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zoom RSS 箕輪初心:生方▲真田丸130【カルバリン砲は三浦按針が?】

<<   作成日時 : 2016/11/27 08:01   >>

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私はカルバイン砲を@インドのマドラス&Aマレーシアのマラッ
カ、Bスリランカの首都:コロンボかゴール近くで見ている。
イギリス人:三浦按針(ウィリアム・アダムス)が平戸でオラン
ダ商館→イギリス商館と在籍し、徳川家康の大砲購入に関わった。
でないと、オランダ製・イギリス製の大砲は入らない。しかし、
平戸では確かな文書は見ていない。・・・・。慶長19年(1514)
までにはカルバリン砲が三浦按針の中継で徳川家康にもたらされ
たと考えられる。
画像


【1】豊臣の大砲 
・天正4年(1576)、豊後の戦国大名:三浦系大友義鎮(宗麟)が
 ポルトガル人(スリランカ支配)から10門程度?購入し、臼
 杵城を取り囲んだ島津軍に向けて白砲を発砲したという。
・天正14(1586) 豊後戸次川(現在の大野川)の戦い
 仙石秀久を軍監とした長宗我部元親・長宗我部信親・十河存保
・大友義統らの混合軍が島津家久と戦った。
  仙石秀久の失策により、長宗我部信親や十河存保が討ち取ら
  れるなどして大敗した。
・天正15年(1587) 九州支配に乗り出した豊臣秀吉は、フランキ
  砲を入手またはコピーを造ったとされる。
 豊臣秀吉は弟:秀長と軍監:黒田孝高を伴い
  20万の大軍を率いて九州に本格的に侵攻し、島津軍を圧倒し
 島津義久を降伏させた。
・文禄元年(1592)〜文禄の役
・慶長3年(1598) 太閤豊臣秀吉の死
慶長の役・・・撤退の際、大砲を朝鮮からに持って帰った
豊臣軍にも大砲がかなりあった。
・慶長19年(2014)大坂冬の陣
  大阪城に多くのフランキ砲が装備されていたという。
  暴発しやすかった上にしかも射程距離は短かった。
  火薬や砲弾が少なかった。
戦局に影響を与えるほどの大砲ではなかったようである。



【2】徳川の大砲 
・天正18年(1590) 以前
北条時代、 宇津木泰繁・石原主膳は北条家砲術指南:
   稲富宮内重次から、指南を受けていた。
   2人は鉄砲奉行であった。 

・天正18年(1590) 北条氏滅亡
   稲富宮内重次は徳川家康の鉄砲奉行・指南になった。
宇津木泰繁は井伊直政の鉄砲奉行になった。
   井伊直政が箕輪城主になった時、
石原主膳は旗奉行になり、宇津木泰繁が物頭(鉄砲奉行)
になった。
井伊直孝の時代にも、鉄砲奉行は稲富流砲術師:宇津木泰繁
であった。

・慶長5年(1600) 関ヶ原の合戦
  リーフデ号は豊後国臼杵の黒島に漂着した。
  徳川家康はウィリアム・アダムスとヤン=ヨーステン・ファン
  ・ローデンスタイン、メルキオール・ファン・サントフォールト
   らを大坂に護送させ、併せて船も回航させた。
  徳川家康は大坂城て英国人:ウィリアム
  ・アダムスを尋問した。
  徳川家康はをウィリアム・アダムスを外交顧問とした。

