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zoom RSS 箕輪初心:生方▲箕輪城229【黒田基樹説を加えた「北条氏邦の鉢形領支配→箕輪城主への過程」

<<   作成日時 : 2016/11/23 05:52   >>

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北条氏邦が鉢形領支配→箕輪城主になるまでの過程を今まで
「群馬県史:浅倉直美文責」や「北条五代:相川司」著など
をベースに書いた年表に『鉢形城と戦国武将』:黒田基樹著を
加味して、新しく年表を書き足した。●印は黒田基樹先生の
部分である。石塚三夫館長先生、いい本を紹介してくださって
ありがとうございます。
画像

画像



●▲■北条氏の動向

・天文10年(1541) 北条氏邦は北条氏康の氏康4男:実質3男
 として生まれた。
●【黒田基樹説】
@天文10年(1541)説
  北条氏邦は北条氏康の氏政・氏照の弟として生まれた。
(★狭山藩史料:北条系図)
A天文13年(1544)説
(★堀尾古記)

天文10年(1541)藤田康利の娘:大福御前が生まれた。
  (★正竜寺過去帳)
 


・天文15年(1546) 河越の夜戦
     上杉勢が大敗。
     上杉憲政は平井城に逃走。
  
・天文18年(1549)
 7月 藤田重利が北条氏康の傘下となった。
   藤田重利は北条氏康の「康」の字を貰って、
    藤田康邦と名前を変えた。


・天文19年(1550)頃   
北条氏康の3男乙千代→晋太郎→氏邦が藤田重利
の長女:大福御前の娘婿となった。
 武蔵児玉党を支配した。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心●埼玉長瀞【天神山城2回目】=北条氏邦の支城
http://53922401.at.webry.info/201409/article_27.html

箕輪初心○埼玉【花園城】=鉢形城の支城
http://53922401.at.webry.info/201405/article_17.html   

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 藤田康邦は花園城(寄居秩父バイパスの入り口西の
  山)に移った。

 北条氏邦に天神山城と花園城を譲渡(伝)。

  
・天文21年(1552) 今川義元の娘:嶺松院が武田信玄の子武田義信に
・天文22年(1553) 武田信玄の娘:黄梅院が北条氏康の子北条氏政に
・天文23年(1554) 北条氏康の娘:早川殿が今川義元の子今川氏真に
・天文24年(1555)甲相駿の3国同盟

弘治元年(1555) 藤田康利(康邦)が死亡した。


・永禄3年(1560) 上杉謙信の第一次関東出兵
  藤田氏息子は一端は上杉謙信についた。
   
9月 北条氏によって沼田城は攻め落とされた。


永禄4年(1561)9月 「藤田乙千代丸」
   【黒田基樹説】・・・初見史料



永禄5年(1563)  北条氏邦に鉢形城入城説
 「永禄5年以前のことであろう。」
 (★『新編埼玉県史』資料編6)

永禄5年(1563)元服し、新九郎→藤田氏邦をなのった。

永禄7年(1565) 初見の朱印状

〜〜〜北条氏邦〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心:生方●埼玉鉢形城【第54回寄居北條まつり】
http://53922401.at.webry.info/201505/article_15.html

箕輪初心●埼玉【第53回寄居北條まつり後編:攻防戦】&
『鉢形城の歴史詳細』
http://53922401.at.webry.info/201405/article_15.html

箕輪初心○埼玉【第53回寄居北條まつり前編@準備〜パレード】
http://53922401.at.webry.info/201405/article_14.html

箕輪初心●埼玉:鉢形城4回目:外曲輪〜三の曲輪〜
二の曲輪〜本曲輪
http://53922401.at.webry.info/201311/article_30.html

箕輪初心●埼玉『鉢形城』&北条氏邦の箕輪城の大改修
http://53922401.at.webry.info/201305/article_16.html

箕輪初心●『鉢形城の歴史詳細』&47回寄居北條まつり2008
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201305/article_15.html

箕輪初心◆埼玉『第52回寄居北條まつり2013鉢形城』
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201305/article_14.html

箕輪初心●箕輪城115【赤備え】&北条三鱗会の井伊直政
手作り甲冑@」
http://53922401.at.webry.info/201311/article_29.html

箕輪初心■箕輪城シリーズS「第12代:北条氏邦」
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201010/article_34.html

