
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・粘土質の堀
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3)ぶらタモリ・・・11月13日
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【3】真田丸 第47話「反撃」あらすじ
◆ナレーター
「徹底抗戦か和睦か迫られる。豊臣勢は・・・
 そんな時、一発の砲弾が天守閣に打ち込まれる。」


●大坂城
天井が崩れる。
きり「なりませぬ。」
と茶々を止める。
きりは、茶々を避難させた。

◆ナレーター
「その後も多くの砲弾が打ち込まれ、大阪城内では、
 多くの女達が命を落とした。という。」

●家康本陣
家康等が大坂城天守を見る。
片桐且元「話が違うではござりませぬか?」
 と茶々たちの居場所を伝えてしまったことを後悔した。
大きな後悔に苛まれる。

◆ナレーター
「・・・片桐且元は・・・半年後、自ら命を絶ったという。」

●大坂城
治長「和睦と決まった。・・・」
幸村「戦いは終わっていません。」
  
   ・・弾が終わりました。」
治長「・・・」
幸村「撃ってこないのが、何よりの証拠。
   今は和睦をする時ではありません。」


大蔵卿は嫌な顔をする。
きり「女将様は怪我をしていません。
   私が命がけでお助けしました。」
幸村「お前が、・・・」

幸村「礼をいう。」
大蔵卿「我らは勝ったのです。」


幸村「修理、どうなる?」
治長「・・・双方で手紙で和睦を進める。」


茶々たちは、和睦に大きく傾いている。

真田幸村ら牢人は反対する。
牢人たちは和睦になろうとしていることに憤りを覚える。
長宗我部「和睦したら、俺たちの行き場がなくなる。」
勝永「五月蠅い、・・・・・・兄きが面倒を見てくれる。」
又兵衛「和睦でも、俺に任せておけ。」



「何故、和睦なのですか。」
幸村は
「家康は牢人たちを追い出し、その上でさらに豊臣を攻めようという
 腹だろう。」

●大坂城での評定

「和睦」
「・・・これ以上、我らに・・・・」
幸村「牢人の処遇を考えていただきたい。・・・・」
大蔵卿「我らは勝ったのじゃ。」
幸村は「牢人を豊臣の家臣としていただきたい」
だが、大蔵卿局は反対し、意見を退けてしまう。


織田有楽斎「大御所様は人質を出せというかもしれんな。」
  茶々を江戸に差し出すか、秀頼様が大阪を出るか、・・・」
と選択を提案した。
「西国に?・・・」

そんな中、籠もっていた茶々は幸村を呼び出した。
きり「ご無礼、いたします。」
大蔵卿「いかが」

●茶々の部屋
茶々は、
「私の目の前で、侍女が大勢亡くなった。」

さっきまで話してした
 娘達が・・・衝撃的な光景を目の当たりしました。」
 
「きりが助けてくれました。あれのおかげで・・・
 命拾いをしました。」
茶々は、幸村に抱きつき、悲しみの心の内を吐露する。

「敵の弾が尽きました。もう、撃ってきません。」
・・・・
「茶々を許してください。」
幸村は和睦を避けることができないと考えた。
幸村は、「今、和睦をどうすべきか思案しております。」
「もうこのようなこと、たくさんじゃ。」


幸村はきりに、
「江戸を離れるという案も良いのかもしれぬ。大阪城にいては
 心が休まらぬ」

幸村は、又兵衛たちの前で
「和睦について話を進めている。」
と明かした
牢人たちの前で責められる。
「俺たちは使い捨てではないだろうな。」
毛利「・・女将様のところに出入りしているようだな?」
と毛利勝永に茶々との仲を勘ぐられてしまう。