  徳川家康の御用商人:馬込勘解由の娘・お雪を妻とした。
  アダムスは三浦按針と名乗り、250石の旗本となった。

・慶長9年(1604) 三浦安針により浦賀にスペイン商船が
  入港することになった。

・慶長14年(1609) 徳川家康は平戸にオランダ東インド会社の
  商館の開設を許可した。三浦按針が就職した。

・慶長17年(1612) 徳川家康はイギリスから新式大砲を購入
  した。
  ●宇津木泰繁は徳川家康の前で長距離狙撃用鉄炮86挺
   の試し撃ちを敢行した。

  
・慶長18年(1613)、徳川家康は平戸にイギリス東インド会社の
  商館の開設を許可した。
  三浦按針はオランダ商館から母国イギリス商館を手伝った。

  徳川家康はキリスト教の布教を禁じつつも、西洋諸国との
  朱印状による交易には熱心だった。

・慶長19年(1614)6月 徳川家康はカルバリン砲4門を
  イギリスから購入することに成功した。
  カルバリン砲はイギリスの戦艦用であった。
  カルバリン砲は14kgの弾丸を6300mも飛ばした
  という。
射程距離は1800〜6000mと言われる。

  徳川家康は大砲をオランダ・イギリスから輸入した。
  輸入・国産の大砲も含めて300門を集めたという。

箕輪初心■長崎:平戸=異国情緒が残る街&グルメ
http://53922401.at.webry.info/201112/article_11.html



・慶長19年(1614)11月 
*徳川軍・・・約20万
豊臣軍が大坂城付近の砦を放棄して大坂城内に撤収した後、徳川軍は
大坂城を完全包囲した。真田丸正面には前田利常率いる兵12,000、
南部利直、松倉重政、榊原康勝など数千、八丁目口・谷町口には、
井伊直孝の兵4,000、松平忠直の兵10,000、他数千が布陣していた。
真田丸には真田信繁指揮の兵5,000、八丁目口・谷町口には木村重
成、後藤基次、長宗我部盛親など、兵12,000以上が配置されていた。

@真田丸正面
 平野口
 右・・・南部利直3000、
 正面・・前田利常12,000、 後ろに徳川秀忠20000
 左・・・松倉重政
     吉田重治
     寺沢広高
    ・榊原康勝など数千、
A平野口&八丁目口の間
     井伊直孝4000
B八丁目口正面
     松平忠直の兵10000

C八丁目口と谷町口
     藤堂高虎4000

D谷町口
  正面 伊達政宗10000  後ろに徳川家康30000

*豊臣軍・・・約10万以上。
  (兵12,000以上:ウィキペディア)
 真田丸・・真田信繁指揮の兵5,000、
 平野口・・明石守重(明石全登)
      木村重成
 八丁目口・・長宗我部盛親8000
谷町口・・・井上時利・織田長頼
町屋口・・・大野治長
 ???・・・後藤基次
 などが配置されていた。

・慶長19年(1614) 11月9日、大坂冬の陣が勃発
▲木津川口砦の戦い
  徳川軍が木津川口砦を襲撃した。大坂冬の陣の火蓋が切られた。
▲博労淵の戦い
  蜂須賀勢が大坂方を打ち破った。

▲鴫野・今福の戦い
 後藤又兵衛、木村重成勢が徳川方の佐竹勢を破っています。



12月3日(1615年1月1日)
▲徳川家康は本陣を住吉から茶臼山陣城に移った。
 (12月5日説あり)
12月3日付 織田有楽斎かた徳川家康宛の手紙
 「・・・大坂方に和睦の受け入れを諷諫(ふうかん)しているが
  うまく運びません。」

徳川家康は前田利常に
「塹壕を掘り、土塁を築き、大坂城を攻撃は待て。」
と指示した。
前田勢が塹壕を掘り始めた。
●真田幸綱は真田丸の前方の篠山に兵を配置していた。
 真田勢は篠山から狙撃し作業を妨害した。

12月3日(1月2日)
南条元忠が大坂城内で、徳川軍に内通していることが発覚した。
南条は城内で切腹させられた。
豊臣軍は南条が引き続き内応しているように見せかけ、
徳川軍を欺いた。

