城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行

アクセスカウンタ

zoom RSS 箕輪初心:生方▲名胡桃城発掘の三宅敦気先生講演会「名胡桃城」

<<   作成日時 : 2016/11/25 09:42   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

名胡桃事件時は中山城は北条の城だったので、「加沢記」は嘘だ。
・平成28年(2016)11月20日、三宅敦気先生講演会「名胡桃城」が
あった。特徴は@名胡桃城の看板書いてあった「加沢記」の記述を
抜いたことにある。つまり、みなかみ教育委員会として江戸時代に
書かれた第二次史料「加沢記」を除去したことになる。A明徳寺城
を真田の城としていること、B史料から名胡桃事件は6説あるが、
みなかみ教育委員会としては明言できないがとしながらも、三宅
先生個人としては「豊臣秀吉陰謀説」取っているようであること。
C群馬県史などの通説は権現山城=榛名峠城としているが、別の
場所の城であるとしている。D名胡桃事件の時、根拠の説明はな
かったが、中山城は北条の支配下にあったとしていること。
である。
◆印は三宅先生
画像


【0】はじめに
三宅先生・・・「矢P遺跡の発掘」「名胡桃城の発掘・整備」

画像


【1】名胡桃城築城までの過程
1)中世
・平安時代
◆呉桃郡(くるみのこおり)→奈久留美(なくるみ)
(★『和名類聚抄』)

・南北朝時代
★正平4年(1349)畠山国清は建長寺内に宝珠院創建した

◆奈久留美(なくるみ)は鎌倉建長寺宝珠院領

・室町時代

◆1438 永享の乱
◆1440 結城の合戦

・15C後半
◆奈胡桃は多胡郡(吉井町)小串城主:小串成行の領地

輪初心■【群馬のカタクリの里7選】&『関東のカタクリの
  名所7選』
★小串カタクリの里は小串城・小串館&小串城(吉井町小串)
http://53922401.at.webry.info/201204/article_16.html

◆1464〜1482 享徳の乱

◆1467〜1477 応仁の乱

◆延徳4年(1492) 沼田景久が名胡桃三郎景冬に与えた。
(★沼田の「根元記」)

・明応元年(1492) 沼田顕泰は沼田城の支城として名胡桃館を
 築いた。

2)武田・上杉・北条の上野侵攻
@ 1527〜1552 北条氏康・氏政の北上・・・武蔵→南上野
A 1552 長尾景虎の南下・・・・・・越後→北上野・東上野
@ 1557〜 北条氏康・氏政の北上・・・
A 1560〜1561 長尾景虎の南下 (小田原攻撃)
B 1561〜   武田信玄の東進・・・・・・信濃→西上野
A 1562〜 上杉政虎の南下

@北条氏政
御嶽城→平井城→
A上杉謙信
宮野城・中城・箱崎城・諏訪の木城・小川城(名胡桃)・沼田城
 白井城・(★総社城)・厩橋城
B武田信玄
 ★追加・・・南牧砥沢城→国峰城→・・・和田城

◆永禄9年(1566) 小中家成宛の上杉輝虎文書
 名胡桃の地を堅固に守るように命じた。
(★『上杉家文書』)

◆天正元年(1571) 武田信玄が死去。

◆ 天正6年(1578)3月13日(4月19日)上杉謙信が死去。
★5月〜6月 ▲御館の乱・・・★御の写真が消滅。
上杉景虎(上杉謙信の姉:仙桃院+長尾政景の子:甥)
   VS
 上杉景虎(北条氏康の7男→上杉謙信の養子)

◆1579〜 北条氏政・氏直・氏邦が東上野に侵攻した。

◆1579〜 相越同盟
上杉景勝&武田勝頼

【2】真田幸綱&真田昌幸の吾妻侵攻
★永禄3年(1560 )真田幸綱&真田昌幸の吾妻侵攻が始まった。




◆天正7年(1579)真田昌幸は名胡桃城を?
真田本城(砥石城・真田氏館)→(★鎌原城最初から味方)→
羽根尾城→岩櫃城→横尾八幡城→中山城→名胡桃城(1579)→
小川城→明徳寺城→沼田城(1580)

◆天正8年(1580) 北条氏は名胡桃城を攻めたが撃退された。
 小川城を攻略した。(★加沢記)

◆天正8年(1580) 小川可遊斎宛の真田昌幸文書
名胡桃300貫ではなく、代替え地をあたえる

◆天正8年(1580) 金井外記宛の真田昌幸文書
名胡桃50貫をあたえる

◆天正8年(1580) 塚本仁兵衛宛の北条氏直感状
奈胡桃の敵を討ちとったこに対して・・・

◆天正10年(1582)
◆武田氏滅亡→ 織田信長の「上野侵攻」

◆織田信長死去→ 天正壬午の乱
徳川は駿河→信濃 × 北条は上野→信濃



◆天正13年(1585)
 主君:徳川家康「北条に沼田を譲れ。」
  (★娘を北条氏直に嫁がせてあった。)
 真田昌幸「いやだ。自分で取った土地だ。渡さない。」
 と拒否した。

