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zoom RSS 箕輪初心:生方▲真田丸127【第43話「軍議」】&『毛利勝永・長宗我部盛親』

<<   作成日時 : 2016/11/22 18:43   >>

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真田幸村は、軍議で「京へ打って出て、家康の首をとるべき」と
提案する。しかし、@茶々や大蔵卿局、秀頼の側近・大野治長ら
は「籠城すべき」と考えていた。A毛利勝永は、幸村の提案を支
持。B明石全登は籠城説から積極出撃説に意見を変えた。C後
藤又兵衛は、「死に場所を求めにやってきた。大阪城以外に、・・」
と反対するが、幸村が「我らは決して負けない。・・・死にたい
のなら、徳川方につくべきだ。」と言う意見で、後藤も積極策を
支持した。D豊臣秀頼も積極策に出ることを決定したが、茶々の
「信用できるのは、真田だけ。他の者たちが裏切らぬとは限りま
せん。籠城です。」という考えで、籠城策に意見を変えてしまった。
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◆ナレーター
「・・・牢人達の主導権争いがはじまった。
秀忠の軍の中に信之の2人の息子の姿もあった。」

●守山
真田信吉や信政は、大阪を目指していた。
徳川秀忠は本多正信に幸村が大阪城入りをしたことを知らされる。

真田兄弟は剣術の稽古中・・・
兄:信吉はしらけムード・・・
「柏原のあたりじゃ」

信之の息子の信吉と信政は、
見回りに来た本多正信から
「真田左衛門佐が大阪城入りした。」

●江戸の真田屋敷
信之は姉:松(小山田茂誠の妻:村松殿)に、
信之「源次郎が大坂城に入った。・・・」

信之「源次郎の好きにさせてやりたい。」

信之「最前線には立たないで欲しい。と息子たちに伝えに行って
 欲しい。」
と頼んだ。
信之「真田の旗をみれば、源次郎はひるむ。
   幸村の決意が鈍らぬように息子たちに最前線に立たぬよう
   伝えてもらいたい。・・・」
信之の配慮であった。
「姉上だけがたよりです」

●二条城
正純「守山にはいりました。」
家康「秀忠はまだ関ヶ原を引きずっておりのか?」

正純「片桐殿をよんであります。お会いなされますか?」

家康「片桐殿・・・お会いしとうございました。」
片桐「おひさしゅう、ございます。」
家康「すげなく、ついほうしたとは」
   ワシの元で働いてくれぬか?・・・」

家康 「無理強いはせん。」
片桐「豊臣とは、縁を切り申した。」

家康「正純、聞いたか?」
家康「兵糧・・・10万の兵をどのくらいまかなえるか」

家康「いかがかな?片桐殿」

迷う片桐・・・・
片桐は家康に
「・・・はるかにうわまっております。
 10万はまかないきれません。(兵糧は)〜・・もって半年」
と豊臣の内情を教えた。
「よくぞ、教えてくだされた。」
片桐且元は豊臣を裏切り、徳川軍に付いた。


●大坂城
「お入りなさい。」
茶々は、幸村とかつて隠れて会った武器庫に入る。
茶々は幸村と密会?・・・・
「締めて・・・」
幸村が武器庫に入る。
幸村「これよりある軍議で、私は秀頼様に必勝の策を申し上げます。
  私の策は、籠城ではございません。」


茶々「みな、出番です。」
槍を見ながら。・・・
「勝てるか?」
「申しあげたはず。・・勝つために・・」

「この城があれば、大丈夫か?・・・」

茶々「ずっと待ってました。 私の愛した人たちは未練を残して
   死にました。秀頼を死なさないで。」
と頼む。
幸村は、「太閤殿下は?」
茶々は「私の愛した人たちと言いました。」
茶々(淀殿)
・・・・・
「わたくしはどうなってもかまいません。」
 秀頼を死なせないで」
と頼む。
「命にかえても・・」
茶々の手を、幸村は離して
「これより、軍議のしたくがあるますので、・・・」
軍議の準備に行く。