12月4日(1月3日)
▲真田丸の攻防 ▲真田丸での攻防戦・・・・最大の激戦
前田利常勢は、篠山からの妨害に悩まされていた。
午前2時、前田利常勢が真田の挑発に乗った。
前田勢は篠山の奪取をもくろんだ。
 前田勢の先鋒本多政重、山崎長徳らが夜陰に乗じて篠山に攻め
 上がった。
 岡田助右衛門・大橋外記・大河原・・・が戦死した。
 (★『前田家大阪冬陣日記』)
 真田丸の前方に位置する篠山と真田丸を攻撃する。
 
井伊直孝の先手衆・前田利常勢が空堀にいた。
  (★『大坂陣山口休庵咄』)

*夜が明けた。霧が出ていた。
●真田勢が前田勢を挑発した。
  前田勢はその挑発に乗ってしまい、真田丸に攻めかけた。

●真田勢は、前田勢が充分城壁にとりついたところに銃撃を浴びせ、
 前田勢に損害を与えた。

 ●大坂城内で火薬庫が誤って爆発する事故がおこった。

▲徳川軍は南条の内応によるものと勘違いし、さらに激しく攻めかけ
 る結果になった。

●豊臣軍は城壁に殺到する徳川軍に損害を与えた。

大坂城真田丸からつるべ打ちにされた。
(『大いなるなる謎 真田一族』:平山優著)

▲前田利常は、将達が命令なく攻撃したことに怒り、兵を撤収させ
 ようとした。
 前田勢の攻撃を知った井伊直孝、松平直忠勢もそれにつられる形で
 八丁目口・谷町口に攻撃を仕掛けた。
 松平忠直勢及び井伊直孝勢が真田丸を攻撃した。

●真田丸からの銃撃による死傷者は増加の一途を辿った。
 前田勢は真田丸と惣構からの一斉射撃で甚大な被害を受けた。
  徳川方の攻撃の効果はあげることができなかった。


▲徳川家康は退却を命じた。

午後3時頃・・・
 井伊直孝勢が撤退を始めた。
 諸将も撤退を始めた。
 しかし、竹束や鉄楯を持たずに攻めてしまっていたため、
 敵の攻撃に身動きがとれず退却は難航した。

午後3時過ぎ 撤退がようやく完了した。

結果・・・徳川方の損害は甚大であった。
   松平忠直480騎の戦死者、
  前田利常300騎の戦死者、
  井伊直孝126騎(含負傷者)の損害
  付き従っている雑兵も含めると
この1日だけで数千人の戦死者を出した。

 大坂冬の陣での徳川方の戦死者の80%は、真田丸の攻防に
 よるものといわれている。

徳川家康は各将を呼んで軽率な行動を叱責し、
以後、竹束・鉄楯を必ず使用するよう厳命した。
 (★『当代記』)

* 『大坂陣山口休庵咄』・『大阪御陣覚書』など
 正確な記述はない。

徳川秀忠は本陣を平野から岡山に移した。
徳川秀忠は真田丸での大敗を受け、拙速な攻撃を禁した。

12月5日、徳川家康は奇襲を警戒し。茶臼山の本陣から住吉に
  後退した。
  公家衆を迎えて茶の湯を嗜んだ。

▲谷町口の戦い
 大坂城谷町口の織田長頼の陣を藤堂高虎隊が夜襲した。
  八町目口の長宗我部勢が援軍したために藤堂勢は後退した。
 徳川方は戦果をあげることができなかった。

徳川家康は真田幸村に翻弄された。
 徳川家康は、強硬策は大坂城攻略は無理と判断した。
 徳川秀忠の力攻めの進言した。
 徳川家康は和議に持ち込み腹を固めた。


12月6日 徳川家康は茶臼山本陣に移動した。
  茶臼山山頂に屋形を設けた。
  茶臼山の周囲に堀を巡らせた。
  旗本3万人に茶臼山城の周囲を守らせた。
  茶臼山の前方に伊達政宗勢1万人を布陣させた。
  北にある大坂城の南には徳川方の塹壕を掘らせた。
  大砲の砲台が築かれた。