北条氏政の沼田城攻撃・・・矢沢頼綱(★綱頼)が撃退。

◆天正14年(1586) 河原左衛門尉・鎌原宮内少輔・湯本
 三郎右衛門宛真田昌幸の文書
 鉄砲15丁の補充命令書

天正14年(1586) 真田昌幸の中山城の攻撃により落城した。
  赤見山城守が討死したという。
(★「加沢記」)・・・
 飯森康弘先生は「これを裏付ける確かな史料は発見できない。」
としている。
 となると、三宅先生の考え通り、「中山城はずうっと北条氏
 の支配下になり、豊臣秀吉の陰謀説の可能性が高くなると
  思われる。」

★ 『関東古戦禄』には冨永助盛(★猪俣邦憲)や多米長定や
  垪和康忠などの有力武将が登場している。

◆天正16年(1588) 吉田新左衛門宛の北条氏邦の文書
 名胡桃300貫を与える。


◆天正16年(1588) 付 吉田新左衛門宛の北条氏邦の文書
長井坂城・中山城を補強し、権現山城の築城を急ぐように
と指示した。



◆◆◆ 羽柴氏の台頭
◆天正13年(1585)九州惣無事令

◆天正15年(1587) 関東奥州惣無事令
豊臣秀吉は大名間の私闘を禁ずる惣無事令を発令した。

 ★徳川氏、北条氏、真田氏は共に秀吉の権威に伏した。

◆天正16年(1588)刀狩り令・海賊停止令・喧嘩停止令


◆◆◆名胡桃事件***********************
◆天正17年(1589) 豊臣秀吉の裁定が行われた。
 真田昌幸が「祖先墳墓の地」であると主張した。
 名胡桃城を含めた全体の三分の一は真田領に、
 沼田城を中心とする三分の二は北条領と定められた。
 
 真田氏は手放した土地の代替地として信濃国箕輪を与えら
 れた。

★7月 津田盛月と富田一白が沼田に派遣された。榊原康政の元
 で沼田城は北条氏に引き渡された。

★真田昌幸は直ちに寄親:徳川家康に伝えた。

★10月10日付 真田信幸宛徳川家康の文書
「名胡桃の件・・・津田・富田を介し、(秀吉)に相談せよ。」
 (★群馬県史)・・・私の勘違いか? 


◆天正17年(1589)11月3日
 ◆松平家忠日記・・相模は真田の城を一つ取った。

×11月3日 沼田城代の北条氏家臣猪俣邦憲が、真田氏の
名胡桃城代:鈴木重則家臣:中山九郎兵衛を寝返らせ、
偽の書状で重則を上田城に呼び寄せた隙に名胡桃城を占領した。
鈴木重則は岩櫃城において計略に気付き、急いで城に戻ろうと
したが間に合わず、恥じて正覚寺において切腹した。
というのが通説であるが、・・・
 (加沢記)
みなかみ教育委員会では、第2次史料なので、これを使わな
 いことにしたそうである。

◆天正17年(1589)11月10日付 真田信幸宛徳川家康の文書
 徳川家康は事件または危機切迫・・・豊臣秀吉に訴えるよう
 に。

 ★真田昌幸が上洛した。
 真田昌幸は徳川を通して秀吉に訴えでた。

◆天正17年(1589) 11月11日付 北条氏直宛豊臣秀吉の文書
   宣戦布告状(「北条文書」) 
氏直への戦線布告状の写し・・・
 
◆天正17年(1589)11月21日付 真田昌幸宛豊臣秀吉の文書
事件を知って、激怒し(「来年には潰すぞ。」)と邦憲
 の処罰と氏直の上洛を求め、昌幸に沼田周辺を固めるように
 と連絡してきた。
★「今後北条氏が出仕したとしても、城を乗っ取った者を成敗
 するまでは北条氏を赦免しない。」と記している。・・・


◆天正17年(1589)富田左近・津田隼人宛北条氏直の文書
事件は中山氏の遺言で一切関係がない。

◆天正17年(1589) 北条氏直宛徳川家康の文書
弁明で秀吉への取りなしを求める書状であった。

★天正17年(1589)11月24日付 諸大名宛豊臣秀吉の文書
   北条氏との手切れ書を北条氏や諸大名に配布した。

★天正17年(1589)12月7日付 豊臣秀吉宛北条氏直の文書
「名胡桃城は真田氏から引き渡されて北条側となっている城なので、
そもそも奪う必要もなく、全く知らないことである。」と釈明した。



【3】名胡桃城に関する疑問点
1)何故、北条氏は沼田城を必要としたか?
 @越後・信濃への交通路
 A関東支配の一端
箕輪城・・白井城・・長井坂城 × 沼田城
箕輪城・・白井城・・中山城〜権現山城 ×名胡桃城
箕輪城・・(榛名峠城)〜大戸城 ×岩櫃城