   以降、北条氏邦の秩父経営の本拠となった。
  秩父衆を掌握した。

 「藤田晋太郎」=北条氏邦は藤田康邦の「邦」を貰って、
 「北条氏邦」と名乗った。

★また、北条北条氏邦の奉公人:富永助盛は戦功をあげ、
 北条氏邦の右腕として活躍した。
 富永助盛は富永政家→政辰の身内だと思われる。
 猪俣邦憲は養子前は、江戸衆:富永家の一族:富永能登守助盛
 と名乗っていた。
 ※西伊豆土肥の富永一族は江戸城の2の丸にいて、武蔵に8万石の
 bRの実力者であった。富永一族は伊豆の土肥・武蔵も領国であ
 った。江戸城栗橋城や・・・・。 
 富永主膳助盛は猪俣の養子に迎えられた。
 北条氏邦が鉢形城藤田氏の婿養子に入った時の隣(現美里町)
 の猪俣城・白石城・虎ヶ岡城=円良田城(つぶらた)を支配させた。

 北条氏邦より「邦」の字をもらった。
 猪俣邦憲を名乗らせた。


〜〜〜猪俣邦憲〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 
箕輪初心●埼玉【猪俣4城】&猪俣邦憲=北条氏滅亡へ?
http://53922401.at.webry.info/201405/article_18.html
   
箕輪初心■箕輪城シリーズ21「第13代:猪俣邦憲」
http://53922401.at.webry.info/201010/article_35.html

箕輪初心●岩櫃城探検隊第8弾【中山城2回目】
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201311/article_13.html

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

永禄8年(1565) 御嶽城:平沢政実は氏邦の指南を受けた。

永禄8年(1565)北条氏邦は深谷上杉氏と談合するため、
鉢形村関山に到着した。
*黒田説・・・鉢形城は住んでいない。


永禄9年(1566) 御嶽城:長井政実は氏邦の指南を受けた。

・北条氏邦は武蔵国鉢形城主として、北条家所領のうち
 上野4分の3? ・武蔵半分を支配。

※ 永禄9年(1566) 9月29日
武田信玄が箕輪城を攻略した。


・永禄11年(1568) 北条氏邦は越相同盟交渉の北条方の責任者
  として尽力。

12月 北条氏邦は上杉輝虎(謙信)との同盟を
  由良氏を通じて打診した。


・永禄12年(1569)
1月 北条氏政は駿河薩埵峠へ着陣し、興津で武田勢と対峙した。
北条氏邦も出陣していた。

2月24日付(黒田説1569年)深谷上杉氏宛北条氏康書状
 「 鉢形衆」の名前が見える。

永禄12年(1568)6月 越相同盟を成立。
北条氏康・氏政・氏照・氏繁・氏邦が起請文を提出した。


この頃、北条氏邦は烏川以南の地を約束されている。

永禄12年(1568)までに 本拠を花園城から鉢形城に移した。
黒田説・・・「鉢形領」は花園領・秩父領・御嶽領となった。

12月23日 北条氏邦は小田原に向かった。
黒田説・・・武田への防衛体制強化の為か?



〜〜〜武田信玄の動向〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
・永禄11年(1568) 武田信玄の駿河侵攻
  武田信玄は武田&今川氏真の甲相同盟を破棄して駿河
  今川領国へと侵攻した。武田信玄は方針を転換したのだ。
 北条氏康は上杉謙信と越相同盟を締結し、武田信玄に対抗した。
北条氏康は今川家を支援し、信玄と対峙する状況となった。

・永禄12年(1569)
1月 北条氏政は駿河薩埵峠へ着陣し、興津で武田勢と対峙した。


・永禄12年(1567) 武田信玄の北条領侵攻
箕輪初心▲武田信玄:鉢形城〜滝山城〜小田原城〜三増峠の戦い
http://53922401.at.webry.info/201411/article_19.html


・永録12年(1569)武田信玄49歳。
8月24日 武田信玄は2万の軍勢を率いて甲府躑躅ヶ崎館を出立
 した。
   (★『甲陽軍鑑』)
西上野の碓井峠を越えて南下し、安中・・藤岡・・
 ★おそらく、箕輪城代:浅利信種と合流した。
  富岡国峰城主:小幡憲重・信貞も合流した。