12月7日 本多忠勝の次男:忠朝は天満に着陣した。
  毛利秀就、福島正勝が着陣した。

12月8日、徳川家康は諸大名に銀百貫目を贈った。
 徳川家康は城中の織田有楽斎、大野治長らが和議交渉
 をもちかけた。

12月10日、徳川家康は真田信繁に調略を仕掛けるが不首尾に
  終わった。
*「真田丸」では、
@叔父:真田信伊を通じての真田幸村への調略作戦・・失敗
A淀殿に叔父:織田有楽斎を通じての和議作戦・・・・有効
*「大坂の陣と豊臣秀吉」では、
「織田有楽斎と大野治長が和睦の条件を提示するが、
 徳川家康が納得しなかった。」



12月11日、徳川家康は旧武田の金掘人足による坑道掘削を
 開始した。

12月12日、備前島の砲台準備が急ピッチで進められていた。
徳川家康は大坂城を強引に攻めるだけでは落とせないと
  考え、大砲を用意させていた。
徳川家康は大坂城北方の天満から備前島にかけて
  の砲台の視察を行った。
  案内役の片桐且元の弟:貞隆が 
「まもなく・・・到着でござる。」
と告げた。
徳川家康はカルバリン砲を待っていたようである。
 オランダ・イギリスから輸入し大砲・国産の大砲を
 約300門に使用しようとした。
 しかし、大砲の命中率は低く、徳川家康は轟音で脅かせれば、
 降参するであろうという算段であった。

12月14日 阿茶局が和議の準備のために茶臼山に到着した。

12月15日 大坂城への一斉砲撃の準備が整った。
  備前島から大坂城天守までの距離約700m程
  である。
  輸入品、国産品などの大砲が大坂城に向けられた。


▲@国友の鉄砲鍛冶69人
  50匁の玉の大筒
   射程距離は1500m以上
 A堺の鉄砲鍛冶:芝辻理右衛門が賛成させた
  1貫目玉の大砲・・・
 Bオランダ・イギリスから購入した「4〜5貫目の巨砲
 *片桐且元が指示した。
  (★『真田幸村がよくわかる本』:押鐘太陽著 



  
12月16日  
 井伊直孝・藤堂高虎・松平忠直・佐竹義宣の部隊と本丸に
 一番近い備前島から約300門で砲撃した。
 一斉砲撃が開始され、昼夜を問わず撃ち続けられた。
 城内は混乱した。
 カルバリン砲など大砲の性能と数の差も大坂冬の陣に多大な
 影響を及ぼした。響きわたる轟音は大坂城に籠る豊臣方を
 精神的に揺さぶる威嚇効果を発揮した。

***諸説***********************


1)井伊直孝軍からの砲撃
・慶長19年(1614)大坂冬の陣
  宇津木泰繁が物頭(鉄砲奉行)として指示した。
  宇津木泰繁&宇津木次郎左衛門?であろう。
★井伊直孝軍は徳川家康はイギリスから輸入した大砲
 カルバイン砲を使用していた。
井伊直孝がカルバリン砲を撃たせた。
  たまたま、玉が当たりどころがよかったというか悪かった
 というか・・・大坂城天守閣の寝所?あるいは居間に当たっ
 てしまった。
  たまたま玉が大坂城天守閣にあたって、淀殿がびびって和議
 を申し込んだ可能性もある。 
 
『真田太平記』
 「真田太平記」池波正太郎も上田で蕎麦を食いながら、
 井伊直孝は指示している挿絵を風間氏に描かせた。
(★真田太平記:池波正太郎著)
画像



2)備前島の稲富重次説
徳川家康は備前島に大筒300挺を備え付けた。
 片桐且元が砲撃目標「豊臣秀頼と淀殿のいる居間」をめがけて
 元北条家砲術指南の鉄砲の名人:稲富宮内重次と砲術家の牧野
 清兵衛に300挺の大砲の一斉射撃を命じた。
(★ウィキペディア)
*「真田丸」では、片桐且元は家康に
  「淀殿のいる御座所」を教えるのをためらっていた。