 ※三宅先生は榛名峠城は不明である。としているが、
倉渕を想定している。


★箕輪初心:生方の追加****************

『群馬歴史散歩』「榛名峠城は権現山城ではない」赤見初夫著
(平成28年4月より筑波大学名誉教授:山本隆志先生が会長
 に就任した。)
僕も会員で、2回旅行に参加した。
今年、山本先生から「箕輪城の古道と石碑」とテーマに書いてね
と依頼されてしまった。
@昭和54年山崎一氏が高山村中山から権現に出る。
そこに榛名峠城が検出されたとした。
  名胡桃城の途中とされる。
 山崎一氏は高山村の権現から登りあげた峠にある城跡を踏査し、
 「榛名峠城」として報告した。
A昭和63年 唐沢定一先生も権現が榛名峠と呼ばれているとし
 て、現地調査の結果そこが榛名峠城だとされた。
B2人を論拠に群馬県教育委員会や地元教育委員会が説明版や諸
 資料に榛名峠城は権現山城のことだと記すようになった。
 群馬県史などでも通説として権現山城=榛名峠城としている。

CブログやHPにも榛名峠城は別名権現山城として記載している
 方が多い。
 
 権現は高山村中村の三島神社のことで古くから三島大権現とも
呼ばれ、その地は小字名も権現と呼ばれている。
権現山の北側の斜面、すなわち旧月夜野町側も権現という小字名
であり、名胡桃地区では今でも権現山と呼んでいる。
山崎一先生や唐沢定市先生は
◆山城めぐり:富岡武蔵さん(焼き物で10年一緒)
榛名峠城は権現山城ではないシリーズ
http://s.webry.info/sp/tomioka.at.webry.info/201307/article_3.html
http://tomioka.at.webry.info/201307/article_4.html
http://tomioka.at.webry.info/201307/article_12.html

 久保田順一先生は「榛名峠城は、榛名の北側の砦では
  ないだろうか?」とおっしゃっている。
★私は「富岡武蔵さんに案内してもらった東吾妻町の
  『山の固屋城』かもしれない。」と思った。
 
箕輪初心●群馬【山の固屋城】=高崎の長野氏への堺目城
http://53922401.at.webry.info/201201/article_13.html
箕輪城→榛名湖→山の固屋城→川戸城===吾妻川===
対岸は岩櫃城である。



・天正15年(1587) 
・????箕輪在番猪俣邦憲(沼田城と兼任)は林に命令
  「真田との戦闘態勢を強化せよ。」(唯一の文書)

・12月27日付 猪俣邦憲は「榛名峠城法度」を林治部衛門に
  与えた。鉄砲など常備せよ。
 
一、戸張明立之事、朝五ツ打而可明之、晩景ハ七ツ大鞁同然ニ可立之事、
(『小田原市史』別編 城郭、41号文書)
●「城の門限3 上野榛名峠城の場合」より引用 
http://blogs.yahoo.co.jp/joukakukenkyuu/19546725.html
<現代語訳>
 戸張の門の明立=開閉は、朝は午前8時に開けるべし、
  夕方は午後4時に閉めるべし。
戸張・・・箕輪城には「丸戸張」がある。
 大手槻木門手前である。
 つまり、戸張は「北条の専門用語である。」と分かる。

★天正16年(1588) 5月7日付 吉田新左衛門宛(猪俣)邦憲判物
「比度権現山在城就申附」とある。
 吉田新左衛門が権現山に在城を命じられている。
「名胡桃三百貫之所出し置き候、本意次第可知行事」
 「本意」は名胡桃城の攻略を指すと思われる。
 名胡桃城奪取が達成でき次第名胡桃に置いて三百貫文の知行を
 与える。
  (★『戦国遺文:後北条氏編』)






2)何故、真田氏は沼田城を必要としたか?
@ 横尾八幡城→尻高城→中山古城→・・・
 名胡桃城→沼田城が欲しい。
A天正8年に自力で取った城
B真田に地形が似ていて守備しやすい。
C温泉の確保


3)何故、豊臣秀吉が名胡桃城を真田領としたか?
@秀吉の仲裁説・・・双方のいいようにした。
B秀吉の策略説・・・北条を叩くきっかけが欲しかった
C昌幸の策略説・・・北条が名胡桃城を奪ったとき、沼田を奪う。
C氏政の誤解説・・・秀吉の意図は読めなかった。
D邦憲の独断説
E中山氏の名胡桃奪取説
★三宅先生のこの設定をみると「豊臣秀吉の陰謀説」を
取っているようである。

4)いつどうして名胡桃城はできたのか?