 武田信玄・武田勝頼・武田信廉・
 山県昌景・内藤昌豊(松本城)・馬場信春
 ・曽根昌世・浅利信種・小幡信貞・・・・・etc。

9月10日  鉢形城を包囲し、北条氏邦を攻撃した。
  (★『上杉家文書』)


***上野国の領国化推進*******************
・元亀2年(1571) 武田軍の興国寺城攻撃。
  →北条家臣:垪和(はが)伊予守氏続父子が撃退。
★垪和伊予守氏続→垪和伯耆守康忠→垪和信濃守??
 北条氏康が死亡→甲相同盟が復活。
 
12月甲相和睦が成立。
  →興国寺城は武田氏の属城。
 ※武田信玄が実力では落とせなかった城の一つである。
 穴山信君の家臣:保坂掃部・向井伊賀守正重
 ・曾根下野守正清らが在番。

「垪和は八王子城代になった。
@和田信業は武田家側近の跡部大炊守資勝の子で和田業繁の娘を
 もらって養子に入ったこと 
A和田信業は1582年の武田氏滅亡で、小田原城の北条氏直の
 家臣になった。
信業は人質として、「御料人様」(信業の娘)を小田原に差し出
すことにした。7歳の女子が初めて帯をしめるお祝いである
 「帯とき」に、後北条氏重臣の垪伯(垪和伯耆守康忠)に
 立ち会いを頼むなど祝儀の準備は進んだ。「御料人様」の
 慰め役に石原作右衛門(三枝一族)が命じられていること 
B御北様(穴山梅雪の妻=信玄娘)は小田原?に百疋
  (反物?お金かも)を届けるため、
同行者に大久保長安と石原作右衛門を頼んだこと
(★山梨県:石原家文書)

元亀2年(1571)12月 越相同盟崩壊。
北条氏邦は兄:氏政から上杉謙信の計略を命じられた。


・武田信玄は遠州諸城を落とし、浜松城に肉薄。


元亀3年(1572) 11月 武田信玄から割譲された御嶽城を
併合した。賀美郡・児玉郡が鉢形城支配になった。


天正3年(1575)末 北条氏邦は「安房守」の官途名を受領?
*上野守護山内氏の歴代官途名である。
 政治的地位の確立か?(★黒田基樹説)
北条氏照は「陸奥守」の官途名を受領?



・天正5年(1577) 真田昌幸は白井城代

・天正6年(1578) 
 6月 上杉謙信、死去。
 
 9月 鉢形城主・北条氏邦ら30000で沼田城に侵攻
   沼田城を占領。猪俣邦憲が沼田城の城代  

  三国峠→越後:浅貝城(苗場スキー場前)
   →越後:荒砥城(神楽&湯沢の峠)→樺沢城へ 

天正6年(1578) 御の乱
9月 北条氏邦は北条軍の先陣として越後に進軍した。
沼田城・女淵城・善城などを管轄。
北条氏に従属してきた白井長尾氏(★長尾憲重)
を指南した。
(★『鉢形城と戦国武将』:黒田基樹著)
 
10月 真田昌幸は北条氏邦の名胡桃城&小川城攻撃
     大雪のため、失敗。   

 武田勝頼は真田昌幸に沼田城攻略を命令を出した。

天正7年(1579)甲相同盟の崩壊。
  西上野で 北条 VS 武田

天正7年(1579)〜天正10年(1582)
北条・武田の境目の神流川流域に中立「半手」地域があった。
 村が双方の武力に協力しないことを理由に、両方に年貢を
 半分ずつ払い、進入しないなとの約束をした。
 鉢形領では阿久原・渡瀬である。


天正7年(1579)6月16日 長井政実判物
「長井領に上野北谷・片切に、阿久原・渡瀬など「半手者」
を寄せ付けてはいけない。来たら捕捉せよ。」

 武田領では旧万場である。
  「飯塚家文書」「真下家文書」
★群馬県立文書館に文書がある。青木裕美先生がこの研究の
第1人者であろう。


辰=天正8年(1580)12月1日付 長谷部備前守宛氏邦朱印状
半手者が味方の忍領で少しでも、狼藉をしてはならない。

天正8年(1579) 8月 沼田城将:用土新六郎(藤田信吉)
が武田信玄に従属した。

天正10年(1582) 
2月 織田信長の武田領国侵攻に
 合わせて、西上野に侵攻した。
 武田方の箕輪城代:内藤昌明
赤坂城:和田信業
岩櫃城:真田昌幸などを調略した。