●江戸真田屋敷
信之は、膝枕・・・耳掃除・・・お通との浮気?・・・

がらっと襖が開く。
「何をしている。」
稲とこうに見咎められてしまう。
信之は立ち上がった。
稲「この頃、・・・後をついてきました。」


こう「この女、・・・」
と殴りかかる。
お通はさらっと跳ね返す。

稲「おこう、控えない。」

お通は「次のお客がいらっしゃいますので、・・・」
信幸は、「客」とあしらわれたことにひどく動揺する。

稲「銭をとるのですか?」
お通 「真田様は単なる客です。私はこれを生業にしています。」
稲「もちろん。・・・」

お通は襖を開ける。
「常陸屋藤左衛門様、もう少しお待ちください。・・・・」

請求の手紙が・・・・・・・
「あなたは結構、・・・」
「お勘定書きは・・・」

稲「私はこういう性格なので、癒やしてあげられません。
  ・・・これからはこうが面倒をみます。」

信之「200文・・・高くはないだろうか?」
お通「私は誰とお思いですか?」
稲「帰りますよ。」


●幸村の処
堀田作兵衛は、畑仕事をしている。

牢人たちに囲まれた。
又兵衛「真田あ幸村ってやつは、どんなやろうが・・・
勝永「・・・俺たちが従うに値する男か?」
と質問した。
「知らん」。
又兵衛「家臣じゃないのか?」
「俺は上田にいた。京都にいる時、・・・
  九度山の時のことは知らねえ。
  一緒に過ごしたのはわずかだ。」
「・・・しらねえ?だめだ。・・・・」
作兵衛「でも、幸村様の父君はよく知っている。」
    安房守様は義に厚い方だった。」
又兵衛「へ・・すぐに、裏切ることで有名じゃねえか?」
「とんでもござらぬ。」
作兵衛はむっときた。
「信玄公の領地を取り戻そうと、常に考えようとしていた。
卑怯者と言われようと、・・・
 分かっているのは幸村様は、その血を受け継いでおられる
 ことだ。あの方は太閤殿下のご恩に報いようとしている。
 ・・・人になんと言われたても・・・・
 ワシに言えるのはそれだけじゃ。」

●家康の本陣
家康は和睦の案の手紙を読む。
「牢人を養うために領地拡大・・・、秀頼が大阪を出て四国2
 ヶ国を領地とすること・・・・、
条件を聞いて。

秀忠「・・・総攻めをすぐに攻めましょう」
正信「・・・戦いを止めるとは言っておりません。

  「丸裸にする。それから、大坂城を攻める。」

家康は「四国はやらん。国替えを望むなら、関東だ
 安房と上総を・・・」
と申し出を拒否する。

●大坂城の評定
幸村「出方をうかがっているのでは?」
有楽斎「直に話し合う、ワシが出向こう。」
幸村「本多佐渡という知恵者がいる。・・・
   有楽斎様でも、」
   ・・・常高院様がいかがと、・・・」
交渉人として、幸村は初を立てるべきであると言う。


●家康本陣
家康は阿茶局を立てる。

●大坂城の評定
幸村「きり、阿茶局はどのような方か?」

大蔵卿「私も行きます。・・・」
初「阿茶局とはどのような方ですか?」
きり「喰わせ者です。」
幸村「そうなのか?」
きり「本多正信様を古狐に例えれば、阿茶局は女狐・・
  見た目から言えば、女狸かと・・・」
お初「ますます自信がありません。」

幸村は何????・・・
「きり、常高院様の侍女として、行ってくれ・・」
きり「かんべんしてください?」
幸村「不利なったら、騒いでくれ。お前しか、おらん。」
きり「おまかせ、あれ。」
と嫌な顔しながら・・・・
幸村はきりを談判の場に立たせる。


◆「・・京極忠高の陣に決まった。、・・・」
初は京極高次に嫁いでいたからである。

●京極忠高の陣


●大坂城

秀頼「左衛門佐、お前はしぶとい。虐げられても、真田丸を作り、
和睦となっても事を有利に運ぼうと考えとしている。」
幸村「諦めぬ者に道は拓けるのです」。
  「うまくやっているようです。」


女たちの交渉の場では、阿茶局は牢人たちの処遇について
詳しく決めず、交渉を終了しようとする。
「・・・」
阿茶局は
「おいおい・・・」
「おいおい。・・」
大蔵卿が叱る。