【4】発掘調査から保存整備

画像

・1期・・・丸馬出
画像

・2期・・・三の丸&丸馬出
      二の丸の喰違虎口&枡形虎口
      橋は発掘した穴を使用している。
      ★県史跡だから、発掘できる。
      真田の築城・・・・ 
画像

画像

・3期・・・廃城後
画像
  






●▲■箕輪初心:生方の追加*****************
・天正10年(1582)

★9月 真田昌幸が徳川方に転じた。
 10月 北条氏は徳川氏と和睦した。
  上野国内で真田氏と北条氏の争いが激化した。
 10月27日 真田方沼田衆(矢沢頼綱=綱頼)が津久田(現渋川
 市赤城町)を攻めた。
 が、狩野大学助や須田弥七郎ら南雲地衆が撃退している。
▲猫城の戦い
★私の高校後輩:角田正衛ちゃん(溝呂木宿本陣家)が
「俺んちの先祖:角田3兄弟は北条の家臣として中山勘解由を
殺したんだ。だから、俺んち、勘解由の松があるんだ。先祖代
々400年以上言い伝えられているよ。俺んち、裏切り者だよね。
内緒ね?文書もあるよ。」
※加沢記にもでてくる。

 
12月、北条氏政・氏直父子は白井(渋川市)に進出した。
北条氏直は真田の拠点である岩櫃城と沼田城の中間にある
 中山の地を押さえる為、北条氏邦を向かわせ占拠させた。
 北条方の白井長尾憲重が中山古城を攻撃をして落城させた。

 北条氏邦は城普請に着手し、中山城が築城されたのである。
 斎藤慎一氏は、築城時期を12月〜閏12月までと結論付
 けている。
(★「関東の名城を歩く」北関東編:飯森康弘文責)

 沼田・吾妻地域では、すでに北条氏対真田氏の抗争が激化し
 つつあった。
 12月28日には、北条方の荒木主税助・須田加賀守ら利根
  川東岸の地衆が、沼田領の森下(昭和町)で戦功をあげて
  いる。こうした情勢で中山に進軍した北条氏邦は、利根川東
  岸の地衆荒木河内守ら200人余に久屋・沼須(沼田市)、
  森下・糸井(昭和村)での所領給付を約して帰属させ、
  中山を確保して沼田城を攻める意向を伝えている。

 北条氏邦は津久田城(渋川市赤城町)を兄:北条氏照から
 移管されており、狩野大学助ら南雲地衆も麾下において、
 沼田城攻略を進めることとなった。

・天正11年(1583) 中山の西方に隣接する尻高(高山村)を
本領とする尻高源次郎は、本領を安堵された。
 あわせて、中山城に常駐して働くよう指示を受けている。
(★「関東の名城を歩く」北関東編:飯森康弘先生文責)


北条氏の真田攻めの拠点とした。
3月 北条氏邦は元沼田城主沼田顕泰の子:赤見山城守を中山城に
 置いて守らせた。
赤見山城守に中山地衆ら57人を預けている。詳細な内訳は、
 中山地衆が18人、沼田浪人が6人、上川田衆が11人、
 下川田衆が12人、須川衆が4人で都合57人である。
 上川田・下川田(沼田市)はともに利根川西岸で沼田城の
 対岸にあり、中山へ向かう街道筋である。
  この時点で北条氏は、沼田城の利根川対岸まで押さえてい
 たこととなろう。
  (★「関東の名城を歩く」北関東編:飯森康弘先生文責)

★天正11年(1583)〜14年(1586)
北条氏が 中山城を築城したと推定される。と記している。            
 特に、中山城と長井坂城の築城手法は、同じ半折囲郭構造で
 驚くほど似ている、と指摘している。
(★中山城の現地説明板より:群馬県史)


〜〜〜猪俣邦憲〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 
箕輪初心●埼玉【猪俣4城】&猪俣邦憲=北条氏滅亡へ?
http://53922401.at.webry.info/201405/article_18.html
   
箕輪初心■箕輪城シリーズ21「第13代:猪俣邦憲」
http://53922401.at.webry.info/201010/article_35.html


◆◆「名胡桃砦攻略」→「名胡桃城事件」→「小田原攻め」の概略◆◆
●天正8年(1580)
@真田昌幸の「名胡桃砦攻略」→「名胡桃城築城」

●天正10年(1582)
▲織田信長・徳川家康の「甲斐侵攻」
A真田昌幸の北条氏への近づき

B武田家滅亡
C主君:武田家を失った真田家はピンチ!・・・方向性「決断」
 ・北条氏政への臣従⇒織田信長に臣従
   滝川一益(かずます)に従って・・

D「本能寺の変」:織田信長の死

E「神流川の戦い」:真田家も参戦
 真田昌幸・信幸・幸繁が滝川一益を下諏訪まで送る。
⇒主君:織田家失った真田家は失い再びピンチ!

F北条氏直・・・北条氏邦の白井城→沼田城侵攻。
G真田昌幸はこの年、主君を5人も変えた。
 ⇒北条→上杉→北条→徳川と主君を変えて生き残った。

H沼田を巡って  真田 VS 北条


●天正11年(1583)
I上田城築城・・・徳川家康に協力させた。★なんとしたたかな?