・3月11日 武田氏滅亡。
・3月24日 滝川一益は上野支配を織田信長から命じられた。
北条氏政・氏邦・・・・内藤昌明・和田信業・真田昌幸など
が織田信長に臣従した。

・6月2日 本能寺の変 織田信長が死亡。


・6月19日・20日 神流川の戦い
北条氏政・氏邦 VS 滝川一益
  滝川一益軍が敗退。
  ::::::滝川一益軍を追撃して信濃に侵攻した。
西上野の領有化・・・
小幡氏・安中氏・高田氏・後閑氏・高山氏・木部氏・和田氏
倉賀野氏・内藤氏・・大戸浦野氏・宇津木氏の領国





〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
◆真田昌幸の動向             
天正6年(1578) 御の乱
10月 真田昌幸は北条氏邦の名胡桃城&小川城攻撃
     大雪のため、失敗。   
 武田勝頼は真田昌幸に沼田城攻略を命令を出した。

・天正7年(1579)
 真田昌幸が、上州名胡桃城と小川城を攻略。
 上杉氏と同盟した武田氏の家臣真田昌幸に命じて、
 利根川の渡河点警護と後北条氏から沼田領を奪取するための
  前線基地として本格的に築いた。
*名胡桃城築城・・・・城代は鈴木主水重則。
★八木節に出てくる「主水」である。


・天正8年(1580)     
 3月 北条氏邦が名胡桃城&小川城再攻撃した
     失敗。  

 3月 武田勝頼が矢沢頼綱に北条から死守を褒め、
    調略を進めるように指示。真田昌幸を送ることを
     伝えた。   (★加沢記)

 5月 明徳寺城(旧月夜野町後閑)→権現山城(=榛名山城)
  の戦い
   ※明徳寺城・・・関越自動車道の脇にある。
   ※権現山城(=榛名峠城)・・・名胡桃城の南西の峠
  ◆榛名峠城は権現山城でない。どこか不明。
   (★みなかみ教育委員会:三宅敦気氏の説 
   
  真田勢の矢沢頼綱は沼田城を攻略。
    
    北条氏の沼田城代:藤田信吉(北条氏邦義弟)が降伏・・・
    ★藤田は矢沢の調略に乗った可能性がある。      
    ★藤田信吉は北条氏邦の義兄弟に当たる。    
    名胡桃城は沼田城と岩櫃城の中継地となった。
     武田氏の沼田城代:藤田信吉が誕生。    


・天正9年(1581)
 2月 沼田平八郎景義が沼田城奪還を狙って攻撃。
 
 3月11日 真田昌幸が沼田城を再攻略。
        沼田城代は海野兄弟。
 
  ・沼田城代の海野輝幸父子(昌幸母方叔父)の不満
 →北条氏にそそのかされ反乱。
  
  →真田昌幸・矢沢頼綱(昌幸父方伯父)は攻撃し、討伐。
   (かしょう山へ)
  
  真田昌幸の嫡子信之が城主。
城代は矢沢頼綱(幸隆弟)。
    岩櫃城は上田・沼田間の基軸となり、真田支配が強化。
・岩櫃城は池田・鎌原・湯本が城代。

・真田昌幸は甲斐新府城の普請奉行。
   出浦がただの割り当てされた一部で真田昌幸の築城では
   ないという説もある。    

・武田氏は遠江方面の高天神城を失い、木曾義昌や穴山梅雪等
   の家臣団の離反が相次ぎ、滅亡への道を進む。

・天正10年(1582)
 1月・徳川家康の命で真田昌幸が小県郡の土豪(丸子氏など)
    を制圧。→真田配下。 丸子城や虚空蔵山城など

2月 真田昌幸は、武田勝頼を迎えるため、岩櫃山の南に
   潜竜院を創建。祢津氏が院主。 

3月11日  武田氏が滅亡。
天目山景徳院に墓がある。
   ★高崎の木部範虎も戦死?自刃?した。

箕輪初心:生方▲真田丸16【真田の選択&武田勝頼の最後の真偽】
http://53922401.at.webry.info/201601/article_19.html