12月16日、 本多美濃守忠政麾下:菅沼左近定芳は徳川家康
 より下された大砲数十挺を備前島に設置した。
 しかし、大砲による攻撃は戦果を上げなかった。
 菅沼定芳は「この頃、放つところの鉄砲は、城の上を越して
 効果がない。今後は、 石垣の下、水際の上辺りを狙って
 放つべきでしょう。」
 御鉄砲方の井上外記正純、稲富宮内重次、牧野清兵衛
 正成に話した。
 3人は大砲を放つと、城の塀、櫓に命中し、破壊した。
 大阪城中にあった女子供は肝を消し、魂を失ったという。
 この後、和議が入りついに和平となった。
 将軍徳川秀忠は伏見城において菅沼定芳を召し、黄金20枚
 を下賜したという。
(★菅沼勲功記)
 大坂の陣 砲撃戦
http://tikugo.com/osaka/yomoyama/fuyu/osaka-hougeki.html


3)片桐且元が「天守閣」を狙わせた説
12月16日、備前島に構築された砲台には徳川家康の
 砲術指南役が集まっていた。
備前島にはイギリス製の長距離砲や長砲身型セーカー砲・
大小のフランキ砲、和製フランキ砲が配置されている。
田付四郎兵衛景澄がフランキ砲の指南役である。 
稲富宮内重次がいる。カルバイン砲を見る。
片桐且元は京都の大工頭の中井大和守正清の作成した
図面を広げていた。
「まずは天守閣を狙ってはいかがであろう。」
幕府鉄炮術方の井上外記正継が「御意」
と言う。
国内製キャノン砲を操作する。
備前島砲台の目付:菅沼定芳が
「カルバリン砲を設置しろ。」
と指示する。
田付四郎兵衛景澄はカルバイン砲の設置を終えた。
カルバリン砲に初弾を装填する。
「では・・・放ちまする。」

砲弾は一撃で大坂城天守閣を撃ち抜いた。
たまたま 一発が淀殿の居間に当たったのだ。

◆参考サイト
天地を揺るがす大蛇の如き長距離砲撃が夢の城を砕く時
http://kid-blog.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-6466.html


 
「真田丸」では、御座所という言葉を使っていた。
★淀君の寝所説・居間説がある。
 @8人程の侍女が怪我をして、悲鳴を上げたという。
 A侍女が砲弾の破片で7〜8人亡くなったとも言われている。
 「大筒は過たず淀殿の居間の櫓を打ち崩した。その響きは百雷の落
 ちるがごとく、側に侍っていた女房ども七、八人たちまち打ち殺
 され、女童の泣き叫ぶことおびただしかった。」
 と記されている。
(★『徳川実記』)
 1発の大筒の直接破壊被害で、大坂方は心理的に追いつめられ、
 和議休戦の気運が広がっていった。
 淀君はびびって、和議を結んだ。


12月19日 徳川家康が和議を提案する形で和議が成立した。
織田有楽斎と大野治長は人質を出した。

12月24日 織田有楽斎と大野治長は茶臼山本陣の徳川家康を
 訪問し、お礼の挨拶をした。

12月25日  織田有楽斎と大野治長は徳川秀忠に挨拶した。


◆参考文献
『戦況図録 大坂の陣』:新人物往来社 別冊歴史読本56
『激闘 大坂の陣』:学研 歴史群像シリーズ【戦国】)
『真田太平記』池波正太郎著
『大いなるなる謎 真田一族』:平山優著
『大坂の陣と豊臣秀吉』:新人物文庫
など多数、・・・

◆参考サイト
上記
ウィキペディアなど

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