●天正13年(1585)
J主君:徳川家康「北条に沼田を譲れ。」(★娘を北条氏直に嫁がせた。)
 真田昌幸「いやだ。自分で取った土地だ。渡さない。」と拒否

K真田昌幸は主君を徳川から上杉に乗り換える。
 真田信繁(幸村)を人質に出した。

 徳川家康怒ったが真田家を攻める
L「第一次上田合戦」  真田 VS  徳川
3つの作戦で大勝利。★流石、知略の一族:真田

M真田昌幸は上杉景勝→豊臣秀吉に接近

●天正17年(1589)
N真田信幸は徳川家康養女:小松姫(本多忠勝の娘)を娶った。
O豊臣秀吉が惣無事令(大名同士の私闘を禁止)出した。
 豊臣秀吉の裁定。
  ・利根川左岸:東・・・沼田領の3分の2は「北条家」
 ・利根川右岸:西・・・沼田領の3分の1は「真田家」
  ↓ 一件落着と思っていたら・・・
P『名胡桃城事件』
 北条家臣の猪俣邦憲が、名胡桃城を知略で攻め落とした。

Q真田昌幸は豊臣秀吉に訴えた。
R豊臣秀吉は激怒 「北条家を攻めるぞ!小田原攻めじゃ〜あ。」

●天正18年(1590)
S北条家滅亡・・・天下統一達成
21  徳川家康の関東移封→真田信幸は沼田城主となった。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


◆◆ 「名胡桃事件〜豊臣秀吉の小田原攻撃への過程」 ◆◆


■天正17年(1589) 関白豊臣秀吉の裁定
?月 真田信之が徳川家康養女(本多忠勝娘)の小松姫と結婚。
 
春  豊臣秀吉は沼田問題の解決に取りかかった。
徳川家康に命じて、北条家臣を呼ぶように指示した。
北条家臣:板部岡融成が秀吉家臣が早速、秀吉に説明した。
「真田は徳川家康の家臣である。・・・・」
徳川家康は
「沼田は真田が自力で取った。・・・」
豊臣秀吉は
1)3分の2は北条
2)3分の1は真田
3)替え地が北条領から・・
(★群馬県史P712)

真田は了承した。
★それしか方法がなかった。

6月5日 秀吉の使者:一鴎軒が小田原にきら。
 「半年後、北条氏政が・・・伺います。・・・」

7月10日秀吉の家臣:津田隼人正・富田左近将監を派遣し、
真田昌幸に案内させた。

7月21日 沼田城の引き渡し
榊原康政が担当し、津田・富田が検使となった。
 真田信幸は沼田城から退去
 北条氏尭が受け取った。
(★群馬県史)
 関白豊臣秀吉の裁定で、
   ・沼田城を含む沼田領の三分の二が北条氏の領土.。
   ・名胡桃城を含む三分の一が真田氏の領土。+伊奈
   →真田信幸は沼田城を北条氏直に渡す。
       名胡桃城は真田氏に残す。


10月10日 徳川家康の真田信幸宛の手紙
「名胡桃の件・・・津田・富田を介し、(秀吉)に相談せよ。」

10月    真田昌幸も秀吉に手紙を送った。

11月  真田は上田にいた。
    
11月3日 名胡桃事件
猪俣邦憲は南西の榛名峠城から名胡桃城を奪取 
北条氏邦の右腕で、沼田城主:猪俣邦憲は、名胡桃城主:
 鈴木主水の配下、中山城主:中山九兵衛を調略し、偽の
 真田昌幸からの手紙で、鈴木主水を城外に誘った。
南西の榛名峠城(=権現山城)から名胡桃城を奪取した。
鈴木主水は沼田の正覚寺で自刃した。(名胡桃事件)
※小田原征伐勃発の口火を切った城である。
 {★名胡桃城の歴史・月夜野町(現みなかみ)教育委員会より}
  
●名胡桃事件「加沢記」
 北条氏邦の沼田城代:猪俣邦憲は、中山城
主:安芸守の2男:中山九郎兵衛に、「貴殿は中山城主であって当
然だ。北条につけば、名胡桃城&小川城は貴殿のものになる。」と
言葉巧みにそそのかした。中山九郎兵衛は姉婿の名胡桃城代:鈴木
主水(重則)に「伊那郡(もう一つの豊臣秀吉の分与地)の城取り
の相談あるから、上田に来るよう。」と偽りの真田昌幸の書状を出し、
鈴木主水を城外におびき出した。鈴木主水が異変に気づいて名胡桃
城に戻ったときには、中山九郎兵衛が名胡桃城を乗っ取ってしまっ
た後だった。鈴木主水は妻子を沼田城に取られたので、北条の味方
になるふりをしたが、鈴木主水は真田昌幸から預かった名胡桃城を
乗っ取られた責任からか、腹を掻っ切って果てるしかなかった。沼
田の正覚寺で自刃したという。この年に結婚した真田信之の妻:小
松姫(徳川家康養女)の墓のある場所である。話が出来すぎの感が
あるが、とにかく、猪俣邦憲は簡単に名胡桃城を手に入れた。きっ
と北条氏邦が「でかした。」と褒めたであろう。その後、北条氏邦は
真田昌幸の岩櫃城に総攻撃をかけようと、中山口・白井口・大戸口
から岩櫃城に向かった。中山口は猪俣邦憲が大将で、中山・尻高・
富永が攻撃開始をし、中之条の横尾八幡城で戦った。白井口は北条
氏邦の本隊軍で、中之条古城で戦った。大戸口からは上田を大将に
手古丸城を落とし、大戸の仙人窟陣城から様子を伺っていた。★も
しかしたら、箕輪城代:多米周防守や倉賀野城代:塀和伯耆守も応
援していたかもしれない。・・・・しかし、真田昌幸から、これを
聞いた豊臣秀吉は烈火のごとく怒り、北条氏政&氏直に宣戦布告状
を叩き付けた。・・・北条一族は、岩櫃城攻撃を断念した。猪俣邦
憲は名胡桃城の乗っ取り作戦の成功が原因で北条氏を滅亡に追い込
むなんて思ってもいなかったのである。
   (★上毛古戦記の要約等)