箕輪初心●真田3代C『真田信綱→真田昌幸の時代』
http://53922401.at.webry.info/201111/article_29.html




〜〜〜●後北条氏の西上州支配〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
■天正10年(1582) 
3月11日  武田氏滅亡
   →禰津氏などへ働きかけで、北条氏へ服属。
上野の武士は一時、武田に従属。
   内藤昌明・和田信業・倉賀野景秀など・・


3月25日 織田家家臣:滝川一益が箕輪城に入城。
   箕輪城は人質の城とした。


6月2日 本能寺の変で織田信長が横死。
6月9日 滝川一益に知らせが届く。
6月17日 滝川一益は箕輪城の上州国人衆の人質を返還し、
       協力依頼。

▲神流川の戦い
6月18日 織田家の滝川一益VS北条氏邦
  1回目は、滝川軍優勢。北条軍劣勢。
6月19日 
  2回目は、北条氏直の本隊が小田原から到着。
    滝川一益は神流川合戦で敗れて去った。
      
   ふたたび北条氏邦が占拠。
神流川合戦に垪和康忠が北条の勝利に貢献。
→倉賀野城城主。   
    
 内藤昌武(★昌月)はこれに従った。 
       (ウキペディアのみの説)
  
 

箕輪初心▲埼玉上里【金窪城】&『神流川の戦い』詳細
http://53922401.at.webry.info/201409/article_21.html

箕輪初心◆高崎【第16回新町神流川合戦:滝川一益】
http://53922401.at.webry.info/201211/article_3.html

箕輪初心●箕輪城シリーズR「第11代:滝川一益」
http://53922401.at.webry.info/201010/article_33.html




〜〜〜北条氏邦の西上州支配〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
★箕輪初心私見・・・北条氏康家老の大導寺政繁を信濃方面隊
(旧武田領の支配)の隊長にし、多米出羽守平長定・垪和氏続
(はがうじつぐ)などの「御由諸家」など有力な重臣などを次
々に召集し、傘下になった城に在城させながら、領土拡大を狙
っていったと思われる。箕輪城を守っていた者の中には、武田
家の旧家臣:保科正直もいたのだと思われる。弟の内藤昌明は
保渡田城に在城していた。


※内藤昌明・和田信業・倉賀野景秀などが北条家の家臣と
なった。
     
・6月22日 北条氏邦は祖母島・川島・白井に進撃した。


・6月29日 北条氏邦は貫前神社に禁制を掲げた。

・6月下旬 三の倉の戦い
  北条氏家臣:内藤丹波守・富永主膳と大戸真楽斎・大戸但馬守
  が戦った。
  →大戸氏が敗れ、手古丸城に籠城した。
  (★加沢記)
 ★内藤丹波守=内藤昌明ということになるだろう。
 ★富永主膳=富永助盛=猪俣家の養子:猪俣邦憲であろう。



?月??日 北条氏邦は箕輪城へ入城。西上野を支配。
  北条氏邦は鉢形城(埼玉県寄居町)と兼任統治。


※一方、北条氏直は
6月下旬
・松井田城に大導寺政繁を置いた。

〜〜〜★大導寺政繁〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜   

箕輪初心●埼玉川越B『川越城&蓮馨寺』&大導寺政繁の生涯
http://53922401.at.webry.info/201407/article_5.html

箕輪初心●群馬【松井田城】=安中忠政→大導寺政繁の城  
https://bblog.sso.biglobe.ne.jp/ap/tool/newnewseditdisplay.do

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


 ※織田政権追放→北条氏が西上州ゲット 
 ・碓氷峠(★おそらく入山峠:軽伊沢プリンスホテルシキー場
  の南)から越えて信濃に進入した。

・9月22日 北条氏直は長年寺に禁制を出した。 



●▲■ 後北条氏の城配置 ■▲●
@倉賀野城・・垪和(はが)伯耆守康忠&垪和信濃守? 
A厩橋城・・・垪和(はが)伯耆守康忠&垪和信濃守?
B箕輪城・・・北条安房守氏邦(鉢形城と兼任)→猪俣邦憲
    ( 後、→多米伊予守元忠・多米出羽守平長定
      →垪和(はが)伯耆守康忠・垪和信濃守?)
C沼田城・・・猪俣邦憲(富永主膳助盛?)
D平井城・・・多米周防守元忠
E西牧城(多野郡西牧藤井の塁)・・多米周防守元忠
 本城青木城(横浜鶴見区)には、山中主膳正
  (後北条家二十将の一人)を城代に配置。
F松井田城・・・大導寺政繁(川越城主と兼任)



■天正10年(1582)
・5月16日 北条氏のお抱え医師:糟尾法眼寿信の書状
 「房州様・・箕輪御在城・・・」
  つまり、北条氏邦は病気だった・

・7月 真田昌幸は家臣:日置五左衞門尉を北条の陣に送り、
    恭順の意を表した。

◆8月 天正壬午の変

天正壬午の乱・・・
  徳川家康 VS 北条氏直   
  甲斐遺領をめぐる紛争。
  北条氏直が若神子城に本陣を置いた。    

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
◆箕輪初心:生方▲山梨【若神子城】武田信玄の信濃攻略の拠点&
烽火集積地
http://53922401.at.webry.info/201504/article_29.html
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 
 北条氏の大導寺政繁が獅子吼城を占拠。

  徳川家康が新府城本陣
   対峙?
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◆箕輪初心:生方▲山梨【新府城】:武田勝頼60日の城&出浦盛清
http://53922401.at.webry.info/201504/article_25.html
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 
▲獅子吼城の戦い 
徳川家康 VS 大導寺政繁 
  服部半蔵の伊賀組や武田遺臣たちに攻められ落城?
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心:生方▲山梨【獅子吼城】:徳川家康VS北条氏政
http://53922401.at.webry.info/201505/article_1.html
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

・9月28日 徳川家康が真田昌幸に当てた書簡
   「上州中の一跡(長野氏の残した元の領土)・・・・
   甲州2000貫文・信濃諏訪郡と当地を保証する。」
 ★「箕輪の領地は、北条を倒したら、所領安堵する。
   突然、真田昌幸は徳川家康についた。


■天正11年(1583)
・5月  北条氏邦(氏康3男)在城
   (★「武州文書」(みのわの歴史)

■天正12年(1584) 北条氏直(氏康長男)は謙信の部将:北条
    (きたじょう)高広の厩橋城を攻略。
     →金山城主由良を護送。
     ・館林城主:長尾を護送。

■天正13年(1585) 北条氏直(氏康長男)は由良・長尾を解放。
    北条氏邦(氏康3男)在城「武州文書」
      (★みのわの歴史)
  
 徳川家康は真田昌幸に上州沼田領の北条氏への明け渡し
 を命令。             
 真田昌幸は明け渡しを拒否し、徳川家康と対立。

・7月 真田昌幸は徳川配下から上杉景勝に接近。
        
  北条氏との間で沼田城をめぐって対立


■天正14年(1586)
  北条氏照(氏康2男)は厩橋城で上野国人衆を人質・支配

  垪和伯耆守康忠が箕輪城に在城した?


■天正15年(1587) 箕輪在番猪俣邦憲(沼田城と兼任)は林に命令
      「真田との戦闘態勢を強化せよ。」(唯一の文書)
 

 北条氏邦在城(鉢形城と兼任) 
  「武州文書」(みのわの歴史)
★私見「1587年に、箕輪城の強化。本丸西門の橋台が建造された
  のでは?
 根拠は、→秋本先生「@本丸西門の下の堀の中にある橋台石垣。
 小田原城3の丸と似ている。」

 ※本丸から蔵屋敷の橋台から10mの所に1mの石垣(北条流)もある。

「A3の丸の4mの土塁は、鉢形城と同じ形式。」
※笑い積み・・・大きな石のまわりに小さな石・・・大きさを表現。

「B三の丸拡張工事があったのでは?(長野時代の堀を発見)。」


→工事人夫の割り当て 
C玉村の宇津木氏の5人の人足割り当て
  (★宇津木家文書)

@北谷(多野鬼石の真下城・飯塚城)の百姓に命じて、今年の秋
  穫れた穀物を箕輪城に治めさせようとした。
  (★飯塚文書)

(★北条氏の時代だと思われる御前曲輪の橋台)
 
  その後、上野の沼田城の城主も兼任。
  北信濃に勢力を持っていた真田家の名胡桃城+岩櫃城に隣接し
  紛争状態。
 

・12月27日 猪俣邦憲は「榛名峠城法度」を林治部衛門を与えた。
  鉄砲など常備せせよ。
  ※高山村権現山城=榛名峠城(★群馬県史など)
  しかし、久保田先生は榛名の北側の砦ではないだろうか?


〜〜〜おまけ:太田金山城〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
・天正11年(1583) 金山合戦。
  北条氏照軍は金山城攻略戦を開始。 江田城・反町城から・・
  金山城に残った横瀬勘九郎&家臣は由良国繁・顕長の変換を
  要求した。
 →北条氏政は弟:北条氏照&氏邦ほか3500騎で金山城、館林城
  を包囲した。
  太田城下の金龍寺、足利の長林寺住職らの仲介で和議が成立。
  由良国繁は金山城を退去し桐生城に隠居した。
     
・天正12年(1584)1月1日
  唐沢山城:佐野宗綱が由良国繁&長尾顕長領を襲った。
  須花坂合戦・・・由良国繁が戦死した。
  戦勝報告・・重臣:久米伊賀守、横瀬勘九郎を小田原城に
  派遣した。

  由良国繁は金山城を北条氏に明け渡した。
  @金山北城=北郭に宇津木氏久
   A金山西城=西郭に高山遠江守定重
(★由良氏の家老・・・高山彦九郎先祖)
  B金山根郭=八王子砦?下に大井豊前守
(★佐久:大井→武田家臣:高崎根小屋城→北条家臣)
    ★宇津木氏久達が在番した。

・天正15年(1587)
8月6日 北条氏直は清水正次を金山城主に命じ、513貫561文を
     宛行した。

9月2日 
  A北条氏直は清水太郎左衛門正次を派遣するため、
  10月中に城普請を終了させるよう宇津木氏久に命じる。
  (★群馬県史)
 B北条氏照(★北条氏康次男)は金山城には北条氏の家臣
  :清水太郎左衛門正次を派遣するため、
  10月中に城普請を終了させるよう宇津木氏久に命じる。
   (★宇津木家文書)
   ★氏直でも氏照でもどっちでもいいけど・・・
  
  C金山城本城に清水太郎左衛門正次
      (★群馬県史・太田市史)
  
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
★清水太郎左衛門正次は伊豆下田城主:北条氏bSの実力者。
箕輪初心:生方▲北条早雲と伊豆の城G【下田城】:水軍の城
http://53922401.at.webry.info/201507/article_22.html
http://53922401.at.webry.info/201509/article_1.html

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

■天正16年(1588) 〜天正17年? 
 ★「垪和伯耆守康忠死亡説は間違いで小田原城に戻った。
       →垪和信濃守が倉賀野城相続。
       多米出羽守平長定が箕輪城城主。

「第15代:多目(多米)出羽守平長定」(多目周防守元忠の子)
★多米出羽守平長定が15代の箕輪城代ではないだろうか?
何故なら、静岡県三島市の山中城に宗閑寺に箕輪城主:多米出羽守
 平長定の墓がある。
理由@ 駿河の山中城の宗関寺に静岡県三島市教育委員会の看板に
      「群馬県の箕輪城主多米・・」
  山中城で、松田・間宮らと戦死した時に
 「元箕輪城主を意味するので」
(※写真は静岡県三島市の山中城三の丸の宗閑寺の看板の写真)



■天正17年(1589) 関白豊臣秀吉の裁定
?月 真田信之が徳川家康養女(本多忠勝娘)の小松姫と結婚。




箕輪初心▲神奈川【小田原城の歴史詳細】:大森氏→北条氏5代
http://53922401.at.webry.info/201411/article_26.html

「群馬県史」の戦国時代:浅倉直美文責
「北条五代」:相川司著
「後北条領国の地域的展開」浅倉直美著
「鉢形城と戦国武将」:黒田基樹著1000円
「関東三国志」:鉢形城博物館編860円  
「論集戦国大名と国衆 3 北条氏邦と猪俣邦憲」浅倉直美著
「論集戦国大名と国衆 2 北条氏邦と武蔵藤田氏」
   黒田基樹・浅倉直美編纂
「北条五代」:黒田基樹著
★生方「青木裕美先生の書籍・論文を重ねると北条氏の西上州支配
   がさらに深みを増すが、本だけはかりているが・・・ 

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