●大蔵卿・有楽斎の部屋・・・
治長に「籠城」を命じる。
大蔵卿「あくまでも主導権を握るのは、我ら」
 牢人たちの好きなようにはさせるな。」
と釘を刺す。


●真田の部屋・・・大助・内記
「父上だったら、・・・」


●軍議
秀頼は五人衆を集めて
軍議を開いた。
治長「籠城が一番。真っ向から戦っても勝ち目はござらん」
と言う。
五人衆に意見を求められた。
後藤「相手にとって不足なし。」

木村「・・・籠城です。」
後藤「承知。」
毛利「承知。」

幸村「援軍がおりません。打ってでるべき・・・。」
と主張する。

木村「意味が分かりません。」
幸村「徳川を分断させ・・・」
   勝つため。京に進軍する。・・・」
伏見、京、大津などで戦い、「徳川の兵を分断する」というの
 が幸村の策であった。
木村「・・・」

後藤「話が大きすぎる。・・・・」
治長「兵糧は数年もつ」
と主張し、籠城でまとめようとする。

幸村「ろくに吟味もせずに却下されるのであれば、やる気も起き
  ません。九度山に帰ることにします。」
と言い、自室に戻ってしまった。


●真田部屋
内記「はったりは真田の家風でござる。
幸村「直、迎えがくる。」

木村「木村・・・・です。」
木村重成が迎えにきた。
木村「秀頼様が『話を詳しく聞きたい。』と言っております。」

幸村「貴男はどうおもわれたか?」
木村「籠城は定石です。」

幸村「伏見城にいく。・・・
    大津を占領し、瀬田・宇治の橋をおどす・」
   伊達と上杉・・・組してもらう。・・・」
木村「そんなことができますか?
幸村「家康が死ねば、寝返る者が増えます。」
幸村だけは出撃策を主張している。
幸村は、京の家康を襲撃し、「まずは首をとる」と言う。
その後、近江などを戦場に戦っている内に、伊達政宗らが味方する
のではないか、と語る。



●軍議
家康がいる京へ攻め込む事を
主張した。
秀頼に詳細を聞かれた幸村は、
「秀忠が到着する前に家康の首をとる。
 同時に近江を占領し、瀬田と宇治の橋を落とす。
 これで徳川本軍の進軍が止まる。
 ここまで来れば徳川に味方する大名の中から
  我らに味方する者が出て来る。
 さらに伊達や上杉と示し合わせ、
 徳川の背後を襲わせます。」
 と作戦を説明した。
籠城を主張するものがいなかった。


●軍議は一旦休憩に入った。
幸村は休憩中に
毛利勝永が出撃策に賛成した。
毛利「籠城にこだわらん。自分を試してみたかった。
   ここにきたのは、自分の力を示すためだ。
   京に攻め込む役目を、俺にやらせろ。
   お主に恩をうるたけだ。・・」

明石全登と長宗我部盛親にも声をかけた。
幸村「あなたは?」
  「キリシタンです。信徒を増やすこと・・・」
明石「籠城ときまっているため、幸村の策には乗るな、
   そうすれば布教に便宜を計る。と言われていたの
   です。」
「だれに」
「大野しゅり殿・・・
 「徳川家康は禁教令をだしたからです。私にはそれは
 すべて・・」
「家康の首は俺がとる。」
「いいでしょう。」

盛親は、
幸村 「籠城に何故、賛成したのですか?」
・・・・・・
「長曾我部家の再興を約束されています。」

幸村は、2人に
「豊臣が負けてしまえば、望みは潰えてしまいます。この戦に
 勝つためには、城から出る以外にはありません。」
と説得する。

幸村「牢人に牛耳られることをよしとしていない。・・・」
  「何故、しゅり殿は・・・」
幸村「全ては・・・大きな城はほころびができる。
   勝つためには・・・・」