11月3日?に届いた真田昌幸から徳川家康の手紙
★真田昌幸が徳川家康に苦情をいつ言ったか不明だが、
 ?

11月3日
「相模が真田の城を一つ取ったので、加勢にゆく」
 (★『家忠日記』の11月3日の条)
 徳川家康の子:松平家忠は名胡桃事件のことを最初に記録して
 いる。要するに、駿河にいた松平家忠が11月3日に「北条家が
 真田の城(どこの城かわかんないけど)を一つ取った。」という
 事件を知ったということである。
 ★しかも、1日で名胡桃→駿府までとどくかなあ。
 群馬県史もこの文書を真実ととらえている。
「名胡桃城を猪俣邦憲が急襲し、主水を討ち果たして奪い取った。」

11月4日〜11月15日頃?
★徳川家康から豊臣秀吉に手紙で知らされたはずである。
 

  →豊臣秀吉は北条氏政に質問?
→豊臣秀吉はすぐに被害者:真田昌幸に手紙を書いた。

11月21日 豊臣秀吉からの真田昌幸宛の書状
  「秀吉に上洛しない北条が、一部の部隊とはいえ、
   秀吉の裁断を破って真田領を侵した
   ことは〜〜〜。」と激怒。
「北条家を討伐する」という意志を伝えるのである
   (★11月21日付「真田家文書」)

11月24日 豊臣秀吉からの北条氏政宛ての書状
豊臣秀吉は、11月24日付の宣戦布告状(「北条文書」)に書い
てある。通説は
@豊臣秀吉は、徳川家康の嘆願を聞き入れ、北条家を政権内に迎え
入れてやることにした。北条家を迎え入れるにあたって、北条家
の領土を確定しておく必要が出てきた。
A豊臣秀吉は北条家の家老を上洛させ、北条家の領土について尋
ねた。「以前、北条家と徳川家康殿が同盟と結んだ時(天正13年
(1585)、上野国は北条家が領有するということを確認し合った。
それなのに、上野国の沼田は未だ家康殿の配下:真田昌幸のもの
となっている。これはおかしいのではないか」と言い出した。
豊臣秀吉は、「これを理由に、北条家が出仕しないなどと言い出
しては面倒だ」と思い、次のような裁定を下すことにした。
「真田が領有している知行の三分の二は沼田城に付けて北条に与
え、三分の一は真田のものとし、そのなかにある城も真田のもの
とし、さらに、右の北条に与える三分の二の替地は家康から真田
に渡すこととする」とした。
Bそして、この裁定により、沼田は北条家に譲渡されたのである。
B豊臣秀吉は真田昌幸の持つ沼田の領地の三分の二を北条家に渡
すという北条の恩を着せる裁定をしてやったのに北条家は満足せ
ず、あろうことか、真田昌幸の持ち分として残された名胡桃城を
攻撃し、奪い取ってしまったのである。
秀吉が怒るのも無理もない。・・・というのが通説である。
豊臣秀吉の書状が、そのまま信じられてきた。
(★11月11日付の宣戦布告状(「北条文書」)
「北条のこと、近年、公儀ををなえがしろにし、・・・
 殊に関東における狼藉の事、・・・踵を回すことべからず。」

11月 27日 上田から岩櫃城へ戻った。

12月1日岩櫃城着陣

12月4日 豊臣秀吉は小早川隆景。吉川義広に小田原の
出撃を準備せよ。
 (★小早川文書・吉川文書)



12月9日 北条氏直→津田・富田宛に釈明書
 1)名胡桃のことは一切知らない。
鈴木主水と中山一族の問題である。
2)上杉景勝は真田の件で沼田に侵攻してきた。
 3)真田は沼田の百姓を一人も残さなかった。
 4)真田は中之条を渡してくれなかった。


12月9日? 北条氏直は父:氏政を上洛させた。 

12月9日 北条氏直→豊臣秀吉宛の書状
 1)名胡桃に努々(ゆめゆめ)当方より乗っ取らず・・・。
 2)最後通達にはびっくりした。
 3)正月か2月、上洛したい。