きり「ああ〜〜〜足がいたい。」
と転げ回る。
初「牢人たちの処遇は決まっておりません。
  領地拡大をお願いしたい。」
と言う。
阿茶局「・・・」


阿茶局は「あの出城?」
「真田丸」

阿茶局「真田丸砦などというものがあるから、牢人たちが
  居座るのです」
と言う。

大蔵卿局「真田丸があるから、・・・」
と決定を飲もうとする。
「そういたしましょう。」

きりは再び、「足が・・・」
と転げ回る。

初はきりに促された。
初「話を持ち帰り、・・・右大臣様に相談します。」
阿茶局「男たちに渡せば、血がまた流れますよ。」
    「この場で決定しましょう。」
と押し切ろうとする。

阿茶局「真田丸は取り壊し、・・・」
大蔵卿「うめてしまいましょう」
・・・・」

和議は牢人たちの処遇は曖昧なままに決定した。

●大坂城
幸村「阿茶局と大蔵卿局の間で、なにか他に決まったことが
 あるはず?」
きり「・・・堀をうめ・・・・真田丸を取り壊すと
   聞いていないのですか?」
幸村はきりから真田丸砦の埋め立てが決められたことを知った。
幸村「」



●徳川の陣
家康「ようやった。」
阿茶局は「いささか、疲れました。」
家康「手柄じゃ。」

●大坂城
「罪をとわぬ。」

◆ナレーター
「・・・20日、徳川は兵を引いた。」

●真田丸


幸村は、大蔵卿局に問いただす。
大蔵卿「もう牢人たちを養う金銀はない」
と居直る。
「康は、真田丸砦だけでなく、外堀が埋められた。」

幸村は、「そのような状態で、家康が約定を守るとお思いか!」
と大蔵卿局に詰め寄る。


「家康は約定を守るとおおもいか?」
「母上は豊臣をおつぶしになるおつもりか?」


◆ナレーター
「・・・完全に無力化された。」

●====真田丸が破壊された。
 ====堀は埋め立てられた。
画像


●徳川の陣
「丸裸・・・後はあちらが和睦を破るようにしむける。」

●軍議
幸村は、牢人たちの前で
「 堀を埋め立てられ、二の丸、三の丸も取り潰すこととなった。」
勝永「まさかここまでやるとは」
「あんたの得いな策を聞かせてくれ?」
「策はない…。」
「この戦、もはや勝ち目はなくなった。全ては私の力不足だ。
 申し訳ない。」
と謝罪する。
又兵衛が怒る。戸を蹴破る。
「皆、城を立ち去るがよい。城を枕に討ち死にしようなどと、
考えぬように」
と言う。
「では、ごめん。」
「ここにいても先はない」
と立ち去ろうとする。
又兵衛は「お前等行く当てあるのか?
    行き場がないから、ここに来たんだろう?」
と言う。
「堀もなくどやって戦うのか?」
又兵衛「面白ぇじゃねぇか。」
と不敵に笑う。


幸村は、内記・春たちの前で
「すぐにここを立て・・・上田に立て。」
と言う。

又兵衛「何をしているんだ。策を考えろ。俺はお前に従う
    ことにした。勝つためにきたのではないか?」
明石「考えろ。・・・」
勝永「俺たちは戦うためにここに来た。勝つための策を考える
 んだ!」
牢人たちも、戦うことを選んだ。
木村「勝つためにここにきたのではないのですか?・・・」
と言って、戦いをうながす。

秀頼が現れた。
「望みを捨てぬ者だけに、道は拓けるとそなたは言った。
「はい。」 
[私は、まだ捨ててはいない。」
と言い、幸村の手を握る。
「かしこまりました。」
と、運を託した。

又兵衛は「よう〜し。えい。」
「おう」
「えい。」
「おう。」
と決起を挙げた。
幸村は家康を討つ決意を固めるのだった。


◆ゆかりの地・・高知県南国市
長宗我部盛親

3)長宗我部盛親 :関ヶ原で四国の領地を失った
長宗我部盛親土佐の戦国大名・長宗我部元親の4男。
長宗我部元親は四国の覇者として名高い。
・天正14年(1586) 12月12日(1587年1月20日)戸次川の戦い
島津家久率いる島津勢
VS
長宗我部元親・長宗我部信親、
仙石秀久、大友義統、十河存保の率いる豊臣勢の間で行なわれた
 合戦は九州征伐の緒戦で、豊臣勢が大敗した。
長宗我部信親が戦死した。
@長兄:長宗我部信親
 A次男:香川親和
 B3男:津野親忠
 C4男:長宗我部盛親
長宗我部元親の強引な決定があったらしい。
家中が混乱した。

・天正16年(1588年)長宗我部盛親に世子に指名された。
 継嗣:長宗我部信親が戦死すると跡を任される.
 
を跡目に据える方針を決める。
・慶長4年(1599) 長宗我部元親の死とともに大名となった。

・慶長5年(1600) 関ヶ原の戦い
長宗我部盛親は大阪から進軍している当初のうちから東軍に付こう
 と徳川家康に密使を送っていた。
 西軍の長束正家に阻まれて連絡を取る事が出来ず、西軍から鞍替え
 できないままやむなく本戦に参加してしまった。
関ヶ原の戦い本戦では毛利秀元が布陣した。
 南宮山より後方の栗原山山麓に布陣した。
 吉川が徳川家康に内応して毛利秀元を連絡、遠望の利かない
 南宮山山頂に押し込めたまま本戦不参加の戦術的背任を決め込
 んだ。、更に後方の長宗我部盛親も状況が掴めないまま進軍す
 る事が出来ず、そのまま戦わずして敗軍の将となる。
 吉川広家の失態で大阪城が戦わず降伏した。
 後、土佐に帰国して井伊直政を通じて謝罪しようとした。
「そのまま日和見の末でならまだ申し開きがあろうモノの、
 ・・・・・
  兄:津野親忠を殺害してしまい、家康の怒りを買って改易」 
 されてしままった。
★長宗我部盛親はトコトン運のない武将であった。
その後は単身、京都で寺子屋を経営した。


・慶長19年(1614年)秋、 
9月 京都所司代の板倉勝重は盛親に大坂入城の是非を詰問した。
  盛親は「此度は関東方に味方して戦功をたて微録を得たい。」
 と念願した。
  「浅野長晟とも旧約を結んでいる。」
 と答えて勝重を油断させた。
・長宗我部盛親は、家康により領国を没収され浪人
 となっていた。しかし、大阪の役での勝利の暁には土佐
 一国を贈与するとの条件から、豊臣側として参戦した。
 長宗我部盛親は豊臣秀頼の招きに応じて京都を脱出する。
 
10月6日、長宗我部盛親は大坂入城を果たした。
 わずか6人の従者と共に出発したが、土佐時代のかつての旧臣や
 浪人などと合流し1000人もの軍団となった。
 (「★ウィキペディア)

 長宗我部家の再興を願う中内総右衛門を初めとする旧臣たちも
 入城し、大坂城に集結した牢人衆の中では最大の手勢を持った。
 長宗我部盛親は、真田信繁、後藤基次、毛利勝永、明石全登ととも
 に、「五人衆」に数えられる主力部隊となった
  長宗我部家( 長宗我部盛親・長宗我部康豊・長宗我部盛恒
  ・長宗我部盛高・長宗我部盛信・長宗我部盛定
  ・五百蔵左馬進・奥宮伝兵衛・片岡民部・上山十兵衛・久万俊朝
  ・佐竹親直・佐竹忠次郎(柴田外記)・ 立石正賀・長次郎
  ・豊永藤五郎・中島重房・中内三安・中内三置・中内藤兵衛
  ・能勢宗兵衛・戸波親清●丸橋盛澄(忠弥)・明神信勝・
  ・ 横山友隆・吉田政重・ 吉田康俊 など)




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