後藤が陰で聞いている。


●軍議が再開された。

後藤「・・・話が大きすぎて・・・」

長宗我部「・・・籠城がいかがと思う。・・」
明石「・・大きすぎて気にいった。」
明石と盛親が幸村の策に賛成した。
これで、3人が味方になった。


◆ナレーター
「はつ・・・京極家・・・ 」

●治長は、城から出ることを大蔵卿局らに提案するが、再び
 籠城でまとめるよう指示されてしまった。

●軍議
明石、長宗我部も城を出ることを賛成する。




木村「敵を分断させるということは、こちらも分断させる
   ことになる。・・」
木村は、「まとまりのない牢人たちが力を発揮するのは、一ヶ
   所にいることではないのでしょうか?」
と幸村に言う。
幸村「・・・だから、籠城というのはおかしい。
 大坂城は最高の砦ですが、最後の城でもあります。・・・
 籠城は最後にとっておくべきです。ですから、
 外に打って出るべきです。」
木村「府にいった。」
豊臣家直臣:木村重成も京への進軍に賛成した。

又兵衛「不承知」

会議がけんけんごうごう。・・・

勝永と後藤に「何のためにここに来た?」

幸村は後藤に「死に場所を求めて来たのでは?」
又兵衛「・・・俺の死に場所はここしかねえ。」
   死に場所を求めにやってきた。この大阪城以外に、
    その場所はない」
と言う。
だが、幸村は
「私は勝つためにやって来た。我らは決して負けない。ここに
 死に場所はない。死にたいのなら、徳川方につくべきだ。」
  と言う。

幸村
「私は勝つためにここに来た。
 勝つ気がないなら出て行ってもらおう。」

又兵衛
「お前は大間抜けだ。勝てる訳がなかろう。・・・・」

幸村「我らは別々の想いを思ってここに集まってきました来た。
   でも、皆それぞれ望みを持っている。生きる望みを持って
   いる。だから私たちは強い。負ける気がしないのです。

又兵衛「その言葉忘れねぇぞ。」
 ワッハッハ・・・
  実はな。籠城は早いと思ってたんだ。」

織田有楽斎「初めから申し上げておる。籠城以外の策はない。」
??「話の意味は・・・・」
有楽斎「お主らは金で雇われた浪人たちだ。我らの指図に従え。
    敵と戦っておればばいいのだ。」

大野治長「有楽様、聞き捨てなりませぬ。ここにいるのは豊臣を
     守るために集った者たちです。
      あくまでも客人‥非礼は許されません。」

幸村「決めるのは秀頼公でございまする。」

秀頼「決めた。籠城はせぬ、打って出よう!」

有楽斎「こここと、多くら卿にうつたえする。」
出撃策に決まった・

明石「前途多難だな?」
幸村「・・・呼ばれた時から。・・」
毛利「ところで、お主は何故、ここにきたのだ。
    まだ、聞いていなかった。」
幸村 「実は、私にもよく分からないです。」

その日の夜、
「真田の策をとります。」
秀頼は茶々に出陣を伝えた。
秀頼「明日、毛利が2万の兵とともに京へと向かいます。」
と茶々に報告する。

しかし茶々は、
「信じられるのは真田だけ。金目当てで集まった者立ちです。
 浪人たちは裏切る可能性があります。籠城です。」
と秀頼に話す。
茶々の言葉を聞いた秀頼は、
籠城に策を変更した。

治長「・・・籠城にひっくり返ってしまいました。
   すみませぬ。」


幸村は茶々にあい、頭を下げる。
大坂城天守閣を見上げる。

***************
◆後藤のゆかりの地
兵庫県

家宰氏・・・「多門寺」

★武勇はもう一度花開くことになる。




3)長宗我部盛親 :関ヶ原で四国の領地を失った
長宗我部盛親土佐の戦国大名・長宗我部元親の4男。
 父の死後家督を継いだ盛親は、家康により領国を没収され浪人
 となっていました。しかし、大阪の役での勝利の暁には土佐
 一国を贈与するとの条件から、豊臣側として参戦しました。
 盛親が大坂城へ向け京都を出発した際には6人だった従者が、
 大坂城に入城する頃にはかつての旧臣らが集まり1000人
 もの軍団となっていたといいます。
 幸村も九度山を出発した際には家族と数人の家臣、地元の武士7人
 でしたが、大坂城に入城するころには約500の兵を引き連れていた
 といわれていますから、密かに家康に反発する人たちは各地に
 多くいたと思われます。
長宗我部家( 長宗我部盛親・長宗我部康豊・長宗我部盛恒
  ・長宗我部盛高・長宗我部盛信・長宗我部盛定
  ・五百蔵左馬進・奥宮伝兵衛・片岡民部・上山十兵衛・久万俊朝
  ・佐竹親直・佐竹忠次郎(柴田外記)・ 立石正賀・長次郎
  ・豊永藤五郎・中島重房・中内三安・中内三置・中内藤兵衛
  ・能勢宗兵衛・戸波親清●丸橋盛澄(忠弥)・明神信勝・
  ・ 横山友隆・吉田政重・ 吉田康俊 など)


4)毛利勝永:豊前小倉城を黒田如水に奪われ戦後改易となった
毛利勝永:元小倉城主・毛利勝信の子。
大阪の役への参戦要請を聞いた勝永は
「自分は豊臣家に多大な恩を受けており、秀頼公のために一命
を捧げたい。しかし、自分が大坂に味方すれば、残ったお前た
ちに難儀がかかるだろう」
といって涙を流しました。
これを聞いた妻は
「君の御為の働き、家の名誉です。残る者が心配ならば、私
 たちはこの島の波に沈み一命を絶ちましょう」
と言って励ました。
(★『兵家茶話』・『常山紀談』)
 勝永の妻(氏名不詳)は戦前妻の鏡とされていたそうです。
 しかし、実際は、そんな美談ではなかった。

大阪の役への参戦要請を受けた勝永は、留守居役に
「自分は(徳川方についた)土佐藩主・山内忠義とは昔衆道の間柄で、
神名を賭けて助け合う約束をしているから、どうか徳川方として
参戦させてほしい。」
と言って、さらに長男を留守居に、次男を人質にして土佐を出ました。
ところが、実際には大坂に向かったので、藩主・山内忠義は激怒して、
人質となっていた次男・鶴千代と勝永の妻と娘は城内に軟禁されて
しまったのです。

5)明石掃部頭全登+明石内記・ 明石宣行
 ※明石全登(たけずみ・でるずみ景盛・守重)・・・
 母は宇喜多直家の異母妹→宇喜多秀家の乳兄弟である。
 熱心なキリシタンであった。 
明石全登の洗礼名は「ドン・ジョアン」と言われている。
  明石全登・・元・宇喜多秀家家臣。
・慶長4年(1599) 宇喜多家のお家騒動で4人の重臣が出奔した
 ため、宇喜多家の家中を取り仕切るようになった。
 宇喜多直家の子:宇喜多秀家
・慶長5年(1600)関ヶ原の戦い
西軍に味方した宇喜多秀家の軍8000\を率いて先鋒を努めた。
善戦したものの、小早川秀秋の裏切りで敗戦した。
・・・・・・浪人になった。
明石全登は、明石家の一族であったキリシタン大名:黒田
官兵衛に庇護された。
子:黒田長政の家臣となった。
しかし、黒田官兵衛の死後、黒田長政が徳川家康の命により、
キリスト教を禁じたため、明石全登は、追放され再び浪人とな
った。
慶長19年(1614) 豊臣秀頼が徳川家康と戦うために関ヶ原
の合戦で大量に発生した浪人を集めていた。
明石全登は豊臣秀頼はキリスト教の信仰を許可していたので、
バテレン追放令に苦しんでいたキリスト教徒2000人を率いて
大阪城に入城した。
 徳川家康がキリスト教の禁教を進めていたからと考えられて
 いる。
関ヶ原での功績が認められ、真田信繁とも知り合いであった。
真田信繁説得の使者に選ばれたのであろう。
★「真田丸」では慶長19年(1614)大坂城からの使者:明石全登と
なっていた。
 キリシタン2000を率いた。
 ・・つまり、キリスト教徒もいた。
「4500で木津川口で守った。」


★明日は「???」

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