12月中旬 徳川家康は豊臣秀吉に取りなしたが、
 小田原城攻撃は取りやめなかった。


12月中旬  北条勢:猪俣邦憲は3方向からの岩櫃城攻撃。
岩櫃城周辺に大戸から攻撃。
   @中山口→横尾八幡城の戦い
    A白井口→中之条古城の戦い
    B大戸口→手古丸城占領→仙人窟陣城で監視
          (群馬県東吾妻町大戸) 
  (★加沢記)
 ★北条は危機状態なのにまだ攻めているようだ。
  加沢記が正しければ・・・・

12月20日 真田の活躍
     


12月23日
→豊臣秀吉の小田原征伐の口実
 ・豊臣秀吉は北条氏追討の指令。
  猪俣邦憲が兵を撤退させた。 

箕輪初心●群馬【名胡桃城A】=北条氏滅亡のきっかけの城
http://53922401.at.webry.info/201202/article_22.html

★★箕輪初心●【横尾八幡城】
http://53922401.at.webry.info/201202/article_12.html



10月25日〜 北条氏直は、下田城・韮山城・・・松井田城・西牧
 城・倉賀野城・沼田城などに迎撃準備を密かに命じた。



◆◆ 名胡桃事件の発端に関する諸説 ◆◆
実行犯は猪俣邦憲で間違いないだろう。
しかし、状況・・・猪俣邦憲の立場や考え、北条氏邦の考え、
豊臣秀吉の思いや考え、小田原北条氏の置かれた立場が微妙
だった。名胡桃城奪取事件が小田原討伐の口実を与えたので
ある。それがなければ、真田と北条の名胡桃城という小城の
争奪戦に過ぎない。
 しかし、勝てば官軍:勝者の論理・・勝った側、生き残った
側からの視点で歴史を見がちである。
猪俣邦憲は北条氏邦の右腕:沼田城代を任される程の人物である。
小田原北条本家が豊臣秀吉に睨まれ微妙な立場なのは知らない訳
がない。
承知で侵略したのか?知らなくて侵略したのか?
知ってて名胡桃城を奪ったのなら、思慮がなさ過ぎ?
知らないで名胡桃城を奪ったのなら、馬鹿過ぎ?
★元職場に猪俣邦憲の子孫がいて、びっくりだった。
★猪俣邦憲は北条家bS富永一族:富永助盛である。


【1】猪俣邦憲の独断説=通説多数説
  (★鉢形城開城:鉢形城博物館など)
 猪俣邦憲は字のごとく猪武者で、虚突猛進型の軽率な人間と
  評価する説
小田原北条宗家から取り返しのつかない越権、愚を犯し主家を
 没落させた人物と言われてもしかたがない。事実言われている。
 北条氏邦も、「部下の管理不行き届き」「配下が取り返しのつか
 ないことを・・。」みたいなことを言っている。


【2】北条氏邦の命令説
猪俣邦憲は北条氏邦の命令を受けて、名胡桃城を攻撃した説
・・・北条氏邦が真田昌幸の岩櫃城に総攻撃をかけようと、
3方向から、攻撃したこと考えると、猪俣より直情型の氏邦
 が命令したと解釈する方が当たり前だろう。何故なら、氏邦
 が小田原城の籠城より、武蔵国(埼玉県寄居町)の鉢形城に
 籠城を考え、すぐに鉢形城に戻ったような戦術優先型の人物
 である。


【3】徳川家康の陰謀説(★真田太平記など)
 徳川家康の手紙を忍者に持たせた。この時点では、徳川家康は
 自分から、上杉景勝に真田信繁(=幸村)を人質だして、反抗
 する真田昌幸をなんとか自分の配下にもう一度なびかせたかっ
 た可能性がある。天正17年(1589)・・この年に結婚した真田
 信之の妻:小松姫(徳川家康養女←本多忠勝の娘)を内偵の役
 目をさせたかったのかもしれない。そして、1年後には、真田
 信之は沼田城主になったのだ。・・・できすぎだなあ?
 

【4】豊臣秀吉の計略説・陰謀説・・・なんとか口実をつけて
@2012年箕輪初心の勝手な妄想
 なかなか自分になびかない北条氏政&伊達政宗が気になって
 いたのではないだろうか?・・・つまり、沼田領の分配計画
 は大規模な北条氏抹殺&真田封じ込め計画があったのでは?
 真田に反感を買わせるような作戦ではなかったのではないだろ
 うか?
徳川家康の勧めもあり、北条家が豊臣秀吉の家臣になるはずだっ
たのに、そうなる前に、豊臣秀吉の怒りをかってしまったのである。
どうして北条氏が豊臣秀吉の怒りをかったのかという通説は、
1)北条家が真田家の名胡桃城を強奪したこと
2)北条家がすぐに上洛しなかったこと、そして、北条氏直
  を使いとしたこと
が理由だとしている。特に、「名胡桃城を強奪したこと」が
豊臣秀吉に北条家を討伐することを決意させた決定的な事件だ
ったとされている。

つまり、名胡桃城強奪事件が北条家の滅亡を決定づけたとされ
ているのは、豊臣秀吉はこの事件を知るやいなや「北条家討伐」
 を決めているという事実によっている。しかし、
なんとか、北条に難癖をつけようとしているのでは?

A2013年 小田原城ボランティアガイドの真木さん
・「名胡桃事件の豊臣秀吉の陰謀説が資料によって解明されつつある。」



B森田善明説
●2016[図解]戦国10大合戦の大ウソ:森田善明著
「北条家が真田家の持つ小城を一つ取ったという」
この小さな事件が、なぜ、「北条家を討伐する」という事態に
まで発展してしまうことになったのか?
結論・・・
『戦国10大合戦の大ウソ』では小田原合戦の状況から考えて、
「『秀吉政権が名胡桃事件を仕組んだ』という疑いは極めて濃厚
である。小田原合戦の発端となった名胡桃事件を豊臣秀吉の自
作自演とみている。」
理由
豊臣秀吉は、11月24日付の宣戦布告状(「北条文書」)に書い
てある。通説は
豊臣秀吉は北条家老から「以前、北条家と徳川家康殿が同盟と
結んだ時(天正13年(1585)、上野国は北条家が領有するという
ことを確認し合った。それなのに、上野国の沼田は未だ家康殿
の配下:真田昌幸のものとなっている。これはおかしいのでは
ないか」と言い出した。
豊臣秀吉は、「これを理由に、北条家が出仕しないなどと言い出
しては面倒だ」と思い、次のような裁定を下すことにした。
「真田が領有している知行の三分の二は沼田城に付けて北条に与
え、三分の一は真田のものとし、そのなかにある城も真田のもの
とし、さらに、右の北条に与える三分の二の替地は家康から真田
に渡すこととする」とした。
Bそして、この裁定により、沼田は北条家に譲渡されたのである。
C豊臣秀吉は真田昌幸の持つ沼田の領地の三分の二を北条家に渡
すという北条の恩を着せる裁定をしてやったのに北条家は満足せ
ず、あろうことか、真田昌幸の持ち分として残された名胡桃城を
攻撃し、奪い取ってしまったのである。
秀吉が怒るのも無理もない。・・・というのが通説である。

豊臣秀吉の書状が信じられてきたのだが、
「実は、この供述はでたらめだった」というのが次の本・・・・

●『北条氏滅亡と秀吉の策謀』:森田善明著 (歴史新書)
小田原合戦を引き起こしたのは秀吉側の人間で北条は悪くない。
「北条氏は無実である。」と強く主張する本である。


★真実は不明である。


◆参考資料・文献・資料・ガイドの話
「群馬県史」の戦国時代:浅倉直美文責
「北条五代」:相川司著
「後北条領国の地域的展開」浅倉直美著
「鉢形城と戦国武将」:黒田基樹著1000円
「関東三国志」:鉢形城博物館編860円  


◆参考サイト
 ウィキペディアなど

箕輪初心▲神奈川【小田原城の歴史詳細】:大森氏→北条氏5代
http://53922401.at.webry.info/201411/article_26.html

箕輪初心:生方▲真田丸98『名胡桃城の復元』
http://53922401.at.webry.info/201606/article_7.html

箕輪初心:生方▲真田丸97【第22話『裁定』】&加沢記「名胡桃事件」
http://53922401.at.webry.info/201606/article_6.html

箕輪初心:生方▲スキーbP3『神楽』
&真田丸86【名胡桃城のガイダンス施設】
http://53922401.at.webry.info/201604/article_17.html

箕輪初心:生方▲真田丸18【名胡桃事件への過程→秀吉の小田原攻撃】
http://53922401.at.webry.info/201601/article_21.html

箕輪初心●群馬【名胡桃城@】=北条氏滅亡のきっかけの城
http://53922401.at.webry.info/201202/article_21.html

箕輪初心●群馬【名胡桃城A】=北条氏滅亡のきっかけの城
http://53922401.at.webry.info/201202/article_22.html

箕輪初心●群馬旧高山村の城:中山城1回目&並木城
http://53922401.at.webry.info/201201/article_23.html

箕輪初心●岩櫃城探検隊第8弾【中山城2回目】
http://53922401.at.webry.info/201311/article_13.html
★名胡桃城代:鈴木主水が呼び出された城

★★箕輪初心●【横尾八幡城】
http://53922401.at.webry.info/201202/article_12.html
★真田昌幸が待機した城

箕輪初心:生方▲箕輪城173【後北条氏の西上州支配VS真田昌幸】
http://53922401.at.webry.info/201510/article_8.html

箕輪初心:生方▲真田丸18【名胡桃事件への過程→秀吉の小田原攻撃】
http://53922401.at.webry.info/201601/article_21.html




★明日は未定

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
箕輪初心:生方▲名胡桃城発掘の三宅敦気先生講演会「名胡桃城」 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる